天理教の視点


私の天理教に対する物言いは経験主義的なものが多い。それは統計やエビデンスでは証明できないものである。しかし、そのことで「お前の言ってることは汎用性がない」と一笑に付されていいとは思わない。少数の方であっても私の天理教論を支持してくれる方は存在する。私を指導した臨床社会学の教授は、「どんなときにも人を脅してはならない。ただ権力に虐げられている弱者を見た場合のみ弱者を解放するときだけ強者に脅しをかけていい」と諭した。さすが左翼の学生運動牽引世代だなと思った。また私の信念としてもどんなに卵が間違っていても、壁にぶつかるのであれば徹底して卵の側に立ちたいと思う。私の強者への抵抗は、立てこもりではなくペンで行う。この思想のもとに私は一部であっても天理教人の万能感によって苦しんでいる人の存在を見捨てることはできない。またそういったダークサイドを知らんぷりをする者たち、独りよがりの陽気ぐらしにすり替える者たちに警鐘をならしたい。幸いにも私は社会の立場から天理教を見ている。外側から天理教をみてみると、その自己愛的姿勢の奇奇怪怪さは目に余るものがある。「宗教団体なんて全部そういうもんだぜ」といわれれば立つ瀬がない。しかし私自身の問題として天理教人と接することが多く、今後の天理教人との接し方をきちんと考えていきたいとおもう。
なぜ私がこのような所信表明演説をしたかというと、ある読者から「お道の視点から」という天理教の著書を紹介され「感想を聞かせてほしい」と窺った。早速ネットで注文し昨日届いた。著書の帯にもあるように、この本は天理時報の社説にあたる天声人語ならぬ「視点」を収録したもので、社会的問題を扱っている。著者は天理教代表役員ということで、著書=天理教公式見解としていいだろう。今後この著書にツッコミを入れる(言及する)ことが多そうなので、まずは私の立場を明示した。
まだ読み始めて間もないため、感想は適宜アップしたい。今のところ、この著者のタイプとして社会学的な見方をする傾向が強い。社会学的見方とは事象の羅列をおこなうことが中心となる。「ああいうことがあった」とか「あれはこういうことだ」と現象を列挙するのが社会学の大きな仕事である。そのため社会学は哲学や医学から時に激烈な批判に晒される。「社会学者は何も問題を解決しない」と。この著者も同様に、問題の解決は提案しない。新聞やメディアから取り入れた知識を列挙しているだけ。私が一番腹立たしく感じたのは、伝聞情報をもとにした断定が多く、内省が少ないことである。「あの人はこう言っていたからこうだ」という文脈ばかりで、この著者の生きた声はない。天理教教義の一面的性質に照らし合わせて臓器移植に断固反対なのは分かるが、自分自身が当事者になった場合の困惑や戸惑いはない。このたびの震災での被災者と非被災者にあるような大きな壁をまず自覚してほしいと思うし、人間というナマモノを扱うのであれば自覚してなくてはならないと私は思う。天理教という一大宗教法人の代表役員だから思想はぶれてはいけないのだろうか。そうであるならば天理教は宗教法人をやめて株式会社になればいいと思う。宗教人だからこそ身体感受性を前面にだしてほしいと期待するのは見当違いだろうか。
今後この著書を読み進めて感想をアップしたい。

$天理教社会学研究所

天理教の視点」への2件のフィードバック

  1. 匿名

    1. はじめまして。
    最近読者にならせて頂いたスギオと申します。
    カインさんの記事は、教会常住者の私にとって
    実に興味深い内容だといつも感じいっています。

    最初から少しずつ、読ませてもらいます。

  2. 匿名

    2. Re:はじめまして。
    >スギオさん
    よろしくお願いします。「変わったやつもいるもんだ」と読んでいただければ光栄です。

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