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天理時報の偏向記事から 天理教幹部の視野の狭さが若者を潰す 高齢者には退場していただこう

天理時報4436号の視点「道路交通法の改正に思う」というテーマ。
あまりに欺瞞に満ちた、誘導記事で辟易する。私が天理時報の購読をやめたのも、こういったあまりに偏った見方や、一部の幹部による知性が全くない記事を読むことにバカらしくなったからである。
私が天理時報の購読を止めてからも、読者の方から「こんな記事がありましたが、どう考えますか」と記事のコピーが送られてくるので結局は天理時報の視点はほぼ毎週読んでいることになる。
なぜ私がこの視点を俎上にあげるのか。それはこの視点は天理教の幹部が執筆しており、天理教の社会のものの見方、考え方が強く反映されているためである。つまり天理時報の視点には天理教幹部の知的劣化が表現されており、それは「天理教の衰退の原因」が書かれてあると言っても過言ではない。社会の流れや読者の意向を読み取ることなく、一方的な天理教的主張でしかない。北朝鮮の労働新聞と同じく読む意味がまったく感じられない(行事報告などは別)。
天理時報は記者とコメンテーターを要していると思われるが、彼らの知性と技量は疑問でしかない。法律学や政治学、経済学、情報学、統計学などの専門性やメディア論やジャーナリズム論をきちんと大学で学んだ人間が編集に携わっているとは到底思えない。一宗教団体の新聞であるため、そもそも天理時報は社会の公器ではないという主張もあるだろう。しかし、取材をすること、文章を書くこと、主張したいこと、社会と照らし合わせること、その基本がまったくできていない。結局何が言いたいのか分からないまま「将軍様マンセー」で終わるのと似たようなものがある。
こんなものにお金を払う人がどれだけいるのか調べてみた。まずはWikipediaの「天理時報」から。
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(20145年7月19日現在)

次に静岡教区中遠支部のホームページからの引用したものをまとめた。
1

現在、天理時報は12万6000部(2015年3月)の発行部数であるようだ。天理時報の購読者も驚くほど減っている。2.3ヶ月に1000部ずつ発行部数が減っていっていると思われる。全国手配り率は増加しているようだが、この数字は真実ではない。これは、単に発行部数が減少しているために増加しているように見えるだけである。そこで私は発行部数を手配り率で掛けた、実際の手配り数を計算した(黄色)。すると手配り数もきちんと減少しているのである。この数字は天理教道友社も把握しているはずであり、手配り数は減少しているのに「手配り率は増加している」と喧伝するのは読者を騙している。手配り運動について述べているサイトも、手配り率については言及しているものの手配り数にはあまり触れていないのも納得がいく。例えば福岡教区奈良教区など。
(2014年7月だけは発行部数が急増しているのは分からなかった)。

天理時報の年間講読料は3960円(税込)であるため、12万6000部では4億9千896万円の売り上げとなる。1000部減少で396万円の減収である。ここのホームページの数値が正しいかどうか信ぴょう性が分からないため、断言はできない。しかしこれを見る限り、業績は悪化しているとしか言えない。私の天理時報への批判は、天理時報の購読をやめた読者も同じような感想を持っているのではないだろうか。個人的には天理時報の発行部数の減少に伴う減収よりも、天理教本部の影響力が低下していると考える方が天理教的には深刻ではないかと思う。悲しいかな、購読を止めた読者は天理時報に3960円の価値がないと判断しているのである。天理時報にそれを言ったところで「新聞の凋落は世界的な動きで、インターネットの発達が原因だ」と責任転嫁され、天理時報の質の向上については議論されないだろうが。

少し寄り道をしてしまったが、話を戻そう。「視点」である。
私が腹立ちを覚えるのは、情報をきちんと理解せずに、若者を悪者に仕立て上げている点である。視点の前半部分は道路交通法の改正の説明であり、大きな問題はない。しかし4段落目から雲行きが怪しくなる。
「特に、自転車と対歩行者の事故は近年大幅に増え、なかでも子供と高齢者が加害者となるケースが後を絶たない。」とある。私は調べてみた。各都道府県ごとのデータでは、バラツキが大きいので採用しない。そこで全国の警察を統括している警察庁の「交通事故統計」データを使用する。
スクリーンショット 2015-07-21 14.23.06(警察庁 平成26年中の交通事故の発生状況)

ここ10年ほど、日本の交通事故は発生も負傷者も死亡者も減少している。筆者は「自転車と対歩行者の事故は増加」ということなので、全体の数値は参考として掲げておく。

 

次に自転車乗車中の年齢層別死傷者数の推移である。
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(警察庁 平成26年中の交通事故の発生状況)

自転車に関連する負傷も全体的には減少していることは間違いない。年別に多少の増減はあるものの、全体としてどの年代も減少している。子供も高齢者も。天理時報の筆者は道路交通法の改定には自転車事故の増加があると言っているが、それはどこのデータをご覧になったのであろうか。まさか妄想ではなかろうな。日本の警察はそんなこと言ってはいないのだから、きっと海外のデータを見たのであろう。

次に天理時報の筆者は「特に、自転車と対歩行者の事故は近年大幅に増え、なかでも子供と高齢者が加害者になるケースが後を絶たない。」と続く。なるほど、では調べよう。
スクリーンショット 2015-07-21 14.35.45(警察庁 平成26年中の交通事故の発生状況)

2008年(H20)以降、自転車の対歩行者の事故も減少していることは間違いない。増加は2008年までしかない。つまり天理時報の筆者は2008年(H20)までのデータしかみていないのであろう。少なくとも「近年大幅に増え」と書くのは明確な間違いである。それとも、この筆者は現在2008年だと思っているようだ。誰か彼に今年は2015年ですよ、と伝えてやってくれんかね。

次に私がもっとも腹立たしいと感じる部分を検証したい。天理時報の筆者は「実は、筆者は今回の自転車の取り締まり強化を大変結構なことだと歓迎している。なぜならば、実際に筆者も「危ない!」と思う自転車の危険運転を日ごろ何度も目にしているからだ。そして、目にするのは若い学生が多い。」と書いている。本当だろうか。
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(警察庁 平成26年中の交通事故の発生状況)

このデータをみて、天理時報の筆者は学生だけを悪者にしていいのだろうか。自転車乗車中の違反が事故になって相手を傷つけているのは、若者だけの問題なのだろか。少なくとも65歳以上も違反も多いし事故も多い。若者が特別に多いというわけでもない。これは自転車事故があたかも若者の交通ルールの悪化を原因とする議論のすり替えでしかない。自転車による交通事故は、誰が悪いというものではなく全年齢層が気をつけるものであることは間違いない。

では、より踏み込もう。若者を悪者としたい天理時報の筆者のために、若者と高齢者のどちらが悪人か比べてみよう。
スクリーンショット 2015-07-21 15.00.14 (法務省)

このデータをみて、若者と高齢者のどちらの検挙者数が増加傾向にあるかは明確であろう。このデータから若者だけが悪人とは到底いえない。安っぽいメディアの、頭の悪いコメンテーターのように、「近年、少年犯罪が悪化」として片付けられるほどどこかの年代が特別に悪いのであろうか。

次に少年による犯罪別の送致人員についてみてみよう。
スクリーンショット 2015-07-21 15.06.22(法務省)

大きな波が2つある。今から50数年前と30数年前に比べると少年犯罪も大きく減少したものである。さて、50数年前と30数年前に少年だった危険な年齢層の人たちは、一体いまは何歳になっておられるのでしょう。きっと更生して自転車の違反もせずに真面目な社会人として生きておられるのでしょう(皮肉)。

スクリーンショット 2015-07-21 15.15.28 (法務省)

最近の高齢者は怖い。殺人、強盗、傷害、暴行、窃盗とやりたい放題。天理時報の筆者が「お道の者として、このたびの道路交通法改正を、若い人たちや子供たちに対して、人々が互いにたすけ合う陽気ぐらしの精神を伝える好機として捉えたい。そして、その姿を社会に映していきたい。」と述べているが、滑稽でしかない。というより意味が理解できない。そんな方は天理教をやめて交通指導員にでもなれば、陽気ぐらしの目的が達成できるということなのかな。
むしろ自転車マナーよりも法律を守らなければならないのは高齢者の方ではないのだろうか。私は高齢者のみなさんに人を殺したり、人の物を盗んだりしてはいけないと伝えたい。それは人々が互いにたすけ合う陽気ぐらしの精神を伝える好機として捉えたい。そして、その姿を社会に映していきたい、と思う。

私が言いたいことは、若者より高齢者の方が危険人物であろうということではない。私が述べたことは社会学の自明であり議論にすらならない。若者や高齢者をターゲットにしたところで不毛な議論であり、くだらない。私が言いたいことは、この筆者のように誰かを悪者にし、一方的に上から目線で持論を展開することは何のためにもいならないということだ。この筆者が自転車に乗った若者に不愉快な思いをしたことがあるのは間違いないのであろう。しかし、個人的な恨みを紙面を使って晴らすことは、まともなオトナのすることではない。私には、Twitterで悪事を暴露する若者と、この筆者の違いが分からない。自分が舞台のヒーローにでもなった気分なのだろう。

私が腹を立てるのは、こういった「自分は正しい」と考える権力者こそ若者を潰し、正義感を振りかざすだけで未来のことは何も考えていないためである。この天理時報の筆者(諸)は何歳の方なのかはわからないが、もし高齢者であれば私の反論が気に入らないであろう。その気に入らない気持ちこそ、あなたが若者に植え付けている嫌悪感だと思うべきであろう。
私こそ若者の声を代弁しているとは思わない。しかし、こんな若者の悪口を堂々と書いている人間に、若者の育成ができるであろうか。「最近の若者はダメだ」と居酒屋でいうのには問題ないが、人事部長が広報誌で言ってしまってはアウトである。更迭である。人を育成する立場ということは文句や悪口を偉そうに述べることではない。もっと伝えるべき大切なことが天理教にはあるのではないだろうか。
天理教は後継者不足問題、信者の減少と、抜き差しならない課題を抱えている。その原因となる組織に対する嫌悪感は、今回の記事で明確に私に伝わってきた。すくなくとも、私はこの筆者の教会の信者になるくらいなら死んだ方がマシだと思った。
若者が継ぎたくない天理教を作っているのは誰か、そこが焦点だと思うが天理教幹部は継がない若者に問題があると思っているのだろう。人に物を教える資質のない者が、「交通安全を教えてやろう」なんて、どの口が言うのだろうか。

物を書くことを仕事の一部にしている私としては、せめて背景データの確認と社会の流れというものを確認してほしいが、この筆者はそれを求めるこができない教養と学習の持ち主なのであろう。それにしても天理時報の編集部やデスクは、「ちょっと事実とは大きく異なるので書き直してください。せめて日本の警察の資料を使ってください」くらい言えないものだろうか。天理時報「視点」の筆者は天理教幹部であり、幹部の書いたことは事実とは異なっていても、編集部は間違いを指摘できないのであろうか。天理教道友社とは、そこまで「終わった」組織なのだろうか。捏造なのか、勘違いなのか分からないが、一般紙であれば謝罪・訂正記事が必要なほどの偏向記事であろう。

天理教道友社の方たちは、長期的視点に立って、読者に何を伝えたいのか、社会にどういった貢献をしたいのか、自分の使命と役割とプライドを明確にして紙面を作っていただきたいものだ。

tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.co.jp

天理教の憲法解釈は危険思想か 天理時報6/28第4433号の「視点」から

長らく天理時報を読んでいないが、たまに読者の方からコピーや資料が送られてくる。今回いくつかの資料とご意見を頂戴したので、拝見するとともに私の感想を述べる。
天理時報6月28日の第4433号の3ページの「視点」である。この「視点」というコーナーは、新聞で言えば社説に近い。これは天理教の幹部が輪番で執筆しており、時事問題などを取り上げている。天理教としての見方・考え方が披瀝されているといってもよい。

今回、何人かの方が引っかかったであろう「視点」は「信仰者の”良心”への期待」というタイトルである。私も送られたコピーを一読した。今回の視点は「信教の自由」について書かれており、非常に興味深いタイトルだが、内容は非常に危険な思想である。
私が危険と感じた点を3点に分けて説明する。①なぜ今のタイミングで「信教の自由」をテーマに掲げる必要があるのか、②天理教の「信教の自由」の解釈が非常に危険であること、③信者への「良心」を偽装した「心の自由」への権力を使った脅しであることの3点である。

①について、なぜ今、唐突に天理教が憲法や法律を持ち出してきて「信教の自由」を語りだすのか。私は継続して天理時報を購読したり天理教をウォッチしていないので、いま天理教内で憲法や法律をめぐってホットな話題なのかはわからないが、おそらくそんな危なっかしい話は議論にしないであろう。ではなぜ今回扱われたのか。
時を同じくして、「みちのとも」7月号に天理教という宗教法人から離脱した教会があるという記事があったようだ。(下記リンク切れのため6/28に更新)

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法人の所在地 東京都世田谷区太子堂弐丁目八番九号
法人名 宗教法人天理教東芝分教会
代表役員名 山下典子
責任役員名 山下栄
責任役員名 高山鐡彌
右法人は、今般、宗教法人天理教から離脱し、宗教法人天理教とは関係のない宗教団体となったことにより、今後は、右法人はもちろん、右法人の代表役員、責任役員並びに今度とも右法人と行動を共にする信者は、右法人が宗教法人天理教と被包括関係にあった当時有していた権利及び享受していたすべての利益はもとより、信者として詰所を利用する利益など一切を喪失したのでこの旨公告する。
平成二十七年六月六日
宗教法人天理教代表役員 中田善亮

簡単に言えば、「異端が出たから破門にした」という天理教の報告である。宗教法人天理教と天理教東芝分教会の被包括関係を解消したということである。被包括関係の離脱は天理教の意向なのか、この天理教東芝分教会の意向なのかわからない。しかし「今後は、右法人はもちろん、右法人の代表役員、責任役員並びに今後とも右法人と行動を共にする信者は、右法人が宗教法人天理教と被包括関係にあった当時所有していた権利及び享受していたすべての利益はもとより、信者として詰所を利用する利益など一切を喪失したのでこの旨公告する」とある。
確かに被包括関係の解消であるから、そこから離脱することは一切の関わりを認めないということになるのは社会人であれば理解できる。しかし「陽気暮らし」を標榜し、「世界一れつ皆兄弟」(世界中の人間が神の子であり兄弟である)を声高らかに言い、盗人(米泥棒)でさえも赦したという教祖の逸話を披瀝している天理教である。なんだかあまりに矛盾を感じるのは私だけだろうか。教えとは裏腹に非常に心の狭い、冷酷な対応ではなかろうか。やはり宗教といえど、社会契約でしか人を見ていない。今の天理教には許しや、寛大な心なんてものは教団からはまったく窺えない。「包括関係は解消だね。ただ何か困ったことがあったら協力するね」くらい言えないものだろうか。それとこれとは別ということは理解できるのだが、人助けを宣言しているくせに、あまりに人間味がない。天理教が宗教である意味が私にはわからない。

そもそも、天理教(包括法人)と各教会(被包括法人)は上下関係でも支配関係でもない。包括という言葉が理解を難しくさせているが、その関係性は並列であり、一方が権力を行使して不利益を与えるようなことはあってはならない。つまり、天理教本部と各教会の関係、これは一方が活動の制限を行使するようなものではなく、単に被包括関係にすぎず、辞めたくなったら公告をして手続きをすれば天理教から離脱できる。そして、包括法人は被包括法人が離脱するからといって役員を替えたり、制限を加えるような不利益をおこなうことはできないと宗教法人法第78条に規定してある。

リンク:被包括宗教法人からの被包括関係の廃止について 松波克英(名古屋弁護士会)

また天理教を離脱したからといって、天理教を名乗れないわけではない。天理教豊文教会が天理教との被包括関係を解消し天理教から離脱した後も「天理教」を名乗って布教活動をしていることに関して、天理教は裁判で待ったをかけたことがある。結局、2004年の最高裁判決では天理教豊文教会は天理教を離脱しても、その活動は天理教であることは他ならぬ事実である。裁判所はそのことを認めて天理教を離脱して以降も天理教の名称を使用することを裁判官全員一致で認めたのである。

リンク:最高裁判例

私が言いたいことは、天理教を離脱せよということではない。そんなことではなく、憲法が保障する信教の自由というのは他の法律や教義で縛られるようなものではく、極めて重要であるということである。この憲法が保障する自由と民主主義は、我々の生活の根幹をなすものであり、誰にも侵す権利はないということである。そして、これら自由と民主主義の獲得は天理教の歴史と同じく、先人たちの血と涙と汗の結晶であることは言うまでもない。我々はそれを決して軽視してはいけないということである。不幸なことに、この自由と民主主義を軽視する言動が今の日本社会には溢れており、時に天理教人からも聞かれることが残念でならない。信者側からしてみれば、天理時報という権力側から、わざわざ「良心への期待」などと言われる筋合いはこれぽっちもなく、権力の勘違いが甚だしいということである。権利擁護の教科書でも読んではどうだろうか。

少し話が逸れてしまったが、ひょっとしたらこの異端問題然り、天理教内での思想のバラツキや異端の増加を天理教は感じているのであろう。確かにTwitterでも見れば、天理教の悪口やネガティブな評価が非常に多い。「天理教が素晴らしい」なんてものは一昔前であれば天理教人みんなの共通認識であったものが、今では天理教人すらも「天理教って素晴らしいのか?」と思うようになったのかもしれない。私は天理教人と接する中で、天理教人の本部組織に向ける疑心暗鬼や疲労感を強く感じる。それが天理教衰退として数字となって表れているのであろう。また「視点」を読む限り、その衰退の責任を信者に転嫁しようとしているとさえ感じる。そのため、この記事は「思想統制」の一種であると私は受け止めている。

②天理教の「信教の自由」の解釈が非常に危険思想である。これは今回の「視点」を読む限り、この筆者は、非常に重大な勘違いをしていると思われる。それは憲法の意味と、「信教の自由」が保障されているのは宗教法人ではなく、個人(国民)であるという点が分かっていないことである。
この筆者は「現在、憲法によって信教の自由が保障されているが、宗教法人法の基本的理念は「信教の自由と政教分離の原則」「聖・俗分離の原則」「自治の尊重と自律性への期待」「性善説」である。」と述べている。この筆者の重大な勘違いというのは憲法と宗教法人法を並列に扱っている点である。憲法と法律を同等のものだと認識しているのである。この筆者は法学の基礎を誤っている。どう考えても憲法は法律ではない。法律は個人を制限するものであり、憲法は権力(国家)を制限するものである。憲法は数多ある法律の上位概念であり、何人も侵害することはできない。その憲法に「信教の自由」があるというのは、天理教に信教の自由があるということではなく、個人に信教の自由が付与されているということである。この違いは非常に大きい。「視点」2段落目の「この宗教法人法の目的は、宗教団体に法人格を与え、宗教団体が自由で自主的な活動をおこなうための財産や団体組織の管理の基礎を確保することにある。」とある。確かに宗教法人法の主旨は、宗教法人にも財産所有と保管を認めるということにある。宗教法人が信者を管理、操作していいというものでは決してない。そのため、この筆者が書いた「団体組織の管理」という表現が最も怪しい。宗教法人法での「管理」という言葉は、財産と事業の管理でしか使用されず、組織の管理というのは、人を管理するという思想に発展しかねず危険である。
信教の自由を整理すると、天理教に自由があるのではない。信教の自由が与えられているのは個人である。宗教法人というのは信教の自由を保障された個人の集まりであるということである。例え天理教の「教規規定及び規則」に「一般教会は、本部の定める祭儀をおこない、教義を宣布し、信者を教化育成する」とあり、おつとめを勤め、神一条の理を伝えて布教すると記されている」(3段落目)とあっても、それは「天理教は自由に布教する権利があり、その中のことは教規で決まってんだから、信者は俺のいうことを聞け」という免罪符を法的に許容していることには決してならない。憲法が保障している以上、個人は天理教を信仰する自由も辞める自由もあり、何人もそれに対して不利益を与えることはできないのである。

リンク:宗教法人法

③信者への「良心」を偽装した「心の自由」への権力を使った脅しである。
以前私が取り上げた天理時報の記事で、インターネットなどで天理教人が個人で発言することに対して、一つの情報だけを頼りに、あるいは偏った情報を基に記されているケースが多い」と言論弾圧ともとれる表現を天理時報内で書かれたことがある。

リンク:天理時報4264号視点「信仰者のリテラシーとは」は自由社会に対する挑戦である。本ブログ2012年1月22日

私の元にも、「ブログを開設したら大教会や教会から止めるように言われた」という天理教人の経験談が複数寄せられている。こういった天理教本部の牽制が、どれほど時代錯誤で社会を読めていないか如実にわかるものはないだろう。

それはさておき、天理教はことあるごとに、天理時報などの媒体を使って信者を牽制する。上記①②とも関与するが、全体的に今回の「視点」の本質は、天理教本部からの牽制であることは間違いないだろう。宗教法人法や憲法など「視点」前段ではいろいろと書かれてはいるが、筆者が言いたいことの本質は最下段に全て詰まっている。それは「教規の第一義は、教団が大きくなり、信者も増加するにつれて、信仰しやすいように、あるいは誤解を生む向きが生じないようにと作成されたもの。当然のことながら、性善説に基づいて条文化されたものである。しかもそれは、他教団と比べて、教規の条文が少ないことが特徴的である。親神様の子供である人間には「心の自由」が許されているという教えが根底にあるからだろう。信仰者の”良心”への期待を深く感じる。」とある。

なぜこのような言わなくもいいことを(だって自由なんだから)、敢えて言う必要があったのか。それは今の天理教の信仰者には誤解が生まれており、性善説に基づいているのに信者はちゃんとしないし、良心への期待がないからと筆者は言いたいのであろう。要は「俺らは信者の心の自由を認めてやってんだから、お前らちゃんとしろよ」ということである。この文章のどこに心の自由があるのだろうか。そしてこういう対応をすることが、結局天理教のためになっていないことがなぜ分からないのだろうか。天理教を国家に、信仰を生活に置き換えてみれば、その馬鹿さ加減に失笑するしかない。権力側が、心の自由や良心を被権力側に示すことが、どれほどマイナス効果となるのか。天理教幹部は一度天理教以外でまともな社会生活を過ごされた方がいいのではなかろうか。

おまけ
「視点」5段目に興味深い記述がある。それは昭和16年に天理教の組織階級を5階級(以前は大教会ー中教会ー分教会ー支教会ー宣教所)から2階級(大教会ー教会)に変更した際の当局への説明書である。「「制度上教会の階級の重籍に過ぐるはややもすれば、之がために教義その他の指導監督につき不十分なる結果を招来するの憾みなしとせず、加え下級教会の経済的負担は之がために亦加重せられるため教会本来の使命達成に付障害を来し、その発展を阻害するの傾向ありたるを以って・・・」と付記されており、当時の担当者の苦心のほどが察せられる。」とある。

これを読んで私は思う。今も組織の末端の下級教会は、階級の重籍に苦しめられ、経済的負担は大きいから2階級も廃止すべきなんじゃないのかと。当時の担当者の苦心はわかったから、いまの担当者も苦心すべきではないのかと。
具体的に言う。私が懇意にしている末端の下級教会の若者は、何人もいる親のいうことに日々振り回され(階級の重籍)、天理教行事を優先するため就労も満足におこなえず収入も少ない。社会保障も払えず、それでも毎月のお供え(お金)を本部ー大教会ー上級教会ー上級教会ー自教会とおこなっている(経済的負担)。天理教本部が2階級制度にしたことを自負し、いまの組織体制に問題がないという認識であるならば、大きな間違いであろう。天理教を信仰する末端の若者たちの根本的な問題は階級の数ではなく、親子関係を偽装した上下関係でしかない。天理教本部の人間は何も問題が見えていないのではないだろうか。

まとめ
色々と天理時報を引用してきたが、全体のニュアンスとしてなぜこれほど天理教は信者に対して偉そうなのだろうか。
来年の教祖130年祭ということに対しても、根本的な政策として天理教は内向きである。なぜそれほど布教実践が内々で自己完結しようとしているのか私は疑問で仕方ない。教勢が衰退しているのを止めようと思うのであれば、天理教人が、天理教の手法で、天理教的に布教していてはダメであることは明白である。そうであれば、天理教人が社会的な手法で、社会的に布教すればいいと思うが、天理教人はなぜかそうは思わない。教祖の雛形というのは自己満足の形だけのようだ。
天理教人こそどんどん社会に出て、ネットへの発言をどんどん行うべきであると思うのは私だけであろうか。それとも天理教は社会が怖いのだろうか。もしくは、それほど天理教本部は天理教信仰者を信頼していないということであろうか。こんなバカな信者たちに社会に出ていってもらっては困るということか。どちらにしても閉鎖的で退廃的な組織であることは間違いない。

こういった社会を読めない危険思想の持ち主が、天理教内部にいる限り天理教の未来は絶望的であろう。

tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.co.jp

 

天理教信者になるための通過儀礼「別席」を最後まで達成できるのは半分以下というサバイバル

これまでまとめたデータを順次公開する。今回は「別席」について公開する。以前、信者数について文化庁の宗教統計調査をもとにまとめたが、今回は天理教が発行している統計情報をもとに、主に別席の数値について検討する。まずは制度を説明する。天理教の内部には信者という明文化された地位はない。天理教統計に計上されている信者数は「用木(ようぼく)」と言われる人数が計上されていると思われる。その用木は主に「別席」という過程を経たものがなる。つまり別席という過程が天理教の信者になる通過儀礼といってよい。そして別席というのは天理教本部において9回の話を聞かなくてはいけないらしい。私は伝聞でしか知らないが、その話は天理教の歴史や心構えのようなもので約2時間近くあるようだ。そして、全く同じ話を9回聞く必要がある。詳しくは天理教ホームページにある。(天理教ホームページは不親切であまり理解できない)
その別席の参加者数と、9回の話を完遂した人数も統計情報として掲載されていたのでまとめた。天理教の教団勢力の衰退というものが手に取るようにわかる。

別席の誓い・おさずけの理拝戴人数の変遷

「天理教信者になる人数(別席の誓い)」も「天理教信者になった人数(おさづけの理拝戴)もここ数年で非常に急激に減少していることは間違いない。別席の誓いをした人数は2013年で1万人くらいなのに、10年ごとに約1万人ずつ減少している。そして完遂者(理拝戴)は10年ごとに約5000人ずつ減少している。恐ろしい推測として、このまま減少率を維持すれば、次の10年で天理教の新規信者数は限りなく0になる。

次にサバイバル率である。最後まで別席を完遂した者数(おさづけの理拝戴者数)を別席の誓い者数(初席者数)で割ったものである。そのまま「別席の生き残り率」であり、完遂者 / 初席者 である。

 

別席の誓い サバイバル率
私が扱った資料は2013年が最新のデータだが、その時点でも「天理教の信者になる」という誓いをした人から「天理教の信者になった」という完遂者の割合を見ると全体で44%という通過率(サバイバル率)ということがわかる。例えば100人が信者になる意向を示していても、実際に信者になるのは44人ということである。興味深いのは、80年祭、90年祭、100年祭、、、と10年ごとの年祭において、急激にサバイバル率が低下していることであろう。これは人集めだけはしたが、信者になってもらう率は非常に低かったということである。つまり、「初席者◯◯人!」と目標値だけ決めて雑に人を集めたが、その後は丁寧に対応できていないということになるのではないか。むしろ、完遂者数と照らし合わせると、年祭で人集めをしても、それだけで満足してしまっている。
正直なところ、私はこの割合が高いのか、低いのか判断ができない。普通に考えると制度的欠陥であることは間違いない。しかし他の宗教と比較しても、信者の基準が多様すぎて比較できない。そこで、知り合いの天理教人にデータを見せて感想を聞いてみた。すると驚くべき回答を得ることができた。

・そもそも別席の話は寝ててもいいし、実際寝ている人が多い。
・各教会が競うのは、完遂者よりも初めて話を聞く人数(別席の誓い=初席者)である。なぜだかわからないが、完遂者を上げようという話にはあまりならない。
・約44%というサバイバル率は実感より高いと思われる。なぜなら強制的に受講しなければならない学生数(天理教関連高校)が毎年数百人いるから。
・9回話を聞かなくてはいけないという点は非常に負担であり、本部も認知している。そのため短期講習のようなものにも力を入れている。
・10年後であれば新規信者が0になることはない。しかしこのままでは若年者や社会的強者からは相手にされずに、よりカルト志向を強くした非社会的集団へと移行すると思われる。実際、原点回帰現象のようなことがおこっており歴史的な偉人、偉業を利用し、権力者への統制を強めている。これは北朝鮮などとまったく同じように組織力学として非常に危険な兆候である。
・末端の教会では100年祭のような圧迫感はないが、「あれしろ、これしろ」という大教会長の鶴の一声ばかりでウンザリ感は強い。
・天理教本部は当然このデータを把握しているだろう。しかし9回を減らすことはしない。それは教えを曲げることに等しい。

以上である。現在、天理教の動きや雰囲気は私の知るところではないため実際の組織内部の声が実感としてわからない。しかし、どうやら今の天理教は来年の130年祭に向けてだけ必死なようである。「現在の信仰」を高めるのではなく、先人の偉業と足跡を利用して凝集性(といっても人と金集め)を高めているようである。これが事実であれば、組織として末期であろう。その昔、天理教の教祖は官憲の厳しい取り締まりを受け、何度も投獄されている。それが天理教では美談とされて、何度も利用されている。天理教が得意とする「節」(苦難)を乗り越えていこうという教えはいいが、それが「社会に理解されなくても、自分たちの信念を貫き通す」ということになれば危険である。現代社会では非常に危険なカルト性となる。そういった原点回帰を教団や権力者が利用しなければならない現状こそが、天理教の布教戦略の怠惰な姿である。これは本部をはじめ大教会長たち権力者たちの責任であることは明白であろう。

いつものようにエクセルファイルのダウンロードを用意した。コピーフリーであり自由に使っていただいて結構である。しかし誤記もふくめ責任は負いかねます。

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tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.co.jp

人権意識の低い大教会長は糾弾されるべきである

先週、久しぶりに天理教人にお会いし話をする時間があった。この方は、いわゆる「道一条」と言われる方で、昔からの私の知り合いである。非常に信仰が篤く、毎月の上級教会へのお供え(心定め)も「親(上級教会)に喜んでいただきたい」と少なくないお供えをしている。もちろん、彼の生活は苦しい。 話では、130年祭に向けての天理教の動きや、先月の大祭の青年会総会の話や、天理教の教会が火事になった話など多くの話を聞くことができた。しかし、私は話の中で彼の思想が以前とは違うと感じることができた。

以前であれば、「宗教って怖いね」と私が感じるほど、上級教会や大教会、本部への忠誠心が前面に出ていた。しかし今回話をして、私は彼の忠誠心に陰りがあることを感じた。そこで多少、誘導的であるが「130年祭が終わると、天理教ってどうなるんでしょうか」と疑問を投げかけてみた。すると、「天理教は大転換を求められるでしょう」と思いがけない返答があった。以前の彼であれば一般常識から見ると、まるで天理教に洗脳されていると思わんばかりの、天理教体制に対する陶酔ぶりであった。しかし今回は、まるで覚醒したかのように現体制への猜疑心を露わにしていた。

あまりの変化に私の思考は止まってしまい、彼の話が何も頭に入ってこなくなった。そこで彼の変化に対する私の驚きを、率直に彼に表明した。「以前と違って、何か変わりましたね」と。すると、天理教の体制に対する問題点をどんどん述べていただいた。例えば、この苦しい日本経済の中で若手(青年)に対して雇用保険、国民年金を保証もせずに、幹部連中の中には生命保険にも入っている人がいることや、現場には「勇めよ」というばかりだが、大教会長は「本部の御用」ばかりで現場に顔すら出さない、顔すら出さないくせに教会の子弟たちに対して大教会には人が少ないからという理由だけで一方的な人事権を行使する。人事権だけならまだしも、その子の人生を左右するような進路や婚姻に対しても権力を行使する、天理教人がネットやブログなどで意見を表明するようなら、大教会から止めるようにと圧力がかけられるといったことが挙げられる。

上記に挙げた例が、すべての権力者に当てはまるかはわからない。一部の権力者なのだと思う。しかしこれまで天理教に心酔してき信仰者が、「今の経営者は無能だ」と言っていることは間違いない。私はこれまでのブログの中で、社会常識に無知な権力者と天理教本部の共犯関係を指摘してきた。しかし彼は天理教の衰退に関しての戦犯は「無能な大教会長である」と断罪した。

彼がいうには、現真柱が天理教のリーダーになってから真柱の統率力は一気に低下した。現真柱には宗教団体のトップとして求められるある意味異常なカリスマ性や、独裁的な指導力はない。別の見方をすると、現真柱は現実的で平均的で魅力がないリーダーになった。そして、現真柱の統率力が低下した代わりに、その取り巻きとなる大教会長(本部、教庁)の意見が強くなったようである。

さて、ここで問題なのはこの大教会長たちが、天理教衰退の原因であるのに、責任を問われることなく世襲制という輪番でしかないという点である。さすがに彼は大教会長のことを無能と表現しなかったが、私は経営者として無能だと思う。天理教がここまで衰退した責任を誰かが取らないといけない。少なくともこれまでと同じような方法ではいけないはずである。しかし天理教の経営は、京大で理工学を学んだ人間や、大学を4年以上かけて卒業した人間が相も変わらず偉そうに信者に説諭している。外部から見て、経営能力がない人間が権力を握っている。これほど滑稽で無責任なことはない。

私は彼の発言した事例に対して、すべてにおいて権力の濫用の可能性があるとして社会学的に説明した。天理教は企業ではなく就労契約も保証もおこなっていないため、信教の自由や表現の自由という憲法の基本は、絶対的に守られなければならない。ここは法治国家の日本であり、どんなに崇高な教えを天理教が持っていても社会の構成員として例外は認められない。

また今後、天理教がどのように生き残るかという点においても、硬直した垂直したピラミッドでは生存戦略としても可能性は低い。組織として多くの人に共感を与える組織になるためには、本部—大教会—上級教会という閉鎖的でトップダウンでは多様性も柔軟性もない。今の天理教は教祖130年祭しか見えてないが、教祖130年祭後を考えるのであれば、全国に散らばる教会を地域主体で立て直さなければ、天理教は私が予想するよりも早く終わるだろう。そこには大教会長が正解であっては無理だろう。

最後に彼は、大教会長が権力を手放すか、勘違いを正さなければ天理教の未来はないと断言して別れることになった。教祖130年祭に向けて、意気軒昂に勇まなければならないのは現場の天理教人ではなく、大教会長であることを記す。大教会長という権力の適正化を望むばかりである。

天理教「こどもおぢばがえり」に行ってきた

こどもおぢばがえりの最終日に参加してきた。今回は子供は同行せず、大人だけ。

天理駅に到着して、天理本通り(商店街)を通る。子供が多くて賑わっていると思ったが、意外に人が少なくて、商店街も閑散とした様子。駅から天理教本部のある神殿に徒歩で向かう。参道のようなもの。

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商店街のいたる所にポスターや旗が見える。

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これが天理教少年会のメインキャラクター「ピッキー」(右)。ミッキーマウスがネズミだとすると、ピッキーはたぶん黄色の鳥が原型。左はピッキーの相方の女の子のキャラクター。名前は分からない。

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天理本通りは全長1kmくらいでとても長い。途中には信号機が2カ所ある。長いのでお店に入ってしまうと、どっちから来たか分からなくなってしまう。

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商店街を駅から神殿に向かうに連れて、お土産を買う子供たちが多くなってきた。だんだんとイベント(お祭り)のような雰囲気がでてきた。よく目につくのが「カレーファイブ」というキャラクター。天理教が現在最も力を入れている物販の一つのようだ。宗教団体の物販がカレー?という疑問点はさておき、見るからに甘そう。(今回は試食せず)

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やっと神殿に到着。すでに汗だく。イベント中とは思えないほど人が少ない。写真には写ってはいないが、中学生のボランティア達(少年ひのきしん隊:天理教版ボーイスカウト)がタダで冷たいお茶をサービスしてくれる。熱中症が叫ばれている以前からこのサービスがあるのは天理教のホスピタリティ精神である。

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子供はイベント会場にいるため、神殿付近に子供は少ない。大人だけで子供のイベントに参加するのは気がひけるが、天理教本部のスタッフに聞くと神殿から一番近くは「アタックワールド」という会場があるから行ってみてはと説明を受けて向かう。

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天理教オリジナルキャラクターがいたるところにいる。写真にはうつっていないが、会場には子供がたくさんいた。プールもある。子供と同じ数ほどスタッフがいて、安全には配慮していることが窺える。スタッフは高校生ほどの若い人ばかり。

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待ち合いのテントには、引率の大人たちがぐったり。つかの間の休息のようだ。何十人もの子供を引率するのは、さぞかし大変だろう。

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天理教関連の主な施設の地図。改めて、宗教を中心とした街だと実感。

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夜のパレードまでは少し時間があり、移動する。パレード用の観覧席は、この期間だけのために設置される。時間と人手がかかっていることが窺える。

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パレードまでの時間に夕飯を済ませようと知り合いがおすすめしてくれたうなぎ屋さん。天理でうなぎ?と思ったが、普通においしかった。

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腹ごしらえも終わり、日も暮れ夜のパレードに向かう。ほとんどの準備を若者がしているのが新鮮。パレードまでの時間は、天理高校などの高校生が子供たちとゲームをして盛り上げる。

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10分ほどで夜のおつとめが終わり、いよいよパレードの開始。花火がスタートの合図。

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パレードのトップは天理高校吹奏楽部の行進。

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ピッキーの登場。メインキャラクターだが、そこまで人気者ではなさそう。

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フロートと呼ばれる、車を改造した乗り物。昨年見たものや、初めて見たものもある。完成度は高いが、どこか手作り感があり哀愁がある。わずか10日間のイベントのために、ここまでやるかと感心させられる。

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鼓笛隊やフロートから流れている音楽や、書かれているスローガンは天理教オリジナルなものばかりだが、宗教的というよりも、道徳的なものばかり。子供のイベントだが、世俗にまみれた大人もドキっとさせられる。

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毎年見ることができるキャラクターや乗り物。毎年見てても、じっくり見て聞いてしまう。

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パレードが終わると、神殿前で閉会式が行われる。最終日以外は閉会式はない。

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最後まで見たかったが、電車の時間が迫ってきていたので中座することに。神殿付近には全国にある教会の提灯が並べてある。幻想的な光景。ずらーーーーと。

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ずらーーーーーーーーーーーーと。これでもほんの一部らしい。

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最後の花火の音だけを聞きながら、急いで天理駅に向かう。おいしそうな天理スタミナラーメンを横目に駅に急ぐ。ぎりぎり電車に乗れ、無事地元に帰ることができた。

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終わり。改めて宗教団体とは、人の数がモノを言うのだと実感。今回感じたことは、「こどもおぢばがえり」はもう少しメジャーであってもいいのかなと。天理教人だけではなく、一般人も気軽に参加できるようなイベントとして。元々、教会単位の集団(団参)が対象だから、私のように個人で行った人間が駅を降りたところで何の案内もないし、どうしたらいいか分からない。CMや公式HPの垂れ流しを見ても不親切だし。宗教行事をレジャー化して誰でも来れるようにするのは難しいと思うが、現状のクオリティとかかる人手を考えると天理教内だけで完結するのは何かもったいない。何より幼児から低学年であれば、十分に楽しめるはずだ。家に帰ると娘も「今年も行きたかった!ずるい!」と言っていたし。「においがけ」という布教活動は天理教でも大切な政策の一つだが、つくづく天理教は情報発信や広報活動が苦手であると感じた。

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天理教のハッピを着た人間が従軍慰安の国連人権委員会で、日本への謝罪を求める発言をしたという件について

天理教は新興宗教団体として、一定の市民権を得ている。それらの大きな要因に、天理教は政治的な発言を多くしないという側面がある。某学界などは政治的発言というよりも、たびたび政教分離の俎上に挙げられるほど政治団体と一体化している。そこには団体として強力な求心力もあるだろうが、一方で宗教団体が政治活動をおこなうキナ臭い嫌悪感を感じる人は多い。その点において、天理教は比較的ゆるく、開放的で自由な雰囲気がある。天理教も過去には特定の政治家を応援したりしたこともあったようだが、近年では特定の政治家や政党にコミットすることはない。 私も、そのような天理教の姿勢には好感を持っている。個人がどのような政治的思想・信条を持っていようと、自由が担保されている。また過去のブログにも書いたが、世論を二分するような議題には天理教が関わることは賢明ではない。それは政治的目的を持った政治団体だけでよい。天理教の金科玉条は「陽気ぐらし」であり、政治的達成ではないからである。 そんな中、議論が沸騰している従軍慰安婦問題について天理教という名前を最近たびたび耳に目にすることがある。そのソースが以下のリンクである。ここから各ブログなどで拡散されているようである。

https://www.facebook.com/shun.
ferguson.3/posts/668771989875017

上記の写真を見ると、天理教のハッピ(公式ユニフォーム)を着た天理大学の教員が、国連の人権委員会で日本に謝罪を求める発言をした、という記事である。 下記の産経新聞でも、この人権委員会の特集記事を記載している。上記の天理教のハッピを着た人間の写真は、産経新聞ではこの問題に長らく取り組んでいる戸塚弁護士だけにトリミングされている。

http://sankei.jp.msn.com/politics/
news/140727/plc14072713000007-n1.htm

私は、これらの写真と記事がどの程度事実を正確に反映しているのか分からない。研究者として人権委員会を見学しただけなのか、天理教代表として何らかの意見表明をしたのか、天理大学の代表なのか、そして本当に日本に謝罪を求める発言をしたのか。ただ、写真からは天理教のハッピを着て、対日謝罪を求める人たちと同じ方向に着席(戸塚弁護士の隣)していることは事実のようである。本人にはこれが報道写真に撮られることも考えてのことであろう。このことからこの人物は天理教を代表して日本に謝罪を求める立場であると思われる。(天理大学の教員という立場で、天理教のハッピを着て、対日席に座っている以上、個人の意見とすることは非常に無理がある)

そこで私はハタと止まってしまった。天理教が、特定の政治的課題に対して明確な意見を表明するなど珍しいな、と。どういった教義が従軍慰安婦と関連しているのだろうか。「陽気ぐらし」という目的が、従軍慰安婦の賛否にどのように関わるのかイマイチ理解できない。一信仰者による個人的関係性の中で、従軍慰安婦における対日という思想は勝手にすればよいが、天理教総体として従軍慰安婦にコミットする動機(教義)は私にはピンとこない。つまるところ、従軍慰安婦などの特定の思想に肩入れするメリット(計算)が理解できない。弱者の救済という点では、「陽気ぐらし」の下位概念である「ひとだすけ」に関わることは理解できるが、従軍慰安婦に関しては政治的リスクが大きすぎる。 天理教の思想がどのように従軍慰安婦と関連するのかをネットで調べていると、下記の論文を天理大学からリンクできた。今回写真に写っていた研究者の論文である。

http://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/
metadata/3239/GKH022907.pdf

一読してみると、「従軍慰安婦」は「ある」という前提から議論されており、私も微妙な反応しかできなかった。自分に都合のよい情報しか集めない確証バイアスが多いと感じ、なかなか「はい、そうですか」と論理的に言える論文ではない。 この論文を読む限り、国連人権委員会での天理教の主張というのは誤りで、研究者個人の主張である可能性が強いと感じる。彼は従軍慰安婦を研究テーマにした研究者であり、何か個人的に強い思い入れがあるのだろう。私は、本件を天理教の政策ではなく、研究者個人の活動だったとしか思えない。

もし、天理教の主張であるのなから、どのような天理教教義と、どのような政治的目的が関連しているのか教えてほしい。

もし、研究者個人の主張であれば、個人の思想はどうでもいいが、旅費の出所や信者への説明はどのようにしたのかだけ明らかにしてほしい。

ええい、面倒くさい研究者だ。

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三代真柱の死去に思う天理教の暗い未来

 

三代真柱が死去した。全国紙のニュースでも取り上げられた。その後の教団葬の様子は、天理時報でも大きく紙面を割かれていた。天理時報や天理教人の論調として多いものが「年祭の旬に大きな節を見せられた、全力で年祭活動に向かおう」(ex天理時報4387号)と異口同音である。

私は元々、天理教の年祭についてはあまり理解していない。来年か再来年に天理教の教祖が亡くなってから130年となる年祭だが、これは天理教にとってどういうものなのかイマイチ理解できない。というのは、これが喜ぶべきことなのか、悲しむべきものなのか、苦しむべきものなのか、喜ぶために苦しむべきなのか、じゃあ何をもって喜べるようになるのか、どのように受け止めればいいのかよくわからないということである。つまり天理時報や天理教人の言動を見ると、「年祭に向かって頑張らねば」とゴールのない全力疾走を求められるという悲壮感しか私は感じない。それ以外の情緒を天理時報や天理教人からは感じない。

素朴な疑問として年祭って何の(誰の)ためなのだろうか。三代真柱の死去が、年祭活動と意味付けられることで、三代真柱の生前の意思が薄められているように外部にいる私は感じる。このことは小さいことのようだが、意外に重要なことなのではないかと思う。三代真柱の生前の意思は、どのようなものかは私は理解してない。しかし初代、二代、三代、四代と後継されるたびに、天理教の社会的影響力は低下している感が否めない。東大出身の二代は各界の人脈も豊富であり、宗教的には教義の編纂をおこない、社会的には学校、病院などを作り実質的に天理教を全国的に認知させた人物である。亡くなった三代はスポーツに造詣が深く、教内的には時間があれば全国各地の教会に出向いて説教をしたと聞く。これらは多くの天理教人が同意してくれるだろう。一方、現四代については「どんな人?」と天理教人に聞いても、なかなかパッと一貫した回答を得ることがない。まさしく「目立った特徴がない」というのが特徴だと私は思っている。そんな中でリーダーシップを保持していた三代の死去である。今後の天理教はどうなっていくのだろうかと考えたときに、明るく考えることは到底できない。

前述したように、天理教の最近の枕詞は「年祭に向かって」としか内容がない。私は思う。「そんな直近のことばかり考えていないで、15年後、20年後の天理教がどうなるのか考えた方がいいのではないか、と。もし20年後にも天理教が天理教で存在したいのであれば、天理教のリーダーが求心力を低下する中で、年祭ではなく、もっと先を考えるべきである。

天理教の規模は、日本の新興宗教の中では大きい。しかし、世界に1万7千の教会がある中で7割が事情教会(後継者がいないなど機能不全教会)と言われている。また残りの3割の教会や、大教会、天理教本部の毎月の祭りを見てみよう。そこに参加する半分以上の信者が後期高齢者である。彼らが20年後の天理教を支える中心人物になり得るはずがない。

20年後の天理教には五代目が誕生しているだろう。なかなか見慣れない五代目が豪腕なリーダーシップを発揮すれば、直系の好きな日本人は「なんだこの人?」と違和感を覚えるだろう。反対に、五代目がリーダーシップを発揮しなければ天理教は高校野球だけの存在感に成り下がるだろう。どちらにせよ天理教のプレゼンスは低下の一途をたどる蓋然性は高い。

私はリーダーの存在は大きいと感じている。日本においても失われた20年と言われていたが、自民党が与党を奪取してから国際政治での日本のプレゼンスは向上していることは間違いない。そのことを今の天理教に当てはめるのであれば、今の天理教は民主党政権時代といってもよい。現四代目がリーダーシップを発揮しないために、臓器移植に反対の上田氏や天理時報の手配りという小手先しか発信できない布教部長など、理解しがたい政策発信で天理教を迷走させていると私は思う。

20年後に天理教が社会のプレゼンスを確保するのであれば、目先の年祭活動ではなく長期的視野に立つべきである。天理時報の手配りなどと、ゆとり世代のような甘い考えではなく、体力も知性もエネルギーも溢れる若者をとフロントに置いて社会と架橋させるべきである。高度経済成長を経験して父権性社会の古典的な精神論だけで通用すると思っているのは日本のまだまだ未熟な点であり、天理教を堕落させてきた点である。日本の企業がそうしているように、20年後に後期高齢者となっている者や60代以上の幹部は天理教のフロントから退場していただき、若者に責任と信任を与えるほどの大転換をしなければ、20年後に天理教の未来はない。ということを三代真柱の死去に思う。

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二代真柱と嘉納治五郎に泥を塗った天理大学柔道部の暴力事件の根深さ

少し前にテレビや新聞のスポーツ欄では天理の2文字をよく見ることができた。柔道協会が暴力根絶に改革をすすめている真っただ中、また五輪招致の最終プレゼンの前という最悪のタイミングで天理大学柔道部の事件があった。本来であれば、ニュースになったそのときにこの記事も書こうかと思った。しかし必要以上に天理のイメージを悪くすることを私は望んでいないため落ち着いた今に発表したい。

まずは天理と柔道について概観したい。天理は高校野球が有名なように、スポーツに力を入れている。天理大学の体育学部はスポーツ界の実績はもちろんのこと、体育教員の養成など教育の分野でも非常に評価が高い。また天理市内にある宗教関連の宿泊施設である”詰所”を利用して、高校生や大学生のスポーツの合宿などがおこなわれることが多い。特に柔道、ラグビー、野球、フィールドホッケーなどは全国でも強豪、古豪であり知名度は高い。それらは総称して天理スポーツをして概念化されている。

その天理スポーツの原点は二代真柱である中山正善(現在の真柱の祖父)に始まる。二代真柱までの天理は宗教団体の役割は主に神事と布教であった。しかし東大宗教学科で学んだ正善は、教義、学術、文化の点で天理の社会的役割をグッと押し上げた。教義では天理教の教典を編纂し、学術では国宝級の書籍や世界的な文化財産を天理大学図書館や天理参考館にまとめた。また正善自身もスポーツを愛し、スポーツや健康への理解と投資を惜しまなかった。それらは彼のインテリジェンスとともに人脈の広さを物語るものである。

このように天理スポーツは歴史的にも社会的にも日本スポーツに大きな貢献をしていることに間違いはない。その視点で、今回の暴力事件を、私は「かわいそう」と思うのが率直な感想である。確かに天理大学柔道部の起こした事件は許されるものではない。しかし、ここまでメディアに大騒ぎをされて叩かれるのはスケープゴートや見せしめ的な意味合いが強いと思わざるを得ない。スポーツ界における暴力を言うのであれば、今回の天理大学の柔道に関わらず、日本全国でコンスタントにニュースになっている。昔から。その歴史を見たときに、今回の天理大学柔道部はあまりにタイミングが悪すぎたと言える。

私はスポーツにおける暴力を肯定しているわけではない。しかし、その根深さゆえに左翼主義者の暴力絶対反対という主張に対して「じゃあどうするの?」という疑問が絶えず頭にある。「暴力を使わない、最先端のトレーニング方法を・・・」という言葉が良く返ってくるが、スポーツ界全体として、それを達成することは果たして可能だろうか。

このスポーツと暴力の関係を考えるたびに思い出すことがある。それは家庭内暴力DVである。DVと聞いて多くの男性(女性)が「殴ったり、暴言をしたり、性的強要なんてしたことがない」と言う。私も同様であった。しかし数年前にDVの専門家と話をしたときに、「問題は『行為』ではなく『暴力の構造』である」ということを学んだ。DVの罪悪さについては専門家でなくても、誰もが知っていることである。しかし、その専門家が学生に対しておこなったDVの講義を聞いて、DVの危険性がある学生の多さに驚いた。暴力の構造とは端的に言えば「権力を使って、相手をコントロールする」ということがDVの根底にある。つまり「相手の携帯電話を黙って見る」や「ケンカしたときに相手からの電話に出ない」や「借りたお金を返さない」などはDVの予兆となる。これらは『デートDV』として若者のDV防止のための啓発が高校などで積極的におこなわれている。「暴力なんてしたことがない」という方も、「夫婦喧嘩で腹が立って、電話やメールを無視した」ことくらいはある方が多いのではないだろか。反省の意味を込めて、私は何度かある。
http://www.1818-dv.org/

スポーツと暴力を考える際に、必要条件である指導者と選手という不可分な身分差は、その開始時点で「暴力の構造」が始まっていることになる。その危険性を無視して、理想論を語るだけでは無責任ではないだろうか。例えば天理大学の柔道部の事件についても、
「大学は全柔連に暴力の事実関係を報告していなかった。藤猪部長は、この問題を把握し、 けがをした部員らに謝罪した後の8月21日、暴力問題など相次ぐ不祥事を受けて体制を 刷新した全柔連の理事に就任したが、「問題を大学の学生部に報告しており、学校の処分も出ていなかったので、(全柔連に)言い出せなかった」と経緯を説明した。 全柔連には、「読売新聞の取材を受け、3日に報告した」という。最終更新:9月4日(水)3時10分 Yahoo!ニュース(読売新聞)」
というように危機感のなさが露呈している。「まさか、こんな事件になるとは・・・」というのが率直な感想ではないだろうか。

今回の事件が根深いと言われるのは、その師匠と弟子のような上下関係が明確であればあるほど、その権力の危険性はどこに向かうのかという不確定性からは逃れられないということである。一昔前に「いじめられたと感じたら、それはいじめだ」というような極論が聞かれたが、そのような物言いすらも認めてしまうような極端な風潮が今の日本にはある。つまり暴力まで行かずとも師匠の「厳しい練習」であったとしても弟子が「こんな厳しい練習は暴力だ」と思ってしまえば、指導などということは成立しない。そして、私が難しいと感じるのは、この厳しい鍛錬に耐えることこそ美徳とするような心性が日本人には共通にあるということである。つまるところ「勝利至上主義はいけない」と言いつつも、勝利したら嬉しいという矛盾にどれほどの人間が自覚的かということであろう。奇しくも、東京オリンピックが決まり、どれほどの人間が1964の東京オリンピックのような日本の勢いを夢見ていることだろうか。どれほどの人間が柔道界の勝利至上主義を批判しつつも、金メダルの数を数えることに喜びを見出すだろうか。大阪の桜ノ宮高校の体罰事件でも、体罰を伴うような指導を容認してきたのは、選手であり、保護者であり、地域住民であったことは言うまでもない。

全国クラスである天理スポーツに関しても、多くの人間が応援し、そして利用してきたことを認めなければいけない。その視点から今回の天理スポーツの事件を天理大学と柔道部と元部長だけに責任が帰結されてもいいのだろうか。

では次に天理教を見てみたいと思う。天理教の組織では身分関係が非常に明確に線引きされている。天理教の教団幹部は、そのすべてがメンバーズオンリーの血で決定される。そこには能力も平等もない。

天理教からの防衛の仕方 親の思いという暴力性

天理教では3年後に教祖が没してから130年という節目を迎える。定期的に訪れる節目は、信仰上は竹の節のように堅いと例えられる。節目には困難が伴うと。しかし節に耐えるとそのうち必ず芽が出る旬が訪れるとされている。これらは、普通に考えれば節に耐える姿こそ神がきちんと見ている(報われる)という意味になるだろう。しかし天理教では、旬に向かって結果を出さないと節における忍耐が評価されないという逆転となる。ブラック企業は、結果が出ないと従業員に「会社が悪いのではない、お前のがんばりが足りないからだ。お前の修行が足りないからだ」というのは、天理教のそれと同じ構造ではなかろうか。天理教本部の役員の話でも、全国にある各教会の会長の話でも、「今こそ神様に評価されるべく節に耐えてがんばりましょう」と神の意思を個人の努力に帰結するレトリックの邪悪さを持っている。
今回はその一端を提示したい。今回私にメールを寄越した方は、親族のAが教会を継ぎたいと言っており、それに反対をしておられる天理教の未信者の方からであった。どう考えてもAが教会を継ぐ経済的、人間的な素質はなく、親族はみな反対している状況のようである。しかし会長は、Aと教会設立ができるように裏でコソコソと話を進めているようである。私が聞く限り、会長の頭には、この節目に教会を設立できるという外部評価がチラついているようである。
親族から反対されてまで設立する教会に何の意味があるのだろうか。天理教の節目だから、反対される中でこそ設立することに意味があるという、いつも通りのナルシストだろうか。
個人を特定できないように伏して公開したい。

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はじめまして。カインです。
メール拝読させていただきました。ご苦労のほどお察しします。

私見ですが、回答させていただきます。
前提として天理教の会長の資質に関しては多様です。
社会での就労経験があり、常識的な判断ができる会長もいます。
一方で、貴殿がおっしゃられる会長のように非常識的な会長がいるのも事実です。
私の皮膚感覚では、天理教に深くコミットする会長ほど話が通用しないです。
反対に、常識的な思考ができる会長は、天理教組織から一定の距離を置いています。
(というか、置かないとやってられないのではないでしょうか)

貴殿を苦しめている会長が、どの系統(大教会)で、どの思想の持ち主かは分かりかねます。
そのため、私のアドバイスが参考になるかは分かりません。
場合によっては厳しいことを言っているかもしれませんが、ご了承ください。

今後、教会長と話をするということですが、教理には教理で対抗するという
案については、私は反対です。
なぜなら、天理教の教理自体が、非常に強者(会長)の都合よく利用されているためです。
天理教がいくら「陽気暮らし」「人助け」という教えがあったとしても
「会長のエゴではないか」「人助けはいいが、こっちの家庭はボロボロ」と
言ったところで、通用しないでしょう。
私が予想するに、会長の乏しい語彙力や文脈には決まったパターンがあります。
まずは教会の歴史からはじまり、貴殿の先祖による信仰の始まり、
それらから現在の信仰について運命論的な因果論(いんねん)で
今の貴殿らが信仰的にいかに「できていないか」になるでしょう。
その上で、「親の思いに沿って」や「素直になるべき」「心を寄せて」と
自分の思い通りにコントロールしようとします。
もし話が物別れになったとしても、会長たちは「あいつらは
何も分かっていない」と自身を正当化しかしません(できません)。
その結果、こちらの心労と絶望感が増大するだけです。

天理教の組織はヤクザの縦社会と似ています。教会長は、その上の
教会長の言うことは応じる傾向が強いです。もし貴殿に、教会長の上の
教会長とコネクションがあり、且つその教会長が話が「わかる」人物で
あれば、相談することをおすすめします。

もしそのようなコネクションがなければ、自衛か第三者機関をお勧めします。

私に相談される方がよく言われるのが、天理教本部にクレームを入れることです。
しかし、これも私はお勧めしません。天理教本部には渉外課という部署があり
ここが対外的なクレームや問い合わせに応じます。しかしここに相談しても
「よく会長と相談するように」としか応じずに、何もしてくれず
その他の資源も用意してくれないほど天理教本部は無責任です。

先ほどの第三者機関ですが、もし人権侵害や法律に抵触するようなことがあれば
自治体の人権擁護委員会に通告することも視野に入れてください。
これは明確な物証がなくても疑いだけで十分です。
法務局でもいいですし、人権ネットワークなどの非営利組織に相談するのも
いいと思います。自治体での法律無料相談なども利用できます。

法律に抵触するようなことがなければ、最終的に自衛になります。
まず私のことですが、天理教人と話し合いをするときは、
高い確率でICレコーダーに録音します。
余裕があれば話し合いをする場所を写真で取ります。
少し揉めるような話し合いをする場合は前もって
「ICレコーダーで録音させていただきます」と断りを入れたこともあります。
もしそれを咎められれば「専門家にそうアドバイスされた」と言えば
牽制になるでしょう。
私はこのようなブログをやっていることもあり、
根拠もなく天理教を批判して名誉毀損にならないようにしています。
(天理教は信教の自由の中の宗教団体のはずですが、都合が悪くなると
不正競争防止法で下部の教会と裁判で争うような団体です。当然、敗訴しましたが)

私の対応はやり過ぎだと思われるかもしれませんが、
私は天理教に関して「宗教的虐待」や「宗教的ストーカー」団体という
認識であります。虐待やストーカーの対応が難しいのは、証明が難しいからです。
虐待は「しつけ」と変換され、ストーカーは「愛情」と変換され、
天理教は「親の思い」に変換されます。人権侵害も法律の抵触も、証拠がないと
誰も動いてくれません。ほんとに。
会長は法律の知識や社会常識が驚くほどありません。
(ここ数年、教会本部は信者のためではなく、教会長のための相談窓口を設置するほど
保身のためしか考えていません。人助けとは逆行していますね)

一会長の発言は二転三
転することは日常茶飯事であり
貴殿のおっしゃるように「言ってることと、やってること」が違うということは
珍しいことではありません。
もし録音した上で、会長の言行が不一致であれば、内容証明を送り、
弁護士に相談することが賢明です。

以上、少し過激な内容だったかもしれませんが、
会長は一般常識で「話したら分かる相手ではない」という認識がとても大切になります。
「話したら分かるだろう」と思って、結局話が通じずに、傷ついて
余計に心労が重なる方が多いです。

少しでも貴殿のご負担が軽減されますよう、
祈念しております。

追伸
個人を特定できない返事にしてありますので、
ブログにアップさせていただきます。

カイン
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この返信メールを送ってから、法的措置も含めてきちんと対応される予定との報告があった。私もこの大教会と教会の情報を収集したいと思う。これ以上、天理教に家庭を壊されないようにうまく乗り切っていただきたいと願うばかりである。

tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.com

 

天理教に人権を語る資格はあるのか

いくつかメールを頂いたが返信できずに申し訳ない。

現在、橋本市長の発言により人権について注目されている。誰のための人権なのか、政治も国民も迷走しつつある。彼が主張する「建前を言っていても仕方がない」という問題提起は、都合の悪いことを抑圧してきた政治家の思惑や、国民感情をあぶりだしている。しかし納めどころがない中での、あぶり出しは関係者の二次被害や、さらなる抑圧を強化してしまう可能性があることを私は危惧している。

私はかねてより、人権を大きなテーマとしている。天理教に当てはめるならば天理教の金科玉条である「陽気ぐらし」は人権を十分に包含していると考える。臨床社会学の一つの見方として、人権で傷ついた人間は人権で救済しなくてはいけないという考え方がある。人権の軽視によって、心の病を発症させられている人間は少なくない。人間関係での傷つきや劣悪な環境が当てはまる。どんな精神療法だろうと、カウンセリングだろうと、人権で傷ついた人へのケアは話を聞くよりも、人権の確保が前提となる。一人の人間としての尊厳の回復である。その中で、天理教の「陽気ぐらし」や「おたすけ」という概念は、人権という意味でも同等以上の言葉であるはずである。

一方で、私は天理教人の人権意識は低いと思う。理や徳などといった抽象的な概念は強者に都合よく信者を支配しコントロールするために利用される。また構成員の社会保障を設けず、宗教法人という聖域であぐらをかいて信者や若者の無年金を見て見ぬふりをしている。「一生懸命伏せ込めば、神様がなんとかしてくれる」という暴力的な言葉とともに。

これらのことは天理教本部と天理教教会は利用しており共犯関係にある。修行という建前で、卒業したての若者を「青年」という無保険・無年金の労働力として搾取する。賃金は「お与え」という建前で月に2万から3万という驚くべき低い金額しか渡さない。その「青年」は未成年の学生時代に権力者である理の親の許諾の印鑑によって奨学生として契約させられる。奨学金を扱う財団法人天理教一れつ会は、数年前に卒業後の天理教での労働を強制性システムから奨学金の返済可能へとシステムを変更した。しかし理の親という権力者の許諾は変わらないために卒業後に天理教での労働に従事せねばならない。そこには若者の主体性をカモフラージュして契約や信仰的脅迫で、逃げ道を奪っているといっても過言ではない。そこから脱走することは信仰的未熟者(家族に迷惑をかける)になるため、一定の強制力が生じている。

日本は以前からアメリカ国務省から人身売買(取引)の指摘を受けている。そのため2005年に刑法で人身売買罪が設けられることになった。主に性産業における女性が理不尽な借金を背負わされて、風俗店で働かせられるが、一向に借金は減らないという昼ドラマのようなことが現在の日本で実際にあるということである。同じような構造が天理教の内部でも展開されている。

先日もある教会の会長夫人と話をした。ある教会の若者二人が、結婚の結納を済ませた。新郎と新婦は別々の系統の教会であった。結納まで済ませたときに、なんと結婚が急に破断になった。それは彼らの理の親である大教会の会長が、ストップをかけたのだそうだ。その理由は「新婦は新郎が所属する河○町には不適当」という理不尽な理由だったそうである。この河○町は天理教内では原理主義的で「厳しい」と評価のある系統であり、ここの大教会長は信者が容易に話しかけることができないほどの「神のような存在」と評されている。新郎側の大教会長か新婦側の大教会長のどちらが「不適当」と判断したのかはわからないが、理の親と偉ぶるのであれば、子の主体性と幸せを尊重すべきであろう。少なくとも結納を済ませた若者の未来を閉ざすなど人権を軽視しているのも甚だしい。何様のつもりだろうか。そんなに大教会長という方は偉いのか。きっと大教会長たちは「この若者の将来を思って」というだろうが、そんなことは現代社会では通用しない。

以前、私は障害者の結婚について、ある家庭の救済を求めたことがある。新郎側の父親が新婦が障害者であることを理由に結婚を破談にしようとしたからである。父親以外の親族は結婚に賛成であった。父親の言い分は「障害者だから、ゆくゆくは本人たちが苦労するだけ」という訳の分からない理由で反対した。私は原理主義ではないので、父親としての責任感と子供を思う気持ちを一定程度理解はする。しかし、よくよく話を聞くと、そこにあるのは障害者を受け入れる責任回避と見栄しかなかった。到底、愛し合う若者二人のことを真剣に考えているとは到底思えなかった。

当然だが、本当に若者の将来を心配するのであれば、愛し合う二人を邪魔することなんてすべきではない。それは出自や血にこだわるほど滑稽であり、時代錯誤も甚だしい。

上記の天理教の若者の結婚破断に関しても、若者たちが私の知り合いであれば、私は自治体の人権救済委員会に連絡し、文科省宗教法人審議会、公安調査庁に通報するだろう。こんな宗教法人が「陽気ぐらし」や「おたすけ」として布教活動をおこなう資格はない。むしろ行政指導をあたえられるべきである。

日本全体が人権に関して低い意識であることは、今回の橋本市長でも浮き彫りになっている。「陽気ぐらし」という素晴らしい教義を持つ天理教こそ、人権に敏感であり、人権保障を牽引してもらいたいと思う。それは凄まじい勢いで天理教が衰退していることと無関係ではないということを天理教の方たちは本当に考えてほしい。人助けを主張したいのであれば人権教育や権利擁護こそ天理教の幹部たちは習うべきだ。

万が一、自分たちのおこないが、天理教として正しいというのであれば、胸を張って天理時報に掲載すればよい。愛し合う若者の結婚を破談にしましたよと。コソコソと自分の思い通りにやっているのは、それが人として恥ずべきことという認識があるからなのだろう。

本記事は、いくつかのデータと記録の一部に基づいて書いている。天理教の制度や、類似例などここ数年で変更点や動きがあれば、教えていただきたい。

tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.co.jp