昨年から、このブログの運営にはKくんが助手として手伝ってくれている。といっても空いた時間に迷惑メール対策や、保守点検をしてくれている。以前、本ブログに「自立人生」さんがコメントを残してくださいました。そのコメントはリンクが多く、当初はサーバーで迷惑コメントとして判断され、掲載が遅れてしまっておりました。申し訳ありません。
今回、本ブログはせっかく「社会学」という名を冠しているので、たまには社会学っぽくデータで物を言いたいなとKくんと話をしていた。その中で以前の「自立人生」さんのコメントにデータが多用されていること思い出し読み返した。大変、素晴らしいリサーチで見習いたいと思います。
今回は、公開されているデータから天理教を数値で表したい。その上で、考察をおこない今後の課題が出てきたので、読者の方にもご協力していただけたらと思う。(コメントしたのに、表示されない場合などがありましたらメールにてご連絡ください)
今回使用したデータは、文化庁が毎年発行している「宗教統計調査」である。これは日本に存在する宗教法人が毎年、文化庁に組織概要を報告しているデータをまとめたものである。だからといって、宗教法人が文化庁に「本当のデータ」を申請しているかどうかは私にはわからない。たとえば「信者数」は信者とする基準などは、各宗派でバラバラである。あくまで宗教法人の任意に基づくデータであることは注意が必要である。今回使用したデータは、その中の統計が開始された1949年〜2011年までのデータを使用する。カテゴリは「教会数(宗教団体数)」「布教所数」「宗教法人の教会数」「男子教師数」「女子教師数」「教師数合計」「信者数」という分類である。今回は天理教のデータのみ使用した。(量が多くて他の宗派までやってられない)
まずは「教会数(宗教団体数)」。これは単純に全国に天理教の教会がどれだけあるのかという数字であると思われる。ところどころに不自然な上下がありますが、1985年あたりから、ほぼ16,500強でほぼ横ばいと思われる。それにしても1950年代から1985年までの増加率は凄い。
次は「布教所数」。布教所というのは教会になる前の小単位である。1965年から、急激な増加がみられるが、1985年ごろをピークに下降している。単純に驚いたのが、教会数よりも多いということ。
次は「宗教法人の教会数」である。これは一番最初に掲載した「教会数(宗教団体数)」とは、どういう意味の違いがあるのか私にはわからない。しかし天理教の月刊誌である「みちのとも」を見る限りの教会数は、最初にあげた「教会数(宗教団体数)」の数値の方が最も近いと思われる。教会によって、法人登録がしてあるのかどうかということなのだろうが、教会によって法人登録をしている教会としていない教会の差が私には分からない。
次は天理教の「教師数」。「教師数」は天理教でいう「よふぼく」の上位概念である「教人」であると思われる。元データでは「男子教師数」「女子教師数」「教師数合計」に分けてあったが、ここではややこしいので、一緒にまとめた。2000年以降、ガクッと下降したことが見てとれる。何があったのだろうか。すでに死んだ人間なのに算入されていた教人を排除したのかな。
性差では、女子教師数の方が男子教師数よりも圧倒的に多いのは興味深い。教祖が女性であったことと何か関連があるのだろうか。
最後に「信者数」。「信者数」は天理教では「ようふぼく者数」であると思われる。驚くほどのバラツキがある。自然科学から見ると、このデータは明らかに不自然である。人口統計学でいうと、大量虐殺や大災害でもなければ、このようなグラフは描けない。何らかの統計処理に関する人為が入っていることは明白である。おそらく1966(教祖80年祭)後と1986(教祖100年祭)前にデータ整理がなされたために、急激な減少となったのだろう。注目すべきは、急減した1967年(教祖81)から1983年(教祖97)に270万人近くまで盛り返していることである。しかし一方で、1984年(教祖98)から1986年(教祖100)までは10万人弱の急激な増加率を記録しているものの、1986年の100年祭を機に再び減少に転じており、その後1996年の教祖110年祭まではゆっくりとした増加率でしかない。これまでと同様に2006(教祖120)後も、急激に信者数が整理(削減)されている。本データは2011年のデータまでしかないが、現時点では天理教の信者数はおよそ120万人と考えることができる。270万人のときと比べると半減以上である。来年の130年祭に向けて、もし信者数が130万人近くになったとしても、130年祭が終わった後のデータ整理では天理教の信者数が100万人を切ることも十分に考えられる。(データ整理では、毎回20万人〜30万人が削減されており、特に高齢化社会の影響は大きいと思われる)。
以上、文化庁の「宗教統計調査」のデータをもとに天理教の形をグラフ化した。Kくんとデータを整理しているときの問題点について下記に列挙しておく。もし読者の方にご協力いただけるのであればご意見を賜りたい。特に今後、天理教のお金の収支について調査するつもりだが、これは天理教の月刊誌である「みちのとも」を見なくてはいけない。「みちのとも」は、私は購読しておらず、特に過去数十年となると国立国会図書館や天理大学図書館まで行かなくてはいけない。それは非常に面倒なので、協力していただける方は是非助けていただきたい。本当はこれらのデータを統計解析して、何らかの有意な減少率を明確にしたかったのだが、文化庁発表の天理教データは、不自然なデータが多いため難しい。しかし、今後金銭の収支データが集まれば、人員規模との間に何ららかの相関を出したいと思う。
データで見る天理教の考察と問題点
1 教師数や信者数が減少している中で、教会数は大きく減少していない。教会を支える人間の減少と苦しい経営が予想される。
2 教師数や信者数で、ある時にガクッと減少するのは、天理教本部がデータ整理をしたことによるのではないか。(すでに死んでしまっている信者を削除したり)
3 本部がデータを整理したということは、天理教の信者などによる、いわゆる信者数が死去した場合の「死亡届」のような天理教本部へ申請する制度はきちんと機能していないのではないか。(「みちのとも」では毎月の教会数と信者数が明記されており、中には「出直し」(死去)という項目もあるが)
4 天理教の主な出来事として「1966年に教祖80年祭」「1976年に教祖90年祭」「1986年に教祖100年祭」「1996年に教祖110年祭」「1998年に教祖生誕200年、真柱継承」「2006年に教祖120年祭」があり、「教会数」の頭打ちと「布教所数」の減少は1986年の教祖100年祭がポイントである。
5 文化庁の公表データであり、300強ある海外の教会や支所については計上されていないと思われる。
6 2011年のデータでいうと、1教会あたり約10人の教師と約70人の信者がいることになる。私がいくつかの教会を見てきた中では、実感とはかけはなれているが、天理教人はどう思うのだろうか。
7 前回の記事で述べたように、天理教が構成員に課すノルマの負担は、人も金もない中で年々大きな負担となるだろう。リアルに歴史上にみられた社会主義の崩壊の情景が頭をよぎる。それと同様に、現行の上意下達の天理教システムでは、明らかな制度疲労がおきており、どこかの水準で一気にクラッシュが起こるのではないかと危惧する。たとえば追い詰められた教会長による重大事件の頻発であったり、天理教信者による被害弁護団の結成などのモラルハザードである。
最後に、こちらでまとめたローデータの一覧表は、下記エクセルファイルにて公表しますので、ご利用ください。天理教の主な出来事も記載しました。
[wpdm_package id=’467′]
お願い
「みちのとも」に掲載されている天理教の収支報告である「一般会計歳入歳出予算」の過去、数年分をお持ちの方がおられましたら、写メールやコピーで結構ですので下記メールまでお送りいただけましたら幸いです。なお、毎年度の天理教の収支報告は「みちのとも」5月号に掲載されているのではないかと思われます。(今年度予算は、昨年2月26日の本部員会議にて予算が決議され、5月号の「みちのとも」にて掲載されていました)。
tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.co.jp
新婚当時、夫の収入が17万円しかないのに、5万円も仕送りしていました。
一人暮らしの姑の生活費に必要と私も納得していたのですが、一年後、全額天理教に献金していると知って気が狂いました。つきなみ祭、分教会、大教会、本部、分教会建替えの積み立て
舅は亡くなっていたので、献金名義が夫になっていて、だから、5万円くれるのは当然とのことでした。
子供が小さいうちは、私の実家から金銭援助してもらいました。夫が卑屈になってはいけないと思って内緒にしていましたが、夫も姑も、結局、私の実家のおかけで子供たちに十分な教育を施せたことを知りません。
あげくに、子供たちが国立大学に現役合格したことを、祖神さま、天理教のおかげと言う始末。
あの人たちは狂っています。
しかしながら、精神病を発病して、精神病院へ強制入院させられたのは私です。
結論、中山みきは、精神分裂病(統合失調病態)です。
私自身が精神病になったせいで、精神病関連の専門書を何冊も読みました。私も理系専攻でしたので、かなりの専門書を読みました。
貴ブログ、本当に勉強になります。本年の元日、例年のごとく、気持ちの悪い初詣をしましたが、あまりの閑散とした光景に唖然としました。四半世紀前からしたら、参拝者数が10分の1ではありませんか?こりゃ、姑が他界したら、さっさとずらからないと、少ない信者であんな巨大な宗教城壁維持するのが大変です。因みに、舅実家は仏教で舅自身が天理教を嫌っていたにも関わらず、そして舅実親が存命であったにも関わらず、葬式は天理教でした(姑の一存)。だから戒名はありません。恐ろしい宗教です。
ここに書き込まれている、教会で生まれて必死で逃げだされた方々、応援していますよ。
いっしょに頑張りましょう。
いつもありがとうございます。すでに知られていることではありますが、興味深いデータです。それぞれに少し感想を書いてみたいと思います。
1 大正の教勢倍化運動の時に教会数に比して信者数がのびなかったため、一教会単位の信者数が少なくなって以来の傾向です。
2・3 何かのことがあるたびに数字の見直しが行われ、とくに死亡者が減らされます。そのために時々がたっと数字が減ります。死亡届のようなものがあるとは???
6 大多数の教会はこの実態より少ないと思います。信者がおらずおつとめができなくなっている教会はかなりの数に上るという印象です。一方、勢いのある教会は人があふれているとも聞いています。
7 モラルハザードが部下教会あるいは信者から起こると想定されているようによめますが(意図は違うのでしょうが)、上でモラルハザードが無数に起こっているから下でも起こると思った方がいいように思うのです。信者に責任を転嫁しているようにも見えます。社会主義でも官僚腐敗があったのではないでしょうか。
はじめて投稿させていただきます。ラメルと申します。
6について一部推測ですが述べます。
1教会あたりの信者数が多く見えるのは、いくつかの現象の結果だと思います。
カインさんが述べているように、出直した信者数を報告していないのではないかと思います。本部への届け出も私の所属する教会では数年に一度まとめてするとのことです。
また、いわゆる事情教会が発生するときは、高齢者の最後の会長が出直すケースが多いと思われますので、教会としても事務能力が失われている事が多いのではないかと思います。どれぐらい事情教会があるのかは分かりませんが、その教会の多くの信者が名簿に載っている可能性があります。
さらに月次祭の参加者は、信者数の全てではありません。まず仕事がある人は大概来ません。教会は月次祭の他に信者宅で講社祭というのをしていて教会としての収入はこちらの割合の方が大きい教会が大半ではないかと思います。むろん、教会長は月次祭への参加を進めるものですが、行事に参加しないで講社祭のみの信者も相当います。そしてときどきおぢばがえりして、おさづけの理をいただいているのが現状だと思います。
それにしても1教会70人は多すぎですね。ほかの教会を見ても全然実感と違う気がします。
修正。
×さらに月次祭の参加者は
↓
○さらに私たちが普段教会で目にする参加者は
説明不足でした。修正します。
いつも読ませていただいております。そしていろいろな思いや考えを自問自答するのですがなかなかまとまらず今日に至っております。確かに統計をみるまでもなく教団力は落ちて行っていると感じています。私の知っている範囲でも後継者がなく上級教会が数年間税金を払ってその後更地にしてやっと売れ解体代金が戻ったとか、20年近くも後継者とた息子さんが絶対に拒否しそれでもなんとか残したいと教会から布教所にし息子さんが管理者(所長?)過っての部内会長が月次祭をしていたりとかいろいろと耳に入ってきます。ただ私は思うのです。どうであれ、教団は続いていくだろうと思います。本部、大教会、分教会など職業にしている人々は生活権を守る方法を考えいろいろしていくと思います。自立人生さんが言うようにほっとくのが一番いい方法かと。たった一人で信仰の道を歩まれた親様を雛形に親神から心の自由を与えられているのですから自分自身の感覚や感情を表に出せるように自己主張できる自分をトレーニングしてまず自分を愛し大事にすること。そして理不尽なこと(教団の偉い人の無理な要請?)は柳に風と流して。
神経症になって、精神的に追い込まれても二度と天理教には戻らないとちかった頃の私。その頃、森田療法を知り、あるがままの自分を受け入れる。苦しみを苦しみとして受け入れ、そこから逃げない、何かにすがらない。そして森田正馬氏は、中山みきを精神障害者であると言い切っていた。その人を生神様、教祖として慕い、明治の頃から信仰し、貧困に苦しみながら、何ひとつ問題を解決をしないで陽気ぐらしを「あほの独り言」のようにして暮らした我が家族。自己否定しながら生きてきた私。「あるがままの私でいい」なんて今まであったろうか?私は子供の頃から理屈っぽい性格ではあり、教会をやめることを苦言していたけれど、いったん作った教会は、どれだけ弱小ではあっても廃業の許しはもらえないんです。だから教会は消えないんです。たとえ信者は減っても大教会は自分の権力を誇示するために、減らせないんです!詐欺師より残酷な詐欺だよな!
テーマ: ようぼくの数は12年間に193、205人減少
<ようぼくの数>:
天理教青年会発行、手帳の巻末に記載されているようぼく数:
1995年(平成7年)9月末現在のようぼく数:1、093、205人。
2003年(平成15年)9月末現在のようぼく数:978、931人。
みちのとも2007年6月号p54、第204回定時集会の記事:
2007年(平成19年)のようぼく数、約90万人。
1995年から2007年までの12年間で193、205人減少。
1、093、205人-900、000人=193、205人。
193、205人÷12年=年間単純平均16、100人減少。
2003年3月―6月「120年祭地方講習会」参加者34万3千人。
34万3千人は上記ようぼく数978、931人の35%で、ようぼく数のおよ
そ三分の一。
2014年3月―6月「130年祭ようぼくの集い参加者」27万1千人。
前回、2003年3月―6月「120年祭地方講習会」の参加者34万3千人
に比べ7万2千人(21%)減少。
「120年祭地方講習会」や「130年祭ようぼくの集い」の会場はようぼくの
所属教会ではなく、ようぼくが住んでいる地域の支部により指定された教
会を会場として行われるので電車やバスに乗って出かける必要がある。
参加カードに最上級教会、所属教会、氏名、年齢、男女別、住所を記入
し、入口の受付でお供え500円を支払う。
従って、これらの集会に参加するようぼくは筋金入りとまではいかないが
まだ信仰につながり実働しているようぼくとみなすことが出来る。
しかし、熟年層、高齢者が多い。
上記データーに基づき推計すると、
2014年のようぼく数推計は「130年祭ようぼくの集い」に参加した実働
ようぼく27万1千人×3倍=ようぼく数81万3千人(推計値)。
別の角度から、2014年のようぼくの数を推計すると。
1995年から2007年までの12年間で193、205人減少、
年間単純平均16、100人減少。
2007年から2014年迄の7年間ようぼく減少数(推計):
年間減少単純平均値16、100人×7年=112、700人減少(推計
値)。
2007年ようぼく数、約900、000人。
約900、000人―112、700人=787、300人(推計値)。
ようぼく数のまとめ:
2014年のようぼく数は79万人から82万人程度と推計。
2014年の実働ようぼく数は約28万人程度と推計。
このレポートの結論:
「天理教を職業とする教会長」及び「天理教を職業としない一般信者」の
内、人数の多い60歳台―70歳台のようぼくは10年後に、70歳台は
80歳台となり出直しの年齢に達し、60歳台は70歳台となって社会的な
力を失い、10年後には実働ようぼく数は約28万人から更に激減する。
天理教は教団自身が自ら招いた結果として、誰もが未だかつて経験しな
かった危機的状況となることは疑いが無い。
年祭活動中も信者が減少している天理教教団本部が、今行わなければ
ならない仕事は、「教会半減運動」、即ち教会の数を半分に減らす運動
である。
教会数を半分に減らし、所属教会が遠方に有る信者は、信者が希望すれ
ば居住地域のしっかりした教会に所属変更を可能にする制度に改めるべ
きである。
系統に基づく教会制度は破壊され潰れる大教会も出てくるが、いまのま
までは、信仰を続けている信者と教会が共倒れになってしまう。
以上
テーマ: 1教会当たりのようぼく数
2014年「130年祭ようぼくの集い」は、ようぼくの系統や所属教会とは
関係なく、ようぼくが住んでいる地域の教会が会場となって教会本部の主
導で行われた。
地方から大都会へ移住し所属教会から離れても信仰を続けているようぼ
くはこの「集いに」参加。
その前年2013年に行われた「全教会一斉巡教」は、直属の大教会が主
導し、各ようぼくが所属する分教会を会場として行なわれた。
所属する教会の近くにすんでいるようぼくにとっては参加しやすかった。
とりわけ足腰の弱った高齢ようぼくは参加しやすい。
そのため、「全教会一斉巡教」に参加したようぼくの数は「130年祭ようぼ
くの集い」の参加者より5万5千人多い。
2013年「全教会一斉巡教」ようぼく参加者32万6千人。
2014年「130年祭ようぼくの集い参加者」27万1千人。
計算:32万6千人―27万1千人=5万5千人(多い)。
この「全教会一斉巡教」の参加者32万6千人は所属教会の近くに住んで
いる人が多いので、常日頃から教会に参拝し教会の月次祭にも参拝して
教会を支えている実働ようぼくである。
天理教分教会の数(国内)16、196個所(みちのとも2015年2月号)。
「全教会一斉巡教」ようぼく参加者32万6千人。
1教会当たりの実働ようぼく数:
326、000人÷16、196教会=平均20人。
分教会一か所当たりの実働ようぼく数は平均20人である。
16、196個所の分教会の中には、教会長も信者もいない幽霊教会もあ
れば、大教会を超える規模の分教会もある。
実働ようぼくが100人を超える教会もあれば、ようぼくが10名もいない衰
退教会もある。
平均してならせば1教会当たりの実働ようぼく数は約20人。
1教会当たりのようぼくの数20人が今後とも維持できるならなんとかゴマ
カシながらでもやっていくのであろうが、衰退が止まらないのであるから2
0人がその内10に人減ってしまうのは理の当然である。
<おさづけの理拝戴人数(年間)>:みちのとも毎年2月号巻末年間統計
2005年:9、444人。
2014年:5、274人。
9年間で4、170人(44%)減少。
2005年1教会当たり新ようぼく誕生数(海外教会307個所含む):
9、444人÷16、982教会=0.55人(2教会で年間平均ようぼく1名)。
2014年1教会当たり新ようぼく誕生数(海外教会321個所含む):
5、274人÷16、517教会=0.31人(3教会で年間平均ようぼく1名)。
新しいようぼくが生まれる割合は、2005年には2教会で年間1名であっ
たが、9年後の2014年度は3教会で1名弱にまで下がった。
今の教団の組織制度では、教勢が上向く事はあり得ない。
誰が考えても1教会当たり20名のようぼくで、その数が年年減少している
なか、16、000個所の教会を維持できなくなるのは目に見えており、この
まま突き進めばやがて教団・教会の組織が崩壊するのは必然である。
年祭活動中も信者が減少している天理教教団本部が、今行わなければ
ならない仕事は、「教会半減運動」、即ち教会の数を半分に減らす運動
である。
教会数を半分に減らし、所属教会が遠方に有る信者は、信者が希望すれ
ば系統にこだわらず、居住地域にあるしっかりした教会に所属変更を可
能にする制度に積極的に改めるべきである。
系統に基づく教会制度は破壊し潰れる大教会も出てくるが、いまのま
までは、かろうじて信仰を続けている信者と教会が共倒れになってしまい
元も子もなくなってしまう。
以上
自立人生さんのような考えの持ち主が教団中枢の中にいるだろうか?もし、いたとしたら既に潰されているでしょう。社会から受け入れられない胡散臭い宗教団体になっていますよ。
例えば、信者もいない老会長がひとりいたとしても、その老会長の僅かな年金からでもむしり取ることができるでしょうし、信者の数より、一教会がどれだけお供えできるか。一教会あたり10万円の献金があったとして、それを教会の数で掛けたら何億集まるでしょうか。とどのつまり中身ではないんですね。お金をどうしたら効率良く集めるか。金を見て人を見ず。ではないでしょうか。
今から35年前の話ですが、私の母が教会長をしていたころ、大教会から25万円の献金を強要され、その額に満たなければ、居場所のない冷遇の扱いを受けるため、母は毎月必死で金集めに狂っていました。もちろん子である私など相当な被害を蒙っておりました。今も教団のやり方は変わっていないのではないでしょうか。
ここ数日、2007年からのカインさんのブログを再読させていただいておりました。また、それぞれの方のコメントも。私はどう考えているのかと自分に問いながら。思想信条の自由、表現の自由はどんなことがあっても死守したいと思ってます。何となく息苦しさを感じる昨今ですから。このブログは内容はもちろんのことカインさんの姿勢に力をいただいております。つくづく思うのですがインターネットの普及は素晴らしいことと。功罪はありますが。匿名であっても自分の思いをコメントの形で表現できるのですから。教団の統計は日頃経験していることで納得です。これも狭い経験ですが末端では高齢者がほとんどですから月次祭の時は送迎してます。参拝できない信者さんにはお供えのお下がりを届けたり。信仰の中身にもよりますが皆さんは「うちの教会」と言ってます。また、おぢば帰りは人数が少ない時は他の教会の団体に入れて行ってもらうようです。60~70代が中心です。そして偉い方が巡教に来られても信者さんは余り感じてないようです。確かに10年後はなくなっているかもしれませんね。現在40~50代のようぼくが鍵になるのではとは思いますが。コメントを見ますと暗い気持ちになります。「理の親」に悩まされているようで。おふでさき、おさしづに解答はあるのではないか。被害者意識では生きるのはもったいないと思うのです。キリスト者には文学者は多くあり羨ましいですが特異な方ですが芹沢光次良作品には多く教えられることがあります。96歳迄一貫して自己を貫からたこと90代で、神シリーズ8冊もだされました。最近知ったのですが(評伝芹沢~同伴する作家:勝呂奏)天命庵の大徳寺氏を紹介したのは天理教谷郷分教会長で教内でも有名な松本滋氏であった。彼も教団と教理の二重構造に悩まれていたのだろうと推察してから「天理教の信仰と思想ーこれからの人間の生き方」再読する気になりました。教会は廃止できます。ただそれには被害者意識があっては無理です。無関心になって初めて可能かと。愛と憎はコインの裏表と私は思っています。私に信仰あるのかと問われると「はい」と答え出来ない自分でありますが「おふでさき」と「おさしづ」を読みたいとははっきり答えられます。また、私の友人は天理教に関係ない人がほどんですが中山みきのことは話題にしてます。中には興味持ってくれる方もあります。何が言いたいか自分でもわからなくなりました。まとまらなくてごめんなさい。
会長自身が信者を見下し自分に都合の良い人にのみ何かしているようです。元布教所ですが金銭の要求とお供えの金額を乗せるため随分悪どい手で信者数同士を競わせるようたかこさんが頑張っていましたがその内皆気付き始め知らず知らずの内に信者数も減少しています。またお供えを教会親族の会社の立て直しに使うなどありえない行動に出ます。但し上位の教会に苦情を申し立てても困った様子で何の役ににも立ちません。これで宗教法人資格が取れるのは意味不明。会長家族が信者のお供えで学費の高い大学に通い、信者は間抜けにも少ない収入から学費の安い大学にやっと子供を通わせていますが、信者の不満が教会中の彼方此方にあり過ぎてとてもここが陽気暮らしとは思えない程
ドロドロしてますよ。
信者が文字通り激減しているのが分かる。グラフを見ても大変な減りようだ。天理教社会学研究所のブログ主の分析は鋭いし、コメント欄にも多くの有益な意見が書いてある。天理教教会本部はなぜこれらを採用しないのか。いずれにしても、人権意識の低い宗教団体から人が離れていくのは当然なことだ。
天理教の元信者です、所謂用木です。はっきり言って私はさっぱりこの宗教が理解出来ません。確かに霊的なものはあると思います。でもそれが私にとって有難いかと言うと、フザケルナ!と言う事です。散々救いを求めている者に対して欺瞞、裏ぎり何でもあり、終いには脅迫、差別まるで暴力団、いやそれ以上でしょう。でも逆説的かもしれませんが、苦労して良かったと今は思います。私は修行していたんだと思っています。数十年苦しみましたが、やっと自分の真の神に気付いた気がします。戦いでした。本当は宗教から束縛されない、それが真の自由だと思います。因縁だとか何とか言いますが、天理教では、それはもともとヤクザが使う言葉でしょう。冗談じゃない脅されて財産を取られるなんて、私は自殺未遂をしました。人を救うはずの宗教が何故?ハッキリ言って馬鹿馬鹿しいです。本当に苦しんで居る人がいるならゴタゴタ言わず助ければ良いのに何故いちいち信者にならなければいけないのか?差別するな!明らかな営利団体!バーカ。くたばれ!
とにかく子供の時から親、社会がちゃんとした教育をしてみんな仲良く幸せに暮らせたら宗教なんていらない。結局弱味につけこんで、それじゃ暴力団、ペテン、詐欺と変わらない今の宗教はちゃんちゃらおかしい。自分たちが暴利を貪りたいだけ。実に滑稽だ。以上
客観的な統計数字から見ても、教勢が激減していることがあらためてよくわかった。信者がこれだけ減っているのに教会数が変わらないので、一教会あたりの負担はずっしり来ている。本部のお供えもこの三十年間、年々減り続けているが、物価は年々上昇しているので、見かけの統計よりも負担増は深刻である。末端教会は高齢信者の出直しのため、教会長夫妻の老人年金から拠出しているありさまである。後継者はそっぽを向いている。同じ市内の教会も高齢化、後継者難、貧困傾向が加速している。とうとう看板を下ろした教会もある。布教所なら止めやすいし、止めてしまったところも沢山知っている。が、教会となるといろんなところでブレーキが掛けられるのだろう。でも、全教的な教会じまいが現実的になってきた。
天理時報元旦号で飯降伊蔵の特集を載せている。伊蔵が「我が家のことを後回しにして、お屋敷を第一に」ということで、現在の末端教会の教会家族に対しても「我が家のことを後回しにして、ご本部・大教会を第一に」ということを言いたいのだろうか。信仰の喜びを話す大亮さんのインタビューも、本人はノリノリで話しているが、読んでいて索漠とした印象が残った。青年会創立百周年をそんなにもりあげたいのだろか。もういい。大事なのは本部助けより我が家助けであり、教団イベントよりふだんの穏やかな生き方である。天理時報は本部ばかりを喜ばすような編集方針をやめて、末端で苦しんでいる教会家族や高齢信者たちに目配りをしてはどうか。
>天理時報元旦号で飯降伊蔵の特集を載せている。伊蔵が「我が家のことを後回しにして、お屋敷を第一に」ということで、現在の末端教会の教会家族に対しても「我が家のことを後回しにして、ご本部・大教会を第一に」ということを言いたいのだろうか。信仰の喜びを話す大亮さんのインタビューも、本人はノリノリで話しているが、読んでいて・・<
全く同感です。「我が家の事を後回しにして・・」の下りで私も同様の感想を持った。我々末端教会への当てつけかと。ページを開くと能天気なアホ顔の大亮の大写真。目が汚れると思って、早速閉じた。
一体全体、能天気な彼らは衰退の一途を辿る教勢をきちんと認識しているのか。我々末端教会の現実を認識してるのか。
話は変わるが、30年前に信仰を止めると言って当教会を去っていった元信者さんに偶然会った。会長の代も変わり改めて何故信仰をやめたのか聞いてみた。答えはこうだった。
「女子青年として大教会に2年足らず住み込んだ。大教会家族・子供のお世話係が主な仕事だった。住み込んで生活する中で大教会の裏表がすべて見え、納得いかないものを感じた。一列きょうだい、良い教えだと思っていた。しかし、なぜ、大教会家族のお世話係(大教会長夫婦の幼い子供達の世話と大教会家族の食事の世話、提供、汚れた皿の引き取り伺いなど)をさせられたのか。それも少ないお手当で。若い娘盛りで欲しいものもあった。結局お供え含めて大教会に居る間に数百万使ったんだよ。あそこにいたら裏も表も何もかもが見えた。」そしてこうも言った。「天理教って、うす暗いよね。」
先代会長は娘同様に可愛がっていた彼女が去った理由を知らずに亡くなった。やめると言う決心を綴った手紙には理由が書かれていなくて、会長を死ぬまで悩まし心配させた。
30年たって「大教会の腐った現実」が原因だったことを始めて知った。ピラミッドの頂点に立つ階級。人を救い上げる役目の人が、ほこりを被せてまじめで一途な彼女の心を傷つけた。
金集め、人集めにご執心の現教団。大教会も同様だ。情熱を持った信仰初代が夢を持って大教会に住み込んで、傷ついて去る。
天理教教団よ、大教会よ、何やってんだ。何がしたいんだ。人が減る元凶は本部や大教会の異常な姿ではないのか。何が一列きょうだいだ。神を見ているのか、それとも自分の首と教団維持しか見えてないのか?
だから人が去るんだ。
おふでさきに「高山にいる人も谷底にいる人も魂は同じ」とありますが、そんなものはあくまで建前であって、高山にいる人はより高く持ち上げられ、谷底にいる人はもっと低みに落とされるのです。
少なくとも今の天理教は開祖の教えとは正反対です。それは親神様のみこころとも正反対ということです。
匿名教会さん(2017年12月30日 10:08 PM)の投稿
>「女子青年として大教会に2年足らず住み込んだ。大教会家族・子供のお世話係が主な仕事だった。住み込んで生活する中で大教会の裏表がすべて見え、納得いかないものを感じた。一列きょうだい、良い教えだと思っていた。しかし、なぜ、大教会家族のお世話係(大教会長夫婦の幼い子供達の世話と大教会家族の食事の世話、提供、汚れた皿の引き取り伺いなど)をさせられたのか。それも少ないお手当で。若い娘盛りで欲しいものもあった。結局お供え含めて大教会に居る間に数百万使ったんだよ。あそこにいたら裏も表も何もかもが見えた。」そしてこうも言った。「天理教って、うす暗いよね。」<
これを見た大教会長一家は、多分こう言うだろう。こうして陰徳を積むんだ、と。便利な言葉だねぇ。
教友の皆さまあけましておめでとうございます。
昨年一年も終わり新たな一年が始まりました。
当方、正直言って明るい要素が全く無い末端の教会のものですが、日々生きていくだけです。
ところで、年末に届いていて放ったらかしで未開封だった天理時報を読んでみました。
一面にはド定番の無表情なお二人の姿・・・新年早々、テンションが下がります。(微笑む、微笑みという言葉は私の辞書には無いって感じですね)
そうして紙面をめくるとダイスケ様ーって・・・やっぱり様づけかよ?ってダイスケ氏でよくね・・・(感覚が完全に麻痺してるなこの組織)
たかが25の社会経験も無い若造に、様ーって、中山家はやっぱり違うんだね。まあ、様づけされるぐらいなんだからたいしたもんなんだろう・・・
お手並み拝見と参りましょうか・・・
しかし、顔のドアップ写真が掲載されているが正直見苦しい顔だ。(言ってしまった・・・)
記事を読んでどんなことをしゃべっているのか読もうと思ったが顔が邪魔して読めなかった。残念だった。もう少し顔を小さく控えめにしてくれたら記事が読めたかも・・・
それでは皆さま本年もどうぞよろしく・・・
苦しい中ではあるとは思われますがなんとか頑張って行きましょう。
匿名1様
スレ違いですが、色々、探した結果、たまたま、このスレのコメント欄にコメント欄を見つけましたので、敢えて投稿いたします。あなたの投稿は尋常では無い異常極まりない長さです。本当に尋常や常識では考えられません。まして、特定の固有名詞まで出しておらること自体、違法であり尋常ではありません。私はあなたが常識を持った合法的な人間とは考えておりません。誰があなたを嗾けて、異常に長い投稿をするように嗾けたのか知りませんが、私には、この掲示板を抹消しようとする意図としか考えられません。「言論の自由」は日本国憲法で保証されています。他者の言論の自由を卑劣な手段で封じ込めようとする卑劣な手段には、私は許すことができません。本当に卑劣極まりない手段であり違法です。あなたのご見解をお聞かせください。
記事以外へのコメント欄は、閉鎖されてしまったのでしょうか?それとも新設のための準備中なのでしょうか。コメントも3500件を超えて、かなり動きが重くはなってましたが、旧コメント欄は6000件を超えるまであったので。
>>記事以外へのコメント欄は、閉鎖されてしまったのでしょうか?それとも新設のための準備中なのでしょうか。コメントも3500件を超えて、かなり動きが重くはなってましたが、旧コメント欄は6000件を超えるまであったので。<<
3ヶ月程前まで、使っていたパソコンが経年劣化(14年程使用)でハードディスクが破損した為、やむなく、最新鋭のパソコン(CPUやメモリ-、通信速度は申し分なし)のパソコンに買い換えましたが、旧コメントを開くにはかなり時間を要します。6000件もあれば、ハード的にも通信速度的にも相当の負荷がかかり。開くのにも時間がかかるはずですが、私の判断する限り、匿名1氏の投稿が余りにも異常に長く、特に、人物を特定する固有名詞が余りにも多く多用されており、法的にも抵触し、尋常では無いと判断した為、再度、投稿いたしました。投稿するならするで、最低限のルールは守って欲しいと思います。他の投稿者が大変、迷惑することに気づいていただきたい。また、法律にも抵触することに気づいてください。
とりあえず新情報を書かせて頂きます。
他宗教でもこのコロナ禍の中では人が集まることは、もはや不可能と、
早々に撤退策を実施しています。(賢い!)
とある地方都市の世界救世教では教団施設を売り払いさったそうです。
親類の者は長年にわたり信者でしたが、何の具体的連絡はないまま、
あたかも空中分解したようで、何が何だかわからないと言います。
もともと親類の者はつかず離れずの信仰態度でした。
世界救世教自体もサラッとしていてひのきしんやお供えの要請は
無かったし、毎月定額のお供えという行為もしていなかったそうです。
少子高齢化の時代の波に加え、新型コロナという要因が、人類の歴史に
加わったため、宗教を含む各種団体の構成員数は、お互いのパイの分捕り
合戦でもしない限り、自然減少していくのは当然です。
欲深い人が多いと、目が曇るのでしょう。
世界救世教の詳細な内情を知る者ではありませんが、少なくとも年季の入った
信者からの話は、欲を離れた人々の結果を伝えてくれました。
天理教はどうなるのでしょう。
高齢両親を見送ったのち、教団から離れ、自分の教会の土地と建物を
自教会名義にして家族を守ることをお勧めします。
本部の好き勝手で整理されるのは理不尽すぎます。
高齢信者さんをはじめ、自教会の信者さんには内情を言葉を尽くして説明すれば
皆さん理解してくれると思います。これは一信者の立場の私からの提案です。
匿名1様
何かしらブログにまとめて、そのリンクをここに貼り付けるだけで良かったのではないでしょうか。
文章自体読みやすく思いも伝わりましたが、やはりここには貼らずブログで表題つけて読みやすくした方がいいのではと思います。
天理教って、明治時代から搾取の天理教ということで問題視されていますが、いまだに無くならないのは何故でしょうか。
また、昔から搾取で有名だったのに昭和生まれの信仰初代の人が騙されて入信され搾取されるのもいかがかなと。
悪い奴ほどよく眠る。
天理教が末端教会整理で、土地建物から出て行けとか それを売却して運営資金に充てるのは別にいいと思いますよ。
私は天理教信者から、被害を受けております。
彼らが苦しもうが関係ありません。
しかし、何故天理教信者って揃いも揃ってここまで常識も思いやりもなく、極端な自己中心的性格なんでしょうか。
その癖非常識を常識のように押し付けてくる。
他の新興宗教でも他人に対しての思いやりとか愛というファクターは重要ですよ。
それが全くない。
お供えお手振りみかぐらうたひのきしんという、全く自己の教養と心の修養とは関係ない事ばかりしてるのからでしょうか?
自分たちは神様がついてるから、なんでもしても許される護られると思いでしょうか?
たしかにいちれつ兄弟ですね。悪い意味で、 天理教の方は揃いも揃ってこのような性格なのか甚だ疑問です。
>>特に、人物を特定する固有名詞が余りにも多く多用されており、法的にも抵触し<<
まさかとは思いますが、所謂「沈まぬ太陽」に於ける「細井ノート」のような、死を覚悟の上での告発のつもりではないでしょうね。途中でとめられぬように、一気に投稿したとか。
お供えお手振りみかぐらうたひのきしんという、全く自己の教養と心の修養とは関係ない事ばかり<<
祈りの行為にお手振り21回、数を数えるのに気を取られますから祈りに集中できず私にとって全く祈りの時間になりません。キリスト教の祈り方は詳しく知りませんが、こうべを垂れて無心に気がすむまで祈るのですよね。自分の気がすむまで沈黙の中で、、。
神に繋がりたいのに、21回のお手振りは苦痛ですし、意味を感じません。一斉に集団でお勤めする時など本当に意味不明です。祈る内容も悩みも皆それぞれ違う筈なのに、せーので一斉に柏手を打ち周りのスピードに合わせて手を振り、最後まで人のペースに合わせる祈りって、私にとって時間の無駄なんです。
お勤め嫌いの教会家族は大勢います。形や祈りの体裁より、心の普請、心の在り方の鍛錬だけで十分だと思うのです。大教会家族もお勤めが嫌いと見えて、誰一人出てきませんし。
太鼓や鐘でちんチキ、ドンドン。地域の迷惑には明らかになっています。お勤めを廃止し、金光教、黒住教、の様にただこうべを垂れて祈る方式の方がハードルが低く、本質に迫れる気がします。天理教はお勤めお勤めと言わず、精神面の鍛錬にこそもっと光を当てるべきです。天理教的には全くずれた見解ですが私はお勤めが大嫌いです。神さまは大好きなんですが。
実際、実験的に何年もおつとめも問題視されているお供えもしませんが、大変幸せに暮らしております。「理を振る」とか言いますが、ああ言う喧しい時間は自分を見つめる事にはならず無駄な時間と考えております。
手踊りだの、21回数える祈りなどなど、本当に必要な事なのでしょうか?
伝統的な神社(伊勢神宮、八幡宮)と比べると不思議な事ばかりです。
なぜここまでお金かかるんですか?
伝統的な神社なら毎月お供えする必要ないですよ。
あんなに大きな建物を建てる必要ありますか?
においがけで信者獲得する必要ありますか? 伝統的な神社はそういう事一切してないです。
本当に素晴らしい教え 神様がいるなら、黙ってでも人は集まってきます。
中山家を神社の宮司と仮定します。盛大な結婚パーティーやパレード そして崇められるように立ち振る舞う宮司が伝統的な神社にいるでしょうか。神様に使える身でしたら、もっと謙虚なはずです。
病気を治すからお布施云々 神社の宮司は一切そのような事はしません。
大教会同士で争う必要あるのでしょうか?
教団や教会維持の為の活動がいつのまにかメインになり、宗教本来の神様を知る 心の修養に努める、心と生活を豊かにしてというのはどこいったのでしょうか。
おぢばを見ても、神々しさは全く感じられないどころか、暗さ 禍々しさで溢れています。
全くその通り、おっしゃる通りです。そもそも中山一党の発想が金儲けから始まっていますから、その昔から今に至るまで天理屋とか中山商店とか中山教とか揶揄され、非難されているんです。
本質が騙しの手口で始まっています。裸のバカ殿が親子して派手な結婚パレードを計画して自己を顕示し、我ら一統こそはお前達に崇められる人間である、と顕示した。
世間はこの裸の夫婦コメディアンを笑っています。親子して頭の弱さはもう既に露呈し始めていますね。実父のほうは人望も有りません。謙虚さのかけらも有りません。真柱とて同じこと。困難な時代に突入したと言うのに何の発信もしないと言うのは無責任。立場を放棄したなら早く降りたら良い。給料泥棒だ。トップとしての責任逃れを平気でしていてよくお授けなど渡せるものです。心ここにあらずの笑わない真柱。陽気暮らしが聞いて呆れる天理屋だ。