☆ 教会本部参拝者受け入れ設備の充実について
① 礼拝場周辺のトイレの数が総体的に少なく感じます。特に大祭月には、女性用トイレが長蛇の列に
なっています。 ◎ 女性用トイレは、もっともっと増設が必要であります。
② 車社会でもあり、おぢばがえりの駐車場対策・整備に、もっと力を入れてほしいと思います。
一般参拝者に対する思いやりがいまひとつ、もっときれいな舗装がある駐車場をつくってほしいと
思います。
③ 祭典中、礼拝場に入りきれない参拝者に、もっと配慮をお願いいたします。
雨天と炎天下対策として、例えば、北礼拝場と教祖殿との間の中庭の上を全体的に屋根で覆うことを
(中庭の景観を生かしたデザインで)考えられませんでしょうか?
欲深い宗教団体です。
信者の方がよっぽど欲が無い。
閑散とした商店街を見てると、いくら子供おじばがえりとは言え、衰退の一途も頷けます。昔は人が溢れんばかりに行き交っていたのに。
大きな館は力の誇示としか映りません。
あの大きな館群に係る費用だけでも莫大な金額になると思います。
これらの費用をこれから先も誰が負担するのか?各所に点在する教会であり、信者です。その教会ではどうか?理立てと称して高額な金額を要求する。。。。
京都の歴史ある有名なお寺です。最近CMで脚光を浴び、訪れる人が後を絶たないです。それまでは京都の中でも知ってる人が立ち寄る位の静かな処でした。確か3代前の住職が庭園に枝垂桜の木をしかも一本だけ植えたそうです。時が経ち、平成の時代になってその枝垂桜の木は見事に成長し、今は枝垂桜で有名なお寺になりました。春には参拝客や観光客が溢れんばかりに訪れ、それはそれは賑やかです。本来のお寺としての意義はもう少し違う処に有る様ですが、枝垂桜の木を植えた時に今日の姿を誰が想像したでしょう。館建設の為に莫大な費用をかけ、こんなにも信者がいるんだぞぉ〜と溢れんばかりの光景を見せつけ。。。。。
結局東西礼拝場は完成したものの、脱会者や、教団を去る者は後を絶たず、結局何の為のふしんだったのか?首をひねるばかりです。どころか、詐欺紛いや窃盗も厭わない。抗議をしても神が見ている気を鎮めとか人がめどうか神が目どうかと天理教用語で交わされ、本当に疲れる。
自分の将来や団体の将来を考えた時に脱会を考えるのは誰しも同じで、この教団に対して未来を見い出せ無くなってしまいました。
あの時代に神殿や詰所を大きく拡張せずとも、欲を出さずあるが範囲内で納め、沢山の種類の多くの桜の木を沢山植え、手を掛けて世話をしていたら、平成の今の時代には春には見事に桜が咲き誇り、いつ行ってもあそこは桜が咲いているとサクラの里として有名な名所になっていたかもしれない。
どんなに大きな神殿を建設しても歴史の前には勝てない事を良く勉強しました。
サクラの里になるにももう遅いでしょうね。
信仰している者です。興味深く拝見させて頂きました。
なかなか核心をついておられ、頷きました。
本当に色々な事があると思います。しかし、教祖は、親である神様の思いは、ただただ子供(世界中の人間)の幸せを願い、悩み、苦しむ事がなぜ起こるのか、人としての生き方はどうあるべきか、をーから十までお教え下さいました。
その偉大な教えに泥を塗っている状況を、恥ずかしく、本当に申し訳なく思います。
私も組織に何じゃこりゃと反発した時期もありましたが、祖父や祖母、父や母の姿を見て、また、まだ若輩ですが自分の人生を振り返ってみても、あぁ、この道は、教祖のおっしゃったことは間違いないんだなぁと思うに至りました。 偉そうなこと言ってすみません
いつも時間をみつけては、カインさんのブログを拝読してます。
明治30年に曾祖母が入信し、小さな末端教会の初代会長になり、その子、孫、ひ孫と一族が天理教を信仰しております。とても怖ろしいことなんですが、その中で私だけ異端児で天理教を信仰しておりません。というより私は、その長きに
わたる末端教会の土地を父の入院治療費にあてるため売却しました。
個人名義の土地であり、斜陽宗教でもあり、上級教会へ吸収合併されたほうが楽だと思っておりましたが、なかなか自分が思っていたようには簡単には売らさせてもらえませんでした。
脅しや強迫は24時間夜中でもあり、あげくの果てには「教会は売るな、神様がお金を用意してくれる」と、世間一般の話し合いができないなか、粘り強く半年以上かかって、やっと売れました。
天理教人の脅しや強迫に私自身が怯えるようになり、鬱とパニックとそして、子供のころから天理教の教えの中で育った私自身がいつも何かにすがっていたい気持ちになっていました。ただ天理教の信仰も麻薬と同じで、ちょうど麻薬がきれて禁断症状になっているのだと思うようにしました。
ただ、私の中でどうしてもわからないのです。何代にもわたって「陽気ぐらし」とは裏腹にとても貧しい、いつまでも教団の組織に搾取され続けていることに、なぜ疑問をもたないのか。どうして「末代の理」という言葉を信じるのか。一族の中で私ぐらいのものでした。反抗していたのは。天理教に対して心の整理をしたくても話す相手もおらず、苦しみをわかってくれる人もおらず孤独でした。
漸く、このブログを読んで冷静に天理教を信仰したがための悲劇、悲しみが、どのようにして人間を奴隷のように扱えるのか、それも世代を超えて脈々と繋がっていくことを少しづつでも理解したいと思っています。
カインさん、これからも書き続けてください。楽しみにしています。
徳子さんの例は、多くの末端教会がかかえる問題を端的に示しているように思います。
陽気ぐらしを標榜する天理教なのに、鬱やパニックになるまで信者(しかも教会関係者)を追い詰めるのは、本当に悲しいことです。
なぜそんなに教会名称にこだわらなければならないのでしょうか。
家族の入院費をねん出することのほうが、はるかに親孝行ではないでしょうか。
末端教会の多くは、じっさい出すばかりで、ボロボロの状態です。
神様がお金を用意してくれるなどと、上級教会は安易に言うべきではありません。
こんなに末端教会の関係者が苦しみ、悲しみ、つらい思いをしているのに、それを告白でき、訴える場が天理教の中にはないことが本当に残念です。
天理教校や天理大学があって、天理教学や宗教学が研究されているはずなのに、まったく無力、なんの役にも立っていません!
たぶん教外の方が運営されている天理教社会学研究所だけが期待できる場なんて悲しすぎます。
徳子さん、がんばってください。蔭ながら応援しています。
教会とは看板だけで、6畳2間の小さな古家を改造して、親神様、教祖様、御霊さまの小さな社を祀り、鳴り物は、くっつけて添えてる状態です。信者は身内がほとんどでそれでも10人いるかいないかの中で、90年祭当時で毎月25万円の上納金ノルマがありました。祖父が教会の倍加運動で信者も集まらないのに、祖母を初代会長にしたので、部下教会の5万円も足していたのだと思います。
父は統合失調症、母は金!金!金!明けても暮れても金!金!金!今も忘れられないのは、90年祭に本部へお参りに行き、神殿の階段で母が「お道のご用を命がけでしていかなければ、必ずやふるいにかけられ熱心でないとふるいから落とされてしまう」と言っていた母があっけなくこの世を去りました。46歳でした。私はまだ高校を卒業したばかりで、母の死が深い深い悲しみでした。そのときに見た夕焼けが赤々といままで見たことのない綺麗な夕焼けで、日常の生活は何ひとつ変わってないのにただ私にはもう母がいない淋しい感傷に浸れるのも葬儀が済むまでで、葬儀が終わったら借金取りが次から次へと押し寄せてきました。母が作った借金だったので私は何も知らないけれど、借金を返すのに日々追われていました。今だったら自己破産もできたでしょうが、誰も教えてくれない。国民年金から葬祭費も出ると言うことも。ただ因縁が悪い!罰が当たった!このふたつだけでした。記憶に残っているのは。借金も返済が済み、私はこの教団の中枢をみたいと思い修養科へ行ってみたけれど神殿の拭き掃除と手踊りの練習に明け暮れ、これが修業の場だろうか?社会で働いている方がよっぽど修業だし、なんと楽なところか中枢の収穫はなし。ただ異常に賽銭箱が多くそして10円をいれてちゃりーんと音が聞こえるまでの長いことか。賽銭箱の中を目を凝らした見たらとても深いんです。
週刊文春に地下のベルトコンベアーでお金が一か所に集まるようにしていた。納得。
講習は真夏に行きました。狭い部屋で白い足袋のアイロン掛けを汗かきながら朝から夕方までしていたことしか記憶にないです。ある本部員が神殿が大きくなりすぎてひと手不足だから講習という人材を集めて無休で奉仕してもらっている。納得
100年からの信者であるのに、教団が何をしているのかどす黒いベールに囲まれて結局わかりませんでした。
はじめまして。投稿は一度もありませんが、ここのブログを前から見ていた者です。気がついたらブログが再開されており興味深く拝見させて頂きました。
今年のこどもおぢばがえりに行かれたのですね。お疲れさまでした。ブログの最後に”「においがけ」という布教活動は天理教でも大切な政策の一つだが、つくづく天理教は情報発信や広報活動が苦手であると感じた。”とございますが、以前の天理時報社に関するカイン様ブログにあるように天理教は個人の発言を原則規制する姿勢にあります。私個人もこのブログに感化されて先日まで天理教のブログを更新していましたが、所属する天理教分教会から反対されやむなく廃止にしました。
今年4月~6月に天理教よふぼくの集い、という講習がございまして、その中のビデオで里親問題に取り組まれる村田和子氏も、天理教が学校でも家族でもない第三の心が安まる場所として、もっと浸透して欲しい、ということを申しておりました。親のいない子供に対し、里親になってくれる家庭の割合は、天理教の信者が日本全体の中で7割弱を占めます。里親政策を推進する天理教はこの機会をもっと進めていくべきだと思います。
さて、カイン様ブログに対するコメントを見ると天理教組織に対する批判というか、憎悪というか…、そういったコメントが数多く見られます。教団が何をしているのか?そもそも教団がしていること(お金と人集め)が正しいのかどうかは、どうしても気にはなりますが、末端信者の個々人が考えても仕方のないことだと思っています。カイン様ブログにいう「いわゆる思考停止」ではなく、世襲制天理教組織という制度の中で、末端から(私も初代となるのですが)てっぺんに物申すその無意味さからです。
そもそも天理教の歴史は「教え」とそれを守るための「組織」の二項対立で成立していると思います。「教え」は教祖が、「組織」は秀司様や歴代真柱様が守ってきました。この二つは常に対立するのですが、どちらか一方が欠けると、もう片方も生き残れないという関係があると思っています。数多くの教えの中で天理教組織を批判する人は、そもそもの「教え」の観点から、天理教組織を批判しますが、例えば毎年天理市への10億のお供え(いるのかどうかは知りませんがw)であったり、その他、各詰所の運営費(一詰所で約年間一億)であったり、一天理教株式会社としての各役員への年収問題であったりを考えると、天理教組織としてもおいそれと今の体制を変えるのは難しいのだと思います。(ですし、何もしなくても年収数百万が入ってくるという今の暮らしを変えたいと思う人なんていないと思います)
では、やはり天の理に基づくこの世襲制は誰も変えられなくて、末端信者はいつまでもいつまでも毎年数十万から数百万というお供えを、上級教会に上納しなければならないのか?というとそうではないと考えています。先日、発売されたとある週刊誌の特集で、「献金型のビジネスモデルを持つ天理教は、教団の拡大期は収入も大きいが、停滞の局面に入ると収入が一気に減ってしまう」という指摘がありました。天理教の歳入は1979年の約243億から、2011年には約134億となり、30余年で100億以上も減少しました。ちなみに1979年を調べると教祖100年祭にあたり、教祖100歳だから100万お供えしよう!と何とも愚かなスローガンのもと、天理教教会長による銀行強盗や、信者へのお供えの強要があり、さらにそれでもお供えができなかったから、教祖百年祭式典中に、教会長が詰所から飛び降り自殺を図るという事件まで起きた、天理教の中でも、とても酷い時期です。
これは上記の真柱様体制による世襲制のマネジメントが、少子化の時代となった今、通用しないということを言っているだけに過ぎません。さらに現在、高齢化の中で多くの現天理教会長が尽力していますが、20年後、30年後には、その影も薄れ、現在の天理教信者(約121万)が二分の一から、三分の一程度になると考えています。道一条という言葉は死語となり、天理教教会長は、所得税免除という条件の代わりに、働きながらそのお金のほとんどを上級にお供えする時代が来ると思います。
なんとも言えないしまり方ですが、いい加減長いのでいったんこのへんで…
テーマ:「立派なやかたで信者は激減」。
<やかた普請はカネ集め>:
6月に出直された三代真柱が52歳であった30年前「四方正面」の立派な神殿建築は完成し、現在おやさとやかたも26棟出来た。
おぢばには天理教教団始まって以来最大の教団建築が林立している。
その一方、信者の数は教祖80年祭をピークにこの50年間、年々減少を続け戦後最低の水準となり、今も減少が続いている。
布教や「心のふしん」は後まわしで、やかた普請とカネ集めに精力の大部分を注いだ結果の衰退50年である。
形の普請を行えば、心の普請、布教もそれについて来ると考えた歴代真柱を筆頭とする教団本部の甘い思惑は見事に外れた。
巨大な建築には莫大なカネがかかる。
そのカネは全て信者のお供えである。
教会本部が次々に「形の普請」を行うので、大教会や有力分教会もそれにならい立派な「形の普請」を次々に行った。
その結果、末端教会や一般信者は中山ミキの教えには無い、あまりのカネ集めに教団組織への不信をつのらせ、多くの信者が離れた。
それが50年にわたる衰退の歴史である。
とにかく天理教はカネがかかりすぎる。
昭和20年終戦の当時、天理教は公称220万人の信者を抱える日本最大の新興宗教教団であった。
昭和41年(1966年)教祖80年祭参拝者200万人。
数字だけ見ると戦後天理教は教祖80年祭まで教勢が伸びて発展している様に見える、実際には終戦直後から一貫して教勢の衰退は始まっており、終戦時壊滅状態であった創価学会に信者数において、昭和41年教祖80年祭の時点で完全に追い抜かれてしまったのが実態である。
<天理教が創価学会に追い抜かれた理由>:
創価学会:
昭和18年7月、牧口常三郎初代会長、戸田城聖理事長ら幹部21人、治安維持法、不敬罪で逮捕、投獄。
昭和19年11月、牧口会長、獄死(73歳)。
昭和20年7月、戸田理事長出獄時、創価教育学会の信者は離散、組織壊滅。
昭和20年(1945年)8月15日、組織壊滅状態から出発。
創価学会は戦後再興された時から会費は一切徴収せず、賽銭箱が置いてない金のかからない宗教が第一のうたい文句であった。
折伏布教する相手は地方から大都会へでてきた貧困層が中心で、実際彼らは宗教に献金するようなカネの余裕は無かった。
その反対に、天理教は巨大な教団建築を立てるため信者から多額のお供え金を集める方法を取った。
戦後、敗戦国家の再建にむけて日本中から大都会、大工業地帯へ人口の大移動が起こった。
戦前、国策に迎合し中山ミキの教理を捻じ曲げた天理教は国家の弾圧を受けることなく組織と信者はそのまま残った。
戦後、高度経済成長前の日本はまだまだ貧しく、地方から大都会へ出て来た膨大な数の貧困層は、本来天理教が取り込むべき人々であった。
この戦後の日本で起こった地方から大都会、大工業地帯へ人口の大移動は、膨大な数の人々を信者として獲得できる大きなチャンスであったが、おやさとやかた普請とカネ集めに精力を集中していた天理教はこのチャンスを生かす事が出来なかった。
また信者は移住した先の近くの教会に所属するのが自然で有るが、戦前からの教会系統が邪魔をし、時代の変化に適応できず、組織制度の改革も全く行われず大きなチャンスを逃した。
天理教は貴族生活の中で育った二代真柱の誇大妄想的発想で、あたかも、おやさとやかたや建物が出来上がることが本部の正しさ、教理の正しさを証明するかの如くの方針を取り、おやさとやかた建設に人モノカネの大部分を傾注し、巨大建築普請は実現したが、布教と人材の養成を行うための時代の変化に適応した組織変革は殆ど行われず、旧態依然、時代遅れの組織制度をそのまま残した。
その結果、建物が次々に出来上がるにつれ信者は減り出し、戦後ゼロから出発した創価学会に15年の短期間でいとも簡単に追い抜かれてしまい、70年にわたる衰退のウズの中に落ち込んでしまった。
戦後の20年間は教理の優劣は別にして、創価学会のやり方が成功し、天理教は失敗したのである。
組織制度は、教理のように変えてはならないものではなく、時代の変化に応じて変えるべきものである。
戦前の天皇現人神の時代から、戦後天皇の人間宣言、民主主義の時代へと天地がさかさまになるほどの変化が起こったにもかかわらず、天理教の組織制度が戦前のままとは、一体どういう事か。
巨大普請とカネ集めの失敗と、組織制度改革をおこなわなかった失敗を歴代真柱を始めとする天理教本部は一切認めず認識もせず、方向の転換も心の切り替えも全く行わずに今日まで来ている。
失敗を重ねて来たにもかかわらず教団としての方向の転換は今後も行われる可能性は全くない。
一つを変える事は、全てを変える道へとつながる。
大きな変化が有れば、上層部ほど失ものが大きいので、自己保身のため恐ろしくてそんな事は出来ないのであろう。
方向転換を行う意思が無い以上変化は起こりえず、変化が無ければ時代遅れのまま衰退は止まらず、とことん行きつくところまで行く。
具体的には真柱、本部員、大教会長とその家族が明日食べるコメが無くなるところまでいかざるを得ない。
戦後、昭和52年頃まで会費や献金を取らなかった創価学会の収入源は出版物(聖教新聞、書籍)であった。
「財務」称するカネ集め力を入れ始めるのは信者が1、000万人を超え教団が巨大化した昭和52年以降のことである。
<創価学会教勢>:
昭和20年8月終戦時、信者離散、組織壊滅。
昭和24年(1949年)300世帯(500人)。
昭和26年(1951年)5、700世帯(9、500人)。
昭和27年(1952年)2万2千世帯(3万7千人)。
昭和29年(1954年)16万4千世帯(27万人)。
昭和30年(1955年)30万世帯(50万人)。
昭和32年(1957年)75万世帯(125万人)。
昭和33年(1958年)130万世帯(216万人)。
昭和35年(1960年)172万世帯(286万人)。
昭和37年(1962年)300万世帯(500万人)。
昭和41年(1966年)公称600万世帯(1、000万人)。
昭和44年(1969年)公称700万世帯(1、160万人)。
<創価学会巨大化、組織とカネ、衰退開始>:
創価学会は昭和52年(1977年)以降「財務」(献金)に力を入れ始め、巨大な建築物を建てることに熱中し始めると信者数が減り出し、衰退を始め、天理教と同じ衰退の道をたどり始める。
平成元年(1989年)実動300万世帯(500万人)。
平成20年(2008年)実動150万世帯(250万人)。
天理教、巨大建築普請が進み信者が減る衰退データー:
<おさづけの理拝戴人数(年間)>:
昭和25年(1950年)天理ブール竣工。
昭和30年(1955年)おやさとやかた別席場竣工。
昭和41年(1966年)教祖80年祭、おさずけの理拝戴人数(年間)
37、681人。
昭和41年(1966年)4月、いこいの家病院竣工。
昭和51年(1976年)教祖90年祭の年、約34、000人。
昭和59年(1984年)10月東西礼拝場普請竣工、ぢばを囲む「四方正面」完成(30年前、三代真柱52歳)。
この年、昭和59年(1984年)26、237人。
昭和61年(1986年)教祖100年祭の年、約23、000人。
平成8年(1996年)110年祭の年、約14、000人。
平成10年(1998年)四代真柱就任の年、約10、600人。
平成18年(2006年)120年祭の年、9、991人。
昨年平成25年(2013年)、5、541人。
48年間で年間おさずけの理拝戴人数は32、140人減少(85.3%減少)。
巨大なやかたの建設を行い、カネ集めに熱心になればなるほど信者が減る。
<教会系統は利権>:
50年前の東京オリンピック開催の頃、高度経済成長は地方から大都会、大工業地帯への更なる人口の大移動を促し、天理教の信者が所属教会の近くにいなくなってしまった。
教会系統のため一般信者にとっては、信仰初代が入信時に所属した教会に100年後の子孫も所属しなければならず、新幹線や飛行機に乗らないと所属教会の月次祭にも参拝できないという、全くおかしな制度である。
教会長も遠くに離れた信者の丹精が出来ず、いつしか途切れてしまい、教会と信者が共倒れになる誤った制度である。
おまけに戦後40年間、布教活動に大きな支障がでる普請とカネ集めに全力を挙げ、また天理教を職業にする人たち(真柱、本部員、大教会、分教会)が生活するためのカネをお供えとして信者から集めた。
戦後の混乱期から高度経済成長への期間、日本全国で信仰を求める人の数は最高潮に達していたが、やかた建築のため莫大なカネを必要とした天理教はそれら信仰を求める人々、特に地方から大都会に移住した膨大な数の人々を新たな信者として獲得できず、他の新興宗教教団がそれらの人々を信者として次々に獲得し急激に発展していった。
教会系統は教会の近くに住む信者には通用しても、遠方の大都会に移住した信者には通用せず、天理教は多くの既存信者まで失った。
教会系統に関係なく、住んでいる地域の近くの教会に所属変更可能な制度に改めるべきである。
それが出来ないのは、お供え金を出す信者を教団や教会の所有物と考えるからで、利権である。
<世襲制度は諸悪の根源>:
天理教を職業とする組織の中で、真柱の息子が真柱、本部員の息子が本部員、大教会長の息子が大教会長、上級教会の息子が上級教会長、末端教会の息子はどこまで行っても末端教会長、生まれたその日に50年後の本人の立場が決まっている教団組織では、末端に行けばいくほどやる気を持てないのは当然である。
やる気とやる能力を持った人物の登用への道を閉ざし、やる気とやる能力が無くても親の後釜にすわる世襲制度は、諸悪の根源である。
末端教会の後継者が教会及び教団組織を飛び出し、世間で一般の職業を持ち、世間の人々の中で働きながら中山ミキの教えを実践する道を選ぶのは全く正しい選択である。
教団の上層部にあって、口先だけで、やる気もやる勇気も無く、不平不満を持ち本音と建て前を使い分けながら、自分の生活が第一で教団組織にとどまる人間は一般信者の敵である。
衰退を示す追加データー。
<天理教信者数>:
10年前、120年祭「地方講習会」参加者: 34万3千人。
本年、130年祭「ようぼくの集い」参加者: 27万1千人。
10年間で、7万2千人減少(20.9%減少)。
天理教(実動)信者数は、ようぼくの集い参加者人数である27万人程度。
<天理時報手配り>:
7前半前、2007年2月25日決起大会時、発行部数15万5千部(手配率6.9%)。
2014年9月25日、全国社友大会時、13万部(手配率48.3%)。
7年半で、手配り率は48.3%になったが、部数は2万5千部減少(16.1%減少)。
7前半前、2007年2月25日決起大会時、〇降〇彦表統領(当時)は「手配率を50%まで高めていけばお道全体はかなり活性化していく」と信者にハッパをかけていた。
今、手配率は50%に迫ったが部数は2万5千部減少し、7年の間におさずけの理拝戴者数(年間)は、7055人(2007年)から5541人(2013年)へと1514人減少(21.4%減少)。
〇降〇彦表統領は発言の責任を取らず天理大学学長へ横滑り、そんな事で良いのか!
組織制度が変わらない中、ようぼくネットワークなど欺瞞であり、時報の手配りなど無意味である。
<最近のデーター>:
年祭活動2年目の本年、平成26年1月―10月(10か月間)おさずけの理拝戴人数は前年同期間比、349名減少(7.5%減少)。
130年祭に向け信者の数は減少を続ける。
結論:
天理教を職業とする人たちは、教えより自分の生活が第一、メシを食っていける間は今のやり方を変える気は全くない。
現在のおかしな教団組織制度の中に、身上事情で苦しむ未信者を導き入れるべきではない。
<一般信者の道>:
天理教を職業としない一般信者は、本部や教会、他人に頼らず中山ミキの教えを自力で学び、日々の生活の中で周囲の人々に感謝しながら信仰活動を実践しよう。
失敗しても良いではないか、身上事情が起こればその都度心のそうじを行い心を切り替え前進するのだ。
ひのきしんの精神で日々働き、世の中に通用する知識や技術を身に着け職業を修行として世の中に貢献出来るよう努力を続けよう。
以上
テーマ: 「立派なやかたで信者は激減(内容一部補足字句修正、再投稿)」
内容を一部補足し字句を修正のうえ再投稿します。
昨日(2014.11.22.)付の投稿ではなく本日の投稿を私の意見とみなして下さい。
<やかた普請はカネ集め>:
6月に出直された三代真柱が52歳であった30年前「四方正面」の立派な神殿建築は完成し、現在おやさとやかたも26棟出来た。
おぢばには天理教教団始まって以来最大の教団建築が林立している。
その一方、信者の数は教祖80年祭をピークにこの50年間、年々減少を続け戦後最低の水準となり、今も減少が続いている。
布教や「心のふしん」は後まわしで、やかた普請とカネ集めに精力の大部分を注いだ結果の衰退50年である。
形の普請を行えば、心の普請、布教もそれについて来ると考えた歴代真柱を筆頭とする教団本部の甘い思惑は見事に外れた。
巨大な建築には莫大なカネがかかる。
そのカネは全て信者のお供えである。
教会本部が次々に「形の普請」を行うので、大教会や有力分教会もそれにならい立派な「形の普請」を次々に行った。
その結果、末端教会や一般信者は中山ミキの教えには無い、あまりのカネ集めに教団組織への不信をつのらせ、多くの信者が離れて行った。
それが50年にわたる天理教衰退の歴史である。
とにかく天理教はカネがかかりすぎる。
昭和20年終戦の当時、天理教は公称220万人の信者を抱える日本最大の新興宗教教団であった。
昭和41年(1966年)教祖80年祭参拝者200万人。
数字だけ見ると戦後天理教は教祖80年祭まで教勢が伸びて発展している様に見えるが、実際には終戦直後から一貫して教勢の衰退は始まっており、終戦時壊滅状態であった創価学会に信者数において、昭和41年教祖80年祭の時点で完全に追い抜かれてしまったのが実態である。
<天理教が創価学会に追い抜かれた理由>:
創価学会:
昭和18年7月、牧口常三郎初代会長、戸田城聖理事長ら幹部21人、治安維持法、不敬罪で逮捕、投獄。
昭和19年11月、牧口会長、獄死(73歳)。
昭和20年7月、戸田理事長出獄時、創価教育学会の信者は離散、組織壊滅。
昭和20年(1945年)8月15日、組織壊滅状態から出発。
創価学会は戦後再興された時から会費は一切徴収せず、賽銭箱が置いてない金のかからない宗教が第一のうたい文句であった。
折伏布教する相手は地方から大都会へでてきた貧困層が中心で、実際、彼らは宗教に献金するようなカネの余裕は無かった。
その反対に、天理教は巨大な教団建築を立てるため信者から多額のお供え金を集める方針を取った。
戦後、敗戦国家の再建にむけて日本中から大都会、大工業地帯へ人口の大移動が始まった。
戦前、国策に迎合し中山ミキの教理をねじ曲げた天理教は国家の弾圧を受けることなく組織と信者はそのまま残った。
戦後、高度経済成長前の日本はまだまだ貧しく、地方から大都会へ出て来た膨大な数の貧困層は、本来天理教が取り込むべき人々であった。
この戦後の日本で起こった地方から大都会、大工業地帯への人口の大移動は、膨大な数の人々を信者として獲得できる大きなチャンスであったが、おやさとやかた普請とカネ集めに精力を集中していた天理教はこのチャンスを生かす事が出来なかった。
また信者は移住した先の近くの教会に所属するのが自然で有るが戦前からの教会系統が邪魔をし、時代の変化に適応できず、組織制度の改革は全く行われず大きなチャンスを逃した。
天理教は貴族生活の中で育った二代真柱の誇大妄想的発想で、あたかも、おやさとやかたや建物が出来上がることが本部の正しさ教理の正しさを証明するかの如く、誤った方針を取り、おやさとやかた建設に人モノカネの大部分を傾注し、巨大建築普請は実現したが、布教と人材の養成を行うための時代の変化に適応した組織制度の改革は殆ど行わず、旧態依然、時代遅れの組織制度をそのまま残した。
その結果、建物が次々に出来上がるにつれ信者は減り出し、戦後ゼロから出発した創価学会に15年の短期間でいとも簡単に追い抜かれてしまい、70年にわたる衰退のウズの中に落ち込んでしまった。
二代真柱の戦後の20年間は教理や教えの優劣は別にして、創価学会のやり方が成功し、天理教は失敗したのである。
組織制度は、教理のように絶対変えてはならないものではなく、時代の変化に対応できなくなれば変革すべきものである。
戦前の天皇現人神の時代から、戦後天皇の人間宣言、民主主義の時代へと天地が逆転するほどの変化が起こったにもかかわらず天理教の組織制度だけが戦前のままで変化しないとは、一体どういう事か。
戦前の昭和15年、大教会(82個所)、分教会(232個所)のほかに支教会(1、120個所)、宣教所(10、617個所)があった。
大東亜戦争の直前、昭和15年4月宗教団体法が施行され、国の宗教統制策により支教会と宣教所、計11、737個所全てを「分教会」の名称に改めないと「宗教団体」とは認められない国内の法律制度となった。
そのため、天理教はそれまで「分教会」としての資格のなかった支教会と宣教所、計11、737個所を一挙に「分教会」へ名称変更したのである。
その結果、それまで全教で232個所しかなかった「分教会」が昭和16年一挙に「1万1千969個所」へと増えたのである。
戦後、復元の際、このかさ上げされた分教会11、737個所は、もとの支教会と宣教所に戻すべきであったが、二代真柱は誤った組織制度を復元することなく出直し、今日まで誤りは続き、「分教会」の資格のなかった末端分教会は今まさに大崩壊の過程にある。
潰れて空き家になる前に「教会名称」を本部に返上するのが正しい道である。
巨大普請とカネ集めの失敗と、組織制度改革を行わなかった失敗を、歴代真柱を始めとする天理教本部は一切認めず認識もせず方向の転換も心の切り替えも全く行わずに今日まで来ている。
失敗を重ねて来たにもかかわらず教団としての組織制度改革や方
向の転換は今後も行われる可能性は全くない。
一つを変える事は、全てを変える道へとつながる。
大きな変化が起これば上層部ほど失ものが大きいので、変革が必要であることは認識していながら、自己保身を考えると恐ろしくて何一つ変える事が出来ないのであろう。
変革を行う意思が無い以上変化は起こりえず、変化が無ければ時代遅れのまま衰退は止まらず、とことん行きつくところまで行く。
具体的には真柱、本部員、大教会長とその家族が明日食べるコメが無くなるところまでいかざるを得ない。
戦後、昭和52年頃まで会費や献金を取らなかった創価学会の収入源は出版物(聖教新聞、書籍)であった。
「財務」と称するカネ集め力を入れ始めるのは信者が1、000万人を超え教団が巨大化した昭和52年以降のことである。
<創価学会教勢>:
昭和20年8月終戦時、信者離散、組織壊滅、戸田城聖ゼロから開始。
昭和24年(1949年)300世帯(500人)。
昭和26年(1951年)5、700世帯(9、500人)。
昭和27年(1952年)2万2千世帯(3万7千人)。
昭和29年(1954年)16万4千世帯(27万人)。
昭和30年(1955年)30万世帯(50万人)。
昭和32年(1957年)75万世帯(125万人)。
昭和33年(1958年)130万世帯(216万人)。
昭和35年(1960年)172万世帯(286万人)。
昭和37年(1962年)300万世帯(500万人)。
昭和41年(1966年)公称600万世帯(1、000万人)。
昭和44年(1969年)公称700万世帯(1、160万人)。
<創価学会巨大化、組織とカネ、衰退開始>:
創価学会は昭和52年(1977年)以降「財務」(献金)に力を入れ始め、巨大な建築物を建てることに熱中し始めると信者数が減り出し、カネ以外にも社会的事件を度々起こし、天理教と同じ衰退の道をたどり始める。
平成元年(1989年)実動300万世帯(500万人)。
平成20年(2008年)実動150万世帯(250万人)。
天理教、巨大建築普請、信者が減る衰退データー:
<おさづけの理拝戴人数(年間)>:
昭和25年(1950年)天理ブール竣工。
昭和30年(1955年)おやさとやかた別席場竣工。
昭和41年(1966年)教祖80年祭、おさずけの理拝戴人数(年間)37、681人。
昭和41年(1966年)4月、いこいの家病院竣工。
昭和51年(1976年)教祖90年祭の年、約34、000人。
昭和59年(1984年)10月東西礼拝場普請竣工、ぢばを囲む「四方正面」完成(30年前、三代真柱52歳)。
この年、昭和59年(1984年)26、237人。
昭和61年(1986年)教祖100年祭の年、約23、000人。
平成8年(1996年)110年祭の年、約14、000人。
平成10年(1998年)四代真柱就任の年、約10、600人。
平成18年(2006年)120年祭の年、9、991人。
昨年平成25年(2013年)年祭活動1年目、5、541人。
48年間で年間おさずけの理拝戴人数は32、140人減少(85.3%減少)。
巨大なやかたの建設を行い、カネ集めに熱心になればなるほど信者が減る。
<教会系統は利権>:
50年前の東京オリンピック開催の頃、高度経済成長は地方から大都会、大工業地帯への更なる人口の大移動を促し、天理教の信者が所属教会の近くからいなくなってしまった。
教会系統のため一般信者にとっては、信仰初代が入信時に所属した教会に50年後、100年後の子孫も所属しなければならず、新幹線や飛行機に乗らないと所属教会の月次祭にも参拝できないという全くおかしな制度である。
教会長も遠くに離れた信者の丹精が出来ず、いつしか途切れてしまい、教会と信者が共倒れになる誤った制度である。
おまけに戦後40年間、布教活動に大きな支障がでる普請とカネ集めに全力を挙げ、また天理教を職業にする人たち(真柱、本部員、大教会、分教会)が生活するためのカネをお供えとして信者から集めた。
戦後の混乱期から高度経済成長への期間、日本全国で信仰を求める人の数は最高潮に達していたが、やかた建築のため莫大なカネを必要とした天理教はそれら信仰を求める人々、特に地方から大都会に移住した膨大な数の人々を新たな信者として獲得できず、他の新興宗教教団がそれらの人々を信者として次々に獲得し急激に発展していった。
教会系統は教会の近くに住む信者には通用しても、遠方の大都会に移住した信者には通用せず、天理教は多くの既存の信者まで失った。
教会系統に関係なく、住んでいる地域の近くの教会に所属変更可能な制度に改めるべきである。
それが出来ないのは、お供え金を出す信者を教団や教会の所有物と考えるからで、利権である。
<世襲制度は諸悪の根源>:
天理教を職業とする組織の中で、真柱の息子が真柱、本部員の息子が本部員、大教会長の息子が大教会長、上級教会の息子が上級教会長、末端教会の息子はどこまで行っても末端教会長、生まれたその日に50年後の本人の立場が決まっている教団組織では、末端に行けばいくほどやる気を持てないのは当然である。
やる気とやる能力を持った人物の登用への道を閉ざし、やる気とやる能力が無くても親の後釜にすわる世襲制度は、諸悪の根源である。
末端教会の後継者が教会及び教団組織を飛び出し、世間で一般の職業を持ち、世間の人々の中で働きながら中山ミキの教えを実践する道を選ぶのは全く正しい選択である。
教団の上層部にあって、気位だけが高く、口先だけで、やる気もやる勇気も無く、不平不満を持ち本音と建て前を使い分けながら、自分の生活が第一で教団組織にとどまる人間は一般信者の敵である。
衰退を示す追加データー。
<天理教信者数>:
10年前、120年祭「地方講習会」参加者: 34万3千人。
本年、130年祭「ようぼくの集い」参加者: 27万1千人。
10年間で、7万2千人減少(20.9%減少)。
天理教信者数(実動)は、ようぼくの集い参加者人数である27万人程度。
<天理時報手配り>:
2007年(平成19年)2月25日決起大会時、発行部数15万5千部(手配率6.9%)。
7前半後、本年2014年(平成26年)9月25日、全国社友大会時、13万部(手配率48.3%)。
7年半で手配り率は48.3%になったが、部数は2万5千部減少(16.1%減少)。
7前半前、2007年2月25日決起大会時、〇降〇彦表統領(当時)は「手配率を50%まで高めていけばお道全体はかなり活性化していく」と信者にハッパをかけていた。
今、手配率は50%に迫ったが部数は2万5千部減少し、7年の間におさずけの理拝戴者数(年間)は、7055人(2007年)から5541人(2013年)へと1514人減少(21.4%減少)。
〇降〇彦表統領は発言の責任を取らず天理大学学長へ横滑り、そんな事で良いのか!
組織制度が変わらない中、ようぼくネットワークなど欺瞞であり、時報の手配りなど無意味である。
<最新のデーター>:
年祭活動2年目の本年、平成26年1月―10月(10か月間)おさずけの理拝戴人数は前年同期間(1月―10月)比、349名減少(7.5%減少)。
130年祭に向け信者の数は減少を続ける。
結論:
天理教を職業とする人たち、特に上層部は教えより自分の生活が第一、メシを食っていける間は今のやり方を変える気は全くない。
現在のおかしな教団組織制度の中に、身上事情で苦しむ未信者を導き入れるべきではない。
<一般信者の道>:
天理教を職業としない一般信者は、衰退から崩壊へ静かに向かっている教団本部や教会の組織信仰に、ドップリ浸かったり依存してはいけない。
信仰を続けるか否かは、自分自身が中山ミキの教えを実感できるか否かにかかっている。
中山ミキの教えを実感できなければ続けることは出来ないし、無理に続ける必要はない。
本部や教会、他人に頼らず中山ミキの教えを自力で学び、日々の生活の中で周囲の人々に感謝しながら信仰活動を実践しよう。
失敗しても良いではないか、身上事情が起こればその都度心のそうじを行い心を切り替え前進するのだ。
ひのきしんの精神で日々働き、世の中に通用する知識や技術を身に着け職業を修行として世の中に貢献出来るよう努力を続けよう。
以上
「天理教の虚像と実像」北沢元著 心交社 を久しぶりに読みました。この本が出たのは26,7年前のことだと思いますが、すごい本が出たと思いました。当時、読み進めて自分が漠然と感じていた矛盾やおかしなことに対して、けっして自分がおかしいのではなかったんだと安心したような気もします。この本は既に絶版になったようですが、現在もインターネットで無料で読むことができます。
すぐに読めるリンクも貼っておきますので、まだ読んだことがない方はご一読をお勧めします。読みやすい文体で書かれているので、若い人にもお勧めできます。
「天理教の虚像と実像」上
http://mixpaper.jp/scr/book_detail.php?id=4dca27b1ca2a0
「天理教の虚像と実像」下
http://mixpaper.jp/scr/book_detail.php?id=4dca29743335b
当時、話題にもなり、この本についてどう思うか周りの人とも話した記憶があります。反応は人それぞれだったように思います。「異端に目を向けてはいけない」とか「信じるものは教祖だけ」とか様々な意見があったように思います。また顔をしかめて返答に困っている人もいました。
「蘇れ天理教」を読んだ時も同じような思いをしましたが、こんな事実があったのかと同じ教団の中にいるのに信じられない気持ちになったこともあります。このような本を引き合いに出してコメントを投稿すると天理教批判本ばかり読んでいて天理教の教団を更に批判したいのかと誤解されそうですが、そうではなくそろそろ本来の道に戻るべきではないかと訴えたいだけです。
また所謂、批判本の中には事実とは違ったことや間違った解釈で書いているようなものも多いように思います。しかし「天理教の胸像と実像」は偏った目線で書かれているとは思いません。原典からの引用や教内の出版物からの引用もあり、客観的に書かれているし、筆者の思いも入っていて共感する部分は多いように思います。
なぜ、急にこのような本を紹介したり、続けてコメントを投稿しているのかと言えば、これらの本が出てから、月日が流れ三十年近くなろうとしているのに、その間、何も変わらず、ただ年々教勢が衰退しているのを誰も変えようとせず、旧態依然としたままだからです。
縦社会の中に組み込まれ、その中で矛盾を感じながらも二重構造の教団の中で悩みながらも、何も変えられずこんなものだろうと、皆がぬるま湯のような中で過ごしているようにも思います。私自身も変化よりは安定を志向しているのではないかと自戒しています。
百年祭の頃「白紙に戻って一より始める」と何度も唱えていましたが、百年という節に紆余曲折のあった教団のあり方を本当に戻すべき時ではなかったのかと今更ながら思います。教団をつぶすのでもなく、今の組織のまま衰退していくのでもなく、「本来の姿に戻る」べきではないのかと思います。
現行の教会制度を「白紙」に戻し、形のふしんではなく、心のふしんを進められる組織作りに変えていくべきではないのかと思い、実働として多くの人が目にするこちらのブログに投稿させていただいています。
純粋な信仰心を持った若者が百三十年祭に向かって自ら心定めとして街角で路傍講演をしたり、神名流しをしている姿もあちらこちらで見かけるようになりました。「実働」しなければと燃えている若者を見る度に、現行の教会制度のままでいいのだろうか、末端教会で事情働きしなきゃ食っていけないといいながら頑張って会長さんを見るたびにこのままでいいのだろうか、組織の改編を望まずにはいられません。
簡単なことではありませんが、誰もがそう思ったら少しずつでも動いていくことが大事ではないのでしょうか。
皆が改めてよく思案して「実働」するのは今ではないのかとも思います。
ネットで見つけましたので此処にアップしました。
昭和42年に危機意識をお持ち方が50年後を思って配布されたとか現物を見たことありませんが50年をそろそろ迎えます。
カイン様はこの文章をご存知と思います。
ネットからコピーアンドペーストです。
以下
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50年後の天理教を想う
天理教○○員 ○ ○ ○ ○
(昭和42年2月10日刊 全天理教会に配布す)
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この小書を贈呈するに当たって
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
今から30年前、父は単独布教から部属教会21ヵ所をつくって、当時の旧制分教会長として、65才で出直したのであるが、父は晩年最後まで、自分は御本部の庭掃きでも勤めさして頂きたいと、心から言い暮らして出直しをした。
一昨年の12月、母は91才の高齢をもって出直したのであるが、毎日往診に来ていた医師も奇蹟だというほど、一日一日を保っていた。そしてその最後の出直しの日、私は教会長として母の枕元に坐った。最後のお授けを取り次がせて貰ったのである。
あるいはこれが母との今生の別れになるかもわからないと思うと、70才に近い身でありながら、子としての感情がこみあげて来る動揺を、一切神に凭れて、平静に平静にと自分の心を抑えながら母に言った。
「お母さん、今お授けを取り次がさして頂きますが、もう一度身上を貸して頂きたいとはお願いいたしませんよ。神様の御思召しのままに御守護下さいませとお願いいたしますよ。しかしお母さん、もしも出直しをされても、また○○の教会に生まれかわって来て下さいね」
母は床の中で合掌したまま、いとも安らかな表情で、
「それが一番の楽しみだよ」
と小さい声で言った。
平静に平静にと努めていながらも、お授けを取り次ぐ私の両眼からは、熱い涙がとめどもなく流れた。そうして、そのお授けが母との最後の別れとなったのである。
何回生まれかわって来ても、道の御奉公一念に撤しきっていた母であり、それがこの世における何よりも一番の母のたのしみであった。
およそ道の子として親里を慕い、道を想い、したがって道の最高の親たる真柱を愛さないものが、一人でもあるだろうか。
私は道の子である限り、そうしたものは一人もないと信じる。
かつて真柱は、天理教を一番愛しているものは俺だとおっしゃったことを聞いたことがあるが、私もそうだと思う。
真柱ほど、教祖様の理想実現に想いをこめられていられる方はあるまい。
しかし真柱を愛し、真柱への一番の親孝心とは、当面の真柱の御機嫌を伺い、真柱の御機嫌に終始することでは絶対ない。
いかにして一日も早く教祖様の御理想である陽気暮らしを世界の人類にもたらすかにある。
しかるに本教の現状を見る時、輪郭の美は非常な勢いで整って来ているが、教祖様の理想である助け一条の陽気さは、声のみ大きくしてその実力は教祖40年祭当時より、その信仰の熱度において、信徒の量において、むしろ低下しているのではなかろうか。
私は先般、宗教史専攻の東大教授笠原氏とお逢いして、いろいろ御意見を伺ったが、現在伽藍宗教といわれ、わずかに旧蹟として世の観光者によって命脈を保っている数多くの仏教本山の、最盛期から衰退に及ぶ当時の仏教と本教の現在とが、そろそろ似て来たような感じがしてならない。
もちろん、本教はそこまで下落するとは思わない。しかし、宗教の一番の生命である人の救いにおいて、現勢とあまり変わりのないようなことであったら、それこそ教祖様に対し、真柱に対し、どこに親孝心といえるだろうか。
先般挙行された教祖様80年祭は、道の子の想いに想った親の年祭だけに、本教史上かつてない盛大な式典であり、天候にもめぐまれて終始されたことは、われわれ道の者にとっては嬉しい極みであった。
しかし、あの170万人といわれる祭典への帰参者の中、本当に教祖様を慕い、親里を信じて帰参した道の子は、果たして幾人あったであろうか。
当時の集会員会では、約30パーセントの声が出ていたが、その他はそれ等の人たちに勧誘されて、地場を踏んだ観光者たちである。私はけっしてこれを悪いというのではない。たとえ本人は単なる観光のつもりで来たとしても、やがては大きな匂いがけとなるからである。
ただ私は、ここでもし道の指導者である教会長級が、あの姿そのままが現在の道の教勢の実力と誤り信じた場合、それこそ最も恐ろしい危険さがひそんでいることを憂える。
仏教の衰微した当初の原因が、当時の仏教幹部たちが、その当時の形の上だけの盛大さに囚われて、そのままを本山自体の信仰の実状と思いあがった誤りからはじまっている。
東京にある一流教会の婦人会と青年会の共同主催の座談会が開かれた時のことである。某教会所属の最も熱心な婦人教会長の質問であったが、
「先生、われわれは天理教貴族をつくるための信仰であるならば、私は道の信仰を直ちに止めます……」
と熱烈な口調であった。
私は貴族的とは、その人の人間としての価値が、その人の生活以下であった場合に起こる現象だと思うのであるが、教祖様ほど民主的に徹底された方はないのではあるまいか。
物貰いに来た一乞食の赤児を抱きとって、御自身の乳房を含ませられたあの御態度こそ、教祖から示された本教としての全人類に対する行き方である。
もちろん、つくし運びは本教信仰上の真理であるが、それはあくまで陽気さの上に立ってのつくし運びでなければならない。どんな身上事情の苦しみの中でも、あくまで陽気さだけは失わない指導こそ、用木の使命だと思う。そこにこそ天理教の魅力が生まれる。
最近のある仏教関係の雑誌に、最近における本教の批判記事が載っていた。もちろん仏教関係の雑誌だけに、天理教的の記述ではないが、私はこれを読んで、本教の指導者階級にも読んで貰いたいと思った。是非一読しておく必要があるとさえ思った。
これが、「50年後の天理教を想う」と題してこれを転載し、この小書を全国の指導者の立場にある皆さまに贈呈させて頂く所以である。
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50年後の天理教を想う
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昭和20年の敗戦とともに、天理教は、他動的に国家の宗教政策の制限から脱して、立教以来、はじめて自由な天地に出た。多くの人がなお混迷と虚脱の境に ある時、中山真柱は直ちに「復元」を打ち出し、これを教団最高の方針と定めるとともに、原典のみにもとづく天理教教典の編纂に着手した。
「復元」とは、要するに、教祖の教えの本来にかえれということである。これはまず教理面からはじまり、現在の教典が24年に公布、つづいて31年には、本部の正式の編纂にかかる「稿本天理教教祖伝」が完成、これで、教理の基本コースは確定した。
だが教団の組織、実態の復元はどのようにすすめられているだろうか。
これに関する構想は、具体的に明らかにされていない。私の推測によれば、組織を一挙に改変することなく、まず組織の内容を形成する信仰を統一し、向上さ せ、その成人を待って、次第に理想に近づこうという、現実的な方法論がとられているかに見える。まず破壊してまったく新しい組織をつくろうというのではなく、漸進的で、あいまいな面が強い。新しいものはほとんどないといってもよいかもしれない。
この復元の実行は、教祖60年祭、70年祭、そして昭和41年の80年祭を軸としてすすめられたが、この歩みの中で、教理的には「ぢば」中心主義、組織的には「ぢば」にある教会、すなわち教会本部絶対主義の方向がすすめられた。こうして、真柱の絶対権威は高まり、施設はいよいよ本部に集中した。
そして教団の動きは、本部の方針が打ち出されてのち、それが地方に伝わり、時をおいて次第に実行されるという、上から下へ理を流すという姿が強化された。
この本部中心の権威と統制力は強固なものであって、かつての茨木事件のように、大教会が本部に異を唱えて離反するという事態はもはや想像もされない。大西愛治郎のように、天啓によって自分が「かんろだい」であると称するような人間も出て来ないであろうし、かつての大平良平のように、教理の純粋化を求める運動も、その存在理由がなくなってしまった。
では天理教は、もはや、異端を生むべき条件も必然性も皆無であろうか。それほど天理教の方向は安定し、完成しているのであろうか。私には、そうは思われない。
教理的にも、組織的にも、整然として統制がとれているかに見えるが、燃え上がる信仰情熱、内的エネルギーは、衰弱しつつあるのではないかと思われる。
この内的エネルギーの衰弱は、異端が出ることよりはるかに危険な徴候であると見なければならない。
復元は教祖の理想に照らしてみて正しく、その努力が20年以上にわたって行われているにもかかわらず、その実が思うようにあがらないというところに、現在の教団の最大の悩みがある。
教理面では、神一条の信仰が事あるごとに下部組織へ向かって流され、講習会も大規模に、かつ根気よく開催されているけれども、その浸透は、まだ本当の心 の深い部分へとどかない。そして、多くの人の信仰の実態は、あいもかわらぬ病気たすけ、御利益信仰の域にとどまっている。それだけではない。復元の教理を 説くべき立場の人の間に、早くも教理の固定化、ドグマ化という現象が生じている。これでは、造花のようにととのっていて美しいけれども、悩んでいる人を救う本当の力を欠くことになる。
戦後、天理教信仰の目的は、陽気ぐらしであると宣明された。これはたしかに教団の隅々まで知れわたったが、それは言葉の空転で、実際は陽気ぐらしと相去ることはるかに遠いものがある。
組織面では、世襲制によって主な人事は固定化し、明朗で公正な競争がなく、20年先の構成が大体わかるという具合である。
これを動脈硬化症と呼ぶ人もあるが、青年にとっては、これは甚だ意欲をそぐ原因となるために、多くの有為な若人が、自分の能力をフルに発揮できる新天地 を求めて教会の門を出てゆく。天理教は、かくして人物経済上、大変な損失を重ねている。(注:このことは将来の天理教にとって、何ものにも代えがたい一大損失である)それほどの能力も気力もないものは、安易なプチブル生活の地を求めたり、漫然と教団の中に生きているだけで、教祖の精神を喪失している。教会の後継者が少なくなりつつあるという現実は、前途の楽観を許さぬ事実である。
極言すれば、天理教は、理想は高く、本部は壮大なのに逆比例して、信仰のエネルギーが低下し、人間は卑小となり、求めるものが物質的、形而下的になっているのが現状である。
私は異端を待望する人間ではない。けれども、空洞をもつ大木になりつつある現状を放置する時、おそらく天理教は立教の宣言にふさわしい世界宗教として脱皮することは不可能であると思われてならない。ここに思いきった信仰と行動力を持つ異端的人物の登場を待望するのであるが、この種の人間は果たして出て来るであろうか。出て来るとしたら、どこから出て来るであろうか、本部からそういうラディカルな人間は現れないであろう。
青年会にしても、その本部は、失敗を恐れぬ不屈の精神に欠けているから、これも期待薄である。最も有望で有効であるべき文書の面ではどうかというに、溌剌とした昭和初期の個性と自己主張の時代は去り、自由な批判精神は失われ、真柱の亜流ばかり増えている。それも真柱の打ち出す復元の教理を完全にマスターした上、自分の独創を出してゆくならよいが、顔色をうかがって書いているような感がする。書く姿勢がおかしい。これでは真に世に訴え、人の心を揺り動かす 大文章は生まれてこない。本来ならば、何がなんでも訴えねばならぬ問題が山積しているのに、筆を執ることをなるべくなら避けようという傾向が強い。この面でも退潮と衰微の感はまぬがれない。
このように見てくると、天理教は深刻な危機に立っている。人類全体が危機に立っている以上、天理教だけが安泰であるべき道理はないが、この二つの危機を認識する度合の深いものこそ、現代と次の時代をになう人間像である。
天理教は、短いとはいえ、教祖没後80年の歴史を持っている。この80年祭は、生命も財産も名もいらぬという強い信念の持主によって築かれて来たものである。この種の人は今も数多い。こうした行為を天理教では伏せ込みといっているが、これある限り、教団は容易なことではビクともしない。けれども、教団がビクともしないことが理想なのではない。真に人類の苦悩に応え、それを救済するために、教団はどんな犠牲をも辞さないというのが、本当の伏せ込みである。 私が待望するのは、この種の大勇に生きる人間であり、これは、教団の保守的な側から見れば、異端と映るであろう。けれども、社会はその異端を望んでいるの ではあるまいか。
大正の末頃、増野道興は、天理教の海外伝道の可能性について、次のような演説をした。
日本中に布教を終え、その余勢をもって海外伝道をすべしという論は、正論に似てその実きわめて皮相的である。そんな甘い考えで事が成るものではない。天理教が日本で大いに圧迫され、禁止され、食って行けぬ時代になって、やむなく新天地を求めて海外へ大挙して出て行く。こういう時、海外伝道の道は開けるであろう。天理教は神の道であり、神の道は人間の欲を徹底的に排する道である。しかるに世人は欲の世界で生きている。天理教徒が欲を離れ、人にも欲を離れさせる生活を徹底して行った時、神の道と人の道は必ず矛盾すべきものである。その場合、世間と政府は己れを是とし、神の道に生きるものを非として圧迫するに至るであろう。私は何をいわんとするか。どこまでも神の道に撤し、ために世人の非難攻撃を受けるに価する天理教を待望するのである。欲のある世人からほめられる天理教は、畢竟神の道とは無縁のものである。これでは日本の人心改造も、海外布教も成るものではない。
筆者のいわんとするところは、この演説の中に尽きている。天理教は、現代、社会にいい子になろうとしており、また多くの人々は、組織の中でいい子になろうとしている。ここに問題がある。
明治20年の1月、教祖が姿をかくされる直前、政府の弾圧をおそれて、お勤めをすることをためらっている側近者に対して、教祖は「律がこわいか、神がこわいか」とせまり、さらに「律ありても心定めが第一やで」と明示された。これが天理教最大の指針の一つである。
現在天理教は、新憲法のもと信仰の自由を保障されている。一切の弾圧はもはやない。律と神とは鋭角的に矛盾はしない。けれども、律そのものがなくなったのではない。今や律は教団の中に存在している。それは、明らかに人間の心のつくりあげたものであって、天理教の中に、一般社会の常識や約束事、すなわち人間思案が多くなっているのである。何はさしおいても、この教団の中の律を打破するのが物事のはじめである。
ソクラテスはにくまれ役を一手に引き受けた。アテネを愛する彼は、アテネを巨大な牛に譬え、それが眠りこけないように、自分がアブとなってうるさく耳元で音を立てるのだと自負した。彼は不幸にして、牛の尻尾で叩きつぶされる羽目になったが、現在、私のもっとも待望するのは、このアブ的人間である。これが、差し当たって出現の可能性があり、しかもきわめて重要である。
大なる異端像が現れるほど天理教は成熟していない。けれども、天理教は自己にとじこもって眠っていてよい時ではない。眠りこけていたら、社会はさっさと天理教を見捨てて行くであろう。
差し当たって、アブ的人間が多く現れること。そこから一人のソクラテス的人間が出現することを私は期待する。
天理教の脅しや強迫に屈せず、天理教から離れて良かったと思える内容で嬉しいです。
縁もゆかりもない者の贅沢な生活を支える為に、自ら乞食のような生活や奴隷のような生き方をしてはいけないし、貧に落ち切れなどと教えてはいけない。
久しぶりに投稿させていただきます。以前カインさんに自分のコメントや著作を評価していただいたことのある「みさと」です。1年ほど前から大病を患い、という言い方は世間的で、じつは重い身上のお手入れを頂き、現在ほぼ回復のご守護を見せていただいております。
その間1年ほど、この社会学研究所サイトも閉鎖されていたようで淋しい思いをしておりましたが、先日ふとブックマークしたタイトルをクリックしたところ、進化したスタイルで再開されているのを知って安心いたしました。
自分は年が明ければ2月には83歳になる後期高齢者ですが、過去半世紀にわたり教祖の「原典」を出発点とする文書伝道に努力してきました。ところが未だに「原典」が宙に浮いたまま天理教内に定着していない原因に最近ようやく気がつきました。その原因とは、明治20年から昭和20年に至るまで政府権力の干渉を受けた悲劇の天理教史に、教会長はじめ大多数の指導層が無知・無関心のままであることです。この事実は天理教内に限らず日本人全体の問題で、今の政治家をはじめ国民のほとんどが戦前戦中の実態を知らないままで真の民主主義の意味を自覚できない状態にあるのです。
過去をふりかえれば明治20年から昭和20年までの60年間、政府の強制的圧力によって原典を公開できない年月が続いた悲劇の天理教史がありました。その事実さえ知られないまま、今では「応法の道」や「復元」という言葉が死語に等しく、その意味さえ失われようとしています。
例えば原典「みかぐらうた」の内、よろづよ八首をはじめ三下り目、五下り目を政府当局の強制によって削除されたのは、皇室を差しおいて「よのもと」や「ひのもと」という歌詞を許せないという理由からでありました。日本の「もと」は天皇=天照大神=伊勢神宮の他にあり得ないとされていたからです。昭和の初めに「おふでさき」「おさしづ」は一旦印刷・配布されたものの、年月を経ずに禁書に指定され回収・焼却されました。「泥海古記」に至っては一切の内容を否定され破棄することを強制されたのです。
したがって明治から昭和にかけての60年間、天理教の教勢は禁圧された三原典を必要としない「おさづけ」による身上たすけのみで目覚ましい発展を遂げました。つまり、個人の難儀不自由の元となる身上たすけしかできない状況であったのです。医薬が普及していない当時にあって病いは生死の分かれ道でしたから、不思議なたすけを求める人々は布教師に頼ってきて、一人が救われたら大勢の病人が救いを求めて集まってきました。教祖10年祭の年までに百万人を超えた信者数は、その後も10年ごとの年祭ごとに倍々ゲームのように増えていきました。
問題は戦後70年を経た現在も、原典を棚上げした戦前の「成功体験」の再現を夢みていることにあります。明治以来の天理教会を「神一条からは万分の一の道」(原典おさしづの一節)と諭されているにもかかわらず、戦後に復元され印刷配布された神一条の原典は建前として拝受されるだけで、現実には生かされていないのです。
今になって私がここにコメントを投稿しましたわけは、このたび身上の節を通して気づいた天理教史の真実を具体的に解明するとともに「原典からの出発」を目標として、今後も文書伝道を続ける心を定めているからです。
もし私の志に賛同して下さる方があれば、みさとブログ<心のテープ>[検索]へ立ち寄って真偽を確かめてくださることを期待してやみません。そのコンテンツには「人体をモデルとする組織論」はじめ「原典」にもとづく教理や伝道の資料を揃えています。
終わりに蛇足かも知れませんが、コメント欄の最初に投稿されている「五十年後の天理教」と題する一文は、当時の教議会(いまの集会)議長によって全教会あてに配送されたもので、その予測の正確さに驚嘆させられます。しかし今では、もはや「アブ的人間」が多く現れるだけでは間に合わない教団の危機が差し迫っているようです。
テーマ: 「50年後の天理教を想う」
昭和41年1月26日教祖80年祭が挙行された。
その翌年、昭和42年2月10日付「50年後の天理教を想う」刊行された。
作成した人は天理教濱市分教会長中澤隼人氏で天理教の全教会に配
布された。
作成し配布した中澤隼人氏自身が自分の氏名、立場をはっきり明記し全
教会に配布した公の文書であり、そして価値の高い文書である。
インターネット上でこっそり見るものではなく、今こそ天理時報に全文掲載
し、130年祭活動の仕上げとして下から上まで全教挙げてカンカンガクガ
クの議論を行うべき内容を持つ文書である。
中澤隼人氏については昭和33年7月8月号の「陽気」に掲載された同氏
の講演速記録「これからの道」が、平成22年11月12月号、平成23年1
月号の「陽気」に再録されている。
教理、教団の方針にそって力強く道の活動を行っていた全く尊敬すべき
教会長である。
中澤隼人氏は昭和十年代から昭和四十年にかけ神奈川県のみならず教
会本部においても、教外においても精力的に活躍された自他ともに認め
る立派なお道の人である。
略歴:
天理教濱市分教会長、天理教神奈川教区長、天理教集会員幹事長、天
理教教議員幹事長、教規変更準備委員、神奈川県宗教連盟理事長、神
奈川県教誨師会会長、教祖70年祭準備委員、教祖80年祭準備委員ほ
か。
お道の人として出来ることは全てやりつくし、その結果天理教の行く末に
大きな危機感を持ち、やむにやまれぬ気持ちで刊行されたのがこの「50
年後の天理教を想う」である。
中澤隼人氏はこの小論文を刊行した四か月後、昭和42年7月28日に出
直された(71歳)。
文字通り遺言である。
中澤隼人氏はこの小論文を全教会に配布する前、最も親しいお道の友
人常岡一郎氏に見せたそうである。
常岡一郎氏は鎮西大教長を勤め、教団から押されて参議院議員二期12
年勤め、中心社(修養団体・養護施設)を経営し天理教の社会的地位向
上に大きく貢献し、世間にも知られたお道の人である。
中澤隼人氏がこの小論文を事前に常岡一郎氏に見せた時、常岡氏は中
澤氏に対し、出さない方が良い、なぜなら出しても何も変わらないから、と
言ったそうである。
しかし、中澤隼人氏は道の行く末に対する大きな危機感とやむにやまれ
ぬ気持ちからこの小論文を全教会に配布した。
常岡一郎氏の言った通り、小論文刊行から48年間たったが、組織制度
は全く変わっていない。
そこに天理教が抱える最大の構造的欠陥がある。
それだけではない。
この小論文があまりにも天理教の問題点を正しく指摘し、そのものずばり
の的を得た内容であったため、中山正善二代真柱の不興を買い、すべて
の役職を取り上げられたそうである。
天理教に大きな貢献をした中澤隼人氏に追放同然の扱いをした中山正
善二代真柱は中澤隼人氏がなくなった三か月後に出直された(63歳)。
この小論文が刊行されてから48年経過したが、組織制度の改革は全く
行われることなく今日に至っている。
その結果48年後の今、この小論文にかかれている危機が、恐ろしいほ
どそっくりそのまま現実の問題として表面に現れ、天理教は取り返しのつ
かない危機的衰退に襲われている。
過去50年間変わらなかったものは、今後の50年間も変わらないであろ
う。
なぜなら、教団幹部に変えようという意思が全くないからである。
中山善司四代真柱は6年前、平成20年10月26日の本部大祭神殿講話
で、「組織が時代にそぐわないなら見直し修正することも考えなければな
らない」話されているが、口先だけ全く検討も実行もしていない。
組織の最高責任者は真柱である。
組織制度の改革を断行できるのは、真柱しかいない。
時々思い出したように口に出すだけで、必要な改革を断行できないようで
は組織のトップとして失格である。
独裁的リーダーであった正善二代真柱でも、組織制度の改革は出来なか
った。
ボンボン育ちの三代真柱、四代真柱には、何も出来ないのは当然と言え
ば当然であるが、変化が無いほうが自己の利益につながる教団幹部以
外、末端教会や一般信者にとっては、50年以上衰退を続ける教団の信
仰を続けることは自信の喪失にながり、陽気ぐらしどころではなくなる。
このまま衰退の中で信仰を続けるべきなのか止めるべきなのか、迷って
しまう程の不幸な事である。
14年前、平成12年6月26日本部月次祭お勤めの最中、一青年による
甘露台飛び込み倒壊事件が起こった。
同年7月5日、中山善司四代真柱は在籍者と直属教会長を本部会議所
に集め一言話をされた:「普段かんろだいの一番近くでご用をしている在
籍者の問題であり・・(中略)・・直属教会長が自らの姿勢についてよく考
えなければならない・・(中略)・・心を引き締め直しておつとめいただきた
い」。
真柱自身の反省とお詫びの言葉は無かった。
翌年、平成13年6月26日本部月次祭お勤めの最中、三代真柱の奥さん
が倒れ50日後に出直された。
中山善司四代真柱の言葉:「かんろだいは人間宿しこみの証拠として据
えられるもので、ぢばの標識であり私たちの信仰の芯」、
「ぢばは親神様のお鎮まりくださる所で、親神様、教祖、ぢばはその理ひ
とつ」、
「ぢばに対する信仰は親神様、教祖に対する信仰と同じこと」。
お筆先第9号50:「かんろだい建設の段取りは、専ら親神の指図でしてい
ることであるから、もし、この仕事を妨げる者があるならば、息の根が止ま
ってしまうであろう」。
木製かんろ台を倒した方は生き残り倒された方が出直した。
親神は道の統率者である中山真柱一族の信仰姿勢を正すため、一青年
を使って木製かんろ台を倒させたが、真柱に反省がないため、更に翌年
の6月26日本部月次祭お勤めの最中、三代真柱の奥さんを倒し50日後
にむかえ取られた。
一般信者にたいする「てびきみちをせ」の身上ではない。
信者を導き教団を統率する家には一般信者とは次元の異なる重い責任
がある。
一般信者の一部はこの時、神は本当に有るのだと実感した。
今更やる気の無い教団の人々を相手にしてもどうにもならない。
天理教を職業とする家の若者は、まず組織から出て一般社会で働き、職
業を持ち自活し、生きる事への自信、信仰へ確信を持ってから、その後
教団組織に戻るべきで有る。
そうでないと使い物にならない。
いったん教団組織の中に入ってしまうと外へは出られない。
天理教を職業としない一般信者は、教団や教会に頼らず中山ミキの教え
を自力で学び、職業を修行として世の中に貢献出来るよう努力を続ける
のだ。
教団や教会がどのように衰退しても逃げてはいけない。
自分の人生と信仰は自分で切り開くしか道はない。
中澤隼人氏「50年後の天理教を想う」は長文故、要旨を下記にまとめ
る。
この小論文の前半「この小書を贈呈するに当たって」は中澤隼人氏自身
の前文であり、後半「50年後の天理教を想う」は別の人が書いた形式に
なっている。
前半と後半を合わせて一つの文書になっているので、ここでは前半と後
半を合わせて中澤隼人氏の意見として取り扱う。
天理教の現状は、48年前に書かれたこの小論文の通りになっている。
読んでいるうちに、この小論文は最近になって書かれたものではないか
いう錯覚に陥りそうだが、まぎれもなく48年前に書かれたものである。
本部員や大教会長で反論できる人がいるなら是非反論してもらいたい。
<「50年後の天理教を想う」要旨>:
本教の現状は、輪郭の美は非常な勢いで整って来ているが、教祖様の
理想である助け一条の陽気さは、声のみ大きくして教祖40年祭当時より
信仰の熱度において、信徒の量において、むしろ低下している。
昭和20年の敗戦、天理教は国家の宗教政策の制限から脱して、立教以
来はじめて自由を得た。
中山真柱は直ちに「復元」を打ち出し、これを教団最高の方針と定め、原
典のみにもとづく天理教教典の編纂に着手した。
「復元」とは、教祖の教えの本来にかえれということである。
まず教理面からはじまり、現在の教典が昭和24年に公布、昭和31年、
本部の編纂にかかる「稿本天理教教祖伝」完成、これで教理の基本コー
ス確定。
組織の復元はどのようにすすめられているのか。
まず破壊してまったく新しい組織をつくろうというのではなく、漸進的であ
いまいな面が強い。新しいものはほとんどない。
教理的には「ぢば」中心主義、組織的には「ぢば」すなわち教会本部絶対
主義の方向がすすめられた。
真柱の絶対権威は高まり、施設は本部に集中。
本部の方針が打ち出されて、それが地方に伝わり、時をおいて次第に実
行されるという、上から下へ理を流すという姿の強化。
本部中心の権威と統制力は強固であり、かつての茨木事件のように大教
会が本部に異を唱えて離反するという事態はもはや想像も出来ない。
大西愛治郎のように天啓によって自分が「かんろだい」であると称するよ
うな人間も出て来ないであろうし、大平良平のよう、教理の純粋化を求め
る運動もその存在理由がなくなってしまった。
では天理教は、もはや異端を生むべき条件も必然性も皆無であろうか。
それほど天理教は安定し完成しているのであろうか。
私には、そうは思われない。
教理的にも組織的にも、整然として統制がとれているかに見えるが、燃え
上がる信仰情熱、内的エネルギーは衰弱しつつある。
内的エネルギーの衰弱は異端が出ることよりはるかに危険な徴候であ
る。
復元は教祖の理想に照らしてみて正しく、その努力が20年以上にわたっ
て行われているにもかかわらず、その実が思うようにあがらないというと
ころに教団の最大の悩みがある。
教理面では、神一条の信仰が事あるごとに下部組織へ流され、講習会も
大規模に根気よく開催されているが、その浸透は本当の心の深い部分へ
とどかない。
多くの人の信仰の実態は、あいもかわらぬ病気たすけ、御利益信仰の域
にとどまっている。
復元の教理を説くべき立場の人の間に、教理の固定化、ドグマ化という
現象が生じている。
造花のようにととのっていて美しいけれども、悩んでいる人を救う本当の
力を欠く。
戦後、天理教信仰の目的は、陽気ぐらしであると宣明された。
これは教団の隅々まで知れわたったが、それは言葉の空転で、実際は陽
気ぐらしからはるかに遠い。
組織面では、世襲制によって主な人事は固定化し、明朗で公正な競争が
なく、20年先の構成が大体わかる。
青年にとっては甚だ意欲をそぐ原因となり、多くの有為な若人が、自分の
能力をフルに発揮できる新天地を求めて教会を出てゆく。
このことは将来の天理教にとって、何ものにも代えがたい一大損失であ
る。
能力も気力もないものは、安易なプチブル生活を求め、漫然と教団の中
に生きているだけで、教祖の精神を喪失している。
教会の後継者が少なくなりつつあるという現実は、前途の楽観を許さな
い。
極言すれば、天理教は理想は高く本部は壮大なのに逆比例して、信仰の
エネルギーが低下し、人間は卑小となり、求めるものが物質的、形而下
的になっている。
私は異端を待望する人間ではない。
しかし、現状を放置する時、おそらく天理教は立教の宣言にふさわしい世
界宗教として脱皮することは不可能であると思われてならない。
思いきった信仰と行動力を持つ異端的人物の登場を待望するのである
が、この種の人間は果たして出て来るであろうか。
出て来るとしたらどこから出て来るであろうか。
本部からそういうラディカルな人間は現れないであろう。
青年会にしても、失敗を恐れぬ不屈の精神に欠けているから期待薄であ
る。
最も有望で有効であるべき文書の面ではどうか。
溌剌とした昭和初期の個性と自己主張の時代は去り、自由な批判精神
は失われ、真柱の亜流ばかり増えている。
真柱の打ち出す復元の教理を完全にマスターした上、自分の独創を出し
てゆくならよいが、顔色をうかがって書いている。
書く姿勢がおかしい。
真に世に訴え、人の心を揺り動かす大文章は生まれてこない。
何がなんでも訴えねばならぬ問題が山積しているのに、筆を執ることをな
るべく避けようという傾向が強い。
天理教は深刻な危機に立っている。
この80年祭は、生命も財産も名もいらぬという強い信念の持主によって
築かれて来たものである。
この種の人は今も数多い。
こうした行為を天理教では伏せ込みといっているが、これある限り、教団
は容易なことではビクともしない。
けれども、教団がビクともしないことが理想なのではない。
真に人類の苦悩に応え、それを救済するために、教団はどんな犠牲をも
辞さないというのが、本当の伏せ込みである。
私が待望するのは、この種の大勇に生きる人間であり、これは、教団の
保守的な側から見れば、異端と映るであろう。
けれども、社会はその異端を望んでいるのではあるまいか。
天理教は、現代社会にいい子になろうとしており、また多くの人々は、組
織の中でいい子になろうとしている。
ここに問題がある。
明治20年の1月、教祖が姿をかくされる直前、政府の弾圧をおそれて、
お勤めをすることをためらっている側近者に対して、教祖は「律がこわい
か、神がこわいか」とせまり、さらに「律ありても心定めが第一やで」と明
示された。
これが天理教最大の指針の一つである。
現在天理教は、新憲法のもと信仰の自由を保障されている。
一切の弾圧はもはやない。
律と神とは鋭角的に矛盾はしない。
けれども、律そのものがなくなったのではない。
今や律は教団の中に存在している。
それは、明らかに人間の心のつくりあげたものであって、天理教の中に、
一般社会の常識や約束事、すなわち人間思案が多くなっているのであ
る。
この教団の中の律を打破するのが物事のはじめである。
天理教は自己にとじこもって眠っていてよい時ではない。
眠りこけていたら、社会はさっさと天理教を見捨てて行くであろう。
以上
自立人生さん「50年後の天理教を想う」の著者名が分かりました。ありがとうございます。
先だって、こんな事が有りました。どう思われますか。
真柱御三方と本部員2名の元へお流れ頂戴に伺った時のことです。丁度私たち3人の番になった時、14時で私のスマホのアラームが鳴りました。大教会長に「教祖様お隠れの時刻です」と言うと手を除けてながら「今はいい」と言われ3人はお流れ頂戴をしてしまいました。
おぢばの14時のミュージックサイレンが鳴るとは皆が神殿教祖殿を向いて参拝しますが何だろうと。
後期講習で担任が14時の意義は慰霊では無い、忍でも無い、と諭してくれました。
私は何時もアラームが鳴ると東にいれば西を向いて、西にいれば東を向いて慰霊でも忍でもなく「教祖存命の理」の再確認をさせて頂く事と参拝しておりました。この「教祖存命の理」を信じることがお道の信仰そのものと考えて居りますので、その場で参拝しなかった自分が親神様教祖様のテストに不合格だと思い情けなくなりました。
一文字隼人 様
リンクして下さった「天理教の虚像と実像」を読みたいんですが、
開きませんm(_ _)m パスワードが必要みたいですね。
ドリー様
本当ですね。確かにパスワードがかかっているようですね。以前はパスワード入力画面は出ずにそのまま読むことができたのですが残念なことです。
天理教って窃盗しても詐欺まがいしても素晴らしいんですか????
その上お礼だって請求された。
断ったケド。。。。
??????何なんだこれ????
こんにちは☆
とあることから、貴殿のサイトを見つけ(天理教社会学研究所)毎日興味深く読ませて頂いています。
私は天理教関係でも何でもありませんが、奈良県天理市生まれ天理育ちなので、天理教は身近な存在ではあります。
天理市民は少なからず、何かしら天理教から恩恵を受けている部分もあるところはあると思います。
私の場合でしたら、病院です。そう、天理よろづ相談所病院(憩の家)ですね。
それから、お正月に誰でも頂ける「お節会」など(汁がいい味をしていて美味しいので、子供の頃から毎年よく行っています)
1つ今回は、病院についてお話したい部分があるのですが、
「天理よろづ」といえば、開所当初は東洋一と言われた程の奈良の片田舎に存在する病院にも関わらず、とんでもない高度な医療施設を有する病院だと聞いたことがあります。(特に眼科、心臓外科は秀逸とか。他の科も素晴らしかったと思います)
しかし、どうもここ最近なんですが、旧病棟から新病棟に移り出してからぐらいでしょうか
昔の京大系のベテランの超一流の医者と言われるような人が減ったように思います。
レジデントと言われる若手ばかりの先生で、やはり経験も浅い故なのか、考えられないような医療ミスを非常によく聞きます。
(私が小学生の頃は、周りの親に医者が多く、転向してやってくる子とか(理由はよろづ病院にヘッドハンティングされたような理由からで)
非常に優秀な医者の方が多かったように思います。)
貴殿のサイトを読ませて頂いていますと、現在は天理教も本当に色々と問題が山積していることが散見されます。
信者の数も昔に比べると、明らかに激減しているのが市全体を見ていて一目瞭然で分かります。
天理本通なんてシャッターアイランドもいいところで、閑散としています・・・(昔はもう少し賑わっていたような気がしますが)
よろづ病院が現在のような低いレベルになってしまったのも、天理教の衰退と相関関係が無くはないとも思えるのですが、その辺の事情はご存知なのでしょうか?
以前の旧病棟の方は、たしか2代真柱が精力的に取り組んで建てられたと思いますが、現在は天理教と憩の家とは経営が別になっているとも聞いたことがあります。
建物は建ててやるが(本部側)、その後の経営はそっちでやれよ的な感じなのでしょうか?
旧病棟の時でも、年間1億円前後の赤字が出ていたとも聞いたことがあります。
何故、病院のことを取り上げたかと言いますと、天理市民の1人として東洋一と言われた程の病院が現在のような変わり映えになってしまっていることが残念でならないのです・・・
別に天理教を擁護するとか応援していたとか全くありませんが、良いものは良いという意味で(医者自身も天理教とは全く関係ないと聞いてますし)素晴らしい病院が田舎の天理に存在していたことは事実で、(現在も存在はしていますが)中身が問題です。
1つは天理教の財政的な問題もあるのでしょうか?
かつては、それだけの選りすぐりの医者を引っ張ってこられたのも、財力が豊富でそれに任せて呼べたことが原因とか
しかし、財政的にしんどくなっている以上そんなことは出来っこないので、安い若手の医者にしておけばいいかみたいな思案もあるのでしょうか。
また、スポーツもあまり最近はパッとしたものを聞かないように思います。
天理といえば、柔道・ラグビー・野球などよく聞いたものですが、現在はあまり名前を聞きません。
色んな部分で何か活力が無くなっているというか、この変貌ぶりは何なのでしょうか?
お答え頂ける部分で可能ですので、よければご教示頂ければ幸いです。
憩の家について感じておられる通り、立派な新館が完成する一方で、若くて未熟な医師が多いことは事実です。その原因について最近次のような話を聞きましたが、医師自身の発言が発信源ということですから事実に間違いありません。ハードがいくら立派でもソフトが伴わなければ評価されないのが当然です。
熟練した名医が集まらない原因というのは、天理市が田舎であると同時に天理市内とくに天理教経営の小中高の各学校のレベルが最近とみに低下していることにあるのです。したがって、子どもが進学する年齢に達する30代後半から40代の医師の父親は、将来の子どもの進学に不安を覚えて市内の小中学校に入れるのをためらい、レベルの高い都会の学校に入れるため子どもが進学する年代になると憩の家を退職してしまう傾向があるというのです。
その実情を聞いている若手の医師たちも優秀であればあるほど将来の不安を感じて天理市内には就職したがらないそうです。結局、医師の求人を担当する事務局としては、どこも勤め先のない医師を探して就職を依頼する他に方法はない状態に追い込まれて頭を抱えているとも聞きました。
とくに本部の経営する小中高をはじめ大学に至るまで、昔はともかく最近とみにレベルが落ち、競争率も低く、大学に至っては定員割れがひどい現状に今から対策を講じなければ、お先真っ暗になる可能性があります。その根底には教職員の待遇や資質と密接な関係があることも否定できないでしょう。
要するに一般世間と同じ分野で競争するのではなく、宗教性の価値を高める活動(教理の掘り下げと普遍化・具体化)に努力を集中する以外に天理教の将来はないと、一市民として思わざるを得ないのです。
一天理市民 さんへ
貴重なご意見を誠に有難うございます。
また、同じ天理市民としての意見を頂けて光栄に思います☆
そうですか、、、なるほどですね。
>>天理市内とくに天理教経営の小中高の各学校のレベルが最近とみに低下していることにあるのです。
この部分に関しては、全く私の中では盲点になっておりました(驚)こういった背景も一因となっていたのですね。
そういえば、私の小学生の同級生(親がよろづの医者)は公立小学校→天理中学校に受験していく子は、当時はそれなりにいたように思います。今から、約20年程前ぐらいの事です。
>>結局、医師の求人を担当する事務局としては、どこも勤め先のない医師を探して就職を依頼する他に方法はない状態に追い込まれて頭を抱えているとも聞きました。
これも非常に驚きです。
これは、相当深刻な状態ですね、、、
こんなことは、昔では考えられないような事象ではないかと思います。
いやぁ、こんなこと言っては何ですが、現在の天理は何から何まで・・・という感じがしてなりませんね。
90年代はオウムの事件や阪神大震災等もありましたが、まだどこかに「安心」を持てる部分も残っていたものがあったと思います。
子供の頃の記憶でニュースでも、天理よろづは〇〇という病気の非常に難解な手術を成功させたなどというニュースを聞いては、親族などに医者がいる訳でもないものの、「お、また1つ凄いことを何かやってくれた♪」と妙に誇れるものを感じたものです。
現在の天理市は本当に閑散としていますね。
Wilipediaには、天理よろづは近畿地方屈指の医療水準を持つ・・・などと、書かれていますが、
「そうかな・・・?」というのが否めません。
何か、根本的に根源的な部分で変えていかないと、現在は末期症状になっているので、トップが危機感を感じて何か改革を起こさないと、ジリ貧は免れないと市民の1人として思います。
テーマ:「50年後の天理教を想う」から48年たった
●インターネットに、過去48年間にわたり「おさずけの理拝戴者の人数」
の激減を示すグラフがアップされている(植田義弘氏みさとのブログ):
http://www.geocities.jp/tenri_kokugen/bookimages/kyosei-glaf.jpg
●天理教の衰退は最近になって始まったものではない。
戦前、「革新」と称して国家からの弾圧を避けるため権力に屈服迎合し中山ミキの教えを曲げた天理教は、戦前信者数300万人以上、日本最大の新興宗教教団であった。
昭和20年の終戦と同時に中山正善二代真柱は中山ミキ本来の教えに
戻す「復元」活動を行うが真の「復元」は出来ず、戦後70年間一貫して衰
退を続け今日に至る。
●今から48年前、このままでは天理教は世間から見捨てられてしまうと
警告を発した文書が「50年後の天理教を想う」である。
この文書は、昭和42年2月10日付で天理教集会員(天理教浜市分教会
長)中澤隼人氏により全天理教教会に配布された。
この文書もインターネットにアップされている。
http://www.yousun.sakura.ne.jp/public_html/siryou1/50nen/50nen.html
●戦後、天理教はやかた普請に血道をあげ組織制度の改革を行わず、
「50年後の天理教を想う」で指摘されている通り衰退を続け、戦後ゼ
ロから始まった創価学会や立正佼成会に昭和40年の時点で完全に追い
抜かれてしまい、今や世間から忘れ去られようとしている。
<おさづけの理拝戴人数(年間)>:
昭和41年(1966年)教祖80年祭、おさずけの理拝戴人数(年間)
37、681人。
昭和51年(1976年)教祖90年祭の年、約34、000人。
昭和61年(1986年)教祖100年祭の年、約23、000人。
平成8年(1996年)110年祭の年、約14、000人。
平成10年(1998年)四代真柱就任の年、約10、600人。
平成18年(2006年)120年祭の年、9、991人。
平成25年(2013年)年祭活動1年目、5、541人。
平成26年(2014年)年祭活動2年目、5、274人。
●<減少率>おさずけの理拝戴者の人数(年間):
◉昭和41年(1966年)教祖80年祭の年: 37、681人。
◉昨年平成25年(2013年): 5、541人。
◉48年間でおさずけの理拝戴者人数(年間)は32、140人減少
(85.3%減少)。
<解説>2013年(平成25年)1年間統計:
●おさづけの理拝戴者数:合計5、541人。
●平成25年11月、日本の総人口:1億2729万人。
<天理教は首都圏で崩壊寸前、奈良1県に特化>:
◉奈良県の人口は138万人、日本の総人口の1.1%、奈良県1県のおさ
づけの理拝戴者は766人、全体の13.8%。
◉関東教区の人口は4、287万人で奈良県の人口の31倍、日本の総人
口の33.6%、おさづけの理拝戴者数は723人、奈良県1県より43人少
ない。
<天理教は近畿地方以外で通用していない>:
◉近畿教区(奈良、京都、三重、大阪、兵庫、滋賀、和歌山):
近畿教区の人口:2、263万人(総人口の17.7%)。
おさづけの理拝戴者合計:2、446人(44.1%)。
◉関東教区の人口は近畿教区の人口の1.89倍あるが、関東教区おさづ
けの理拝戴の人数(723人)は近畿教区(2、446人)より1、723人少な
い(三分の一である)。
◉既に日本の中心、東京・関東首都圏に於いて力を失っている。
<2013年度(平成25年)教区別おさづけの理拝戴者数>:
●近畿教区(奈良、京都、三重、大阪、兵庫、滋賀、和歌山):
◉教会数: 5、166教会。
◉おさずけの理拝戴者数: 合計2、446人。
◉一教会当たりのおさずけの理拝戴者数: 0.473人(2教会で1人)。
●東海教区(静岡、愛知、岐阜、山梨):
◉教会数: 1、991教会。
◉おさずけの理拝戴者数: 合計692人。
◉一教会当たりのおさずけの理拝戴者数: 0.348人(3教会で1人)。
●四国教区(徳島、高知、愛媛、高知):
◉教会数: 986教会。
◉おさずけの理拝戴者数: 合計232人。
◉一教会当たりのおさずけの理拝戴者数: 0.235人(4教会で1人)。
●関東教区(東京、千葉、埼玉、群馬、栃木、神奈川、茨木):
◉教会数: 2、985教会。
◉おさずけの理拝戴者数: 合計723人。
◉一教会当たりのおさずけの理拝戴者数: 0.242人(4教会で1人)。
●中国教区(岡山、広島、鳥取、山口、島根):
◉教会数: 1、392教会。
◉おさずけの理拝戴者数: 合計360人。
◉一教会当たりのおさずけの理拝戴者数: 0.258人(4教会で1人)。
●北陸教区(福井、石川、富山、新潟):
◉教会数: 533教会。
◉おさずけの理拝戴者数: 合計122人。
◉一教会当たりのおさずけの理拝戴者数: 0.229人(4教会で1人)。
●九州教区(沖縄を含む8県):
◉教会数: 1、616教会。
◉おさずけの理拝戴者数: 合計317人。
◉一教会当たりのおさずけの理拝戴者数: 0.196人(5教会で1人)。
●東北・北海道教区(1道6県):
◉教会数: 1、687教会。
◉おさずけの理拝戴者数: 合計319人。
◉一教会当たりのおさずけの理拝戴者数: 0.189人(5教会で1人)。
●海外教会:
◉教会数: 320教会。
◉おさずけの理拝戴者数: 合計330人。
◉一教会当たりのおさずけの理拝戴者数:1.031(1教会で1人)。
<まとめ>:
おさずけの理拝戴者、かつては1教会で2名が、今や3教会で1名に激減、これでは教会は存続出来ない。
●昭和41年(1966年)教祖80年祭、おさずけの理拝戴人数(年間)
37、681人。
教会数:約16、000教会。
一教会当たりのおさずけの理拝戴者数:平均2.3人(1教会で2.3人)。
●平成25年(2013年)おさずけの理拝戴人数(年間)5、541人。
教会数:16、676教会。
一教会当たりのおさずけの理拝戴者数:平均0.332人(3教会で1人)。
<まとめ>:平成25年(2013年)の分析:
●<おさずけの理拝戴者数>:
◉近畿教区:2教会で1人。
◉東海教区:3教会で1人。
◉四国教区、関東教区、中国教区、北陸教区: 4教会で1人。
◉九州教区、東北北海道教区:5教会で1人。
●天理教は近畿教区で若干の知名度は残っているが、その他の地域で
は知名度は著しく低下、末端教会は疲弊し既に力を失っており、教勢挽
回の可能性はゼロ、どの教会も青息吐息、絶滅危惧種の仲間入り寸前。
●60年間で信者の数が十分の一以下に減った天理教がいくら「世界たすけ」を叫んでも、叫べば叫ぶほど現実とのギャップがあまりに大きくウソに聞こえる。
●好むと好まざるとにかかわらず近い将来、大教会・分教会の数を現在
の十分の一以下に減少させる大リストラを行わざるを得なくなる。
●天理教を職業としない一般信者は教会や教団に頼らず、中山ミキの教
えを自ら学び、毎日の生活、職業の中で中山ミキの教え「ひのきしん」を
実践し信仰の自立を図るべきである。
さもないと、信者自身の人生が教団とともに破綻してしまう。
以上
興味深いデータありがとうございます。統計についてのご質問ですが、天理大学・天理高校・教校学園の学生・生徒は奈良県に入っているのでしょうか、それともそれぞれの出身地に入っているのでしょうか。奈良県766人だと、高校生だけで埋まってしまうので、違うような気もしますが。念のため。どちらにせよ一部・二部・教校あわせて750人の比重がおおきくなってしまってますね。
リストラも大変で、リストラされた人が、リストラを断行した人に、それでもついていく、と思えるものがなければ、ショック死してしまいます。
こんな事は社会的常識のはずですが。。。
窃盗は素晴らしくも有りません。
凄い事でもありません。何度もいいますが、
窃盗は犯罪です。何も死体を切り刻んで遺棄
するだけが犯罪ではありません。
どうして、窃盗は犯罪だと素晴らしい事でも何でも無いと信者が教えなくてはならないんでしょうか?窃盗は犯罪だと云う事を指導すべきですが。
御とか義理とかは、又別次元の話です。
変な宗教団体です。
誤りが有りました。
誤)御⇨正)恩
この間、初めて投稿させて頂きました憩の家です♪
ちょっと、天理教について勉強させてもらえませんか?
初歩的な成り立ちのこととか、教えとかは知っている〝つもり〟ではあるんですが、素人ながらに色々と天理教いついて知りたいことがあるので教えてください。
天理教の成り立ちというのは、そもそも中山みきがいきなり覚醒した感じのような出来事かた始まったと聞いておりますが、何故後世の人たちはこの人を「おやさま」と慕うのですか?実際に、その時代を一緒に生きたのならともかく、何がこの人を惹きつけるのですか?また、「親神」とよく聞きますが、ではキリストやイスラム、仏教などのいう「神」・「佛」と、どの部分で何がどう異なる神様なのですか?
天理教のキーワードといえば「陽気ぐらし」とよく聞きますが、これに関して思う部分は、そもそも天理教がこの世に存在しても、しなくても「陽気ぐらし」などという概念はそもそも新たに発見された価値観ではなく、依然からある価値観だと思うのですが、(別の言い方をすれば「みんな仲良くしましょう♪」「共に良いところを見つけあって、素晴らしいですね」これを大して変わらない気がするのですが・・・)天理教が誕生する前とした後とでは何らかの違いはあるのですか?
また、「だめの教え(最後の究極の教え)」とも言われる宗教のようですが、何をもって「だめ(究極)」であるのですか?
また、天理教本部の場所を「ぢば」といい、元の場所(人間誕生の場所)と言われているようですが、その根拠はどこから来るのですか?
また、9が9桁でどうのこうの、最初は「ドジョウ」から始まった。
どうやって説明が付くのですか?
中山みきが最初に発した「元の神・実の神」と言われるものに関して、では今までに誕生していた宗教を超えてしまう新たな出来事が起こったのですか?
天理教が誕生した後でも、戦争もありますしテロも起こってます。
仮に天理教が誕生してからというものの、そういった争いが一切無くなったという事実的根拠があるなどとすれば、客観的事実の証拠として1つの見解の凄さとして認められてもおかしくはないと思いますが、そうではない。
何が信者をそこまで惹きつけたのですか?
他の見方では「8つのほこり」などと言われますが、これは仏教でいうところの「108つの煩悩」と見ることが出来ますし、過去からの旧態から存在する教えで包含出来てしまうようなものばかりで、それらの範疇を超えてしまう部分があるのでしょうか?
また、親神は中山みきに乗り移り、中山みきを通して、神の言葉として発せられたと言われているようですが、その部分を論理的にどう説明つくのか教えてください。
私が一連に疑問に思い、質問していることは誰もが一般的大衆が思う純粋な疑問点であると思います。
批判的考察を持って聞いてる訳でもなく、事実論かたその整合性や論理性がどう辻褄が合うのかを知りたいのです。
1つ批判的に聞くとするなら、「因縁」といわれる概念があるようですが、では天理教のトップである真柱様と言われる方は、中山家の血を引くものしかなれず(制度上は世襲制ですね)ですが、しかし4代目の方のところで跡継ぎが出来ないということが悩みになっていると聞いたことがあります(養子云々とか)
もし、善い行いを積んでいるのであるならば、このようなことは起こらないとも取れるのではないのですか?
何の宗教でも原始的教えてから発展して、最初の教えから形が全く変わってしまっているような宗教も多々あると思いますが、天理教はどうなのでしょうか?
あれだけの大きい本部を持って、病院を持って、学校を持ってっていう部分では、ただ単に金だけではなく、それらをも凌駕する何かがあるから、それだけ人は集まったのだと思いますが、そもそも天理教とは何を追求する宗教なのですか?
長文になってしまい恐縮ですが、天理教の専門的なスレだと個人的に思うので、浅はか私にご教示頂けますでしょうか。
憩いの家様
私の知っている限りの事で答えさせていただきます。しかし、私自身もよくわからないことだらけですし、間違った認識を持っているかもしれないので、一信者の勝手な理解だと思ってお読みくださるようお願いします。
>何故後世の人たちはこの人を「おやさま」と慕うのですか?
教祖が在世時の時代背景とも関係があると思うのですが、そんな時代に神がみき様をやしろとして降りてきて、教えを伝えはじめ、口は人間ですが心は神であり、人々を助け導く為に50年の間、ひながたという形でまずはご自身も通られました。おびやたすけや病助けで入信した人もいれば、教祖の崇高さに打たれて入信した人もいます。なぜ、人々は慕うのか?と言われれば「おや」だからだと思います。
>ではキリストやイスラム、仏教などのいう「神」・「佛」と、どの部分で何がどう異なる神様なのですか?
他宗教については詳しくないので答えられませんが、人間を創った神であり、そして人間を創った理由も述べています。ユダヤ教、イスラム教、キリスト教はもともと同じ神であったと聞いたことがありますが、根本的に西洋とアジアでは「神」の認識が違うように私は感じています。
>天理教が誕生する前とした後とでは何らかの違いはあるのですか?
これも歴史と関係してくる部分だと思いますが、幕末から明治にかけて動乱も多く、神が人間を創り、どのようにするべきかを教えなければと伝え始めた点で大きく違いはあると思います。教祖没後わずか十年で、教えが広まり三百万人以上の信徒がいたことからも、それはわかりますが、その教勢に危機感を持った政府も弾圧を強化し、為政者の流れに沿うような形になり教勢は下降し始めたと思います。いわゆる応法の道です。
>また、「だめの教え(最後の究極の教え)」とも言われる宗教のようですが、何をもって「だめ(究極)」であるの
>ですか?
これ以上のものはないという意味だと思いますが、今の教理が本当に究極のものであるかは私自身もわかりません。原典の解釈にしろ意見が分かれていたり、不明な点も多々あるからです。ただ応法のために変えられたり、誤解して解釈されていた部分があれば修正されなければならないと思っています。
>天理教本部の場所を「ぢば」といい、元の場所(人間誕生の場所)と言われているようですが、その根拠はどこから来るのですか?
こればかりは教祖が「ぢば定め」を行ったので、私は信じるしかないと思っています。
>また、9が9桁でどうのこうの、最初は「ドジョウ」から始まった。
泥海古記のことかと思いますが、歴史が始まる以前のことですから、人間にはわからないことだと思います。更に科学が進んで明らかになることもあるかと思っています。
>中山みきが最初に発した「元の神・実の神」と言われるものに関して、では今までに誕生していた宗教を超えて
>しまう新たな出来事が起こったのですか?
ちょっと質問の意図が分からないのですが、不思議な助けを多く見せられ、既存の宗教を超えたことをいくつも現したと思います。ですから教祖を慕い熱心な信者が多くできたのかと思います。
>他の見方では「8つのほこり」などと言われますが、これは仏教でいうところの「108つの煩悩」と見ることが出来
>ますし、過去からの旧態から存在する教えで包含出来てしまうようなものばかりで、それらの範疇を超えてしまう
>部分があるのでしょうか?
教祖自身が月日のやしろとなるまでは、信心深い奈良のいなかの主婦であり仏教を信仰し五重相伝まで受けられたとのことですから、仏教に関する素養もお持ちだったと思います。ただ民衆を助けたいと更に分かりやすくシンプルな形で教えを説いているのかと私は思っています。
>また、親神は中山みきに乗り移り、中山みきを通して、神の言葉として発せられたと言われているようですが、その部分を論理的にどう説明つくのか教えてください。
天理教の史実に関する文献や研究書などを読めば、その時の様子が詳細に分かるかと思いますが、私自身「神がかり」した人間を見たこともないですし、その時の押し問答なども詳しく読むと、やはり本当に神が降臨したとしか思えません。一般信者が読む教典や教祖伝などでは詳しく述べられているわけではないので、人々が疑うのも無理はないと思います。結局、信じるか信じないかの世界だとも思っております。
>しかし4代目の方のところで跡継ぎが出来ないということが悩みになっていると聞いたことがあります
>(養子云々とか)もし、善い行いを積んでいるのであるならば、このようなことは起こらないとも取れるの
>ではないのですか?
真柱は人間です。神ではありません。善い行いを積んでいたら跡継ぎができるという問題ではないとも思います。世の中に善い行いをしていても跡継ぎができない人はたくさんいると思います。教祖からの家系図をみると跡継ぎに関しては必ずしも直系の長男ではないように思います。教祖が予言して、生まれてくる子供の魂のことまで話していることがありますが、人は皆、魂の因縁あってその立場やその境遇で人はうまれてくるのかと私は思っております。ですから神がかりが本席様や小寒様、ナライト様にもあったのかと思います。神は魂を見分けているのかとも思います。
>何の宗教でも原始的教えてから発展して、最初の教えから形が全く変わってしまっているような宗教も多々あると思いますが、天理教はどうなのでしょうか?
異端のことでしょうか?天理教の場合、たくさんあります。ネットで「天理教」と検索し、更に絞り込んで「異端」とか「分派」で再検索すれば、いくらでも簡単に調べられます。
>そもそも天理教とは何を追求する宗教なのですか?
私自身の考えを申し上げますが、追求するのでもなく、人が人としてのあるべき道を教えているだけだと思っています。何かを追求しているのであれば「ようきぐらし」であると思います。
簡略して書いたこともあり、自分自身が分かっていないことも多いので、これくらいしか書けず、申し訳ありません。少しでもご参考になればと思います。
回答頂きまして有難うございます。
よふぼくの方ですか?(笑)
ニックネーム:「憩の家」として、病院の話題を取り上げましたが、天理市在住ですので天理教は身近な存在ではあるんですよ。本部も行ったことありますし、中の回廊も歩いたことがあります。ぐるっと1周すると1km近い感じがしますね。
昔は経営の神様と言われた松下幸之助さんが、天理教本部を訪れて感銘を受けられて、そこから経営の水道哲学を生み出したと言われてますが、天理教というのは一体どういう宗教なのか?という素朴な疑問が色々と私の中であるんです。
憩の家でも、開所当初で集められた医者の方々はその分野でも選りすぐりの方ばっかりだっと聞いたことがあります。胸部外科部長から→院長になられた「山本利雄さん」とか。
(http://blog.goo.ne.jp/hozugawa/e/f11c2a27fb9c4286e9c9147f17cc4d71)
天理大学附属図書館でそれに類する本を読んだりしたりすることもあります。
山本先生なんか、京大医学部を首席卒業で心臓外科の権威だったそうで・・・
そして、片方の顔としては、天理教の道に入られていたともあります。
つまり、それほど優秀な方であっても、尚、医療という分野のみならず宗教(天理教)にも傾注されそこに何か惹き付ける〝モノ〟があるというのは、非科学的とか実体がよく分からないようなまがい物とかではなく、ちゃんとした『何か』がある裏付けがあるから故の宗教でもあると私は思えるのです。
他では愛町分教会の初代会長である「関根豊松」という方も存じております。
何やら「おさづけ」が凄い人だったそうですが(見てもないし、体験もしていないので何も分かりませんが)
関根さんのようなレベルの方というのは現在の天理教にはおられないのですか?
また、ご縁もあってお聞きしてみたいと思いますが、あなたは天理教から何を学び、何を得れていると感じていますか?
憩いの家様
こちらこそご回答いただきましてありがとうございます。
>よふぼくの方ですか?(笑)
一応、修養科も出て、32年前に教会長資格検定も終え、教人登録もしております。
しかし、天理教について未だにわからないこと、知らないことだらけです。
松下幸之助さんの話は有名ですね。企業で天理教に感銘を受けて経営に活かしておられる方は他にもいると思います。また地方の教会が学校法人を運営したりしている例もあります。山本利雄氏に関しては著書も多く、医療と宗教の分野ではよく知られた方だと思います。天理教江戸分教会の会長でもあり本部準員でもあったそうです。ご存知かとは思いますが、村上和雄さんも遺伝子の研究では第一人者で信仰者として有名です。
愛町の初代さんの伝記のような本を読んだことがありますが、読後すごい人だったんだという感想を持ったことがあります。
>関根さんのようなレベルの方というのは現在の天理教にはおられないのですか?
私自身はいると思いますが、地道に活動されている方もいるかと思うので表だって有名な人というのは知りません。
>あなたは天理教から何を学び、何を得れていると感じていますか?
私は信仰的には四代目なので正直なところ天理教は大嫌いでした。若い頃は離れることしか考えていませんでした。ですから「何を学び、何を得れている」と言われても特に学んでいるとか、得ているという思いはありません。今まで生きてきて経験したこと、仕事を通して学んだことなどから、この教えはやはり正しかったのかと思っております。
天理教に対して批判的な人が多いことも理解できます。このブログの管理者様もおっしゃる通り多くの人が思っているのは「教え」に批判的なのではなく「組織」について批判的なのかとも思います。天の理を人間の都合のいいように使ったり、組織を動かすのに使ったりしていては、やはり天の理の通りのことしか起こりません。「なってくるのが天の理」と言いますが、まったくその通りであり、信者が激減し教団が衰退しているのも天の理の通りになっているだけのことかとも思います。
現在の天理教はもう衰退の一途という感じですか?
憩の家は、昔のような東洋一に返り咲くことはもう二度とない感じだと思いますか?
というより、新棟になってから何か根本的に全て変わってしまった感があります・・・
テーマ: 統計数字の説明
(1)おさづけの理拝戴人数(年間):
昭和41年教祖80年祭の年から平成10年四代真柱就任の年までの数
字は市販古書及び天理教信者により発行配布された冊子に示されてい
るグラフ等のデーターに基づく。
数値が概算の場合は数字の頭に「約」、「およそ」の文字を入れる。
平成18年から平成26年までの数字は「みちのとも」の毎年2月号巻末に
記載の「年間統計表」の実数値。
(2)平成25年教区別おさづけの理拝戴者数(年間)と教会数は、平成26
年「みちのとも2月号」巻末「年間統計表」の実数値。
教区別の数字は学生が通う学校の場所が基準ではなく、所属教会の場
所が基準。
(3)天理教の大リストラ:
自立人生は天理教の大リストラを要求しているものではない。
おさずけの理拝戴者は、50年前には1教会当たり1年間に2名強有った
ものが、昨年(平成26年)には3教会で1年間に1名弱と50年間で七分
の一激減しており、一万六千個所の教会を存続させることが事実上不可
能な事は誰の目にも明らかである。
ここまで信者数が激減し更なる減少が止まらない以上、分教会のみなら
ず大教会も本部も現状のままの維持存続は出来ない。
一万六千個所は信者の数が現在の7倍―10倍あった50年前に何とか
維持できた教会の数である。
昭和41年教祖80年祭の年、おさずけの理拝戴人数(年間)37、681人
教会数約16、000個所、1教会当たり1年間のおさずけの理拝戴者数平
均およそ2.3人(1教会で1年間2.3人)。
平成26年おさずけの理拝戴人数(年間)5274人、教会数16、676個
所、1教会当たり1年間のおさずけの理拝戴者数平均0.31人(3教会で
1年間1人弱)。
衰退は現在も止まることなく年祭期間の今も進んでいる。
天理教を職業とする教団及び教会関係者が好むと好まざるとにかかわら
ず近い将来、大教会・分教会の数を現在の十分の一程度に減少させ、か
つ本部も含めた大リストラを行わざるを得なくなるのが戦後70年間に渡
る衰退の結末である。
信仰は人間についていくものではなく、中山ミキの教えに基づく生き方を
実践するものである。
<現時点における結論>:
天理教を職業とする人たちに今更何を言っても始まらない。
天理教を職業としない一般信者は教団や教会に頼らず、中山ミキの教
えを自ら学び、毎日の生活、仕事、職業の中で中山ミキの教えである「ひ
のきしん」を実践しながら信仰の自立を図るべきである。
さもないと、信者自身の人生が教団とともに衰退してしまう。
以上
100年祭頃は、本部で全教会長を集めて講習会とかがあったように思います。
最近は・・対象: 受講時に50 歳未満かつ就任6 年以降の、受講を希望する教会長及びその配偶者というように、限定で講習会があります。
就任20年を超えるような教会長が多く集まると、夜になるとお酒も入り本音のねりあいになり、収拾がつかなくなり、若い教会長に悪い影響があるのか、一切なくなりました。長期・高齢教会長は本部では放置状態です。
最近は「バリ天」といって、異常に熱心な若者を見ます。ちょっと危惧するところもあります。天理教も統一教会のように洗脳やマインドコントロールを目指しているのかと思うくらいです。
天理教信者が激減した理由の1つに、『天理教維持財団』という天理教の金庫みたいなところが、ある時期に投資か何かで大損失を出してしまい、信者さんからの大切なお供え金をドブに捨ててしまったようなことがサイトで見られますが、このあたりも信者が去っていく原因の1つになったのでしょうか?
信者数がゆっくり減少し始めたというよりは、ある時期を境目に激減し出した感じですよね。
素晴らしい!
世襲制度は諸悪の根源、全くその通りでしょう。共産主義の北朝鮮を見れば一目瞭然、火を見るよりも明らか。建物の普請は親様は別の意味のこともっと深い意味のことを言われたと考えられないだろうか?
非信者ですが20年くらい前、興味があっておじばへも行きました。あの頃は商店街もまだ活気がありましたがそうですか—–知り合いに今も信者の人がいますが今の天理教は金集め主義だとはっきり言ってますね。あの立派な建物群を見れば一目瞭然ですね。病院も評判良かったのに勿体無いですね。詰所も繁忙期以外は一般の方々に良心的な料金で提供されたらどうでしょうか?山野辺の道とか結構人が多いですし長谷寺とかも近いですよね。維持費だけでも大変でしょう、劣化していくのは見るに忍びないですよね。
初めて拝見しましたが、面白いこと書いてありますね。全部はさすがに読めませんが。
私は後継者ですが、天理教は無くなってもいいと思います。だって、教祖の教えを伝えつづけることが私達の役目であって、天理教を残すことが目的ではありませんから。
だから、心配は必要ないんじゃないですか?
ちなみにうちの教会には青年会層が15人位いますが、半分以上はアンチ天理教です。そんな子らも、おじおばが亡くなって、私が継いだら信仰すると言ってます。
中田善亮・・・・・・・こんなえげつない奴が世の中にいることがまずありえない。その理由?性格悪すぎ。おたすけ
、おたすけ、おたすけ、オール天理なんて言うとるやつが、ランボルギーニなんか乗ってアメリカ走り回っていたのは30年前。みんなおそなえ一生懸命頑張ってしとった中で。オール天理・・・・・笑わせるな。
お前なんざにゃわかるまい、教祖のひながたなんて。
真宗大谷派(東本願寺)は安全保障法案に対する宗派声明を出しました。 http://www.higashihonganji.or.jp/news/declaration/10924/
創価大学も声明を出しました。「私たち関係者有志は、創立者・池田大作先生の理念を我が人生の根幹に据え、安全保障関連法案への「反対」を表明します。」
http://sokauniv-nowar.strikingly.com/
天理教は、なんと考えているのでしょうか?
安全保障関連法案に対する宗派声明発表
私たちの教団は、先の大戦において国家体制に追従し、戦争に積極的に協力して、多くの人々を死地に送り出した歴史をもっています。その過ちを深く慙愧する教団として、このたび国会に提出された「安全保障関連法案」に対し、強く反対の意を表明いたします。そして、この日本と世界の行く末を深く案じ、憂慮されている人々の共感を結集して、あらためて「真の平和」の実現を、日本はもとより世界の人々に呼びかけたいと思います。
私たちは、過去の幾多の戦争で言語に絶する悲惨な体験をいたしました。それは何も日本に限るものではなく、世界中の人々に共通する悲惨な体験であります。そして誰もが、戦争の悲惨さと愚かさを学んでいるはずであります。けれども戦後70年間、この世界から国々の対立や戦火は消えることはありません。
このような対立を生む根源は、すべて国家間の相互理解の欠如と、相手国への非難を正当化して正義を立てる、人間という存在の自我の問題であります。自らを正義とし、他を悪とする。これによって自らを苦しめ、他を苦しめ、互いに苦しめ合っているのが人間の悲しき有様ではないでしょうか。仏の真実の智慧に照らされるとき、そこに顕(あき)らかにされる私ども人間の愚かな姿は、まことに慙愧に堪えないと言うほかありません。
今般、このような愚かな戦争行為を再び可能とする憲法解釈や新しい立法が、「積極的平和主義」の言辞の下に、何ら躊躇もなく進められようとしています。
そこで私は、いま、あらためて全ての方々に問いたいと思います。
「私たちはこの事態を黙視していてよいのでしょうか」、
「過去幾多の戦火で犠牲になられた幾千万の人々の深い悲しみと非戦平和の願いを踏みにじ
る愚行を繰り返してもよいのでしょうか」と。
私は、仏の智慧に聞く真宗仏教者として、その人々の深い悲しみと大いなる願いの中から生み出された日本国憲法の立憲の精神を蹂躙する行為を、絶対に認めるわけにはまいりません。これまで平和憲法の精神を貫いてきた日本の代表者には、国、人種、民族、文化、宗教などの差異を超えて、人と人が水平に出あい、互いに尊重しあえる「真の平和」を、武力に頼るのではなく、積極的な対話によって実現することを世界の人々に強く提唱されるよう、求めます。
2015年5月21日 真宗大谷派(東本願寺)宗務総長 里 雄 康 意
なんのために声明出すのですか?
そんなことするなら天理教なんて解散して、政治団体か何か作ればいいって話ですね。
宗教の根本的なところを分かっておられますか?
お道の人は政治的声明で世の中を変えるというのがやりかたですか?
匿名さんへ
通りすがりですが、いまいち意味がよくわかりませんでしたので、
質問させて頂きます。
声明とは、意見や意思を世間に対して発表することで、
国民の命に関わる重要な法案に対し危機感を持った宗教団体が、
自らの考え方や姿勢を、声明として世間に指し示すことに、
何か問題があるのでしょうか?
声明を出された真宗大谷派(東本願寺)や創価大学は、
解散して政治団体を作ればいいとお考えですか?
匿名さんが「分かっておられますか?」と云われる
「宗教の根本的なところ」の内容を具体的に教えて下さい。
また、「お道の人」は、どのようなやり方で世の中を変えるのか、
具体的に教えて下さい。
よろしくお願いします。
匿名さん、よろしくお願いします。
話題の方とほぼ同世代の私は、東京で学生生活をしていました。東京学生会というのもあって、多少は関係したのですが、一度も姿を見たことがなく、プールでバイトしているという話しか聞きませんでした。事情に疎い私は、なんか、とっても不思議でした。百年祭の前のことです。オール天理というのは、いい言葉ですね。でも、結局、実態は、オール中山家の小さな枠組みになってしまっているように思います。東本願寺教務総長は天理教でいえば表統領です。上に立つ人のスケールというか、ビジョンというか、思想というか、そういうものを持っていて教団内部で支持される人がなる教団と、そういうものと関係なく血統・家柄で決まってしまう教団の違いはありますよね。オール天理をいうなら、いろいろな人材を登用すればいいのに。でも嫉妬と妬み(八つのほこりだろ!)で機能しないのは見えてるけれど。
そんなことしてはったんや・・・
中山家ってベールに包まれて、私たち下々のものには
垣間見ることも出来ないけど。
結構ショック・・・
あんたらの使う金は、お供えやで。
ほんま、ありえへん。
匿名さんは、こうした政治的なことに敵意を燃やしますね。でも、それってとっても政治的ですね。匿名さんの立場なら、一人一人の心直しこそ、世界助けだという教典のスタンスになるんじゃないかと思います。でも、そうなら、ここで政治的云々といって批判するような政治性を棄てて、そんな暇があるならひたすらおつとめをして、ここでの議論に参加しないのがもっともその信念に合致するでしょう。ただ、このブログがしばしば示唆することは、それが天理教の衰退の大きな要因になっているということなんですけどね。だから、匿名さんは、答えなくていいですよ。衰退云々なんて、どうでもいいことで、小さくなれば、小さいなりのスタンスがありますからね。小さくなれば、ぼろくそに書かれることもありませんよ。
(全てではありませんが)本部の先生方は、けっして悪い人ではありませんが、人の上に立って組織をリードするような技量があるとは思いません。
何が問題で、何をどうすればいいのか、責任を持って考える能力を持っている人材はいないのか?
当時貧乏アメリカ留学していた私には、あの超スーパーカーに乗って嬉しそうに周囲に手を振って、白煙をあげて飛び立っていた姿は、さすがショックでした。若気の至りでは済まない、慎みのない姿でしたね。あれから30年、彼はおそらく誰からも叱責されることもなく、心の成長もすることなく、未成熟な初老の男になって、しまったんですね。貧乏留学生は、今や貧乏教会長になりました。自分こそ何の成長もないのかもしれませんね。
たぶん 夢さんと私は同じような年齢かと・・・
30年前と言えば、日本経済はまだバブル期の最中だと思う。
何の疑いも無く、お供えで食べてる人たちは質素に
生活していると思い込んでた。
だって、普通はそうでしょ?自分が稼いだお金やったら
どんな使い方しようが自由だけど、お供えですよ?
人様が汗水たらして働いて手にしたお金を
神様のため人助けのためにと、天理教を信用して
お供えしてるのに。
ショックを通り越して、怒りになるわ!!
って言うか、アホみたいに何の疑いも無く信用してた
自分にも腹が立つ!
かなり年をとったものからみると、若いときやんちゃしてたから駄目だとは思いません。そのやんちゃが生きているのかどうか。みんなの前でやんちゃしていたことを公言しても納得できる歩み方だったのか。「やくざから教会長へ」でも、教会長として誰もが認めるから、そういえるでしょう。やんちゃをしておられたのなら、ぜひ、みずからやんちゃを公言して、ほこりある信仰の歩みを示してほしいと思います。
あのー、一般企業の御曹司が若いころにやんちゃしてた、
と言うのと、お供えで豪遊してるのとは違いますよね?
立場が立場なだけに、それはあってはならん事やと思います。
小さいころからそんなことも教育されずに成長し、
金が集まってくるのがあたりまえになってるのか・・・
夢のないものさん、
それではまるで匿名さんを子ども扱いしていませんか?
>宗教の根本的なところを分かっておられますか?
など、堂々と自分の意見を話されていたので、迷っていたこともあり、
詳しい考えを聞いてみたくて、わからない部分を質問したのです。
匿名さんは、勢いとは裏腹に詳しいことは答えることが出来ない人
なんでしょうか。
勘違いして質問してしまったこちらがお詫びします。
さきほど「安保関連法案に反対し廃案を求める天理大学教員有志声明」が8月6日に出されていることを知り嬉しく思いました。私は天理大学に直接関係はありませんが本当に嬉しかったのです。
ありました。
http://tenriunivasrb.wix.com/tenriuniv-asrb
おそらく彼は教理的理解はほとんどないのであろう。彼の書く文章、話す言葉には、天理教人をリードする感性は全く感じられない。表統領に無理やり自らねじ込んで就任したいと言った時も、かなめ会の選考委員の人たちは、少なからずも反対したという話を私の友人である直属教会長が話していた。末端の教会は、多くは疲弊している。わが教会も同様である。格差社会と世は言うが、天理教世界では、世界の比ではない。これを問題とも思わない、いや、感じない、オール天理のリーダーは、教祖ならどうなさるかと自問自答している布教師の原点に立ち戻るべきである。
「天理教平和の会」の有志が声明を出しました。
「戦争法案」の廃案を求める声明(天理教平和の会 有志一同)
http://www.geocities.jp/shougen60/bromaga/heiwa-seimeibun.pdf
そうですね。嬉しいことです。
一日につき百円のお供えをすれば⇔ひと月に三千円に⇔一年で三万六千円になります。
三十万人の信者さんが、かんろだいのお賽銭箱にお供えくださると⇔一年間で「108億円」になりますが・・・・・・
何か計算が合わない気がいたします!!??
何の為の計算ですか?「教祖はソロバン伏せて通れ」と・・・おっしゃっていますが。
教会本部のお供え収入は、大きく分けて、礼拝場にあるお賽銭箱と直属教会(大教会等)経由のお供えです。
天理教信者は、減ったとはいえ、約百万人ぐらいはおられませんか?・・・・・
教会本部の年間お供え収入は、直属教会(大教会)経由だけでも、もう少しあるのではないでしょうか!!・・・・・
( 天理教信者は、減ったとはいえ、約百万人ぐらいはおられませんか?・・・・)
いません。
( 教会本部の年間お供え収入は、直属教会(大教会)経由だけでも、もう少しあるのではないでしょうか!!・・・・・)
あると思います。「みちのとも」に出ています。お供えが集まっている間は、お道は変わらないでしょう。
教会本部のお供え収入は、「みちのとも」で発表されている収入額よりも、本当はもっともっと多いのでは
ないのでしょうか?(直属教会は248です。大教会159×1億円=159億円)
ご本部発表の「よふぼく」数は、855,708人となっております。天理教信者全体で百万人=いません・・・か?
いませんね。
このままでは駄目ですね。本部の先生方、全国の有志の皆さん、今の縦組織の在り方。世襲制。お金の問題等、大胆な改革が必要です。オール天理の優秀な思いを結集しましょう。自分の立場だけに固執しないで、教祖の思いに寄り添いましょう。
日本は、世界でも有数な「長寿国」であります。
日本人の中から、世界一の長寿者になられる方もおられます。
天理教の信者さんの中から、百十五歳になられる方が早く現れないかと、
いつも楽しみに待っております。
「 このたすけ百十五才ぢょみよと さだめつけたい神の一ぢょ 」
伊降伊蔵ご本席さまから、引き継がれた上田ナライトさまが二代目本席さま。
その後、「さづけ」を渡される方が、初代真柱夫人の中山たまえさまとなり、
その後、中山正善二代真柱さま・中山善衛三代真柱さまと継承されて、今は
中山善司四代真柱さまが、ご本席さま??のお立場を兼任されていることに
なる訳でありましょうか?
「おやさまご存命の理」と本席さまと真柱さまのお立場を語られる方は???
◎ 伊降伊蔵 → 飯降伊蔵
◎ 中山たまえ → 中山たまへ
天理教教会本部には、なぜ女性の「本部員」が現在おられないのでしょうか?
私の知る限り、女性では「増井りん」さんだけしか本部員に登用されていない
ように思います。
「本部婦人」の立場と「本部員」とは、組織の上でも、お役目がずいぶんと違う
ように思います。
本部直属教会(大教会等)でも、女性の会長さんもおられる訳でありますから
本部員の登用資格は、男性・女性関係なく平等にあるというのが、本当の意味で 天理教らしさであると、個人的にはそう思う次第であります。
「かぐらづとめ」のつとめ人衆 5 : 5 =10人 お手ふり 3 : 3 = 6人
おやさまから教えられた男女比は、50 : 50の同じバランスであります。
☆ 教会本部参拝者受け入れ設備の充実について
① 礼拝場周辺のトイレの数が総体的に少なく感じます。特に大祭月には、女性用トイレが長蛇の列に
なっています。 ◎ 女性用トイレは、もっともっと増設が必要であります。
② 車社会でもあり、おぢばがえりの駐車場対策・整備に、もっと力を入れてほしいと思います。
一般参拝者に対する思いやりがいまひとつ、もっときれいな舗装がある駐車場をつくってほしいと
思います。
③ 祭典中、礼拝場に入りきれない参拝者に、もっと配慮をお願いいたします。
雨天と炎天下対策として、例えば、北礼拝場と教祖殿との間の中庭の上を全体的に屋根で覆うことを
(中庭の景観を生かしたデザインで)考えられませんでしょうか?
◎ このような「要望書」は、ご本部のどちらの部署へ、お願いしたら良いのでしょうか??!!
400万人規模の巨大宗教団体!「立正佼成会」が安保法制に反対を表明!
http://www.kosei-kai.or.jp/infomation/070/post_502.html
素晴らしい子です!!
訂正 素晴らしいことです!!
<安保法案反対>公明に直訴へ 学会員、署名7000人
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150906-00000010-mai-pol
8.30国会10万人行動にもたくさんの創価学会員の方々が参加されておられました。
教会において、御供え等でたいへんな目にあっておられる方は、信仰をやめるよりも
「おぢば」で、直接神さまと向き合って、信仰を続けた方が良いと思います。
「教会はいらない!!」とは申しませんが、おやさまがご在世当時には、まだまだ、
教会どころか教会本部もなかった訳でありますから、それぞれが、しっかりと自分の
人生の上に、「天の理」の教えに沿った生き方を、見つけていけば良いかと思う次第で
あります。
「おぢば」に、こころをよせて・・・・・・・!!
私は、末端教会所属の一信者で、「よふぼく」になって、今や40年が過ぎています。
昔は、<理の親>という言葉はよく耳にしましたが、幸運なのか、その言葉に振り回された経験は
ほとんどないように思います。
巡教の先生からの献杯(お流れ?)は、その昔、直会の席でよくありましたが、その風習も今は、
当教会におきましては、見かけることはございません。
私たちには、御供えのノルマもないですし、とても良い教会なんだなあと感謝感謝であります。
本当に「おみちの中にも、世界あり」なんだなあと思っております。
古い教会長様
「戦争法案」の廃案を求める声明(天理教平和の会 有志一同) の情報ありがとうございました。
130年祭期間中に次々と起こる大きな困難に、信仰者として考えを表現することは当然のこと。
本部は文句をいってくるのでしょうか?
具体的に言ってきたら、反論できるだけの信仰心はもちたいものです。
言われたら、理をといてあげればよいのです。
陽気暮らしを目標とする私たちは、憲法9条を守りますと。
私がいつも思うことは、教会よりも自分の方が貧乏だということです。
分教会長夫人達の頭にはパーマがかかっています。年金暮らしの自分はおかっぱ頭。
酒好きの女が多い!!!
直会ってもう、やめるべきでは? 詰め所に宿泊すると、のん兵衛女が多いことに驚かされます。
酔っ払いにつきあわされて、早く寝たいのに寝られない。
詰所内は禁酒が当然でしょ?
天理教は修行しなくても人の上にたてるから、自分の行いに甘い。
自分は信仰者として、教会の皆さんの行動は神様に任せています。
でも、直会廃止は提案します。
教会の方へ
上級へのおつくしはノルマがあるんですか?
できない時は 心を低くして「申し訳ないけれど、できませんでした。」と申し上げてはいかがですか?
心を低くできれば、本当に申し訳ないと思い、その心に神が働くはず。
それはお金が集まるという働きではなく、何かしら、なるほどと思えるようなことが起きるのでは?
ある大教会では、古い信者2名の上に身上がおきました。
神様はちゃんと貯えがある所を知っておいでです。当たり前のことですが。
恨みながらお金をお供えするのは信仰的にも「?」のはず。けっしてそうは言いませんが。
心を低くしてお詫びする。それができないのは高慢なのでは?
もしも、これを実行して、上級から文句を言われたら、私が怒ってあげるからね。
あんたら、おかしいでしょう?ってね。
神一条に判断しましょう!!!
今の安部政権と天理教の幹部の皆さんの、思考がよく似ていると思えてなりません。一般信者の声、末端教会の声が届きません。
聴く耳がなければ、音として聞こえていても心には響かないのでしょう。
多分、理解出来ないのだと思います。
末端教会の会長さんをはじめとする方々は、本当にご苦労なことが多いと思います。
「よふきぐらし」を目標に、今ある問題を改善していかなければ、「おみち」から離れて
いく人々が、どんどんと増えていくことになります。
今まで郵便局が配達していた「天理時報」を、各支部の教会等の方々が手配りすると
いう内向きな方針が、大きなご用にもなっているように思えます。
ポスティングだけでもたいへんな時間と労力を費やすことを、各支部で競うような現状
には、今ひとつ理解に苦しみます。
よふぼく家庭とのコミュニケーションを地域で支えていくことには賛成ではありますが、
今のやり方では、一方通行のように思います。信者さんにも選択肢を与えるべきだと、
私は考えますが・・・・・
◎ 酒盛りの多い「直会」で、本当に、おたすけができるのでしょうか?!!
◎ いつから、おやさまより偉い <理の親> が存在するようになったのでしょうか?!!
◎ 御供え金のノルマがなければ、真の信仰ができないのでしょうか?!!
「百十五才定命」 ⇔ 天理教人の中からはまだ一人も115歳になられた方はおられないようです。
まずは、ご本部の方々の中から、「なるほどのひと」!!の「てほん・ひながた」をめざしてほしいと
いつも思っている次第でございます。
私は、末端教会所属の、いち「よふぼく」です。
私の所属する教会では、
* 月次祭祭典後の直会? ⇔ お酒は一滴も出てきません!!
* <理の親>と呼ばれる制度?は、存在いたしておりません!!
* 御供え金の強制(ノルマ)は、今まで聞いたことがありませんが!!
同じ「おみち」の中でも、やればできるんです。
でも、ちぁんとご守護はいつもくださっていることに、感謝いたしております。
ほんとうにほんとうに、ありがたいものであります。
何かにつけて、お道は、お道は・・・と天理教人はよく言うが、
そのお道の世界観が狭すぎて話にならんわ。
理の親がどうたら言う前に、こう世の中に無関心ではあかん。
ハッキリ言って、世界の動きなどどこふく風。
狭い井戸の中で、いつまでも陽気暮らしゴッコ。
しかもその中で、苦しんでいる信者も多い。
教会通わなくても、おつとめしなくても
世間の人たちは努力して陽気暮らししてまっせ。
最後にひとこと。
お金は世間の人たちの労働の貴重な対価。
この真実を忘れたら、人間詰みますで。
貴重なご意見をありがとうございます。
9月17日 参議院安保法案審議 午後4時30分ごろ
アベ首相はなぜか、法案の採決前に退出!
ひきょう者としか言えない。
昔から小学校のクラスに一人はいたような、勉強が少しはできても、
「友達がい」のない、ひきょう者の、よわい男子。
アベ首相はそんな姿をさらしていた。
委員長の解任動議が否決された後、自席に戻った鴻池氏を
ワッと自民議員がガードに走り、
ついで野党が取り囲み、せめて採決をさせない行動をとった直後の退席でした。
僕は知らんよ。
僕とちがって野党からもリスペクトされたようなコウノイケ君なんて
ほっとこっ! 人気がないぼくちゃんでも、勝ったもんね!
これが首相です。
種が悪いとこのような人間ができるんでしょうか?
採決だって、されたのかどうか、画面を注視していてもわからなかった。
自民議員が何となく規律していたので、おそらくは、事前に作戦が
立てられていたのだろう。
ならば、首相は、「可決されました」の声を聞いてから退席すべきだろう?
失礼なヤツだ。 人を小馬鹿にしている。
自分が嫌われ者だと知り、それでも強がっている。
哀れな人だ。
だれか、お助けに行かなくては。
誰もチャンネル持っている信者はいないのか。
親神様!!!
陽気暮らしができない人間社会です。
でも、多くの信者が平和を祈り、においがけを平和活動ととらえ、
謙虚に神名を口にしています。
天理教だけではなく、親神がかつていりこんだ、イエスや釈迦に
導かれてきた人々も、祈っています。
どうかお掃除をお願いいたします。
このままでは日本人は心が壊れてしまいます。
親神様、 おやさま、 130年祭を前にして
大きなお掃除をお願いします!!!
× 規律 起立でした。
創価学会員がインタビューに答えていました。「私たちは公明党にだまされていました」と。
我々は「教会本部にだまされていました」と言える人が増えるかも。
戦争なんてだれも納得なんかしないでしょうし、宗教関係なしに反対の立場に立つでしょ。
集団的自衛権がさも戦争に突入せんとする国家の方針のように言われてますが、本当にそうなんでしょうか。声高に反対活動をされている方々が論点とされているところは極論のように思えます。
集団的自衛権は、他国が攻撃されたとしても国民に明白な危険があると認められない場合には行使できません。新三要件を見れば明らかです。
また、侵略戦争の容認ではありませんし、これまでの自衛の精神を覆すものでもありません。
話し合いで戦争が起こらないように…という意見がデモなどで聞かれますが、話し合いが出来ない相手だったらどうするんでしょうか。そのお手本がISISや北朝鮮に中国でしょうか。また今回のノーと突きつけるだけの民主党も話し合いができない象徴のような党です。
天理大学有志の会のFacebookページでも運営側が容認派のコメントに対し、暴力的な発言をされてますね。
反対派の方が意思に合わないものは排除したいという考えを行動原理にしているように思います。
ほら、もう国内ですら話し合いができないんです。攻めてきた相手に話し合いを…なんてのは夢想家のいうことですよ。
さて、戦争法案反対と言っている人の中で知らない人もいるんでしょうが、現行の個別的自衛権の容認だって戦争になりかねないわけです。アレルギー的に戦争という言葉に反応して声を荒げる人は、他国の侵略を受けた際にされるがままを受け入れるのでしょうか。
そもそも自衛権を持ち、自衛隊を保有する以上、戦争の可能性があるということです。しかし、保有するが故に戦争の抑止力となっているんです。
近ごろはこの抑止効果が低下しているわけですよ。だからこのタイミングで集団的自衛権の容認の動きになっている。つまり、戦争抑止のための現実的な合理性があるということです。
世界中が武器を捨てて、共に手を取り合えたらどんなに良いか。けれど、現状は悲しいかな、暴力でしか自己を表現できない、また利益のためには武力行使も問わないという危険な思想があるんです。
今はまだ陽気ぐらしは夢のまた夢。私たちに出来ることは平和を祈り、身近なところから手を差し伸べていくことしかできません。
親神様、 おやさま、 130年祭を前にして
大きなお掃除をお願いします!!!
ってのはかなりカルト的な発言。たすけあいの邪魔になるから掃除してくれっていうことでしょ?
世界一れつたすけたい天理教が何を言うのか。願いの筋が本末転倒。信仰が私怨に負けてるよ。
はじめて投稿します。60年前の疑問に(天理高校二部)思っていた事柄がネット時代になり社会の表?に浮き彫りにされていて、いよいよ お道のみなさん本気に考えください。金の切れ目は縁の切れ目でお道は離れて58年、本当に良かった。と胸を撫で下ろしています。みなさん早く目を覚ましてください。これからも投稿させてください。
匿名の方がきな臭い。
うけとるすじもせんすじ
オカルト的? どのように読んだらそうなるんかい?
君はいわゆるネット上で戦争反対派をつぶして回る、右翼のあんちゃんじゃないかい?
ここを荒らしては申し訳ないが、ネットに慣れていない方のため、
「アラシ」的書きこみに惑わされないよう一言。
信仰者とは思えませんね。
今まで天理教お信じてよく天理迄参拝に行きましたが、これ程部内教会で神お欺く教会が有るとは? 暴力は振るうし身分お証明する物は取り上げて逃げ出さなくするし、又逃げ出そうとするとその人の髪お切って外に出られなくする、大きな問題になる前に対処した方がいいと思うよ?須磨の大きな教会さん?貴方の部内の兵庫にある教会と言えば解るかな?でないと告訴するよ?苦しんでる信者さんの為に!
それって監禁じゃないですか!
もっともっと世間に公表しましょう。明るみにださなきゃだめです。
「天理教 基本教理」の中に基本さんの師が言ってたそうです。
天理教とは「きいているだけなら天国、して地獄」本当にその通りです。
芹澤光治良先生の「人間の運命」が、天理教そのものです。
信者デスさん!苦しんでいる方を救ってあげて!
K大教会の一信者です。
最近大教会に住み込んでいた夫婦(部内教会長、大教会長実弟)が出て行きました。と言うか逃げて行きました。
大教会長夫人によるDVが原因です。教会に帰らさず女中あつかい(奴隷かな)暴力、言葉の暴力、ひどいものです。大教会長も見て見ぬ振りです。
誰も止められませんでした。
多分その夫婦は帰ってこないと思います。
今、張本人はまわりの人達の目が気になるのか詰所に逃げています。
暴力だけ見ても天理教だから許されるものではないと思います。
時間がたてばまた元のように振る舞うのは目にみえています。この現状を変えたいのですが、役員連中は教内の目もありますし、まぁまぁで終わらせるように思います。
大教会長夫妻を辞めさせるのが一番かと思いますが、一信者ではどうしようもありません。
このメッセージを拡散させて下さい。
ひょっとしたら教団の上層部の耳に入り状況が変わるかもしれません。
もしかして、KNZK大教会ですか?間違っていたらごめんなさい。
きっちりとした対応が必要ですね。
私は一信者で里親をしています。
天理教は教団を挙げて里親登録の推進をしているようです。
教会であればそこそこの広さはあるし、宗教家ということで行政への心象もいいでしょう。
里親登録をして里子を委託されると、月々結構な金額が委託費・里親手当として支給されます。
里親登録をして何年か経ち、何人かの里子を預かり、条件を満たすと
ファミリーホームを立ち上げることもできます。
ファミリーホームは事業で、補助者などを雇い、里子を最大6名まで預かることができます。
里親とは比較にならないくらいの事業費などが支給されます。
熱い思いを持って、里親として奮闘されている方々の方が多いに決まっていると思います。
が、私は教団が里親登録を推進するということに、すごく違和感があります。
個人個人が自分の意思で、自分の選択で登録するのなら何の疑問もありません。
なぜ教団がわざわざ天理時報などで大々的に特集したりするのか?
委託費や里親手当て、事業費などをお供えとして搾取しているのではないか?
子どもたちに出ているお金を、子どもたちに十分還元しないで、
この子らは因縁が悪いとか何とか言いながら、国から出たお金(税金)を
せっせとお供えしているのでは・・・?
里子には宗教の強制は禁じられていますが、幼い子には刷り込まれますよね。
こんなことは考えたくありませんが、里親という福祉を利用して、
教団が人集めと金集めをしているような感じがします。
私の考えすぎであればいいのですが、みなさんはどう思われますか?
古い教会長様
当たりです。
よくおわかりになりましたね。
この大教会腐ってます。
たぶん普通に帰って来て、何事も無かったようになるでしょう。
一度、潰れるか、社会的に大きな問題にでも、ならない限り、この組織は出直すことは出来ないでしょう。
覚悟して通りましょう。
「K大教会の…」 匿名さま
イニシャルでなく、実名称を書いた方が。
少しは、書き込む意義が有るのかもしれません。
カインさんも、ブログのある記事には。
大教会の名称を載せております。
残念ながら。
拡散したところで、何も動きはありません。
本部役員、大教会長、上級部内会長、婦人、役員…
横暴な自己権力を振る舞っている、一部の方々に対して。
上層部(本部)、教内でも、把握も認識もしています。
間違いなく、抗議、クレームも。
口頭、書面なりの方法で届いているのも確かです。
ただ、見て見ぬふり、聞いて聞かぬふり、知っていても知らないふり…それが天理教組織です。
天理教関連のネット、掲示板も。
本部、教内の方々が見て読んではいますが。
無関心を装い、泥を被ることはさけ、波風を立てぬこと。
昔から続く天理教の現状です。
ただ、教会の役員、信者さん方々が。
声を合わせることで。
会長、役員の解任、交代は出来ます。
現に、信者さん方々の不信任案で。
解任させられた会長、役員は、何人もおります。
会長夫人も含まれるはずです。
その横暴さは、今に始まったことでなく。
昔から、黙認されてきたことですね。
暴力、DVとハッキリと書かれているので。
被害に合われた方と行政窓口に相談されるのも、
1つの案です。
問題は、ネットでは匿名で提示できますが。
行動に移すと、個人、家族、周辺の方々への。
嫌がらせ、脅迫まがいな迷惑行為の心配です。
天理教内、宗教団体内での、悲しい現実ですね。
八方美人の天理教。
それは、外面は良く、家の中では横暴を振るう。
言葉を悪くすれば、「家庭内暴力」です。
それは、権力であり、上納金の強要であり、
言葉での脅迫であり、宗教言葉での長き時間にわたる洗脳とトラウマです。
確かに、横暴振る舞いを続けているのは。
一部の天理教関係者です。
現実の教会活動、ネットでの言葉でも。
明るく、支え合い、強要も強制もなく。
素晴らしくあり、慎みある、人間味ある教会長の人柄に集い、天理教信仰を続けて繋げている。
大教会、部内教会、分教会も沢山あります。
目をそらせていけないのは。
社会、世間、教外に。
「一列兄弟、人助け」をうたい、掲げる天理教が。
教内の中での、人助けさえも出来ていないことです。
教会の因縁などと、それは間違ってます。
その時点で、天理教の無責任さを露呈しています。
家庭内暴力を、黙認して、容認し。
その時点で、何を語れるのでしょうか。
教理の元に人が集まり。
教理とは関係なく。
勘違いな構造的強者が、良心を持ちあえて我慢を選び耐え支える構造的弱者に。
横暴な振る舞いを続ける。
そこには、教理や天理教は在りますか?
信者さん方々の良心で支えられている天理教であり。
そして、信者さん方々の良心を踏みつけている
天理教でもあります。
天理教として、このままで良いのでしょうか?
宗教団体として、このままで良いのでしょうか?
何も感じませんか?
何も感じないのであれば。
信仰などしない方が、善いのかもしれませんね。
せつないですね。
修理巡教の本部準員の先生に甘露台倒壊の際、この事情について「本部の先生方は練合はされているのですか?」と問うたところ、「それは、していません。」と答えられました。「本部の先生方で本部の改革は出来ないのですか?」と問うたところ「それは、無理です。地方の会長さん方が声を上げてもらえば、あるかも知れませんが・・・」と言われました。
はぐれ雲さん、それは神崎です。
はじめて投稿します。
私も入信してかれこれ26年となります。天理でいう いんねんがありまして入信してのですが。
この宗教は以前から認識がありました。以前私の家の隣に某分教会がありまして、幼いころから鳴り物を聴きながら育った環境でしたし、分教会の息子・娘さんとも近い年でしたから 一緒に遊んでいました。その当時、ご両親は道一条でしたので、子供たちは本当に貧乏でしたが、どちらも明るい性格で、悲壮感は全くなかったです。
私が中学生になったころその分教会長さんが亡くなり教会があった場所は更地となりまして、今は私の会社に委託されて駐車場として管理しています。
天理教なんて全く私の人生にキーワードとして関係ないと思っていたが、廻りめぐって今、信者からようぼくとなり今現在、某布教所に月次祭に通っている自分の姿に不思議と思うのです。
気がつかないけれど、教祖さまはいるのです。
そう思います。
一方で、現実はいろいろ問題もあることも事実ですが、それはそれとして上をみたらキリはない。
お金がなければそれを訴え、あれば自分ができる範囲で上納する。その程度の認識です。
私が通っている布教所は道一条で通ることがむずかしくなりましたので、今は飲食店を経営しながら布教所を営んでいます。先生は毎日苦闘しながらも布教所を営んでいる姿には、えらいと思います。
皆それぞれ、自問自答をしながら、天理の教えを軸に生活している。それでよいのではないかと思うのであります。
人間には身分相応な生活=天理用語で言えば、徳分いっぱいの世界とゆうことなのではないでしょうか?
世の中すべて、平等になることは無理です。生まれた星で人生を楽しまなくてはいけないです。
隣の芝生は青い しかし、本当に幸せなのか?それはその人本人しかわかりません。
古い教会長様の言うとおり、神崎大教会です。
拡散することによって、教団の上層部の耳に入れば少しは変わると思ったのですが・・・
残念です。なぁなぁで終わりますかね。
教団内全部に広まればちょっとは変わりますかね?
神崎大教会1回壊れればいいと思います。
ちゃんとした人達だけでやり直せばいいのに。
神崎にも真面目に頑張ってやってる方は大勢居ると思います。
大教会長夫人始め駄目なのは一部だけだとおもうのですが・・・
朝日新聞(2015・10・18)に興味ある書籍が紹介されていました。(評・原武史)
『新宗教と総力戦』 永岡崇<著>(名古屋大学出版会)
原氏の書評から読みたくなりました。天理教の歩みです。
古い教会長様
私のような、まだまだ生意気な者と。
対話していただいて、嬉しく思います。
古い教会長様は、長き時間。
天理教を信仰し、天理教を見つめ。
本部へも意見をうかがい、
信者さん方々とも対話を繋げ。
自問自答も繰り返してきたと思います。
今後も、そのままに。
志を持ち、天理教を信仰し、心配をし。
多くの方々の声に。
対話を続け、繋げて欲しく願います。
「本部では、練合はしていない。
地方の会長さん方々が声をあげて…」
本部準員の言葉を文面に読み。
昔から感じる、天理教に対しての。
どこか靄がかったものが、晴れた気がします。
本部、地方限らず、天理教は天理教として。
「すでに昔から、サジを投げている。」
のように感じ、納得しました。
地方の会長さん方々がまとまり、声をあげるような。
想いも熱量もありません。
各々の大会、会議、講話など。
波風はたてないよう、言葉並べでもあり。
連絡次項を伝えるだけのもの、に成っています。
地方教会、信者さん方々も。
天理教に翻弄され、疲労困憊している方々、
家庭も多いことも現実です。
天理教にとって。
本部とは何なのでしょうか?
本部員の方々にも、系統もあり、所属教会もあると思います。
本部と大教会分教会は、法人格?が違うのですよね。
縦の大教会系統、その他に教区、支部。
教会の七割が事情教会と呼ばれるデータ。
事情教会の内容も様々です。
無担任教会、活動休止教会、信者数0~数人。
部内、部下教会の上納金で権威を持つ教会。
信者数もおり、教会家庭が仕事等で収入を得て。
宗教法人の非課税の恩恵を受け、裕福な教会。
教会活動に精進するも、宗教法人を得られない教会。
宗教法人とは、何の為の、何をする為のものなのか。
天理教内で、とても多くの、耳に聞く言葉。
「天理教は、教えは良いけど、本部のやり方は間違っている。」
でも、間違っている本部のやり方も。
天理教で在ることも、目も耳も反らしてはいけないことです。
「日々、成って来るのが天の理」という言葉。
本当は、
「今の現状に、成るようにやって来た。」
たったそれだけの事実だと思います。
今現在、世界中で、宗教離れが進行しています。
日本にも、多くの宗教団体が存在します。
天理教も、衰退減少していく。
その中の一宗教団体です。
私は、宗教離れは悪いことだとは思いません。
ただ、宗教活動、業務に従事する多くの方々が。
宗教業務を辞め、社会へ仕事を求めれば。
就職難などの言葉では済まなくなります。
そんな意味では、宗教団体も社会のバランスを。
保つ役割は果たしていると思います。
もちろん、人の人生、家庭を宗教で壊すことは。
極力減らさなければなりません。
少子高齢化の問題もあります。
お墓の意義さえも、考える時代になりました。
そして、宗教とは何か、必要なのかさえも。
考える時になりました。
天理教が衰退していくことが。
善いか悪いか、白か黒か。
日本人も、天理教も、グレーゾーンを好みます。
ただ、グレー(灰色)は、白と黒の混ざり具合です。
そして、世界は色彩とりどりに溢れています。
満場一致などはあり得ません。
手術には、情が有ってはメスは入れられません。
手術を受ける側も、手術をする側も。
情報、経験、体験、を集め、技術を駆使し。
願わくば、以前の機能に戻ること。
願わくば、それ以上に跳躍出来ること。
戻らずとも、新しい道を見つけ歩み出すこと。
リハビリとは、一生涯の自身との闘いです。
「陽気ぐらし」とは、闘わないことなのでしょうか?
天理教は、メスを入れる熱量も志も無くしましたか。
リホームよりも、壊して建て直した方が。
効率もよく、予算も同じかもしれません。
でも、天理教が潰れてることはなくとも。
土台まで疲弊してしまえば、建ち直す熱量は。
天理教には、無いと思います。
規模を縮小しても、勢いまかせに広げたツケは。
天理教自身で、整理整頓しなくてはなりません。
改革、復元、白紙にもどす、色んな言葉がありますね。
私が望むのは、天理教の外からの解体です。
天理教のコア、核とは何か。
天理教組織を、天理教内外の見識者、学者、信者さん方々などの、多大な努力のもとに。
解体し、整備し、新めることは、3年も有れば可能かもしれません。
夢見話ではありますが。
天理教の教則は、日本国家の多大な法律のもとには。
効力はありません。
何の為の法で、何の為の律なのか。
天理教組織に必要なことは。
カインさんも、ブログ記事の中に述べてある。
「自浄作用」だと思います。
天理教本部組織内部に。
天理教内外の、有識、見識者による。
「天理教社会学研究部」を設立することを願います。
おやさま百三十年祭ですか。
いつなのかは、私はわかりませんが。
旬だ節目だと、騒ぎ仰ぎたて。
役職、教会長などの交代が相次ぐと思われます。
強制に近い上納金の問題もありますが。
自己権欲を残すが為の。
多大な借金、普請などは止めて欲しく強く願います。
そして、権力や勘違いをおこす環境の中で育た。
一部の後継者、教人、関係者の。
増長と暴投は、防ぎ改めて欲しく願います。
私は、天理教に対して。
「理不尽、親心の無さ」と、抗ってきました。
自分自身の分岐点の出来事の際に。
天理教、天理教関係者とも。
一切の交流も連絡も、はっきりと断りました。
「宗教関係なく、個人としての付き合い…」
と、手のひらを返す天理教の方々も沢山いました。
「天理教により、財や時間、家庭も失った方々も沢山います。その方々に、その言葉をかけられますか?
出る杭を叩いて喜び、目の前の現実に見てみぬふりもして、何が陽気ですか? 自分達のしてきたことを、正道(まっとう)と思わないで下さい。自分達のしてきたことを、誤魔化さず。最期まで背負って下さい。」と。
本当は、もっときつい言葉を使いました。
自分の見てきた天理教と、全国に広がる天理教の
現実を確認したかったです。
やはり、天理教の現実はそのままでした。
天理教で救われ、支えられる方々も沢山いるのかもしれません。
でも、天理教で苦しむ方々も同じぐらいに。
それ以上にいることを、誤魔化さず、見失わないで下さい。
天理教の理とは。親とは。天理教とは。
私には、今でも、さっぱりわかりません。
わかりたくもありません。
それで善いと思います。
何年前に。
母を介護し、看取り、送り出し。
そして、月日を重ね。
母も私も、他の方々も。
振り回され、苦しめられた、天理教を。
整理した家の中で。
母の写真と、時々対話しながら。
日常にポッと浮かぶ。
母の姿を感じながら。
沢山のことを感じ想い悔やみ葛藤しています。
でも、感じたことの中に。
「最期に残るのは、人と人。たったそれだけ。
そして、命と時間は同じものだと。」
その時はその時にしか在りません。
そのとき出来ることを、やらない人が。
先や未来を語ることは、薄く感じます。
神を語る前に。
やるべきことが、沢山在りますよね。
母は、平均寿命よりも少し早かったですが。
自身の人生を全うしました。
中山みき様も同じです。
いつまでも「存命の…」と。
天理教の都合欲使わずに。
送り出すべきではないのでしょうか。
送り出し、次は自身が歩み成長すべきです。
子を持つ親の方々へ。
例え教会で在ろうとも。
自身の子に、いんねん、神の御用など。
天理教を持ち込まないで欲しく願います。
自身の言葉で、対話して下さい。
神がどうの…と使うことは。
育児放棄であり、親であることの放棄。
そして、親ではなくなってしまいます。
子供の未来を守ることが。
親、大人の存在意義の1つだと思います。
天理教内で、横暴な権力を振りかざす方々へ
一言に、わかりやすく伝えると。
イジメ、カッコ悪いです。
教理も組織も。
叩き磨きあげて欲しく願います。
組織こそ、叩かれて伸ばして叩いて。
ブレない核を作り上げて下さい。
ちょっと日常の中で、在る出来事があり。
感慨深い夜になったので。
内容の重複も、多々ありますが。
綴っていました。
はぐれ雲なので、またフワッと。
立ち寄って見ようと思います。
「天理教社会学研究所」
熱量を持ち志ある方々が。
多くのスタンスの方々が。
行き来して溢れる場所になるよう願い祈ります。
里親の件、自分が知っている限りでは、教会だけでは食べられない末端教会が里親制度を「利用」しているのです。里子に対して出る結構な金額の補助金で教会一家が細々食べているのです。この制度、貧しい天理教教会の食いものにされています。事実、上級教会長が言うのに「里子を受けたら結構ようけえ金が出るらしいで。あれはええらしいで。」とうまい話と言わんばかりの話をしているのを聞いて、いやらしさに興ざめした覚えがあります。里親福祉制度を「利用」し、自分達がありついている、否利用せざるを得なくなったこの天理教組織で泣く末端教会。おそらくもらった補助金をお供えにまわすと言うよりは自分達の生活の種になっていると思われます。人だすけの天理教が社会の税金を表向き上手に利用して社会に助けられている。お粗末で恥ずかしい話です。(全てではありません。里親として心から大切に里子を守り育てている教会も数多くあるとは思いますが。)
匿名の教会長様
そうですね、お供えよりも生活費ですね。
もちろん里親手当てという名目で出ている金額もありますので、
そこをどう使おうと自由ではあります。
委託されてきた3歳ぐらい子どもに、会長さん と呼ばせている里親にはびっくりしました。
なんだかモヤモヤした気持ちが拭えません。
社会的に最も弱者である子どもを利用しているようで・・・
教会関係の里親が増えると、色んな問題が出てくると思います。
傍観しているしかないですが・・・
《委託されてきた3歳ぐらい子どもに、会長さん と呼ばせている里親にはびっくりしました》
そこには、福祉のお金を利用して子供の住み込み人を作っているという意識があります。
年祭の年だから?いつもより大変なこと起きやすい?
よくわからないです。
私の周りにも年祭の影響で離婚した人がいるので、先生方は別席へのお誘いに熱心です。
お金がないと断っても、「それはどうにでもなるから」といっているそうです。
その人は息子さんを連れてお地場へいく予定らしいのですが。
私はそんなことで本当に助かるのか?と思います。
年祭にはノルマがあるらしいので、上級教会からの締め付けが厳しい。
結論として、最低ラインのノルマは達成しなくてはいけないのがホンネ
なのでしょう。
なんだかこの話聞いて、残念に思ったのは私だけかもしれません。
そんなことを布教所で話題にしたら、私はここに来れません。
人間関係を壊してまで、そのような会話はできないので、
教会を去るか黙っているかこの二通りの方法しかありません。
ここ何年間信者さんも減りました。
それはそれで残念ではあります。
今、インターネットで天理教の裏話が流れていることも布教所サイドも見聞きしてはいると思いますが、
私以上に教会にお世話になった方々ですので、その情報を冷静に検証したりすることは皆無です。
私自身も先生方にそのことについて議論することを避けています。
天理教の教えはすばらしい。しかし人にその教えを強制してはいけない。
私自身 おやさま・理の親様に恩義はあります。
しかしながら近い将来、結果として教会に足を運ぶ回数少なくなりそうです。
mami様
朝日新聞(2015・10・18)に興味ある書籍が紹介されていました。(評・原武史)
『新宗教と総力戦』 永岡崇<著>(名古屋大学出版会)
原氏の書評から読みたくなりました。天理教の歩みです。
とご紹介くださった18日の朝日新聞の書評読みました。
また ↓ のAmazonのレビューも講読意欲をわき立てますね。
http://www.amazon.co.jp/新宗教と総力戦―教祖以後を生きる―-永岡-崇/dp/4815808155
ただ、大学出版だけあって価格が高い!笑
天理教内で学べる歴史は教祖ご在世時代とおさしづの時代がメインですので、戦時下に焦点を当て、さらに客観的に論じているものは希有な存在だと思います。
いつか機会があれば読みたいと思います。高いんでね、買ってまで読めません。
年祭だから何かが起きるわけではないと思っています。何かがたすかる訳でもありません。この旬に頑張れば良いことが起こる。頑張らなかったら悪いことが起こる。そんなことはありません。現に上級教会の会長さんは上へのお供えに追われ、借金まみれで「旬」の最中に今年出直しました。頑張って、信じて尽くしていたのに、亡くなる時は亡くなるのですよ。(癌でした。私は出直しもご守護と思っています。)ふたつ上の教会長が私達末端教会の信者達に言ったことは、「お前達の勤め方が足りないから会長を救えなかった。何をしてきたのか。通り方をしっかり反省しなさい。」でした。会長が亡くなったのは私達のせいですか?彼はあなたの教会に借金まみれになりながらお供えを運んだのではないのですか?どうして助からなかったのですか?」と聞きたいのです。「旬だ、旬だ、」とは信者にお供えや信者獲得のはっぱをかけるための都合良い言葉。親神様は「旬」などのピンポイントには関係なく常に絶えることなきご守護を下さっています。良いことも、また自分にとって都合が悪いことも、全て親神様からの与えであり、たんのうし、常に喜びに変えて感謝の心を忘れず暮らすことだと思っています。「旬」の掛け声に振り回されてはいけません。旬だからではなく、日々毎日を丁寧に生きることだと思います。
匿名の教会長さん、まったく、その通りです。
まず、いろいろとハッパをかけられても、人が言っていることです。心を強く持って、神と向き合うと軽くなります。欲の混じった言葉に惑わされてしまっているのです。あいつは駄目な教会長だとレッテルを貼られても平気でいることです。
そして上上級の教会には参拝しない心定めをすることです。自分の教会家族と信者さんを全力で守ることが大切です。
何を言われても、平気になれる強さが必要です。相手の武器は言葉だけですので、当たっても死にません。
お金が集まっている限り、この組織は助かりません。お供えをしないことが、天理教を真から良くする方法です。
お供えを減らすキャンペーンをはりたいくらいです。
古い教会長様
そうですね。「上上級教会に参拝しない心定め」を私も最近考えているところです。手ぶらでは行けないし、お供え無しでの参拝となれば、必ず後で何か言われます。古い教会長様のコメントには全く共感です。自分の教会家族と信者さんがまず一番です。枝葉である末端教会が枯れ果てている今、幹だけが生き残れるはずがないのであり、枝葉が茂ってこそです。全国の末端教会の会長さん、私達枝葉が元気に茂る事を考えましょう。自分の教会が立ち行くことを考えましょう。お供えを減らし、本部や大教会にお金が集まらないようにする事こそが組織を解体し「新生天理教」を産み出す一番の早道です。
匿名様へ
本当に高価ですね。単行本3冊分!紀伊国屋に行きしばらく立ち読みしてやっぱり購入してしてしまいました。退職後は図書館と活字好きな友人から回していただく書物が主な私としたことが!
天理教が戦争協力したことの弁明や批判は何冊か読みましたがどれも今一ストーンと胸に落ちず。
過って、自身の問題として天理教団の戦争協力を考えなければならないことに直面したことがあったもですから。
匿名の教会長 さん、今の現状は、本部は幹ではなくて、巨大な根です。水分や栄養分を幹や枝や葉っぱに供給しなければならないのに、供給しないから根ばかりが巨大になってしまっているのです。
大地から栄養や水分を取って枝や葉に送らなければならないものを、それを枝や葉から取ろうとしているのです。
本部こそ、しっかりと神様の方を向いて、世界助けのパワーを我々に発信しなければならないのです。取ることばかり考えず、散財する心(さんざい心)を持ってほしいのです。
そういう呼びかけするなら、堂々と実名ですればいいのに。他人のブログのコメント欄というお膳立てされた場で、匿名の声を挙げても何も変わらないんじゃないかなぁと、冷めた目で見てしまいます。
ツイッターとかfacebookとか、実名でやれば賛同者も増えるのでは?もちろん非難も多数あるでしょうけど。
斯く言う私も匿名ですが、一信者ですのでお許し下さい。天理教がより良い方向に変わっていくことを願っています。応援してます。
一信者より さん、応援有難うございます。時が来ればそんな日が来るかもしれません。しばらく冷めた目で見ていて下さい。
ともに、天理教再生に向かって歩んで行きましょう。
質問があります。
表統領、次の真柱の名字は、
中山ではなく、なぜ中田なんでしょうか?
どなたか、諸井國三郎遺稿集をお持ちの方おられませんか?
教会設立の話を最後の最後まで教祖が反対されたお話が書いてあるそうです(天理市内の90代の方から聞き取り)。
信者数が増えてきたので、幹部の皆さんで20人以上、交代で教会設立のお伺いに教祖のところへいったところ、絶対お許しにならなかったそうです。
表統領の中田善亮さんは、現真柱の中山善司さまの弟。
中田家の養子となって、名字が中山から中田となった。
その中田善亮さんの長男の大亮さまが、現真柱にお子様がいないので、
善司さま・はるえさまご夫婦の養子となられた。結果
現在、次の真柱継承者は、中山大亮さまに決まっている。
おやさまは、眞之亮さまの願いである「教会本部」の設立を、
なかなかお許しにならなかった。
今の「郡山・山名・兵神・船場・河原町・・・・・・・」などの教会となる
元の「講」は、すでにお許しはあった。
「 どうでもしんじんするならば かうをむすぼやないかいな 」
MICHINOTOMO様
ありがとうごさいます。
やはり中田家へ養子になっていたんですね。
教会長の兄も知りませんでした。
今日は布教所の月次祭でした。かならず月次祭は参加します。
その月ごとの反省もこめて行きます。
これはとても大切なことです。人がなんと言おうとそれは実行しています。
天理教維持財団のことはもし本当であれば、残念です。
しかしそれは、親神様がこの巨大宗教化したこの宗教団体に天理用語でいうならば、お手入れを入れるでしょう。
それではじめて私たち末端の信者にも影響を及ぼすことになるでしょう。
それでも教理は私たちの心にしみ込んでいます。
本来、日本がもっていた お互い様の精神が天理教の原点です。
今の生活の中で自然と身についている信仰であります。
宗教団体が仮に崩壊しても、おやさまの行動やお言葉が生活する上での手助けになるでしょう。
「教祖が現身をかくされたのは「子ども可愛い故」と強調されてきたが、実際におさしづ原文の中には、定命を縮められた理由として。
「残念々々で──」「どうもならんから──」「余儀なく──」「是非なく──」「思わく立たんから──」「すっきり分からんから──」身をかくされた、という意味の神示が繰り返し述べられている。」
と、書いてあります。
http://tenkoku0805.blog9.fc2.com/
古い教会長さんへ
ずっと疑問でしたがこの神示を知りまして納得いたしました。
親神様のご守護については皆さん体験されましたか?
私は体験しました。これは神様が教えてくれた体験でした。
そう思うとやはり布教所へ月次祭は参加するのです。
これが私のご恩返しです。
これ以上でもこれ以下でもなく。
お友達や知り合いにも、天理の話しました。
布教所へ足を運んだり、別席も参加した人がいたりしましたが、残念ながら継続した人はいません。
結果私だけは相変わらず、月次祭へ参加している。
そんなことでよいのか?と自問自答しました。
でもそれ以上の情熱もない私です。
多分これでいいのと勝手に解釈して。
また、人様に必要とされるのであれば、お助けをしたいと思っております。
こんな調子のようぼくは、教会とすれば、あまり歓迎されないでしょうね。
NANASY様
いいえ、いいえそれで良いのですよ。まずはあなたが救われていれば結構なことです。教会が歓迎するようぼくとはどんな人物か?たくさん人を連れてくる人?お供えをたくさんする人?そんなことで喜ぶような教会には行かないことです。教会は数や金額にこだわらず、一人ひとりに丁寧に向き合い心が楽になってもらうよう勤める。教会とはそう言うことに徹する所だと私は思っています。おのずと助かった人が人を呼んできます。時間はかかりましょうが・・・自然体でいきましょうね。
次に、今日「教祖とその時代 天理教史の周辺を読む」と言う本を読んでいたら、教祖は賓のどん底へ落ちるため田畑を売り払ったと認識していたのですが、後に教祖存命中に(秀司さんが中心だったのか定かではないのですが)全部手元に買い戻しているのですね。中山家は相当裕福な金貸しできちんと利息を取っていた。教祖のうわさが広まり始め、お供え金も相当上がっていたらしい。だから買い戻せたのですね。米作りより綿作のほうが実入りが良かったらしく、金貸し以外にも手広く綿や養蚕で商いをしていたそうです。(教祖は金儲けには反対していたのかもしれませんが・・・)海の遠い奈良の地に居て中山家はかなり値の張る魚介を豊富に購入し食べていた資料が残っています。当時は高価で手に入らなかった「砂糖」も中山家では買えていたらしく秀司達が記していた食材購入帳からその裕福さが垣間見えると書かれていました。芝居や余興を見る楽しみも暮らしの中にあり、「ゆとり」のある生活をしていたことが窺えるとありました。私は教祖もその家族も現身をかくされるまで賓のどん底に居たと思っていましたが??ほうその赤ん坊に自分の乳を飲ませた逸話も、自らどん底に居て、なおも施したとの認識でしたが、当時の教祖の環境はそうではなかった。裕福で慈悲深い家があるからそこへ行けばありつけるよ、くらいの環境だったらしい。同じ一軒家なら教祖も高価な魚や砂糖を食していたと言うことでしょうね。私の頭の中は???だらけです。
おやさまひながたを通れ、どん底を通れ、とお供え地獄。食べたつもり、行ったつもりのつもり貯金をお供えにまわし、お供えこそが助かる道と信じて実行している信者さんを周りにたくさん知っています。我が家もそうでした。教祖の当時のありのままを知りたいです。捻じ曲げて純粋な信者を騙さないでほしい。どれだけの家族が巻き添えを食っていることか。真柱中山家は教祖や秀司・こかん様の逸話等、美談にせずに、ていねいに事実をありのままに出して欲しい。
匿名様
よきアドバイスありがとうございます。
布教所の先生方はいつも親切でにこやかに迎えてくれます。
私は先生方にこのHPをお知らせしたほうがいいのかどうか迷っています。
そこまで、踏み込んでいいのかどうか?
信仰の度合いはそれぞれ違うので、この話題をきっかけに関係がよくなくなることを
考えるとやはり言わないほうがお互いの身のためかとも思うわけです。
その一方で、隠し通せない自分がいるので・・・・。
むずかしいことです。
NANACY様
末端教会長です。私も上級教会にこう言うサイトがあることを知らせて議論したいのですが、アンチ天理教と思われて関係が悪くなるのを恐れています。アンチ天理教即ちアンチ上級会長となりますから嫌われたらことあるごとに嫌がらせを受けるでしょうから。信念を持ちつつも周りの顔色、空気を読みながら自分を守ることも大切です。誠真実の良い布教所に通われているようでいいですね。お互いに心から楽しめる陽気な信仰をしましょうね。
わたくしも、末端教会長です。末端こそ信仰が根付くのです。信仰がなければ、やってられません。
美味しいところが一つもないのですから。
コメントありがとうございます。
今現時点の段階では、このHPのことは言わないです。
いずれ議論する時が来るので、その時は今後の宗教活動のあり方を含めて議論することがあると思います。
それがお金のお願いのときなのか、それとも、強引な勧誘があったときなのかわかりませんが。
いずれ、口にする時があると思います。
理の親からいろんな事情で助けて頂いた恩も忘れて・・・。と周りから批判されても、疑問があれば当然聞きたくなるでしょう。 それが人間です。
布教所サイドは「上のことはわからない。知らなくてもいいことは知らないほうが幸せ」という可能性があります。
その時点で話は平行線となるとは思いますが。
いずれ、その時が来たら話さなくてはいけないでしょうね。
つらくても。恩知らずと思われても。
NANACY様
「互い互い知らし合い 互い互いの研究 諭し合いの道と言う」M30、2,25のあさしづより
「互いに遠慮は要らん 遠慮は追しょう、追しょうは嘘、嘘に追しょうは大埃の台」M31.5.9のおさしづより
つまり教祖はお互いに遠慮せずにしっかり研究し合い、談じ合いをしなさいと「ご神言」を出されておられるのです。現状では教祖の意に反して「上下関係」が人間の手によって作られてしまいました。布教所においても所長さんが一番。思うことを言うなんて許されない空気があるのでしょう。いずれ腹を割って話す機会が出来てくることでしょうね。私もいずれは腹を割って自分の思っている事を上級・上上級の会長と談じ合いしたいと思っています。私は末端教会長ですので今は空気を読みながら、自分の身を守りながら、時期、タイミングはゆっくり計りながら・・・。親神様は見ていらっしゃいます。私達の発言に光を当てて下さる時が必ず来ます。焦らず他人に流されず信念を持って自分らしい信仰しましょうね。
「・・・このやしきでは、親族の理では、世上救けること出来ん。・・・」(明治24・1・28)
「・・・このやしき高い低いの区別は無い。・・・」(明治28・8・3)
「・・・何ぼ諭した神のさしづ、皆んなあちらへ映るこちらへ映る。勝手の悪いさしづはは埋もって、・・・」(明治31・9・30)
「・・・教会長は、大教会長であろうと、分教会長であろうと、或いは場合に依ったならば、布教所を担当している単独布教師であろうと、全ては同じ理であります。・・・」(二代真柱様のお言葉)
これらのお言葉から教祖が何を求めておられるか、よくお分かりの事であると思いますが・・・。
更にこんなおさしづもありますが、
「・・・双方の心にとって皆々高い低いの理は無い。ろっくな道なれど、勝手の理よりだん/\高低の理を拵え、あちらこちらへ擦れ、心の理は散乱。
たった一つの理を、兄弟一つの理、後より出けた理もあろうまい。先へ出けたという理は無い。・・・」とも教えられます。・・・
世襲制がある限り、天理教の発展はない。断言します。
そうですね。世襲制があるかぎり発展はない。
天理教も会社経営も同じことです。
他人が中に入ってはじめて改革が行われると思います。
次に継がれる方々はこれからの世の中ふんぞりかえってはいられない状況であることはそれぞれ思っている。
しかし、歴史があればあるほど、いままでの慣習を打ち破ることの難しさ。
まして、幼い頃からその環境に生きてきたから、それを覆すエネルギーがない人々が多いのでしょう。
だから、三代で終えてしまうパターンが世の中の常ではないか・・・。
いずれにしても継続することは大変であります。
私の家は昔から商売を細々と営んでいます。
父親が亡くなってから、旦那と二人で家を継いでいます。
職業柄、人様のプライベートに関わることもあります。
しかし、職業の範囲で付き合うので、たとえ大変な事情のお客さんがいてもそれ以上は深入りしません。
業務を果たすのみです。
お道の話なんて心に思うことがあっても絶対に話しません。
ただ、いつも思うことは、人間はどんなに境遇がつらくても反対に恵まれていてもその人の心持ちで人生が動いているのです。
だから、自分の信仰している宗教の押し付けはしないです。
ただ、つらい人には何気に言葉をかけて少しでも助かってもらえればいいかな?
そうゆう気持ちいつも心がけています。
私にできることはそんなことしかできません。
だからできの悪いようぼくです。まずは積極的でないのが悪い点ですね。
nanacyさんの、その「自然体」な信仰の姿勢、いいですねぇ~。
私も一般信者ですが、年齢と経験を重ね、
日々の生活の中で心を研鑽し、
誰かをさり気なく、ささやかでも「おたすけ」出来る。
さわやかな、柔らかな風になり仄かな「にほいがけ」が出来る。
そんな「よふぼく」を目指したいです。
天理教には世襲制度は有りません。後継問題でおさまり易いから、どうしても子息に後継者という形になり易い傾向があるのも否めません。私の周辺の教会では、代々、血族関係の無い他人の方が会長として後継されています。無論、事情教会ではありませんが。最近でも血族関係の無い人が会長職を継がれた教会があります。
私も現職の末端教会長ですが、いつでもその職を辞する覚悟はありますし、息子に後継しようとは思ってはいません。愛町分教会初代会長関根豊松先生は、「・・・教会は信者のもの、僕はこの黒い鞄一つあれば、いつでも出て行くよ。・・・」と言われたそうです。そこには教祖の教えられた「執着心を去る」そのもののが垣間見られます。
このブログは、説得力が有りそうで無さそうでという感じがあります。カイン氏は研究者で学者であります。我々は信仰実践者であります。だからどちらが正しい間違っているというのではなく、ある種相容れない処があるのも否めないと思います。ただ、カイン氏の知人である天理教人の信仰や情報に関しては、ある種疑問を持ちます。この方おそらく某大教会の役員と思われますが、正しくカイン氏に今の天理教の現況を述べられておられるのか。ちなみに、おそらくカイン氏もその方も私も、同じ市に住むお互いだとは思いますが。
維持財団の話もありますが、私の教会は○○維持財団から、ちゃんと不動産を返されました。微々たる面積ですが当教会に登記し直ししております。教会本部も大変です。無駄な不動産、不必要な不動産など処分されております。憶測推測で物事を語られるのは、あまり良い事ではありません。
私は体制者でも反体制者でもありません。教祖の御教えを素直に実践しようと努力している一教会長です。引用される道の友などの資料はその通りだとは思いますが、以前に団体責任者の密輸の話が出ていましたが、当時知人の別の団体の責任者に聞きましたが、犯した人は信者でも、団体責任者でもなく、一般人で未信者で帰参を利用しただけであると言っていました。
御供金にしても、沢山する信者が信仰熱心であるとは考え違いも甚だしいです。ちなみに、御供金に名前を書いて頂くので、正確に御供台帳や現金出納簿に記帳出来ます。それを無記名にした場合、奉賽金、いわゆるお賽銭扱いになり、それこそ不適当な経理処理がなされる場合があります。だから記名して頂いて、後日開示請求があった場合、間違いないと確認して頂くことが出来ます。ちなみに、宗教法人は赤字決算は出来ません。
天理教の者は、問題が起こった場合本当は説明する必要があるのかも知れませんが、いちいちこれはこうだとは発信する傾向は、残念ながら少ないと感じております。私は系統は違いますが、ある先生の教えを深く受けております。その方が常に言われたことは、「・・・天理教が人を助けるではありません。助かる道を教わってその道通って助かるのです。信仰しているからいい、天理教やっているからいいでは、何年通っても、運命は切り替わりません。・・・」
更に、「・・・神様、こうして下さい、ああして下さい・・・と頼むのじゃなくて、教祖のひながたを見つめて努力することが、信仰そのものなんです。神様を拝むのが信仰でもなければ、お参りするのが信仰でもありません。お金を供えるのが、もちろん信仰ではありません。今日も一日、教えられた道を守って通る努力をさせて頂きます・・・と心に決めて、努力することによって、自然に与えられてくるのが天理なんです。・・・」と。
これらの事を誠心誠意実行している、名も無き教会、布教所、信仰者、よふぼくが存在していることを知って欲しいと思います。
とんとさん・・・確かに教会は世襲制ではありませんが、真柱は世襲ですよね。本部員に名を連ねるのは同じ名字です。大教会長を民主的に選ぶことはありません。
世襲でない教会は、後継者のいない教会。不祥事を犯した教会。それが多いだけです。
でも、一般社会から見て、世襲でないとは言えないでしょうね。例えば、世の中に、とても立派なお道の信仰者がいたとしても、けっして真柱になることも、本部員になることもないでしょう。
それは、世襲に近い組織だからです。
私もそれは否定いたしません。教祖の言葉は、日本古来の家制度を否定された言葉であり、、「寄る理」と「寄せる理」の違いがあるように、いずれ天の理に依る差配があると思いますし、実際教内いろんな問題が出た数年であったと思います。いづれにせよ、みかぐらうた、おふでさき、おさしづを基本にして、更に教祖の口伝を学ぶ時、親神、教祖の真の思いが、更に理解出来るようになると思っております。
この道は単なる一宗教ではないと思います。世界助ける世界宗教であるならば、もっともっと日本文化に染まった処を排除し、「世界治める真実の道」と言われたをやの思いに添ったお助け活動に共々頑張りましょう。
とんとさま とんとさまの述べられていることは正しいのでしょうね。でもなぜか胸に落ちず途中で止まっています。
天理教最高のトップ二代真柱中山正善さまのことばが実践されてきたならば何故もこう批判や嘆きなどなどの意見が上がってくるのでしょうか?真柱様の言葉は皆、フラットと言うことですよね。どうして理の親などの上下関係が出来たのでしょうか?良くも悪くも教団組織があったから天理教が続いてきたとは思っております。ご本席飯降伊蔵さまご存命の頃に私に繋がる者が入信したので自分はほとんど信仰者などとはいえませんが無関心にはなれません。とんとさまのをや(教祖様?)の思いに添ったお助け活動とは具体的に教えてください。『教祖以後を生きるー新宗教と総力戦』を読みながら「今」を考えています。なかなか自分の思いを文章にするのは難しいです。舌足らずでごめんなさい。
ぶっちゃけた話、宗教の教典の類など、道徳の一環と捉えればいいこと。
私はこの先、誰も別席や修養科なんぞを勧めたりすることはないだろう。
「天理教学者」なるものを目指したい方が三大原典でも鳴り物でも極めればよいこと。
一信者の私は、「花咲かじいさん」の悪い爺さん、「舌切り雀」のおばあさんにならないよう
日々の生活で気をつけること。
それだけでも神様は感心はしてくれるだろう。
とんとさん、
この道は単なる一宗教ではないと思います。世界助ける世界宗教であるならば、もっともっと日本文化に染まった処を排除し、「世界治める真実の道」と言われたをやの思いに添ったお助け活動に共々頑張りましょう。>
との意見ですが、本当にその通りだと思います。しかし、現状は一宗教以下に成り下がっています。ある本部関係者が言っていました。「本部の中は、伏魔殿や。」と、詳しい意味は分かりませんが、この耳で聞きました。
縁の下さんへ
「天理教学者」が我々一般信者に何を貢献してくれてんでしょうかね。
原典や鳴り物はわたしも修養科や講習でくわしく習いました。
自分でも勉強しています。
「天理教学者」が理の親は異端教理だとハッキリ言ってくれましたか?
ナンにも言ってないですよね。教会本部のゴマスリばかりして。
最低。ムダな存在。
だから、天理教社会学研究所にホントウの真実を求めてやってきています。
組織が巨大になるにつれていろんな人が集まる。
人があつまれば、いろんな考え方・価値感がでてくる。
しかし、ここに集まる人々は、皆、神様の助けを求めてくる。
それが天理です。
ありがたい。結構なことです。
しかしながら、現実を見たら、問題なことばかり。
それを一つ・一つ・丁寧に歩みながら
又、一つ・一つ・反省を少ししながら
毎日をすごして、また月次祭にいく。
その繰り返しです。
私の個人的な考えなのですが、日本文化を排除しての世界救済なんてありえるでしょうか?
天理教からは離れはしたけど、縁の下さんと同じく日々の生活を大切にしながら暮らしております。
信仰とは、誰の為でもなく教団の金集めに加担するのでもなく、日々感謝して暮らすことが尊いように思うのです。
私が反省しなければならないのは、例え父の治療費に莫大なお金が必要であったとしても、信者さんにとっては教会は心の拠り所であったことに思いをかけることができず、突然教会の売却を言い出したことで戦争のようになりましたが、詫びる一言があっても良かったのではなかったかと、天理教を信仰されている方のコメントを読んで初めて気づかせてもらいました。
母にしても、柏木何某の公演を聞いてから、自分ももっともっとたくさんの信者を作り、立派な御殿のような教会を頑張ったら作れると勘違いも甚だしいですが、母の野心家の魂に火が付きどうしようもないとこまでいきました。もう既に鬼籍に入って40年近くになるのに、未だに許せないんです。
母の生きている世界観が天理教全てだったので、耳に入る言葉は教団にとって都合のいいことばかりであったとしても、それを疑いもせず信じて生きていく方が楽だったし、認められる世界でもあったわけで、仕方のないことだったのかもしれません。
ようやく母を赦すことができつつあります。
これもカインさんのブログであり、真摯にコメントを書かれる方の生真面目さに、自分の頑なな心をもう少し柔らかくしてもいいのではないかと気づかせてもらいました。
ありがとう!と感謝することができなかった徳子です。
徳子は、「貧に落ち切れ」「道一条」とは真逆の、せっせと昼も夜も関係なく仕事に励み、大好きな和の暮らしの中で着物を着て楽しんでおります。
大正ロマンのハイカラさんのイメージで、着物に真っ白なエプロンをしてコーヒーを飲んで寛げる年寄りサロンをしたいと思っていますが、周囲の人達に「寝ぼけたこと言うな!」と相手にされません。
だけど諦めずに希望だけはもっててもいいかな~と思っています。
天理教とは関係ないのですが、何かいいアイデアがあったら教えてください。
徳子さん。
「母にしても、柏木何某の公演を聞いてから、自分ももっともっとたくさんの信者を作り、立派な御殿のような教会を頑張ったら作れると勘違いも甚だしいですが、母の野心家の魂に火が付きどうしようもないとこまでいきました。」・・・
多分、うちの父も、その影響を受けていたと思います。その影響を受けた人が天理教を支えてきたのですが、駄目にもしてきたと思います。もうバレているのです。本当の復元をしないと先がありません。いくら一生懸命走り続けても、ザルで水をすくい続けているのと同じです。何も残りません。
徳子様
喫茶店のようなディサービスも兼ねたご商売をされたいのでしょうか?
希望を持ちながら、まずは資金を貯めてください。
何かしら事業をしたい方がよく利用されるのは自治体で補助金がでるパターンがありますから、よく情報を集めるのもいいと思います。
私のお客さんで自営をされている方多いです。
ある人は就職氷河期で就職できなかった時代就職できず。
自分の勉強してきたことが生かされる場を作りたくて、大学卒業すると同時に自営を始めた女の子たちが
いました。
いまや、世界中からお客さんの要望を聞いて地場の業者さんへ提案し、商品化して輸出している企業となっております。ホント立派です。
起業する人はどの人みても前向きで転んでもタダでは起きない人ばかりです。
勉強になります。その根性は。
お互いがんばりましょう。
① mami様へ
ご苦労様です。歴代の真柱様もかなり努力されたようにもれ聞いております。特に前真柱様は、「理の親」とは、親神・教祖の事であるとハッキリ明示されていますし、親神様は、人間には高い低いの関係は無いと断言されていますが、信仰に導いた者と導かれた者、いわゆる、教団用語として理の親と理の子と表現なされたのでしょう。おそらく当時の方々はそれがなかなか理解出来なかったか、錯覚されたかも知れません。あくまでも推測ですが。それが日本古来の主従関係に繋がって行ったのかも知れません。私は一介の信仰者であり、偉そうな事は言えませんが、天理教は、宗教だとは思っていません。人の通るべき、実践すべき道であると確信しております。とりわけ、いろいろ教祖の口伝などが出ていますが、それを参考にしながら、むろん原典は基本ですが、「誠とは、己を忘れて人に尽くす心」「真実とは、人様の喜ぶよう努める心」と教えて頂いたので、人に対して、物に対して、言葉を通してなど/\、それらに対して日々誠真実を尽くす努力をしております。具体的には説明し難い事なので申し訳ありません。『教祖以後・・・』の本はちらっとひらい読みしましたが、私の能力では苦労します。知人の方は、よく調べておられるが少し事実誤認のところもあると聞いております。
② 古い教会長さまへ
私は直接聞いた事はありませんが、そんな噂が出ていたらしいですね。例えば「かなめ会」とか、「足の引っ張り合いをしている」とか、あくまでも推測ですので真実は知りません。ただ、正文遺韻の中で、「台所へ出ると埃がつく」との口伝を考えて見ますと、人間の心の埃の事を言っておられるのではないでしょうか。あくまでも個人の思いですが。おさしづでも、『ぢばも鏡なら世上も鏡、世上の理も映ればぢばの曇りも皆映る』『澄んだ道から澄んだ心が鏡やしき、澄み切ったもの。曇りあっては世界映ろうまい。少しでも曇りあっては、世界は丸曇り』と言われています。ここからしても、自ずと理解出来るのではないでしょうか。
③ 徳子さまへ
頑張って下さい。個人的には、「貧に落ち切る」とは、心を低くすることであると思いますし、教祖でも施しをされても、種になる母屋とか、一部の田畑は年切質に入れられていたと聞いております。「道一条」は、職業区分で言っておられると思いますが、いわゆる道専務。個人的には、どんな職種にいても、常に神一条の精神で勤める事が大事で、道専務の人間でも神一条の精神を忘れたらただの人と同じだと思います。だから「道に世界あり、世界に道あり」とおさしづに出て来るのだ思います。いろいろあるとは思いますが、前へ明るく進んで下さい。
とんとさん。
「かなめ会」とかの話じゃなくて、もっと奥の話みたいです。
古い教会長様
マグマのように熱い情熱が、教団の発展に与しそして家族を破滅に追いやることでもあり、全てのことが表裏一体なのですね。
nanacy様
一段、一段と目標に向かってチャレンジします。
素敵なアドバイスをありがとうございます
とんと様
私も教会の端くれの中で育ちました。
綺麗ごとだけでは済まされないものを、たくさん見てきました。
人間の蠢く欲に翻弄される、善良な人々があまりにも無知であるばかりに、苦悩に満ちた生き方をしてきた姿もみてきました。
真理はひとつであります。
そろそろ本部も真実を発表してもいい時期なのではないでしょうか?
この頃は忘れていましたが小さかった頃よく思ったものです。どんなに貧しくてもいいから普通(労働者)の家に生まれて来たかったと。皆様のコメントに接してめずらしくその頃の自分を思い出しました。大きなお寺四軒もある中で貧しい異教の教会の生活はそれは惨めなものでした。親はいい自分で選択した生活だからと反抗心一杯の自分でした。そんな私でも信者さんに育てて貰ったという感謝と負い目からは自由にはなれませんでした。なんだかんだと思いながらもこのブログに引き付けられるのは・・・・・・・・・。
mami様
・・・と続く無言の言葉 ・・・言葉にはできない思いは私にもわかります。
今まで頑張ってきた自分の心を労り、「よく耐えたね」と褒めたいくらいです。
徳子は応援してるからね~
古い教会長さん!
天理教維持財団の事ですか?
徳子さま 徳子さまの「私が反省しなければならないのは、、、、、、信者さんにとって教会は心の拠所であった、、、」との個所に打たれました。
内務省警保局資料(AdoboPDF)www.yousun.sakura.jp/pablic-html/siryou/keiho.html
昭和11年内務省警保局(天理教関係資料)が載ってます。明治教典時代であり時の権力側の資料ですから真実とは言えないとは思いますがよく調査しているものと思いました。二代真柱の時代です。
とんとさん。
はっきりは分かりませんが、そうかも知れません。「かなめ会」より、もっと中枢のことだと思います。
「本部の中は、伏魔殿や。」 ⇔ 「教祖殿の奥を仕切っている」
絶大な力を持ったある人?の存在であります。
いずれ、おやさまが教えてくださることでしょう!!
「教祖百三十年祭」三年千日時旬の最後の御供えについて・・・・・
大教会等から、みなさま方に御供え袋が配布されていることと存じます。
今年の十二月の仕切りとして、真実の御供えをお願いしている次第です。
「かんろだい」に御供えする?というよりは、かたちの上では、実のところ
「ご存命のおやさまに御供えしたい」と、正直考えておられるのでしょう。
「教祖殿」に、この御供え金を御供えしたいという気持ちを、おわかりになり
ますでしょうか!!
ここのところが、なかなかむずかしいところであります。
いつも忙しい時に連絡があるのには、相性の悪さか。
理の親さんとはタイミングが悪くて・・・・。
神様掃除があるし、年祭のお供えもあるし・・・。
年末は私も事務処理などあって・・・。年賀状も出さなくちゃいけない。
経費もかかるし。さらにお供え金か。
不足に思う私は、出来が悪いようぼく。
なかなか神様のご守護もらえそうにないですね。
探究心 さん、< 絶大な力を持ったある人?の存在であります。>
というのは、一人の個人ですか?複数の人たちですか?
数年前、ある本部の中枢の人がエイズで亡くなったと聞いたことがあるのですが、本当ですか?
天理教社会学研究所、カインさんのブログ。
「引っ越ししました」の記事から始まります。
更新日は、2007年7月です。
このサイトの前にも、ブログをしていたと記憶にあります。
社会学研究所の他にも。
天理教に対しての、ブログ、サイトはありますね。
そして、私の生まれるもっと以前から。
書籍、文章、口頭などで。
全国からの、天理教内外から。
天理教に対しての、声は。
挙がり続けています。
声に対して。
天理教は、何か変わりましたか?
成長のない物事には。
誰もが魅力は感じません。
不信感、嫌悪感だけが残るものです。
私は、天理教的に言えば、「元天理信者」
なのかもしれません。
でも私自身は、「元」とも思ってもいません。
ただ、生まれた場所に、天理教があっただけ。
の話であり。
周りの大人が勝手に、私を勝手に天理教にしただけの話です。
私がこの場所に生まれ居る、理由は。
家の天理教を、私の代で整理する。
「宗教を真ん中に置くと。
理不尽がまかり通り、理不尽を正当化し。
家庭も心も壊れるだけだから。
そこに、人間味も、個の存在意義も、
夢も持てないから。
私は、両親や天理教な大人達の、尻拭いの
為に、生まれて来たわけではない。」
子供心に、葛藤もし、訴え、抗って来ました。
そのような私でも。
おじばがえり、春集い、学修、学生会にも。
参加してきました。
普段会えない、他地域の同世代と会えることは。
楽しかったのかもしれません。
地元の高校を卒業後。
修養科にも行き、別席、おさずけの理
も終了しました。
修養科に行ったのは、まぁ。
子供の頃から、地味ぃ~に、否応なしに続いてきた。
天理教な大人達の脅迫まがいと。
押し付けられて、勘違いした責任感もありました。
修養科は、若い同世代の多い時期もあり。
楽しい部分もあったかもしれません。
若い世代の中でも。
それぞれの大教会、上級の権力話は。
すでに沢山出ていました。
本部の中の、欲まみれの泥臭さまでは。
若い世代は、知るよしもありませんでしたけど。
そして冷静に、修養科の内容には。
失望し、疑いました。
天理市の本部周辺の風景に、人が集まり。
どこか、被れて、馴染み。
そのような気に成ってる、だけのような感じも。
それぞれに、地元に帰り、年月も経ち。
天理教を続けて行る子が、何%いるのでしょうか。
修養科のクラスの同世代の子に。
難しい病気の子がいました。
修養科も休みがちでした。
おさずけの過程を終了し。
クラスで、憩の家におさずけに行きました。
その後、私一人でもおさずけに行きました。
でも、その子は。
後日、憩の家で息を引き取りました。
私のおさずけは、それが最初で最後でした。
その後、おさずけを。
するのも、されるのも、頑なに断りました。
深い理由はありませんでしたが。
ただ、その気に成ってるような…は嫌でした。
修養科修了後、上級の住み込みを経て。
家に帰り、就職し社会に出ました。
元々、夫婦中の悪い両親であり。
母は跡取り娘、婿に来た父は天理教など全くやらず。
元々の性分がギャンブル狂いの父なので。
毎日が、夫婦親子兄弟喧嘩、借金に追われる日々。
私が、身を削り壊しながら。
家と母を支えました。
両親に対して、親という気持ちは。
以前から、日々、薄れ無くなっていました。
そんな環境に天理教言葉を使っても。
ただの理不尽にしかなりません。
「神だ仏を出す前に、やらなきゃいけないことは。
親として、大人として、山ほどあるだろ!」って。
そして、上級、部内の天理教な多くの大人達は。
両親を注意することも少なく。
父には、腫れ物を触れるように。
抗い続ける私に、集中砲火をし続けました。
母は、上級、部内の会長方々の前では。
ビクビクし、手の平も返す人でした。
母も、生まれ幼少の頃より。
親や天理教に、脅迫まがいの環境を経てきたのですから。
そうやって、繰り返されていくのです。
それでも子供心に。
母をかばって生きてきました。
社会にでて、日々仕事に追われ。
生活費を母に渡しました。
もちろん、勘違いした母は。
上納金を増やしてしまい。
私自身がしっかりするだけ。
両親も天理教も更に、勘違いをしました。
青年会活動、各会議、地方講習会。
支部、教区、本部のひのきしんにも参加しました。
修養科以降の、天理教参加は。
母をかばう気持ちと。
家の天理教を整理する為の、筋道と過程でした。
「私が家の天理教を整理する。」
そう、公言もし参加してきました。
上級、部内会長、歳上関係なく。
例え、母が同席する前でも、天理教な大人達に対して。
理不尽は理不尽でしかない、と伝えました。
いんねん、どうのこうのよりも。
怖いのは、理不尽に屈すること。
自身がそっち側にいって、同じことを。
次世代にしてしまう、その方が怖いのです。
心ない父の、胸ぐらをつかむこともあった。
心ない父と天理教な大人達が、同じに感じました。
上級、部内にビクビクし。
手のひらを返し続ける、母にも嫌気がさし。
口もきかない日々が続き。
約束も守らない、筋も通らない。
天理教や親に、諦め、決別の時と感じました。
実際に、家庭裁判所、地方裁判所。
多様な行政、施設、機関にも足を運びました。
結局は、裁判所は使わずに済みましたが。
神様が、誰かが、いつか、なんとか、そのうち…。
それよりも、自身が動かなければ。
自身が、その目で、行動し、経験体験しなければ。
何も変わりませんし、先は見えません。
話を聞いてくれるだけで…。
その場しのぎは、寝て起きれば現実に戻るだけです。
悩み事は、自身で動いて、動かさなければ。
ずっと悩み事のままです。
自身で動き、沢山の方々と、色々な社会と。
接し、経験し。
自身の糧、血肉骨に成ることが。
沢山有りました。
心ない大人達の作った、必要以上の理不尽な道を。
抗い、葛藤続けながら、自身削りながら。
家の天理教も整理することも出来ました。
そして、母の介護もし、看取り送り出しました。
母の葬儀は、私が以前から親しくしていた。
地元の神主さんにお願いしました。
もう、昔の話ですけど。
介護、看護中。
車イスの母を押しながら、日本中を二人で歩きたかった。
母に色々な、景色を見せてあげたかった。
どちから親とか子とかは、もうありませんでした。
私が母の子であり、親の時もありました。
天理教の御守りは、母にずっと着けさせていました。
送り出すときも、御守りも一緒に。
私の御守りは。
子供の頃、遊んでいるときに無くしましたけど。
自宅で母を介護しながら、ベッドの母にこう伝えました。
「あの世が、あるか、ないのか。
来世とか、生まれ変わりが、あるのか、ないのか。
もし、来世や生まれ変わりがあるとしたら。
母ちゃんと親子なのか、他人なのか。
それは、今の俺にはわからないから。
自分が、最期を迎えた時にしか。
わからないことだからね。
でも、もし。
母ちゃんが、また生まれ変わって来る時には。
母ちゃんが生まれ来る場所には。
天理教も宗教もない家に、生まれて来れるように。
俺はずっと祈っていくよ。
俺も母ちゃんも、天理教で沢山苦しんだ。
天理教で他の人にも、迷惑もかけたかもしれないね。
もう、俺と母ちゃんの間には、天理教はないから。
俺は母ちゃんを、親と想う気持ちは。
もう、昔になくしちゃったけど。
母ちゃんも、俺に押し付けて。
逃げてきた部分も、沢山あったからさ。
母ちゃん、自分でわかっているよね。
でも、色々、有り過ぎたけど。
母ちゃんのこと恨んだりはしてないよ。
俺がここに居るのは。
母ちゃんが、俺を産んでくれたから。
だからね、俺が母ちゃんを介護して。
俺が母ちゃんを、最期まで看取るからさ。」と。
実際の介護生活は。
半分ノイローゼになりましたけど。
母の最期の1ヶ月は、病院のベッドの上でした。
毎晩、病院のベッドの上の母に会いに行きました。
書ききれないぐらい。
沢山のことが在りました。
沢山のことを、想い、感じ、後悔して、泣きました。
母を看取り、送り出してから。
半年ぐらいは、自然と涙が溢れました。
泣きたい時には、思いっきり泣いちゃった方がいいのです。
母の呼吸が止まり、先生を呼び。
先生と看護師さんに、確認してもらいました。
そして、お世話になりました…と。
「母ちゃん、家に帰ろうね。」
母を看取った、朝方の病院の窓から見える景色が。
世の中全てが、灰色のモノクロに見え。
世の中全てが、下らなく感じました。
母を看取り、最初に思ったことは。
「最低限の順番は守れた。
母を看取ることが出来た、と。」
そして、
「運命とか宿命とか縁とか、そんなものは無いんだ。
在るのは、目の前の現実。だったそれだけで。
選んでいるのも、逃げているのも。
最後に決めているのは、自分自身なんだ。
人が、執着して、騒ぎ立て、隠そうとし、守ろうとしていることって。
本当は、とても下らないことなんだ。」と。
そして、
「最期に残るのは、人と人。
たったそれだけのことで。
命と時間は同じもの、なんだ。
だから、毎日毎日は当たり前でなく。
その時は、その時にしかないんだ。」と。
後悔できるのも、生きている証です。
私は、沢山の後悔を、今もこれからも背負って生きます。
そして、一番の痛感した後悔は。
「その時その時の、自分自身の弱さ」でした。
結局、私は。
「母を守れなかったんだ。
守ってあげれなくて、守って来れなかったんだ。」と。
沢山の方々から、本当によくやって来たと。
誉めていただけることもありました。
でも、やっぱり、俺は。
まだまだ、弱かったんだ…と。
人が変われる時は、人生に数回しかありません。
自身の人生の分岐点を、見失わないように。
母の介護、看護時、母の居なくなった後も。
天理教な大人達が。
平気で土足の心で、善人面して。
母と私を踏みにじりました。
私には、理解できる容量も。
理解しようとする容量も。
我慢できる容量も、もうありませんでした。
「天理教ごときが、人の人生を勝手に決めるな。
あなた方は、天理教は。
何がしたくて、何を守りたいのですか?
年下の人間が、一人で筋を通してきたじゃないですか。
今まで散々。
年下や、出る杭を叩いて喜ぶのが。
あなた方の言う、天理教で、信仰ですか。
先に生まれた者として、先に生きる者として。
大人として。
もっと恥を知って下さい。」と。
代替わりし、上級会長職を継いだ息子は。
「天理教が何をしたいのか。
俺にもよくわからない…」と。
下を向いてしまいました。
でも、少し経てば、忘れたかのように。
天理教、信仰、神様と…。
あいつは、何もわかってないから。
信仰していないから、だと。
省みることもなく、成長もしない。
天理教な大人達の方々を見てきたので。
下を向く姿の、先が透けて見えてしまいました。
教えとか、信仰とか。
先に答えが出ていて、それに自分を。
無理矢理に当てはめてるようにも感じる。
自身がさも、答えを出してるかのように錯覚もしてる人もいる。
天理教が、人助けだと錯覚している人もいる。
だから、伴っていない、気持ち悪さを感じる。
自身の経験や体験、現実に勝るものはない。
「大小難を無難に。信仰してきたから、何事もなくやってこれた」と。
だから、人の傷みに対して。
わざわざ、感情を煽ることばりするのかもしれない。
無難にやってこれたと。
その錯覚には、多くの方々が犠牲に踏み台になっている時もある。
自身が、助けるふりして我が身大切な人もいる。
私は、世間では若者な中年の世代です。
そんな私でも。
母を介護し、看取り、送り出し、時間の中で。
沢山のことを、思い感じました。
天理教の方々は、私よりも年上の方々が多いはずです。
自身の親、信者さん方々を、看取り送り出した方々も、沢山いると思います。
それは、動物、ペットにも同じであり。
生命の誕生や成長、そして衰え最期の時。
何を感じましたか?
人生とは…考え悩みませんでしたか。
そこに、因縁、徳、出直し、神の働き…とか。
必ずしも、付ける必要はありますか。
信仰以前に、人や生命から。
人生の限られた時間を。
生きるリアルを感じませんか。
どこか、天理教で人を語ることに。
慣れすぎていないでしょうか。
時々、不愉快にも感じます。
天理教が。
宗教団体なのか、道徳団体なのか、宗教法人サークル活動なのか。
宗教なのか、ねずみ講なのか。
私にはわかりませんし、拘りません。
社会、世間、天理教外の方々が。
天理教社会学研究所、他の天理教板の。
記事、コメント、内容を読んだ時に。
教理の話は、ちんぷんかんぷんだけど。
やってることと教理とはかけ離れていて。
多大な上納金、縦社会、権力、隠蔽、まとまりの無さ、情の無さ…。
財産巻き上げられて、組織を押し付けられて、人を決めつけられて。
やっぱり天理教って、宗教って怖いな。
理不尽じゃん。
そう感じ、知ると思います。
それで良いと思います。
嘘偽りのない天理教の現実でもありますので。
天理教の現実を伝え、人を離していくことも。
それも人助けの、一つの形だと思います。
天理教の衰退…とは。
なんか、しっくりとこないのです。
ずっと以前、昔より。
天理教のやって来た問題点は。
何も変わらず、問題点のままなのです。
この先。
純粋な天理教信仰を求める方々と。
自己勝手に信仰を作る方々と。
どちらが残るかと考えれば。
間違いなく、自己勝手な権欲に信仰をつくる方々が。
残っていくでしょう。
欲の執着心が強い方が残るわけです。
純粋な方々は、きっかけが見いだせれば。
見切りをつけ、離れて行くだけです。
天理教は、終焉に向かっています。
歯止めがきかない天理教。
この先怖いのは、減少していく信者さん方々に
。
更なる、無を押し付けて。
どこか、暴走化していく可能性です。
教理の意味合いさえも。
天理教の存在意義さえも見いだせない。
成長もない毎月の。
会長、教区、支部、担当、各々の会議に。
社会学研究所、他の天理教への声のサイトの。
記事やコメントを、コピーし配布して。
インターネットをしない人、出来ない人でも読めるようにして。
全国の天理教の方々に。
興味を持つ天理教外の方々にも。
サイト内の挙がる記事と声を、毎月配布する方が。
偏りな時報、主旨のないパンフレット。
熱量のない会議、総会、集会より。
天理教としても。
意味合いも、成長もあるかもせれません。
案外に。
本部役員、先生方々の多くも。
コメントはせずとも、内心では。
社会学研究所を応援してるかもしれませんね。
度を過ぎて、散々に喰い散らかして。
間違いも認めず、省みない。
後片付けさえもしようとしない。
衰退し、崩壊し、終焉に向かう天理教を。
私は、見届けていきたいと思います。
「本部の中は、伏魔殿や。」 ⇔ 本部の中枢におられる方々に対して、
「この方たちは、本当にご存命のおやさまを信じておられるのか?」と
思われるような姿が、だんだんと現れでてきているからでしょう。
本部人事を関心をもって見ていると、本部の中の力関係が、少しずつ
わかるようになります。
力ある人が、あるところで長く関わると、絶大な力を持ち始めます。
いろいろな「〇〇〇室長」と呼ばれる役職を担っている方々だけでも
ご覧いただければ・・・・・・
私たちからみて、天理教の本部員さんたちに期待を寄せている
百十五歳の定命が、誰ひとりも達成できずにいる現状であります。
信仰者たる上から、出直しの病名などは、申し上げにくいもので
あります。
はぐれ雲さんへ
教会を解散したのでしょうか?
そうであるとすれば、エネルギーのいることでしたね。
私のダンナの故郷にも事情教会が近くにあります。
看板は無くなっていますが、建物はそのままあります。
そこの後継者は公的な仕事に就いて教会を継ぐ気もなかったみたいですよ。
私が幼いころ、隣に分教会がありましたが、そこはもともと、信者さんの土地を借りて建物を建てていたので、
会長さんが亡くなったことをきっかけで、更地にして返したような話でした。
いろいろありますね。
「 宗教法人 天理教教会本部 」 ⇔ 代表・内統領 ⇔ 本部員会議
「 宗教法人 天理教 」 ⇔ 代表・表統領 ⇔ 集会
「 かなめ会 」 ⇔ 直属教会(大教会・分教会)長会議 ⇔ 本部直属の会長の集まり(連絡会議・懇親会?)
この中に、選挙で選ばれたものはあるのでしょうか?
天理教教人(信者)の民意が反映できる組織体に構造改革しなければという思いが、みんなになければ、
天理教は、本当に・・・・・
「ご存命の教祖にお供えしたい」「教祖殿にお供え金をお供えしたい」とのコメントがございました。
私の父が死の淵にある時、天理教に助けを求めたら「最低100万は出さないと無理だよ」と言われたことを思い出します。若き日の私の教訓は「じゃ、お金のない人は死んでもいいの?教祖って、そんなこと言ってたの?」でした。
このサイトを見ている方も同じ想いをされているかも知れません。なんでもかんでも金なのか。どんなに心が卑しくても金があれば助かるのか、どんなに天理教を信仰していても金がなければ助からないのか。
「ご存命の教祖にお供えしたい」「教祖殿にお供え金をお供えしたい」良いですよ、やってください。でも、それは貴方だけにしてください。100万円お供えできないおばあさんは死んでくださいと言っているのと同じように受け止められてしまう方もいる訳でございます。
加えて「民意が反映できる組織体」ですが、それが実現したらどうなるか。信者の誰もお供えしなくなると思います。そもそも、厳しくノルマを課さないと誰も何もしないから、今このような「心定めシステム」が出来上がっているのではと思います。中山家の人からすれば、弱く無知な民を騙してこその商売なのではないでしょうか。少なくとも、すべての民意を反映したときに中山家がこの商売やりますか?と考えてみてください。
「教祖殿にお供え金をお供えしたいという気持ちがお分かりになりますでしょうか!!」お供えのために自殺したり、銀行強盗をした教会長の心がお分かりになりますでしょうか?そのために辛い思いをした多くの信者の苦悩がお分かりになりますでしょうか?よくご思案頂けますと幸いです。
(上記の発言は個人的な想いであり、不快な内容であると心得ております。どうかご容赦の程、お願い致します。)
探求心さん!
例の方ですかなぁ~? 三人寄れば何とかやらの話ですが??
nanacyさん
明確な部分は、
あえて暈して書かせてもらっています。
家に通ってくれていた数人の。
お爺ちゃん、お祖母ちゃん方の。
旅立ちを見届けてから、整理を始め。
なんとか、済ませることが出来ました。
色々ありましたし、色々見てきました。
もう、昔の話ですけど。
当時の天理教関係者との、接点は切ったので。
サイトで天理教を見て、感じています。
今の周りの天理教の状況はわかりませんけど。
何となく、予想はつきますけどね。
そうですね。
私は、田舎の地方都市に住んでいますが。
市内にも10~箇所ぐらいは、天理教の教会はあります。
町村にも、1~3箇所はあります。
私の住む地方は、天理教熱は低い方だと思います。
社会学研究所、他の天理教板で見るような。
神名流し、ハッピを着てのボランティア。
路上演説、戸別勧誘、チラシの配布。
地元で見かけた事はありません。
本部からのお達しの。
ひのきしんデー、においがけデーぐらいは。
やっていると思いますけど。
昔、参加したときは。
仕方なく、
時間内のやっつけ仕事の雰囲気でした。
7割りが事情教会。
カインさんの以前の記事にあるように。
事情教会って、呼び方もどうなのでしょうね。
信者数もそこそこいて、家族で仕事もして。
裕福にやっている教会もあります。
私の地方の、知る限りの教会では。
空き家の教会は知りませんが。
信者さんが少数人いて、
会長不在の教会はあります。
でも、先が続かない教会は、非常に多いです。
子宝に恵まれなかった会長さん夫婦。
独り身のままの会長さん。
子供さんが教会が嫌で、出て行ってしまった所。
天理の高校、大学、本部勤務まで勤めて。
地元に帰ってきて、やっぱり教会はやりたくないという所もあります。
代わりに信者さんが、教会長をやる方は。
ほんとに少ないと思います。
信者さんが居なくて、身内だけの所。
高齢者の方々が数人だけの所。
通いで、教会長をやってる所も。
先の続かない教会には。
本部や大教会で、代理人も出さないと思います。
ある程度の上級クラスで。
立派な神殿、お屋敷を持ち。
敷地も広く、塀でグルグルと囲って。
でも、普段は。
誰も近寄らず、閑散としていたり。
朝晩のおつとめの手も揃わないと、聞いた所。
上級所属の信者さんは、少ないい所。
近所付き合いも、上手く出来てない所も。
教会倍加運動のツケなど。
多様な原因もありますが。
それをいくら掘り起こしても。
実際は、天理教内の。
そのままの、今の現実なのです。
天理教の信者さんでも。
自宅には、代々の宗教があったり。
信者さんの家族の方々は。
天理教を嫌っていたり。
熱心な信者さんに比べて。
会長が消極的な所もあります。
ただ、天理教の内部構造を知ってしまうと。
例え会長といえども、陰りますね。
信者さん方々が思うほど。
天理教は、真っ直ぐではないですね。
会長、後継者、信者さん。
皆それぞれに、困惑していることも多いです。
本部で巡教などするよりも。
もっと正確な、信者数、世代別信者数。
事情教会のもっと細かい内情と把握。
天理教内の教会の負債額の調査。
それぐらいは、当たり前に。
既に済ませてあることだと思いますが。
あえてやらないのも、宗教団体なのかもしれません。
目に見えないものを、説く前に。
目の前の現実を受け入れないと。
未来も、世の中も、社会も、教内も。
教理さえも、見えないと思うのですが。
私の世代では、友人、知人、世間と。
政治、経済、社会の話は。
熱く語る時もありますが。
宗教関連の話は、ほぼしません。
家の冠婚葬祭が、神か仏かぐらいで。
無宗教の子もいますし。
時々、学会だよ!と教えてくれる子もいますけど。
へぇ~、そうなんだ‼で終わりです。
天理教だよ!と言う方とは。
日常で会ったことはないですね。
宗教=冠婚葬祭の儀式な感じです。
お宮、お寺、キリスト、イスラムは。
宗教というより、文化になってます。
新宗教=怖い、やばい、のイメージが強いです。
宗教に対しての。
苦情やクレーム話の方が多いです。
私の世代に、宗教に対しての。
固執は、ほぼありませんし。
関わり合いも、少ないのです。
天理教も、高齢化社会です。
どう頑張っても、後は続かず。
現状維持も不可能でしょう。
信者数の減少は、逃れなれない現実です。
良いか悪いかは、私は判断しませんが。
それは、自然の流れでもありますね。
でも。
宗教、無宗教、信仰なく。
掃除や整頓をすると、気持ちもよく。
普段見えないことが、見えることもあります。
天理教も、教内の整理整頓、掃除をしないと。
誰も見向きもしなくなりますね。
教えが良いのか、教団が悪いのか。
悪いのは、一部の方々なのか。
もしかしたら、その一部と思っていたのが。
半分以上を占めているかもしれない。
天理教の方々の、そのままを。
天理教の教えだと。
社会も世間も周りも、そう受けとります。
社会学研究所って、色々な意味にとれます。
天理教の中にも、社会はあります。
天理教も、社会から学ぶべきことは。
沢山あると思うのですが。
私は、これからも。
青臭く、人間思案そのままで。
そう在りたいと思います。
私は、人として、思案しているのです。
私は、自分以外の誰でもありませんし。
せっかく、自分に生まれてきたのだから。
色々な考えがありますね。
色んな方々が、声を挙げれると。
いいですね。
はぐれ雲さん
コメントありがとうございます。
人間思案そのままで。その意見は賛成です。
神がめどうっておやさまは申しましたけれど・・・。
私らは神さまにはなれませんね。
神さまのように心が寛容ではありません。
人間思案でいつも生活しています。
やはり我慢には、限度があります。
それが人間ですよ。
地位の高い方や、えらい先生でも、人間思案はするでしょう。
私よりもっと、思案だらけではないか?
と推測されます。
理の親について・・・前真柱の言葉は無視され続けている。
<天理教みさとブログより抜粋>
前(三代)真柱様と同じ昭和7年生まれの私は、2月の早生まれだから天理中学では1年上級生であった。戦争が終った昭和20年夏には私が2年生、前真柱様は1年生に入学された年で、全寮制の天中で最初の指導員として同室の生活を送ったことがある。
当時の中学寮は、いわば軍隊のミニチュア版であったから、1年上級というだけで下級生を暴力制裁するのは当然の権利であった。実際にその機会もあった。ずっと後になって何かの機会に「あのとき殴っておいたらよかった」と冗談を言ったものだ。入寮して半年も経たないうちに敗戦の混乱期となり、前真柱様も私も寮を出て自宅から通学するようになり、指導員として威張れる立場は永遠になくなった。
前真柱様の同級生であったことから恩顧を受けて教庁中枢の役職を与えられ、その立場を利用して恩を仇で返すような汚職行為のため免職となった人もあったが、逆に東大を出てアメリカに留学し、一流の宗教学者となった松本滋(聖心女子大学教授)も同級生であった。松本氏も数年前に出直したが、前真柱様とは単純な誤解がもとで最後まで疎遠のままであった。その理由を私は聞いて知っているが、ここで公開するつもりはない。ただ、前真柱様にとって最適の相談役を失ったことは生涯の不幸だったのではないか、と残念な思いは残っている。
昭和40年、教祖八十年祭を期して二代真柱最大の業績というべき原典「おさしづ」全7巻が編纂・刊行され全教会に配布された。その8年後に41歳で有名無実の事情教会をお預かりすることになった私は、「教祖存命同様の理」といわれる「おさしづ」を知らずして責任を全うすることはできないと心を定め、その体系的な参考資料の作成を志し、教友の理解と協力を得て2年がかりで完成し、4版まで版を重ねた。
第一部から第六部まで手書きオフセット印刷が出来上がるごとに、前真柱様(当時は現真柱)が参考に目を通して下さることを願って真柱邸の玄関にお届けした。全六部が揃った頃、たしか身内の結婚披露宴の折りに来賓として出席されていた前真柱様に、この時とばかり「おさしづ資料」のことをお尋ねしたところ「たしかに届いているが忙しくて読むヒマがない」とのお返事に失望した覚えがある。
それから20年、教祖百年祭に当たって「白紙に戻り一から始める」との諭達が発布された。まさに原典をもとに神一条の道に立ち返る復元の旬と期待したが、具体的には実現しなかった。発表された理念を具体的に実現するためには、よほどの実力と権限を与えられたプロジェクト・システムがなければ不可能であろう。
その後、前真柱様は「かなめ会」(全直属教会長の集会)会長として、「理の親」という言葉は教祖以外に使うべきではない、系統は昔は必要であったかも知れないが、今では布教の邪魔になっている、等々と発言されたことがある。その発言は「かなめ会報」にも記録されている。同じ発言を出張された講話の席でもされている。
mamiさまの教えていただいた資料を読んでます。
搾取のからくりが実に巧妙にできあがっており、人の弱みに付け込んでの悪徳商法であり、目に見えないものをあたかも実在のごときの教えは、洗脳されるわな~!
祖父母の時代の修養科は、半年もありその長きにわたりマインドコントロールされており、正常な認識能力も崩壊されて、教団の奴隷に成り下がるだけです。
それを「陽気ぐらし」「教祖雛形の教え道理」でごまかされ、入ったら最後出るに出られん世界です。
徳子さま
外部から分析するとそういうことになりますが徳子さまのご祖父母や私のつながる者たちはきっと喜び勇んでいたのだと思います。身上から助けられ(回心体験)た者は原典も何もあまり関係なかったかもしれません。「理の親」をたて全てをお供えすることも矛盾なかったのだろうと思います。それがずっとご本席出直し以後、戦後も続いてきて二代真柱出直しの時が教団はピークだったのではないかと推量しております。100年祭ではいろいろ不祥事が外部に出てしまいました。これからは教団がどのようになっていくかわかりませんが「をやさま」を慕う人々はなくなることはならないでしょう。
「多元文化」でサイトを開いてみてください。『芹沢光冶良の作品に現れた中山みき像を通しての彼の宗教観をみるーニューエイジ運動との接点』黄輝儀
徳子さま「 開いてみてください」などと押し付けみたいでごめんなさい。ご興味があったらということですので。
「多元文化 ニューエイジ運動」で。
追記 jairo.nii.ac.jp/0002/0001071 です。
mamiさまの『「おやさま」を慕う人々はなくなることはならないでしょう。』
その言葉に救われる思いです。
教団がおやさまの教えを改竄、捏造し、信者達を思うように操るように「泥水」を飲ませても
その「泥水」を吐き出し、「清らかな水」を改めて自身の胸に流し込む。
そんな信者達がいる限り、教団は衰退しようとも
「おやさまの教え」は細々と脈々と伝えられることと信じます。
縁の下さま
私も……慕う者の一人です。
おやさまは存命である。
ホントにそうなのでしょうか?
いるかもしれない。いないかもしれない。
困り果てていた時に夢で又は人さん通じてお出になると思う時があります。
私の場合は、困り果てていたときに浮かばせて頂いたり、又は人様を通じて教えていただく場合もありました。
なんでしょうか?人間の考えとは違う。第六感のような感覚です。
のちに思うと・・・。
きっとおやさま・親神さまのお働きに違いないと・・・・。
しかしながら、現実に戻るとコロッと忘れてしまう・・・・。
何度も助けて頂いているのに、未だ進歩のない私です。
「おやさまは、存命である。」 ⇔ これを、信じるか信じないかは、みなさまがたの
お心にお任せするしかございません。
☆ 「教祖存命の理」について
中山(前川)みきさまの魂は、幾度となくいろいろな方々に生まれかわってこられて、
寛政10年に、前川家にお生まれになられて、のちに中山みきさまとなられました。
そして天保9年に、中山みきさまは、「月日のやしろ」としてもらいうけられまして、
私たちの「おやさま」になられました。
明治20年、中山みきさまは、現身をかくされましたが、またどなたかに生まれかわること
なく、魂はぢばにとどまり、「月日のやしろ」=「おやさま」として、存命同様のおはたらきを
いただいているのであります。
「おやさま」の魂は、また生まれかわることなく存命のままでおられるわけであります。
このことは、科学的な理論ではなく、信仰的にみなさまが理解されるかどうかであります。
それは、みなさまそれぞれのお心の中で、感じていただければ幸いに存じます。
私は、天理教の教えを信仰しながら、「天の理」の「理科」を学んで暮らしております。
「天の理科学」が、本当におぢばからよろづよのせかいに広まればよいなぁと、個人的に
とても期待いたしております。
「例の方ですかなぁ~?」 ⇔ 申し訳ありません。
三兄弟?のことでは、ございません。
天理教の長い歴史の中で、「おさづけ」のおはこびに関してだけでも、
大きな転機がございます。
☆ 飯降伊蔵本席さまの時代
☆ 上田ナライト本席さまの時代
☆ 中山たまへさまの時代
☆ 中山正善二代真柱さまの時代
☆ 中山善衛三代真柱さまの時代
三兄弟ではなくて、我々三人で・・・ということですが!
7歳の男の子の糖尿病事件
この事件をニュースで見て最初天理教かと思いました。
医学までは否定しないでしょうけど治療費(お供え)については似た話よく聞きます。
天理教はいつからお供えが一番大切な教えになったのでしょうか。
なにかにつけて金の話ばかり・・・しんどいですね
そこまでしてお金が大切なら道一条といわれる方々がみなさん働いて得た給料をお供えして下さい。
愛町の初代に「何故、愛町にはお金が沢山あつまるのですか?」と聞いた人がありました。すると、「私はお金の話はしたことは、ありません。」「でも、天理教はおつくし(お供え)の話が大切でしょう?」すると「あれは、会長が欲しいから言っているだけだよ。」と言われたそうです。
「あれは、会長が欲しいから言っているだけだよ。」
ほんとにその通りだと思います。いい車にいい食事、贅沢三昧
それは徳があるからだそうです。
自分が神様と勘違いしている会長達の多い事
「助けてもらいたかったらお供えしろ!」
お供えしないと助けてくれない神様って? 誰が信じます?
私はお供えはしませんが日々感謝の気持ちは忘れないように過ごしています。
脱会したら因縁も徳も無くなりました。
月次祭は今回、祭典には自己都合のため欠席しました。
夜、参拝しました。その時にこのHPの話題をしました。
あんまり、かしこまった話にならないように。
さりげなく話題にしました。
私としてはなんだかホッとしていますが、
聞いた方々はどう思っているかはわかりません。
このところ、公私ともにあんまりツキがない状況で。
つい最近の話になります。
職業柄、いろんな人にお会いする機会があるのですが、
年末になると、切羽詰った方々が訪問されるケース多い。
最近、そんな方が来られて、よくよくお話を聞いてみると虚偽な事を
平気で言うわけですよ。
最後つじつまが合わなくなるような・・・。
多分、この人は、警察のお世話になったのではないか?
身内の人々とも疎遠になるケースです。
結局、商談の段階でお断りですね。
世の中、きれいごとばかりがあるわけではなくて、
まして、格差社会の世の中で汚くてもどんな形でも底辺から這い上がろうとしている人がいる。
政治家やえらい職業の方には全く理解できない世界が今多いってこと。
ようぼく的発想があれば、お助けにいそしまなくてはいけないところですが、
私自身、面倒を抱え込みたくないし、そんな器量もありません。
そんなことがあった前後はなんだか気持ちが滅入ってしまいます。
そんな時こそ、おつとめが大切なのか?
天理教のおつとめはこころの掃除が一番大切です。
そうでなくては、次にいけないような・・・。
信仰するってそうゆうものではないでしょうか?
テーマ: 48年間で初席者89.7%減少、おさずけの理拝戴者86.0%減少
130年祭まで残すところ2ヵ月となった。
「別席場をいっぱいに」の掛け声で年祭活動3年目の本年は、10年前の2005年に
比べ年間初席者の数は約3400名(17%)程増加しよう。
おさずけの理を拝戴するには別席を9回運ぶ必要があり、9回続ける決意が必要で
ある。
教団としてはおさずけの理拝戴者を得るには、まづ初席を運ばせる必要があるが、
あれもこれも実行する力が分教会にないので、初席者にポイントを絞った結果、初
席者の人数だけは10年前を上回りそうである。
しかし、おさずけの理拝戴者の数は10年前に比べ約2700名(29%)減少、修養科
修了者は約1600名(38%)減少となろう。
年祭が終わると疲れがドット出て3-4割減る。
著しい衰退は年祭活動3年目においても続いているのである。
<教祖80年祭と130年祭の人数対比>:
50年前の80年祭の年(1966年)には、初席者は年間11万人を超え、おさずけの
理拝戴者は年間3万7千人を超えていた。
別席の誓い おさづけの理
50年前、昭和41年(1966年)教祖80年祭の年:112194人 37681人
昨年、平成26年(2014年)年祭活動2年目: 11507人 5274人
———————————————————————
48年間での減少数(年間) 100、687人減少 32、407人減少
48年間での減少率(年間) (89.7%減少) (86.0%減少)
ようぼくとなる人の人数は50年前に比べ14%の水準である。
衰退を通り越して崩壊へと進んでいる。
この50年間にわたる天理教の著しい衰退には、はっきりした原因と理由があるはず
である。
教団が衰退の原因と理由を取り除かない限り、衰退は決して止まらない。
残念ながら教団には衰退の原因と理由を取り除く意思は全くないことは歴史が証明
している。
衰退の原因と理由を取り除くと、真柱を筆頭とする教団が今まで言ってきたことがウ
ソになってしまい教団の教理と組織制度が崩壊してしまうのであろう。
衰退の原因と理由を取り除けない以上、衰退はとことん行き付くところまで行く。
天理教を職業とする人たちは、本人が自分で選んだ道であり天理教で生活の糧を
得ている人たちであるから本部の方針に表面上は逆らえず、一般信者が何を言って
もどうにもならない。
本部を頂点とする天理教教団の衰退の原因ははっきりしている。
おや様の教えは素晴らしいが、教団の組織制度は全くダメである。
(1)敗戦と同時に始まった「復元」は、おや様の教えに戻る「復元」ではなく中山家と
本部に権力とカネが集中するという「失敗復元」。
(2)実力以上に大見えをはり、信者からお供えと称する巨額のカネを集め、巨大な
やかたや神殿を次々に建築し、末端教会や信者を疲弊させた失敗。
(3)真柱には真柱の息子がなり、本部員の息子が本部員、大教会長の息子が大教
会長、上級の息子が上級会長、末端の息子はどこまで行っても末端教会長、生まれ
たその日に本人の30年後、40年後の人生が決まってしまう時代錯誤の世襲制身
分制度の失敗。
(4)組織にガンジガラメになり、上級や大教会の家来として扱われながらお供金を上
納しなければならない末端教会長が、苦しまぎれに使い分けるホンネと建て前の二
枚舌。
(5)大教会や分教会がその家族の住宅となり財産となり、信者そのものが財産とな
っている教会の私物化。
(6)中山ミキの教えは素晴らしいので、なんとか教会につながっている一般信者は、
所属教会長や上級教会長の堕落した姿を見て、熱心な信者ほど教会と教団に批判
的になり、中山ミキの信仰を放棄しないまでも、教会や教団と疎遠になる。
教団や教会長が教えているのは70年間衰退を続けている復元に失敗した「中山
教」であり、おや様の本当の教えではない。
教団が教える「中山教」が全て誤りと言うわけではないであろうが、中山教は中山真
柱家と本部にとって都合よく書き換えられた教えであり、おや様の本当の教えではな
いニセ教理が混ざっている。
教理にニセが混ざり、自己保身のため時代錯誤の組織制度を温存していることが天
理教教団の衰退が止まらない真の原因である。
教団や教会長がおや様の本当の教えを信者に正しく伝え、時代に合わせた組織制
度に改革していれば、このように戦後70年間の著しい衰退が続くわけがない。
教団や教会のまともな若い人は、事実上の世襲制身分制度という時代錯誤の組織
の中で一生を過ごそうとは決して思わないであろう。
末端教会は上級や大教会に労働力を提供するだけではなく、お供えと称するカネま
で出さなければならない。
教会の家族が外で働いて得た金でかろうじて教会を維持しているのである。
貧乏だけが身に付き信仰が身につかない末端教会に自分の娘を嫁に出したいと思
う親はいないであろう。
若くしていったん組織の構成員に組み込まれてしまえば、10年、20年たってから教
団のニセ教理に気づき組織制度の異常さに気が付いてもそこから抜け出す事は実
上不可能である。
それぞれ皆、家族が有り生活がある。
幼いころから心や頭にこびりついた「中山教」を消し去ることも至難の業である。
教団組織から抜け出して社会で働くにも日本のように高度に発達した技術工業社会
にあっては、天理教の中しか知らないものが仕事を得るのは容易ではない。
組織から飛び出してアルバイト程度の仕事に就いて新たな生活を始めようと考える
ものは殆どいないであろう。
教会長や信者の中で最も人数が多いのは、60歳台と70歳台である。
10年後には、60歳台は70歳台となり力を失い、70歳台は80歳台となり出直しの
年齢となる。
従来型の年祭は今回の130年祭が最後となろう。
<一般信者の道>:
天理教を職業としない一般信者は、衰退の原因と理由をはっきり把握し腹をくくらな
ければ、信仰をすればするほど教団の衰退に巻き込まれて、信仰とは一体何である
のか分からなくなり人生を誤る事になる。
天理教を職業としない一般信者は、衰退から崩壊へ進んでいる教団本部や教会の
組織信仰、職業信仰に依存してはならない。
信仰を続けるか否かは、自分自身が中山ミキの教えを実感できるか否かにかかっ
ている。
中山ミキの教えを実感できなければ続けることは出来ないし、無理に続ける必要は
ない。
本部や教会、他人に頼らず中山ミキの教えを自力で学び、日々の生活と仕事の中
で自分自身を鍛え上げ信仰活動を実践しよう。
中山ミキの教えを本部や教会長に教えてもらおうなどという甘い考えを持ってはなら
ない。
失敗しても良いではないか、身上事情が起こればその都度心のそうじを行い心を切
り替え前進するのだ。
ひのきしんの精神で日々学び働き、世の中に通用する知識や技術を身に着け、職
業を修行として世の中に貢献出来るよう努力を続けるのだ。
<衰退を続ける天理教データー>:
「天理教統計年鑑1981、2013、別席の誓い・おさずけの理拝戴人数一覧」
(2015年6月7日付けカインのブログ添付ファイル)。
年度 別席の誓い おさづけの理 修養科修了 教徒登録 教庁決算
1966年:112194人 37681人 記載なし 4547人 記載なし(80年祭)
1976年:119382人 33933人 記載なし 6450人 記載なし(90年祭)
1986年: 84190人 22892人 記載なし 4649人 記載なし(100年祭)
1996年: 35499人 13546人 記載なし 2554人 記載なし(110年祭)
1998年: 24994人 10417人 記載なし 1990人 記載なし(4代真柱継承)
1999年: 21970人 9898人 記載なし 2162人 記載なし(4代継承翌年)
以下みちのとも統計は毎年2月号、教庁決算は8月号:
年度 別席の誓い おさづけの理 修養科修了 教徒登録 教庁決算
2005年: 19568人 9444人 4201人 2065人 165億円
2006年: 22755人 9991人 3832人 1902人 159億円(120年祭)
2007年: 13619人 7055人 3176人 1528人 155億円
2008年: 13069人 6825人 3040人 1265人 155億円
2009年: 13431人 6763人 3138人 1320人 142億円
2010年: 13424人 6798人 2820人 1284人 137億円
2011年: 10780人 5850人 2451人 1057人 133億円
2012年: 10816人 5375人 2555人 1167人 128億円
2013年: 11862人 5541人 2446人 1069人 120億円(活動1年目)
2014年: 11507人 5274人 2546人 1037人 118億円(活動2年目)
2015年:1月―10月(実績値)
18890人 5470人 2018人 916人 未定 (活動3年目)
2015年:1月―12月(推定値)
23000人 6700人 2600人 1100人 未定 (活動3年目)
以上
天理教は沈みゆく泥船、早く逃げ出さないと、船もろとも溺れ死ぬ、というわけですね。いつもながら、詳しい資料と得心の行く解説有難うございます。<一般信者の道>は非常に参考になりました。
中山みき様という稀有の方を宗祖に持ちながら、他の宗教に比べても、歴史は浅いのに、なぜここまで堕落するのだろう、と遺憾に思います。中山家が天理教という宗教にくっついてる限り、教祖がお啓きくだされた、純粋な教えに復元される事は多分ないでしょうね。どうしても、中山教になってしまいますね。自立人生さんがおっしゃるように、教団や教会に頼る事なく、わからなければ、信じられる先人の方が書かれた本でも読んで、自分で学ぶ、それが一番ですね。有難うございました。
2015年も終わりに近くなってきたのですが、師走の感じがしない。
しかし、いつもよりは、交通量が多いかもしれない。
それでも、年々早いスピードで年が明けてしまうから、昔のようにのんびり正月しますモードが遠のいているような。
都心では、中国人やらのバク買いで一部バブル状態だそうです。
現にわたしの地方都市でも中国人がバク買い目的で、訪れたこともありました。
私はなるべく外国人との商談は避けたいし、特に中国人は日本人の常識を覆す人種なので
避けたい。(韓国人も同様)
日本人は全く危機感のない環境にいるものですから、平気に商談に乗る人が多い。
それには困ったものです。
日本人としてのプライドが希薄なっていく昨今。
本当に情けないです。
情けないといえば、
店頭に物売りをする方々も最近、詐欺めいた商法で尋ねてくるのも情けない。
物を売るなら堂々とセールスしてもらったほうが気持ちいい。
そんなことを思っている。 自営業者のボヤキ。
私は天理教信者です。心やさしく素直な対応をしなくてはいけないのです。
しかし、現実は違います。
疑い心も使うし、八つのほこり毎日出していますよ。
そんな私も信者であることが、本当にこの宗教のためになるのだろうか?
とたまに思うわけです。
>そんな私も信者であることが、本当にこの宗教のためになるのだろうか?< などと考える必要ありませんよ。
nanacy さん、この宗教は本当に、私のためになるのだろうか?とお考えになった方がよろしいと思いますけども。
八つのほこりが無い人なんて、この世にいるのでしょうか?ご教祖くらいじゃないでしょうか?
世の中には、ほこりを出しまくって、まわりの人を傷つけてる人も多いけど、nanacyさんは、心根のやさしい方で、気にされてしまうのかもしれませんけど。 できるだけ、ほこりを出さないよう、もし出しちゃっても反省して、少しでも心使いを良くする姿勢でいれば(私も、八つのほこりまみれで、えらそうな事言える立場では無いですが)、十分じゃないでしょうか。
あまり気にせずに。
匿名様
コメントありがとうございます。
私は心根がやさしいわけではなくて、優柔不断なわけです。
いつもそんな自分に頭にくるわけです。
マヌケな感じ。もっと鋭くならないと。
腹がたったら、即言い返すような根性がないと世の中渡っていけない。
そうですよね。
我慢しないで、戦わなくてはいけない。
人生我慢ばかりしていたら、病気になってしまいます。
nanacyさん、私は若い頃は内気で、人に言い返す事など、とうていできない性格でした。あれから何十年経った今は、ようやくいくらかはずうずうしくなりましたけど、若い頃には傷つくことばかりでしたね。気の強い人が羨ましく、社交性のある人が羨ましかったものです。若い頃に今の図太さがあれば・・・まあ、誰しも皆、同じかもしれませんけどね。
匿名様
この宗教は本当に、私のためになるのだろうか?
ああ~!なんて素晴らしい言葉だろうか
私が求めていたのは、この言葉のような気がします
ここはこれまでの人生やら、思い込みを含めてなんとなくわかったこと、感情的にはならず、どうでもいいや、っていうスタンスで、こうなればなっていう思いを込め、それでも、中山系列企業に対して、憤りや、憤懣を思いをかけたくなったので、内部事情とあわせて、何か聞かせてもらうことはあるでしょうか?なにしろ、教祖がいなければ、私はこの世に存在しないのですから。
ツキが良くなり始めは、ちょっとしたきっかけから始まる。
そこに、気づくことが、わかるようになれば、自分の人生にゆとりがでる。
信仰するのは、気づきが人よりも早くなるのではないか?
だから、信仰している。
それがなくては、信仰している意味がない。
そう思うのです。
例えば、周りにいやな人がいても、つらさそうな人がいても、信仰することで、悟れることもある。
今の状況がつらい。又はつまらない。などなど。
すべて、悟ろうと思うのは信仰しているおかげである。
普段何気に思うことすべて、神様が悟ってほしいから、その状況を見せられるのでしょう。
気づきがなければ、信仰しないほうがいい。
そう思います。
思い込みとかそうゆうことでないのです。
信仰者は日常この姿勢で日々暮らしていくことが大切ではないかと思うのであります。
地元に所属教会がないので系列教会に行っておりますが、端々に見えるマインドコントロールの常套手段に笑える。講社祭、父が2ヶ月に1回にすると言ったら神は全てお見通しとか、ひのきしん、僕が本当に体調が悪いので勘弁してくださいと言ったら、もう誘わないとか(笑)弱者の心理をコントロールする言動(笑)そんなこと言っているから、一族誰も幸せに向かわないんだよと、言いたいぐらいだが、本人は正しいと思っているんだよね、それがまあ、ご自由にどうぞ。
「ご恩報じ」という言葉、よく祭文に書きますね。年とって祭文が書けなくなった会長の代わりに、身内の私が書いてるのですが、(ちなみに、毎度毎度同じ内容になってしまうので、少しでも変えなければ、と苦心惨憺している次第ですが)、そこでよくご恩報じと書きますが、この言葉いったい、「おふでさき」か「おさしず」にある言葉なのでしょうか?ご存じの方がおられたら、教えて頂きたいです。もちろん陽気ぐらしをさせたいとの思召しによって、人間をおつくりになったご恩はあるにしても、天理教では他の宗教と違って、神様を親と説かれてますので、親なら、子らが這いつくばって伏し拝むのを、そしてご恩を奉じられて喜ぶだろうか?と思ったりしてしまいます。もちろん神様と人間とは違いますけども。
そしてこの、神様へのご恩報じと言いながら、ご恩を奉じる相手が、上の教会や教団になってるのではないか、お供えを少しでも多くあげる事なども、と思う次第です。
天理教は言葉のレトリックに満ちています。この「ご恩報じ」も、その一つのように思えるのです。
2カ所 漢字訂正します。 奉じる →報じる です、すみません。
人は覚醒する事が重要です。覚醒とは何でしょうか。他人の神を信仰しないことと断言いたします。中山みきさんの神様は中山みきさんの信仰対象ですね、それは尊重する事であります。自分の神を信仰する、聖書のイエス、モーセ、そしておやさまは、雛型を通して我々に教えを説かれています。気づかないでしょうか。冒涜と取られるでしょうか。自由です。神は今ここにあり、奈良の天理に行かないといないなんて戯言は終わりにしましょう。そんなところに行かずとも、天理教に入らずとも幸福にはなれます。間違いのない事実です。面倒臭いのでここで切り上げます。
四代目様
「天理教に入らずとも幸福になれます」、共感します。冒頭の「他人の神を信仰しないこと」、以下の三行の部分が分かりにくいのでもう少し詳しく教えていただけますでしょうか。
どなたか正確な情報がわかる方、教えてください。
「あしきをはろうてたすけたまえ天理王のみこと」のおつとめは教祖の教えではなく「人間思案」からうまれた後利益を願う祈りであるとの話を耳にしました。これはH19年6月26日の本部月次祭において、本部役員であった当事天理大学学長の橋本武人氏が講話した内容です。人間が「天理教式祈りの体裁」を整えるためにあとづけで、この文言を創作したのでしょうか。教祖の伝えた祈りのことばとして毎日おつとめをしている者にとってこれは大問題です。作り事、まがいものなら、即刻、この箇所は省きたいですが。
「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」十戒1。戒めの言葉、あなた即ち匿名Aさん、わたし即ち神即ち匿名Aさんの内在神、ほかの神々即ち中山みきさんの神を信仰対象とする天理教組織他、宗教組織など。この人生において、あくまでも主体は匿名Aさんであって、宗教組織ではない。心理学者マズローは高次な欲求に自己超越欲求があると提唱しました。自分を越えていくことが欲求そのものとなる。組織の中で認められるために活動する事、これは承認欲求、人に認められることが人生の目的になってはいけないです。自己超越欲求の中で人は自己実現され、潜在能力がその活動において引き出されます。自分の潜在能力、即ち神の力を発揮していく、これこそ自身、自神への信仰です。心理学者アドラーは、嫌われる勇気を持てと提唱しました。イエスはこの世に何をしに来たのか、「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」。当時イエスはユダヤ教の人たちの中で主体的に生き迫害されました。組織の枠にはまらない生き方を実践しました。おやさまもそうしたのではないでしょうか。しかし、組織が求めるのは枠にはまった生き方、その目的は組織運営のため。宗教以外であれば、信仰の自由はあります、しかし宗教組織では、私は私を信じるということは、とある都合に照らしあわせると大問題になります(笑)先ずはここまでにします。
四代目様
なるほど、組織の中で認められる欲求、これが人生の目的になってはいけない。自分を超えようとする自己超越欲求の中でこそ人は自己実現されるのですね。本当に深く考えさせられます。この組織の中では異端扱いされて居心地は悪くなりましょうが、自分を信じること、即ち自分を大切にすることなのですね。日頃、長いものにまかれて生きる気持ち悪さの中、もっと自分の命を見つめようと思いました。毅然とした姿勢が大切ですね。ありがとうございました。
匿名A様、 おやさまや、イエスさまが命がけで切り開いた信仰が長いものにまかれ、事なかれ主義者が実践しているという考え自体がおかしな考えです(笑)時代に組織に迫害され続けても貫き通した信仰の味はどれだけ味わい深いものだったのでしょうね。自分を日々刷新していくこと、日々自身が新しくなる、自分の人生に希望の光が見えてこないでしょうか。自身が光輝くこと、おやさま、イエスさまの如く。実践あるのみですよね。
四代目様、あなたのコメント興味深く読ませて頂いております。ご自身は、多分宗教を信じられては無いと推察致します。
ご自身の内なる神を信じ、自己を超越した、神の如き能力を信仰する、といいますか。
あなたはニューエイジ活動をされてる方でしょうか?差支えなければ、お聞きしてもよろしいでしょうか?
つい最近のこと。
いつもは先輩、同世代、後輩と。
大人数で飲み交わす、飲み会を続けてきて。
たまには、少人数で飲みましょうと。
ある先輩一人と、私と後輩の3人の席を作り。
いつもよりも、濃い話をすることが出来た。
その先輩は、とても面倒見の良い性分で。
真っ直ぐであり、行動力もあり。
いつも、あえて悪役も努める方である。
先輩方々からも、後輩たちからも慕われ。
慕われ過ぎて、周りも頼りにし過ぎている感もあり。
一緒にいて、見ていて。
時々、その先輩がパンクしそうなきがして。
辛くなることもあったので。
心配になり、その気持ちを飲み交わしながら。
先輩と、色んな話を交え伝えました。
先輩も、
「好きで、性分でやっていることだからさ!
でも、そうだね。こうして、対で話してもらえて。
その気持ちは、本当に嬉しいよ!
みんな、個性が強すぎて。衝突も繰り返してきたり。
距離をとる時期もあったりね。
曲がった相談は受けないし、それなりに流すけど。
真っ直ぐな相談は、真っ直ぐに答えたいから。
やっぱり、仲間だからさ‼」
やっぱり、先輩は、そのままに先輩だった。
そのままが嬉しかった。
私も、「先輩、後輩、仲間、ダチ…。
でも、結局は。残るのは、人と人。人対人‼
たったそれだけだと思っています。」
後輩も、後輩の感じてきた気持ちを話したり。
みんなで、涙ぐむ話や、笑いが止まらない話。
いつまでも、人間臭く在りたいと。
あらためて感慨深く、そう刻みました。
どんな形であれ、仲間として。
相談、話し合いをすれば。
何らかの形の結果は、出すようにしています。
そこには、神も信仰などという言葉は。
1つも必要もありません。
時々、宗教話は出るにしても。
お寺のお坊さん、神社の神主さんぐらいで。
いわゆる、新宗教の分野に関しては。
勧誘がしつこいとか、お金をだましとられる。
家庭が壊れるなどの、被害感想を沢山聞きます。
私は、宗教話の場面では。
自分の家が、昔は天理教だったこと。
天理教が許せず、自分で整理した話をします。
「天理教は、外面は良いけど。
内側に弱い者虐めを続ける。
ヤクザ社会以下の理不尽な組織。
天理教限らず。
宗教に固執すると、人として心を失う。
俺の家もそうだったし、宗教で泣いてる人。
壊れていく家庭を沢山見てきた。
結局は、人が集まって勝手なルールを作って。
人が人を、踏み潰しているだけなんだよね。
これからもずっと、俺は許せないなぁ。」と。
聞いている周りも。
「天理教も、やっぱり危ないんだね~。」と。
私の地方では、天理教の認識、知名度は低く。
私の世代、私より年下の子達には。
認識度も知名度も、ほぼ無いかもしれません。
子供の頃、夏休みに近所の子達と、奈良に行ったよ。
高校野球で、昔は強かった所だよね。
ぐらいで、天理教には誰も興味もなく。
どこか、天理教も、学会さんも真光さんも。
よく勧誘に回っているキリスト系さんも。
他の宗教団体も。
世間では、全て一緒の、一くくりの宗教団体。
どこも同じ、という認識です。
洗脳されて、どこか怖い宗教団体認識です。
どこであれ、絶対に関わらないように!
と、宗教話が出ると注意は促してます。
その為か、宗教トラブルの相談も受けますし。
その団体の集会所なりにも、相談者と行き。
向こう側の話も聞き、私の経験と意見も述べます。
私のような宗教を整理し、宗教団体内部を知る人間には。
向こう側も強くは出ませんし、私も踏み込みません。
ただ、知人が心配だから同席しただけです、と。
関わらないことも、宗教団体に属さないことも。
立派な信仰心だと私は伝えます。
ただ、世間で騒がれるほど。
学会さん真光さん、キリスト系さんに。
私は、嫌なイメージは持っていません。
私は昔、家が天理教であったが為に。
晩飯も満足に食べれない時もありました。
友人達のお袋さん方々が。
「うちで一緒に、ご飯食べて行くよね!
あんたは、私の息子だからね!遠慮するない!」と。
そんな、外のお袋が何人もいてくれました。
世間では、普通の晩御飯だったかもしれないけど。
自分の家では、食べたことのない料理を。
いつも、お腹一杯にご馳走してもらいました。
外のお袋さん方々は。
それぞれに宗教を信仰していましたが。
私が天理教で、幼い時から傷ついていることを
知っているので。
宗教話は一切しませんでしたし、押し付けもしませんでした。
とにかく、お腹一杯に食べて、いっぱい話してね!と。
私が社会に出ても、外のお袋さん方々は変わらず。
晩飯、うちで一緒に食べていき!
あんたは私の息子だからね!と。
何年前に、亡くなった方もいて。
その方の、見送りに手紙を添えました。
他には、宗教を辞めたお袋さんもいて。
おばちゃん、洗脳されてたゎ~!と。
おばちゃんも辛いときがあったんだよねぇ。
早く気が付けて良かったね!と。
お互いに、笑い話にしてみたり。
子供の頃、今も。
友達のお袋さん方々の、優しさとご飯の味は。
生涯忘れません。
そして、天理教は。
生涯許せません。
ここ数年。
色んな場面や、色んな所で感じることがある。
「ゆとり世代、今の若い子達は…と。」
私は、若い世代、未成年達と。
一緒に物事をすることは多い方です。
今も昔も関係なく、若者は純粋で真っ直ぐです。
確かに、時代の流れはあるのです。
携帯電話、パソコンが普及しただけでも。
時代の感覚は変わります。
時々に、今の若い子達は…。ゆとりは…。
と、口にする年配者、大人達に対して。
物凄く、腹立たしい思いになります。
カインさんの前の、ブログ記事にあったように。
今は、高齢者の犯罪率の方が高いのです。
私も、日々の場面の中でも。
高齢者、年上の方々の。
ワガママや執着心、心の狭さ。
勘違いした、先に生まれたから偉い!?ような。
時々、ハッキリと口にして対峙する時もあります。
天理教に関しては。
小さい頃から、天理教の大人達の姿は。
理不尽にしか映りませんでした。
多分、私にとって。
天理教の年配者、大人達が嫌い許せないが。
世間の大人達も理不尽だと、成ってしまってます。
時々、世間の中の組織の理不尽さと。
天理教の理不尽さが、重なって。
嫌悪感と閉鎖感で一杯になり。
叫びたくなる時もあります。
今の若い子達…。ゆとり世代だから…。
と、自身の未熟さを振り返らず。
言い放つ年配者、大人に対して。
私は。
「ゆとり世代より、使えない大人達。」
そう称して、対峙しています。
子供達、若者の。
可能性を潰しているのは。
不平等を作っているのは。
先に生まれた者、大人達かもしれません。
天理教では、中山みきさんの名前を頻繁に使います。
おやさまの雛形、生き筋を通ると。
天理教の中で、中山みきさん、飯降さん方々と。
同じ生き筋を通した人は、一人もいないです。
そして、どこか勝手に美化もしています。
中山みきさんも、飯降さんも。
一人の人間であり、人生を生き抜いた個人です。
天理教が、中山みきさんの名前を使うだけ。
中山みきさんが、伝え残したかった。
生涯の生きざまを。
下げていることに、気が付いていますか。
中山みきさんが、何を伝えたくて、何を残したかったのか。
もっと、人一人として、各々に考え。
葛藤して欲しく思います。
天理教の方々は。
わざわざ、心定めと言わないと、何も出来ないのでしょうか。
ひのきしんと言わなくても、ゴミ拾いでも、ボランティアでも出来ますよね。
信者さんが、床に伏せば。
わざわざ何回も、お願い勤めしてると。
電話してくる必要はありますか。
親神様とか、おやさまとか。
人助けとか、を口に出す裏腹に。
人に見返りと、自己満足を求めるのですか。
時々、ほんとに、恩着せがましく感じます。
困っている人、立ちすくんでいる人。
何かしてあげたいのならば。
そのままに、サラッと。
何か、出来ることありますか?
と伝えればいいじゃないですか。
神がどうのより、そのままに。
自分個人の感情として、
行動すればいいじゃないですか。
先にも後にも。
わざわざ天理教に当てはめようとするから。
人間味が消えて無くなって行くのです。
いつまでも、何十年と。
組織が悪いけど、教えは良いとか。
中山家、教会が、会長が、先生が…。
教理が曲がっている、隠蔽、改ざんされている。
同じことを、何度も掘り起こして。
同じ問題を、何回も提議して。
それを練り合いと称して。
実は、何も進んでいない。
自身の保身の為に、進もうともしない。
親子喧嘩も出来ないのならば。
それは、人対人でもない。
立場上だけの上の者が、下の者を。
踏みつけて食い潰す。
間違っていることには。
人として、間違っている!と。
面を向かって伝えればいいじゃないですか。
天理教の方々は、当たり障りないように。
いい人に成ろうとしてる。
闘わずして、結果は出ないです。
天理教が守り通したいのは。
天理教の教えとは。
無能な馬鹿げた、村社会な天理教組織ですか。
勘違いし続ける狭い村社会の。
先生方々、会長さん方々ですか。
人間思案て言葉は、世間、社会からみると。
天理教は人を見下してるかのようにしか感じません。
天理教自体も、天理教信者も。
人間であり、人じゃないですか。
都合のよいことは、ご守護であり。
都合の悪いことは、不足で因縁で。
病気が治れば、関係もないお偉いさんが。
講話で、声高々に語り。
誰かが、病気になったり、つまずくと。
寄って集って、信仰が足りないと叩く。
天理教の陽気とは。
心が鈍くなり、自分さえ良ければ良い。
ということに、なることなのですね。
神のお手入れが…と聞くと。
オウム、キリスト系の終末思想と紙一重にも感じます。
どこか、無責任な、人頼みで自然頼みのような。
お手入れなどと、悠長に言っていたら。
天理教で被害を受け続けている方々のの苦しみが。
募るだけです。
天理教の作る、天理教被害は。
天理教人が作っているのだから。
人として、対峙して減らさなくてはなりません。
私も、昔。
天理教に抗い、対峙していた時に。
ここまで伝えれば、向こうで解るだろう。
現実は伝わるだろう。
気持ちをくんでくれるだろうと思いました。
でも、それは大きな間違いでした。
天理教に染まる方々に、相手の気持ちをくむことなど。
そんな思いは無くなるんだなとわかりました。
伝えたいことは、一から十以上に、二十以上に。
感情のままに伝えないと。
もちろん、天理教に染まった方々は。
わかっていて、気が付かない振りをする確信犯です。
立場が不利になれば、平気で掌を返す方々でした。
バリ天!?などと呼ばれる人種がいるのですね。
もしこの先、どこかの場面で。
バリ天と、会い話する機会があれば。
その人の心の根元から、折ってあげようと思います。
天理教を振りかざす方々に。
真っ向うから、筋を通し対峙して伝えれば。
目を反らして、下を向き逃避するのは分かっているので。
残念ながら、天理教は。
真も筋も揺らいでしまい、
弱い者虐めが信仰となっているのも現実なのです。
天理教が衰退するのは当然の結果であり。
これ以上に、見苦しいことは続けるべきではない。
消滅はなくとも、本部、周辺の建物を。
文化遺産として、保護するぐらいのことは。
国がしてくれるかもしれない。
本部、周辺部だけ維持できる天理教であればいい。
天理教と対峙していたときから、歳関係なく。
天理教の会長、後継者と呼ばれる方々に伝えてきたこと。
自分の代で、教会は整理すること。
親心があるのならば、子供に教会を継がせてはいけない。
もちろん、他の誰かに継がせてもいけない。
子供が決めることでなく、親が大人が。
整理しなくてはならないことです。
宗教などなくとも、信仰心は必ず人にはあります。
間違ったことをしたのならば。
罰を受け、法に触れれば刑を受けるのです。
宗教を語り、理不尽を通し。
真っ直ぐな人間が報われないのであれば。
そんな宗教は、この世には必要はない。
宗教とは。
必要の無いものかもしれません。
人が人を踏み潰すだけの。
勘違い続けるお偉いさん方々の。
自己満足な、理解不能な集まりです。
どこか、ニートと呼ばれる人達のような。
社会に行き詰まった。
自己勝手な逃避の溜まり場になっていませんか。
でも、時々に思うことがあります。
宗教は、使い捨てで良い。
そして、宗教とは。
可能性でも在って欲しいと。
天理教に可能性はありますか?
天理教内部がゴミ屋敷なのに。
隣のゴミを片付けた方が良いと。
恩着せがましく、教えだと言っています。
自身の周りのことを出来ない大人に。
魅力など感じません。
その言葉の薄さに、苛立ちがが募るだけです。
においがけ、そんなことはしなくてよいので。
ただの迷惑です。
無駄に有り余るパンフレットは、資源の無駄です。
天理教内部の整理整頓に。
全力を注いで下さい。
昔に、代を継いだ上級の息子が。
天理教を整理した私の家に理不尽に来て。
「みんな天理教を嫌々やっている。
みんな、本当の天理教を知らない。
天理教をやめたらもったいない。
教会なんて、どうでもいい。」などなどと。
私は、一回り以上年下ながらも。
思わず笑ってしまいました。
「嫌々なら、やる必要はないでしょ。
そもそも、天理教をやる必要もない。
私の見てきた天理教は、
そのままの天理教の現実ですよ。
理不尽だから、理不尽だと伝えて。
私自身が決めて、私が整理したことです。
家にも私にも次の世代にも。
天理教も宗教も必要もない。
教会がどうでもよいのならば。
どうして、もっとしっかり部内の話を聞かないのですか?
後の続かない教会は沢山在りますよね。
上級に対して、誰も心開かないですよね。
私が、一から十まで話さないといけないことですか?
矛盾を通り越して、腹立ちしか残りません。
もう、二度と家に来ないで下さい。」と。
他にも、苦言は伝えました。
その方は、反省も振り返る気もなく。
帰って行きましたけど。
沢山の天理教の方々を見てきて。
天理教と接してきて。
時々、個人的に。
宗教に染まる方々が、心配になることもあります。
宗教を信仰することとは、世間ズレして。
世間ズレすることを信仰と勘違いし。
教えと云うものに、答えを求めて。
そして、教えと云うものにビクビクして。
間違いを間違いと認めることも出来ず。
自身で葛藤する気持ちも失い。
自身で判断することを失い。
人として対峙することも失い。
個人として生まれてきた存在意義も。
失うことなのかな…と。
先に生まれた者として。
大人としての責任感とは。
自分達の世代が作った不条理は。
自分達の世代で、整理していくことです。
天理教、信仰を伝えようとか。
そんな責任感は、一切必要はありません。
次世代にとって、迷惑なだけの責任感です。
信仰は後からついてくるもの。
二の次、三の次で良いのです。
人として、個人として。
日々、考え、思い、想い、悩み。
行動しなければならないこと。
守り通さなければならないこと。
人生という、限られた時間の中。
先に生まれた者として。
次世代に魅せて伝えあげられることは。
「その人にしか出来ない、生きざま」
なのかもしれません。
神がどうのよりも。
宇宙であり、地球であり。
世の中の森羅万象、自然の在り様が。
神様で良いのでは。
神様に名前をつけると。
理不尽しかおこりません。
人間は、人間以上でも以下でもありません。
私も、私以上でも以下でもありません。
でも、せっかくに。
自分自身に生まれてきたのだから。
自分にしか歩めない人生と、限りある時間を。
自分らしく、表現し伝えて生きたいのです。
私の存在意義は。
私自身で見つけて生きたいのです。
はぐれ雲さま
宗教に固執すると、人として心を失う。俺の家もそうだったし、宗教で泣いてる人。 壊れていく家庭を沢山見てきた。
人が人を踏み潰すだけの。 勘違い続けるお偉いさん方々の。 自己満足な、理解不能な集まりです。
結局は、人が集まって勝手なルールを作って。 人が人を、踏み潰しているだけなんだよね。
う~んさすが!と納得してしまいます。
天理教教団は人の為にならず!しからばなぜ存在するのか?
教団の維持繁栄の為です。「絶対的な神、逆らえない神」に依存する人々を隷従させ、甘い言葉の砂糖菓子に群がる蟻のような人間に純粋培養させ、世代を超えて繋ぎ止めておく。
その巧妙な策略は見事です。
はぐれ雲様、書かれてる事深くうなずける事ばかりです。
子供の頃、食事も満足に食べれなかったお話は、やっぱり、他でも聞きますけど、そこまで、子供さんにつらい思いをさせる事は、間違いである、と思います。なぜ、教会はそのように、貧乏をしなければならないのか、組織の有りようが、貧乏をさせている、または、貧乏を推奨してるのですね。教祖が”貧”お通りになったとて、信者に強制する必要がありましょうか?
宗教に依存するな、というお言葉もおっしゃっる通りと思います。人間各自、おのおの人生を通る中で、それぞれに自分なりに悟れるところもあります。教祖の教えは、参考、何か示準を得たい時くらいに読む程度でいいのではないか、と思います。もちろん熱心におたすけをやられてる方々や、信仰を熱心をされてる方々までも、否定はしませんが、やりたければ、必要無い者まで、まわりを巻き込まないように、自分の道に精進してくれと申し上げたいですね。
それと、パンフレットなど、大量に作るのは、紙の無駄、資源の無駄、ほんとにそうです、もったいない。
はぐれ雲さん、その通りですね。
はぐれ雲さま 最後の8行、本当にそう思います。
最近、手にした本の中でこんな文章がありました。
「ヒーローが存在しない、代わりのきく誰でもいい「誰か」たちの運動体。
そこで俺らはありふれた「数」でしかない。
しかし確実に「1」であり、その「1」に計かることのできない価値が宿ってる。
一人ひとりが、何ものにも依存せず、孤独に思考し、判断し、路上に立ち、声を上げることで、
みずから民主主義の担い手となる。、、、、、、、、、、、」『SEALDs』 2015年10月20日発行 大月書店
私は落ち込むと、よく「たかだか私、されど私」と言い聞かせて生きてきました。これかも。
最後、「これかも」は「これからも」です。せっかちでごめんなさい。
天理教の「おさずけ」は気功ではないか、と思うのですが、どうでしょうか?こんな事を書いて、おさずけの値打を下げようとしているのでは無いですから、念の為。 他の宗教でも、手かざし、とか同じようなものが多いですね。
教祖が最初の頃は、病人の痛いところをさすったり、息を吹きかけたり、そういう病なおしで、知られるようになっておられた。医者の無かった頃は、そういう人達が多かったそうですね。人間は誰しも体内に、「気」という、生気、生体エネルギーを持っているそうですから、そういう気の強い人達が病なおしをしていたのだ、と思います。
気功でも、治す、という強い思い(念)を相手に与える事によって、又、相手の、これで治ると信じて受ける事によって病も治る場合があるそうです。重篤な病気までは無理でしょうが。歩けなかった者でも歩けだした例もあるそうです。
おさずけをする方もされる方も、神様にもたれる(信じ切る)事によって、行われます。気功治療は、気功をする者が、自分の気を信じて、強い念を病人の患部に送り、病人がこれで治る、と信じて気を受けるわけです。
おたすけをする人が神様を信じ、気功をする者が宇宙自然のエネルギーを信じる、神というのは宇宙、自然の力、とも言えますから、結局両方同じもの、おさずけは気功なのではないかと思った次第です。
はぐれ雲さん
まったくそのとおりですね。私も天理教の家に生まれ、上級より経済的、精神的に相当苦労しました。この恨み・つらみは、絶対に忘れられるものではありません。私もあと10数年後には教会を整理し、晴れて「自分を生きる」道に踏み出そうと密かに思っています。しかし教会は自分の実家であり、教会を辞めることは「住む家」を失うことになるのです。自分の命の残りの時間を考えながら、覚悟を決めなくてはならない「その時」をどう迎えようかと思っています。
現在は自分にうそをつきながら生きる教会生活。お供えの心定め・修養科への勧誘人数・・・色々紙に書かされます。無駄なお金を使いながら大教会に駆り出される、「活動方針徹底のための集会」とかなんとか。教団のために活動するのが「信仰」ですか?何を徹底させようとするのですか?そんなことはどうでもいい。信者さんと共に、私は孤独の中で自分に向き合い、宇宙の運行・自然エネルギーの働きなどを感じながら「生きるという意味」、「自分の命」、「自分の心」を見つめたい。
だから数少ない信者さんにお供えの話は絶対に言いません。よって上級へのおつくしはしない。(上級から自分を守るため、数千円だけします。交際費です。) あと数年、上級とは上手に付き合い、教団の渦には巻き込まれないと、日々自分の心に言い聞かせております。しかし実家ながら「家を失う」とは本当に理不尽な話です。全国の教会の後継者で信仰に見切りをつけている方々。後継をしなければ家を失うのですから話は深刻です。
教会が天理教本部のものになっている方々には、教会を止めたくても止められずに、不本意ながら続けておられる会長さん方も多いのではないでしょうか?理は末代、といいますが、ご本部は、末代、教会を続けさせるために、教会を自分達の物にしたのでしょうか?人だすけどころか、人を苦しめている、いったい宗教としての値打がどこにあるのか、と思います。ご本部には、人間味というものがありません。ご本部のいう信仰とは、神一条とは、人間の心はどうでもいいことなのでしょう。匿名の教会長様の心の安寧を祈るばかりです。
みんなでお金を出し合ってこしらえた教会や信者詰所なのに、それを教会本部にお供えして名義も教会本部にしてしまったので、もうやめるにやめられない。
やめたら、自分たちの住むところがなくなってしまうからです。
そもそも、小さな教会なのに宗教法人にしてしまう必要があったのでしょうか。
私はそんな必要はなかったと思います。
しかし、そうしてしまった以上、いまの天理教の体制にもはや耐えきれないのであれば、匿名の教会長さんのように主体性をもってきっぱりと整理の道をつけるのも一つの勇気ある方法です。
多くの事情教会はそこまで行かず、全体にやる気ムードが減退して、後継者も離れ、自然消滅の道を歩んでいます。
事実、いくつかの本部直属の分教会でさえも後継者が無く途絶えています。
匿名の教会長様
些末な事をお聞きして宜しいですか?上級へわずか数千円だけのおつくしで、上級から何も言われませんか?
うちなど、恥ずかしいのですが、来てくださる信者さんが、わずか3人なので、お供えから会費や諸費用など差し引いて、毎月2万程お供えしておりましたら、「少ない」と言われ、本当なら毎月、上級の月次祭に行かねばならない所を、足腰が弱って行けておりませんので、その分を旅費として、お供えするよう言われ、結局毎月3万のお供えをしております。匿名の教会長さんのところの上級が、数千円で済ましてくれるなら、随分と甘い上級と思われます。
私のような個人の。
不快にも思われる、言葉使い。
攻撃的でもある、発言を。
先に、お詫びします。
私も、人間味溢れる会長さん、教会。
こうありたいと思う、会長さん夫婦。
教会を支え、優しく純粋な信者さん。
純粋に見返りもなく、天理教の真を求める方々。
勤勉で、真っ直ぐな本部員、先生。
そのような、温かい方々を知っています。
ただ、残念ながら、今の天理教の中では。
そのように感じ伝わる方々が。
ほんの一部の方々なのです。
その方々を中傷する気はありませんが。
でも、正道に純粋に教理と向き合う。
一部の方々を庇う気持ちで、伝えようとすると。
理不尽な天理教の現実が誤魔化せれてしまい。
筋がズレて、真意が響かなく、霧がかり。
天理教の得意技の。
教理、言葉、権力を使った。
心意のすり替え、騙し合いになってしまいます。
その点は、先にお詫びします。
どこか人間嫌いであり、歳上には攻撃的に成った経緯はあります。
そんな私にも、天理教関係なく。
尊敬し、大好きな年輩方々、歳上方々は。
沢山おりますので。
沢山の方々が、私のコメントに対話してくれまして。
嬉しくも思います。
ありがとうございます。
おさずけは、気功かもしれませんね!
宇宙であり、地球であり、自然のの森羅万象は。
まさに神秘的に溢れています!
私は以前。
いつも見慣れた、街から見える山あいの景色。
その時は、夕方の雨上がりでした。
田舎の地方都市の街並みと低い雲と、
淡い夕日が、所々に差し込む光景に。
神が降りてくる!って、このような光景なのかな!
と、慌てて写メをとりましたが。
残念ながら、ピンぼけしてしまいました。
街を行き交う、他の方々も。
携帯をとりだし、写真を撮っていました。
神秘には、誰関係なく惹かれます。
そして、同じ光景に、いつ、また出会えるのか。
一瞬の瞬きなのです。
その時にしか味わえないのが、人生の時間です。
おさずけに、値打なんてありませんよ。
値打をつけているのが、天理教です。
インターネットのリアルな情報によると。
おさずけをするのに、その都度。
おさずけに金銭を要求する天理教人が、
全国的にかなり居るようですね。
私の昔に知る範囲では。
そのようなことは、見ませんでしたが。
現実的には、多いと思います。
私は、おさずけをするのも、されるのも。
ほぼ、頑なにお断りしましたので。
ちなみに、他宗教団体の手かざしは。
お付き合いとご愛嬌で。
何人かにしてもらったことがあります。
もちろん、
痛いところは、何も変わらず痛いままでした。
その後もお誘いはありましたけど。
一度だけのご愛嬌だから!
私は、無所属無宗教ですよ!と断りましたし。
相手側も、私には押し付けはしてきません。
他のいくつかの宗教団体の方々からも。
お茶を飲み、お菓子をつまみながら。
それぞれの団体の運営、
一部の勘違いした役員等への。
不満はよく聞きました。
天理教に限らず。
宗教団体それぞれに、問題だらけです。
全ての物事は。
こうありたい!と願い、想うことから始まります。
病は気から!も、確かなことだとも思います。
精神が肉体を凌駕することもあります。
何もしないより、何か出きることを!
答えや結果は、先の向こうにあると思うのです。
おさずけを取り次ぐのは、反対はしませんが。
結果も出せずに、弱味につけこみ。
金銭と見返りは、求めないようにして欲しいですね。
願わくば、恩着せがましくしないように。
天理教の株を下げているのは、天理教自身だと。
もっと、身に染みて欲しいな、と思います。
ほんとに、あの無駄な数のパンフレット類とか。
作成する費用、保管したり、
資源ごみに出す手間とか。
上層部も考えて欲しいですね。
天理教に、疲労困憊し、熱量も失った。
末端部に、配れと渡されても。
余るのは大前提なのに。
私は、天理教のにおいがけ、布教には。
大反対です。
天理教内の腐敗ぶり、理不尽さ。
末端部、信者さん方々の疲労困憊を放置して。
教内でイジメを繰り返し。
外面はよく、上っ面の人助けを唱える。
何を布教するのか、理解不能です。
人の尊厳をバカにするのも、
いい加減にしてもらいたいと感じます。
現実を受け入れない。
天理教のあしき慣習です。
教会、布教所、信者さん宅でも。
天理教が、たまたまに置いてあったが為に。
理不尽な苦労を、強要されてしまう方々。
人生さえも、諦め、とり戻しも出来ない方々。
天理教があったが為に、
家族にも深い溝が出来てしまった方々。
本当に多いことが、私にも許せない現実です。
「この恨み、つらみは、絶対に忘れられるものではありません。」
私も、そのままの気持ちであり。
私も、生涯に絶対に消せない根深い感情です。
私は、これからも生涯通じて。
天理教は勿論のこと。
私に、子供の頃から天理教を脅迫まがいに、強要し。
意見すれば、あの手この手で、出る杭を叩いて。
それを、天理教信仰だと。
洗脳されているのか、自己陶酔しているのか。
その方々の、元々の生まれ持った性分なのか。
脅迫、強要、イジメ体制、権力を振りかざすのが。
理不尽であり、無責任なのが。
それが、天理教信仰そのままなのか。
部が悪くなれば、手のひらを返し。
反省もなく、平気で悪気もなく、すり寄ってきたり。
私を追い込んできた、天理教の数々の大人達は。
天理教関係なく、人として、個人として。
生涯に許す気は、絶対にありません。
生まれ育った実家を離れるのは。
無念極まりないことですね。
教会の設立、代々の継承には、
様々な模様がありますね。
登記、不動産関連にしても。
全ての教会が統一されていません。
多種多様なケースがあると思います。
私は、天理教があったが為に。
学を得ることも出来ませんでした。
法関係に関しては、サッパリです。
天理教関連の学校には行きませんでしたが。
私の家は、家族関係も崩壊していましたし。
天理教が家族崩壊の拍車になったのも確かです。
家に通ってくれた方々も数人でしたので。
そして、通っていた数人の方々のご家族は。
天理教が大嫌いでした。
家も古すぎて、あちこちと倒壊も始まって。
私が十代の頃より、社会での稼ぎが綱でした。
整理に当たっては、関係物も。
心ある物だから、粗末には扱いませんでした。
そして学のない私に、支えとなってくれたのは。
教外の仲間、知人、行政機関も支えとなってくれました。
教内の方々には、散々な言葉を浴びせられましたし。
その後も、宗教特有の嫌がらせもありました。
私は、人として筋を通して生きてきたので。
引く理由などありませんでしたし。
もう、理不尽な脅迫まがいには。
屈っしたくも、諦めたくもありませんでした。
私自身の現在に生きる魂を、解放してあげたかった。
次世代に、希望は残してあげたかったのです。
多種多様なケースがありますので。
色々とは書きませんが。
理不尽は続けるべきでも、継ぐものでもない。
区切りは誰かが背負ってでも、
やらなければ成らないときがあります。
準備をして、闘い、区切りをつけ。
失うことはありますが。
分岐点に辿り着けたときには。
新しい出発を願います。
闘い、辿り着いた人にしか。
感じることの出来得ない。
景色と日常が待っています。
乗り越えた人には、日常も新しく感じるはずです。
今の世の中、神社、お寺でさえも。
後継者、檀家場馴れなどは、加速しています。
宗教離れは、世界的に加速しています。
宗教の必要性が、時代と共に問われています。
天理教の教会の後継者不足、信者さん離れは。
当たり前の話なのです。
私が知る昔にも。
天理教関連の学校、大学、本部勤務、
天理関連の仕事を終えて、地元に帰って。
就職し、教会活動をしないまま、
教会を離れた後継者も。
何人か居ました。
その教会のその後は知りませんが。
私は、連絡が着ても取りませんでした。
ただ。
筋を通して、表舞台で袋叩きにあったきた私と。
年老いた親に片付けをまかせて。
色んな理屈を延べ、
表舞台には出ないで、叩かれなかった後継者たち。
天理教の人を叩いて喜ぶ慣習には。
ほんと、歳下ながらにも、軽蔑してしまいます。
ただ、天理教の教会に生まれた。
たった、それだけのことで。
姓も名もあるのに、後継者と騒ぎ立て呼ぶのは。
人として扱ってない、と同じです。
本部直轄でさえも、途絶える所もあるのですね。
当たり前すぎる現実ですね。
天理教は、時代背景は合ったにしても。
度が過ぎました。
度が過ぎる、金銭や財の吸い上げを。
熱心な信仰として。
考え直せと挙がる声を。
不足だ、わかってないと。
さらに、脅迫して、隠ぺいして。
反省もすることはしなかった。
さらに、あしきに拍車をかけてきたのです。
天理教に抗い、対峙していた頃。
色々な感情と、葛藤してきました。
今も、これからも葛藤は続きますが。
たとえ、中山みきさんの。
感性と貫いた生きざまが、
素晴らしいものだったとしても。
天理教に対しての、感情の中に。
卑怯、中途半端…という感情があります。
天理組織は、残念ながらに。
人を、使い古して、使い捨てにして、成り立ってきました。
今現在も、人を踏み潰して成り立ってます。
踏み潰す人が居なくなるまで、踏み潰すでしょう。
天理教が、宗教団体なのか、宗教サークルなのか、
金集め、天理貴族の為のねずみ講なのか。
天理教は、宗教法人格を持つ宗教団体です。
湾曲した貧に、心も貧しくなり。
末端の教会、信者さん方々は、疲労困憊し。
自分自身に、嘘もつき続け。
自分自身の人生なのに。
どこか諦めることを悟り、信仰を唱える。
天理教の陽気ぐらしとは。
笑うことで、嘘をつき続けて、
諦めて染まることなのか。
その方が天理教の中で生きていくには、
楽なのかもしれない。
上級クラス以上は、教会を預かるとしながら。
無計画に、借金を重ねて。
自己満足の、人助けにも繋がらない建物を建て。
必要もない高めの車を揃えて。
寄り付かない場所に、さらに人が寄らなくなり。
会長会議など、何のための馴れ合いの会議で。
自身の浅はかさをすり替えて。
信仰が足りないからだと。
立場の弱い者を叱咤し、
自己満足の為の金銭や、数字を強要する。
その上には、さらに吸い上げる構造となり。
吸い上げられた方々には、何が残るのだろうか。
天理教の構造は。
残念ながらに、無能がさらなる無能を育て。
さらなる無能が拍車をかける構造になっている。
そこには、神も教理も中山みきもなく。
人間思案もなく、伏魔殿もない。
そのままの現実が。
天理教のそのままのの現実です。
これも、「本当の天理教」の姿です。
私の見てきたことは、
天理教の一部かもしれない。
私の何十年かは、天理教の一部分かもしれない。
でも、インターネットとの画面の文字に。
全国の天理教の姿が見えるのも確かです。
多少の誇張はあるにしても。
でっち上げの嘘はないと思います。
画面の向こうには、人がいて書き込んでいて。
その方々も、天理教の現実を書いているのです。
私は、天理教が消滅は望んではいませんが。
勿論、応援する気持ちありません。
他宗教団体に属する気も、まったくありません。
でも、天理教の再生も再編も望みません。
たとえ、再生したとしても。
やはり、同じことの繰り返しに成るような。
懸念は消えません。
今の天理教が衰退を続けて行き。
それでも、変わることはないでしょう。
見切りを着けた方々が離れていき。
自己欲の強い方々が、残って行くでしょう。
踏み潰す人が居なくなるまで…。
私自身の見てきた、天理教の現実の中で。
感じたこと…天理教では、人も魂も報われない。
宗教家として、宗教団体の中で。
最低なことをしているのではないのか。
そう感じることさえも、時々にあります。
アンチな、このような書き込みをすると。
書き込みを考えてしまう方々もいます。
これは、私個人の実経験と感情なので。
賛成も反対もあるのは当たり前。
天理教を好きな方々も多いと思います。
それぞれの気持ちを。
きれいに伝えようとせずに。
自由に書き込んで欲しいと願います。
自身の心です!
伝え方も、表現も、自由に在りましょう。
宗教とは、可能性で在って欲しい。
天理教を通じて、カインさんのブログ通じて。
このような、意見の集まる場を通じて。
それぞれのこれからの人生に。
何かを感じて、何かを得て欲しいのです。
天理教を信仰するのも、信仰心であり。
無宗教も、信仰心であります。
あなた様の言葉の前に、絶句するばかりです。相当のご苦労があった事とお察し致します。「天理教があったが為に学を得ることもできなかった」・・・辛い辛い思いを数々されて来たのだろう、と思います。読んでて涙が出て来ます。
あなた様の大事なご自分の人生です。何も縛られない、自由な人生を生きて行ってくださいませ。これからも、どんどんお書きになってくださいね。読む方は涙する位しか、何も出来ませんけど、でも心からの深い共感、そして、今の境地に至られた、はぐれ雲様を、ご尊敬申しあげております。
はぐれ雲さま あらためて「人間の尊厳」とは何かを考えさせられ、考えています。
ありがとうございました。
今現在、どの立場であれ、岐路に立っている方に勇気と希望の文章だろうと思います。
私にとっても。
匿名さま
読んでいただいて、対話もしていただきまして。
ありがとうございます。
書き込んでいると、感情移入し過ぎてしまって。
一応、地元の公立高校には進学して。
一応、卒業もしました。
高校は進学するつもりはありませんでしたけど。
中学の進路相談の時に。
「家は天理教で、貧乏だから。
高校には行かないで、働きたい。」と。
担任に伝えると、母が泣いてしまって。
高校に行ったのは、それだけの理由です。
私服もほとんど持っていないので、
制服の学校を選びました。
朝バイトをして、学校が終わってからバイトをして。
だんだんと、学校もサボって。
工事現場のバイトにも行ってみたり。
だんだんに、授業料、その他学校で懸かる費用、
修学旅行費、自動車教習も自分で払いました。
出席日数もいつもギリギリで。
テストも、毎回赤点の補習ばかりでした。
担任や他の先生によく呼び出されて。
「本当は学校は辞めたい…」と答えてました。
友達は、沢山いましたけど。
いわゆる、ヤンキーチックな方でした。
そしてやはり、自分でもどこか壁を作っていました。
幼い頃から。
お前は天理教をやるのが定め。
お前が天理教をやらないと、家を追い出される!
と、散々に母親にも。
上級、部内の大人達に脅迫まがいに、
言われ続けてきたので。
婿養子で来た親父は。
ギャンブル狂で、天理教のことなど一切やらず。
兄弟もいますけど、親父に似てしまって。
私が中学の頃から。
家族の崩壊は、更に拍車がかかっていきました。
天理教があったにしても、
社会的にも問題の家であり、家族でした。
私のように、家族関係の崩壊している子供に。
理の親だとか、神様とか、天理教云々を言っても。
ふざけるな!の一言でした。
母を庇う気持ちと、目の前の矛盾で悩み続けました。
期待という。
大人達の都合のターゲットにされ。
大人達の尻吹きをさせられてきたのが、現実です。
勉強をしても、その先にあるのは。
社会ではなく、天理教だったので。
どこか、夢も希望も持てませんでした。
高校三年生の頃。
大学、専門、就職と話す周りに。
自分がどれだけ、世間からズレているのか。
改めて思い知らされました。
学もなく、社会的にも適応性がズレていました。
それでも精一杯、背伸びしてきました。
その後も、本当に沢山の理不尽を背負いました。
あまり詳しく書くと、特定されてしまう…。
でも、多分、すでに。
私と昔に、天理教で接点のあった天理教関係者も。
このサイトを読んでいるとも思います。
はぐれ雲が誰なのか…
特定している天理教関係者もいるのかもしれません。
私も、それを前提に書き込みをしてきました。
濁しすぎると、リアルが伝わらないので。
私は、特定されても構いません。
私のコメントの文面は、そのままに。
当時の天理教関係者に、
対で、面を向かって伝えたことも多く含まれてます。
同世代、近い世代にも、
天理教の子供は、少しいましたけど。
みんなそれなりに、裕福でした。
車もあって、私服も沢山持っていて、
テレビゲームも持っていて。
自分の部屋も与えられて。
高校からは、天理に行く子は多かったです。
天理教の子供は、みんなお金がなく、苦労してる…。
と、実際は天理教内にも格差はあるのです。
天理教の教内外へ、世間に対しての。
貧乏自慢のような、アピール、伝え方は。
本当によくない、間違っています。
天理教だから…という、変な一体感も間違ってます。
貧を通ると言って、
格差を作って、貧を作って落としてるのが。
天理教の組織が作っていることで。
上級クラスの教会の息子は、若などと呼ばれ。
自分達は貧に落ちてるつもりかもしれません。
実際は、世間のなかでも貧ではないのです。
そのような環境で育てば。
世間ズレも、社会ズレも。
何がどうなのかさえも、勘違いをしたままに。
天理教のマニュアル化に染まって育ってしまい。
判断の出来ない大人になってしまっています。
そのまま、会長、先生と呼ばれてしまえば。
社会の中の、僅かな一部の天理教であることさえも。
判断出来なくなっています。
私が好きな本の一文に。
「十代の1年間は、
大人になってからの何年分にも匹敵する。」
それを読んだ時に、泣きそうになりました。
私が、多様な機関、施設で見て聞いたことに。
天理教に限らず、宗教によって、親の。
「ネグレクト、育児放棄」のようなことが。
今、問題にもなっています。
ネグレクトの使い方が、
間違っているかもしれませんが。
個人情報保護などで、
詳しい話は聞けませんでしたが。
個人情報過保護には、私は反対です。
子供達も、大人の身勝手な。
熱心という勘違いな信仰や、宗教によって。
心にも大きな傷を抱えています。
おじばがえり、程度なら問題はありませんが。
家庭の中は、外には見えないことは多いです。
特に、親、大人は隠したがるし、認めたがらない。
子は親の背を見て育ちます。
親子の間に、神も仏もいらないのです。
親でも逃げたいときはあります。
でも、親や大人のつまらないプライドや見栄、
弱さを。
認めずに、子供に押し付けるのは。
私は、とても嫌悪感を持ちます。
貧困にも格差にも不平等にも。
必ず理由も原因もあります。
子供達は、親や大人の弱さも受け止めて。
それを償おうと思うときもあります。
ただ、親や大人達の理不尽を見たときに。
親や大人が理不尽を認めなく、曲げた時に。
子供は、限界を過ぎ、受け止め切れずに。
傷がさけ、膿が溢れて。
恨み、つらみで一杯になってしまいます。
間違った親を通し続ける天理教に。
子孝行という想いのない天理教に。
何が残せるのでしょうか。
匿名の教会長さま
貴方の身の置き所のない苦悩が、ひしひしと伝わります。
住まいが教会であっても、従来の慣習に縛られず、自分なりに変えていってもいいのではないでしょうか?
ことわざ辞典にも「神かまうな、仏ほっとけ」と言う言葉があるくらいです。
適当にのらりくらりで、ご自分の人生設計を考えた方が楽しいかも
匿名様
先代会長(父)の時代、上級教会から血も涙もないお供えの強要に苦しめられました。父が亡くなる数年前、父のたっての希望を受け入れ会長を引き受けました。ただただ、父を思う親孝行だけの気持ちで・・・父亡き後教会の帳面を確認したところ一億に近いお供えが上級通じて上がっていました。思い出すにつけ、苦しかっ子供時代、不安にさいなまれた幼い日々、優しかった父・母を上級教会まで呼びつけてお供えの強要をした上級会長夫婦。その場面に私も居合わせ、男泣きに泣く父の姿が今でも忘れられません。数千円で済ませているのは、その鬼会長夫婦が無くなり、息子会長も無くなり、その後天理教の「て」の字も知らない全くの他人が(事情があり)行きがかり上の会長になったのです。これを機に我が教会の経済状態を知らせ、今後はお供え・お尽くし、一切出来ませんから。と宣言しました。数千円とはゼロではつきあい上、「角」が立つため、交際費としての意味合いです。我が教会は数百万の借金があります。教会を維持するために修理、維持費に費用がかかるのです。信者さんは数人しかおられません。今後何をいくら強要されても、上級が財布にまで手を突っ込むことはできません。「無いものは無い」。それで押し通す覚悟です。若い新しい会長には本部会計の不透明さも教えました。天理教維持財団が消滅したことも。何も知らない新会長ですから天理教の「裏の顔」も知らせなくてはいけません。何も知らないまま、善良な信者さんや、教会長たちを振り回してはいけませんから。今後、私は上上級から睨まれるかも知れませんが・・・睨まれても淡々とこの教団の在り方の間違いを語る覚悟でおります。「自分が自分である事。」「自分を生きる」こと。人生の残り時間には限りがあります。嫌われても、付き合いにくくなっても、自分を貫きます。嫌われたら上級に参る回数を減らすだけです。休んだ月のお供えは(数千円)はもちろん上げません。下からお金が上がらないという事がどう言うことであるか、末端教会の貧しさ・暗さ・惨めさ。そのうち上級・上上級・大教会とわかってくることでしょう。大教会様、貧に落ちきる「ひながた」を率先して、身を持って感じてください。末端教会は毎日、嘘にまみれたこの組織の歯車の一つとして、逃げたいけど逃げられないと言う、誠に息苦しい日々を過ごしております。
古い教会長さまへ
貴方様は、今の天理教の生き字引です。
まだまだたくさんのこと知っておりますよね。
もっともっと情報を出してくださいませ。
私の母も昭和7年生まれで、祖父の代から天理教に狂った家です。
私の家にも歴史があるように、古い教会長さまの天理教の歴史を知りたいです。
匿名の教会長様
数千円で何も言われませんか?と問うた者です。決して匿名の教会長様が、出し惜しみをしているなどと思っての問いではありませんでしたので。只単に、匿名の教会長様のところの上級は、金に恬淡としているのかな?そういう上級もあるのか、と思って、お聞きした訳でしたので、お気に障ったとしたら、どうかお許し下さいませ。
詳しくお話し下さいまして、本当に痛み入ります。匿名の教会長様のお父上様のご苦労、そしてあなた様の無念の思い、重々よくわかりました。もう何と申し上げていいか、わからない程です。お父上様を苦しめた上級、そしてそういう上級を生んだ天理教組織、許されるものではありません。
はぐれ雲様
本当に身につまされます。うちの大教会の子弟は聞いたことの無い名前のアメリカの大学に留学している大教会の若様。反対に末端教会の娘さんは高校入学金を用意していたにもかかわらず、その入学金は将来必ずおかげが頂けるからと上級にお供えさせられ、泣く泣く高校進学を諦めています。理不尽もはなはだしいです。その娘さんの入学金で米国留学していると言ってもよい、運転手付きの若様。方や中卒を余儀なくされ、世間で生き抜く最低限の学歴さえも天理教に剥奪されているのです。こんなことがあってよいのでしょうか?天理教は社会悪です。
私もお供えは減らしています。出すも出さないも、こちらの胸ひとつです。命までは取られません。強い気持ちが必要ですね。本部は困っていません。お尽しは上級に持って行くことがお尽しではない、と思っています。本当に困っている人、信者さん、家族、地域に尽くすことも大事だと思います。
出し方を変えただけで人生が楽しくなりました。クビになるまで会長でいるつもりです。元気で長生きして、今までにない「ひながた」を残します。
聞いたところによると、教会は独立した法人ですので、土地・建物は責任役員2名と代表役員の印で名義を変えられるそうですよ。教会である(又は、宗教活動をしている)限り(教会に無償貸与ということで)固定資産税は掛かりませんが、個人名義に移した時の取得税だけは掛かります。
詳しくは専門家に聞いて下さい。教会を売り飛ばしたという話も聞いたことがあります。
私は、ある時期社会で働いていました。100年祭前に会長になって、勇んでつとめていました。せっせとお供えもはこんでいました。借金をしてでも運んでいました。今もその影響があります。
柏木庫治さんの話を聞いて、勇んでいました。今、思うとあれは洗脳でしかなかったのでは、とも思います。
深く天理教の歴史や教理を勉強する内に目がさめました。一粒万倍なんてことは絶対にありません。出せば無くなるだけです。
要は出し方に問題があるのです。
今日はパソコンを開くのをやめて予定している事にかかれねばと思うのにやっぱり開いてしまいました。
はぐれ雲さまの文章を読ませていただき、よくぞ生き抜いてこられたと熱い感情に。
匿名の教会長さまの現在の様子がわかり、ほっといたしました。
「柏木庫冶」懐かしい名前です。(笑)母などの憧れの方でした!そのほか「常岡一郎」とか。
忘れていたことを思い出しました。中学一年生になったばかりのある授業でM・M先生が「迷信」ということで「天理教」を取り上げました。「神棚に祭ったお水を神様の水といって飲んだり、目を洗ったりしている。埃のかぶった不衛生な水を、、、」などと面白おかしく話しました。私が教会の子と知ってる小学校が同じ区域の級友は反応しませんでしたが他のそれは教師に反応して、、、。死にたいと思いました。教師を殺したいとも。同時に何故か母が哀れにも思いました。
その教師は転勤したばかりで私が教会の子と知らなかったのです。その後、知ったのかすり寄って声をかけてきましたが。今なら特定な宗教非難、偏向教育と大騒ぎになることでしょうね。
母は一切知りませんが。家での私と学校も含め外での私、二重の私を生きておりました。
今では忘れるぐらいの思い出になったのも生きてきたからだと思うのです。
「生き抜く」これが私の大事なポイントです。辛かったら逃げたっていい、極端ですが嘘だってついてもいいとも。
天理教というのは、純粋に教祖の教えだけなのだろうか?もしかして、他の宗教の概念が混じっているのではないか、と思う事があります。まず、なぜ”<講>ではなく、<教会>という名前を使っているのか?<天に得を積む>、という言葉も、これはキリスト教の言葉ではないのか?と思います。
おやさまの教えを冒涜する意図で言ってるのではありません。純粋なおやさまの教えに、もしかして、どなたかが、キリスト教から持ち込んだものを、おやさまの教えに付け加え、天理教というものを創り上げたのではないか、と思うところもあるのですが。
漢字ミスです 得 → 徳です すみません
古い教会長さま
深く天理教の歴史や教理を勉強する内に目がさめました。一粒万倍なんてことは絶対にありません。出せば無くなるだけです。要は出し方に問題があるのです。
差し障りなければ、どこで目が覚めたのか教えていただけないでしょうか?
母もまた「まことしやかな嘘」に乗せられたお道の人間です。そして家庭崩壊に陥りました。
そもそも真柱の名称も平田篤胤の「霊の真柱」からもらったものではないかと思っております。
なんせ2代真柱正善氏は、灯台の宗教学部出てるからね。
秀才の正善氏にかかれば、模倣も自分の考えにすり替えられるだろうし、まして今のように情報もなければ、教育を受けた方もそれほど多くはなかったでしょうし、正善氏が東大出でなく灯台出だったらもっと親しみわいたでしょうね。
徳子さま。
それは現実を冷静に見る目ができた時です。
とことん行き詰っていた時です。
仕事は事情働きだからダメ。
お供えに手を付けてはダメ。
沢山ある上級の月次祭をつとめよ。ひのきしんをせよ。
別席者・修養科生を出せ。
できる訳がありません。
仕事をしないと借金が返せない状態でした。
お供えを減らしても病気にはなりません。
いろんな行事に出なくてもお手入れはありません。
それに気づいたのです。
そこに至るまで、多くの仲間が支えてくれました。
上級の奥さんがお供えを取りに来た時に、「お供えの意味が分かりません。したくないです。」と言いました。勇気がいりましたが、それから、生き方が変わりました。
>お供えを減らしても病気にはなりません。
>いろんな行事に出なくてもお手入れはありません。
古い教会長様
ありがとうございます。
とても勇気が出ます。
正直、実家の元旦祭は行きたくありません。
なんのためにおつとめをやるのか、
おやさまはなぜおつとめせよなどと余計なことを言ったのか、迷惑でしかありません。
子供から多額のお金をお供えと称して取り上げる天理教は、根本からして間違っている。
ふつうは逆じゃないか。
末端教会の娘さんが高校進学のための準備金さえお供えさせられる一方で、大教会長の息子がアメリカの大学に留学しているという、匿名の教会長さんのコメントを読んで、本当に涙が出た。
こんなことは絶対に許されるものではない。
一般の人が天理教を毛嫌いするのも当然である。
天理教団よ、猛省せよ。
徳子さま。
「差し障りなければ、どこで目が覚めたのか教えていただけないでしょうか?」
ずーっと考えていました。思い出しました。
それは「オウム真理教」事件の時でした。テレビのコメンテーターが言っている言葉でした。
「法外なお金を要求するのは、カルトです。」
「思考を停止させて、教団のいう事に疑問を持たなくすることは洗脳でありマインドコントロールである。」
という発言でした。
カルトという言葉もマインドコントロールという言葉も知らない時分でした。
「これ、天理教も一緒や」と思った瞬間でした。もちろん多くの仲間のお陰ですが・・・。
おかしいと気づいたのです。
天理教が、信じるべき唯一無二の宗教と、親に小さな頃から教会に連れて行かれ、進学、就職、結婚、出産と節目の折に、理立て、お供えもして来て、それが実際はカルトも同然であった、というのは、むなしい限りですね。
考えてみれば、金をお供えして、運命が好転するなんて、そんな、金が欲しい神様なんて、「ありえへん」筈なんですが、そんな事、頭に浮かぶ事すらなく、言われるままにせっせと、お供えしてきましたが、それらを貯金にまわしておけば、とっくに家も買えてただろうな・・・。
このサイトの批判精神は天理教にとっても有益なものだと思うが、コメント欄が一部の方々の愚痴の捌け口になっているのがとても勿体無いと感じる。
愚痴と批判とはっきり区別はつけられないと思います。愚痴もりっぱな批判ですよ。
皆々様方へ
胸が締め付けられる想いです。
それぞれに、苦境の現実を乗り越えて。
今、それぞれに自身の足で立ち考えています。
そして、これからも乗り越えて行くのです。
僕は、コメントを書き込み始めると。
感情移入をし過ぎてしまい。
僕自身の消せない、天理教に対する恨みも溢れ。
攻撃的に書き込み、送信して。
その後、ふと。
少し反省のような気持ちになります。
自身の感情で、攻撃的に書き過ぎていないか…と。
このブログを開けるとき。
少し、ためらうときもあります。
でも、皆々様方それぞれの。
体験、感情の声を対話してもらえて。
とても、ありがたくも思います。
僕は、もう天理教を整理し、別け隔ててから。
何年もの月日が経ちますが。
やはり何も変わらない、
変革のない天理教のままですね。
このブログを通じて。
系統とか、歳とか、地域、関係なく。
全国の天理教と、色々な方々の声を。
聞き、感じることが出来ます。
上部に億千百十万単位のお金が。
お供えや費用という名目で摂取されてます。
社会では、それは恐喝罪、詐欺罪に当たり。
刑に服し、返納して、詫びること。
でも、宗教、天理教になると、罪にはならない。
理不尽極まりない…では済む話ではない。
僕が昔に、天理教と接し対峙してきた時の。
大教会、上級からの。
異常な金額…の要求はありませんでした。
天理教内でも、良くも悪くも噂話にも挙がらない。
大でもなく、小でもない、中堅な大教会でした。
僕の両親、兄弟…家族にも、
人間性の問題は多々ありましたが。
異常なまでの金額の要求は無かったにしても。
上部に、お金を摂取され続けてきましたし。
取り戻せない、自身の人生の時間も摂取されたのは。
僕も事実です。
そして。
人権さえも踏みにじるように。
お前のことは認めない!とさえ言われました。
もちろん、正面向いて、抗ってきました。
「理不尽には屈するな!」
僕の好きな先輩の言葉が、支えにもなりました。
このブログで、インターネットで知る。
異常な金額を要求し摂取し。
異常な権力を振り回す、大、上級会長。
読むと、驚きよりも、憎悪感が込み上げます。
ただでさえ、異常な天理教構造に。
さらなる異常が、まかり通り続けています。
先への希望のある若い子の。
高校のへの道を、お供えとして閉ざして。
かたや、若と呼ばれ、祭り上げられ。
贅沢をし、アメリカへ留学する。
結婚に関しても、上級の会長が別れさせたり。
天理教の、理不尽で異常な権力構造が。
馬鹿が、馬鹿を産み。
馬鹿を育て、馬鹿を増長させる。
末端の借金は、末端で返せ。
本部、大教会、上級の自己満足が為の借金も。
末端が返せ。
はっきり言えば、ただの追い込みにも感じます。
現に、百年祭時に。
命を失う出来事さえ起きている。
天理教は、
命さえも上層部、間違った権力者の気分で。
お供えしろ…というのか。
天理教は、社会悪。
そのとうりですね。
僕は普段の日常で、
天理教はカースト制度だよ!
そう、世間に伝えています。
天理教は、一列兄弟をうたいながら。
ヤクザ張りの上下関係を造りあげ、まかり通す。
実直な話、天理教はヤクザ社会以下です。
渡世の親分さん方々にも、色んな方々はいますが。
兄弟、子には。
上納金もあるが、手当て、こずかい、物品。
堅気な仕事も手配してくれる方もいる。
親分なりに、兄弟、子の先は案じてくれる。
確かに犯罪もあるかもしれない。
でも、罪にも問われ一般以上の量刑に服す。
人情味の溢れる、利益関係なく。
地域からも、頼られる親分さんもいます。
それも、一部の方だけかもしれません。
でも同じ悪でも、自身を悪と認めて生きている。
その点、天理教は。
人を使い古し、使い捨てにする傾向が強い。
人を叩きのめして、使い古しにしておきながら。
他の場では、
あの人は熱心に信仰して、尽くしてくれたと…。
どうして、その言葉がでるのか。
心のなさに、腹立たしいだけである。
末端から、金を上納し、摂取して。
末端の教会が困っていても。
末端の教会が普請、修繕するとしても。
本部や大教会が、寄付してくれることはない。
上部が寄付してくれる物といえば。
時代遅れの、お盆、置き時計、風呂敷とか。
記念…とか書いてあると。
リサイクルショップでも、引き取ってくれない。
粗大ごみになることもある。
上級あたりは、少しの金額は封筒で包むが。
結局、次の月には。
上級の月祭で、それ以上にお返しというか。
返金することなる。
上級が部内の月祭に来ると、御礼の他に車代を渡す。
しかも、毎月来られると、
一年の車代っていくらだよ!
人手が足りなくても、来てもらわない方がいい。
ありがた迷惑とは、まさに天理教上部です。
国家、行政、企業、会社、組合、渡世社会…。
世の中、確かに組織も縦社会はある。
理不尽も、あるかもしれないが。
仕事をして、給与を与えてくれる。
天理教の組織、縦社会は。
上部が摂取するだけの一方通行。
宗教法人の非課税とは。
人の為に、集まり使用する場所だから。
その為の、国が免除している恩恵です。
天理教の、とある教会の会長さんは。
うちは国に、税金払ってないから!
皆さんで使って下さい。
と、地区の集まりに、教会や駐車場を開放したり。
共働きで、親の帰りを待ってる子達を。
教会で夜まで預かったり。
地域の交流を深めている会長さんもいます。
出来るだけ、そう在って欲しいと思いますが。
天理教の教会は、閉鎖的な所が多い気もします。
僕の昔に、上級だった教会は。
敷地はとても広いけど。
部内の会長会議の反対を押しきって。
噂によると、一億近い借金をして。
当時の上級会長の、今までの名誉を誇示するような。
必要以上な、無駄な建物をたててしまい。
誰が返すんだよ!って感じでした。
利子だけでも相当ですよね。
減少気味だった信者さんも、さらに離れて。
朝晩のお勤めの人さえ揃わなくなり。
周りも分譲地になり、新しく越して来た方々から。
うるさい!とか、その他色々と苦情がきたり。
近所の子供が、自転車で遊びに来て。
「オウムだぁ‼」と、逃げて行ったのを見たことも。
どれだけ近所付き合いしてないんだょ…と。
その後、代を継いだ息子は…。
昔に、上級に息子が居たことさえ知らなくて。
あるとき突然に現れて、「あの人は?」と聞いたら。
上級の息子、後継者だよ!と言われて…。
後で他の人に聞いたら。
十代の頃は跡を継ぐのが嫌で。
引きこもりで、出てこなかったからだと。
「俺なんか、小学生の頃から。
月祭には、無理矢理にも駆り出されて。
引きこもる部屋があるだけ、俺より恵まれてるわ!」
と、皮肉たっぷりに返しておいた。
どうやら、天理の学校へ行って。
外国にも、しばらく行ってやがり。
教会に帰ってきたら、バリ天!気味でした。
代を継ぐと、さらに信者さんも離れてしまい。
部内の方々も、近寄らなくなって。
今は、どうなっていることやら。
天理教本部は、看板を貸しているだけで。
非課税に免除しているのは、日本国なのです。
理不尽を恩着せがましくするのも、天理教なので。
企業や渡世の看板は。
社員も家族も守り、支えてくれます。
天理教の看板は、家族や人を。
使い古して、使い捨てにしてしまうことも。
宗教法人をうまく利用している、
教会もありますけど。
教会や天理教の整理には。
時間も精神も削りますが。
専門家に、意見を聞くのが、僕も良いと思います。
ただ、司法書士の方々でも。
宗教関連、長引く案件、すぐお金に成らない案件。
あまり、手を出したがらない方が多い気もします。
宗教関連て、色々に難しいようで。
それぞれの教団の教則とかもあり。
必要以上の経費がかからないよう。
行政機関、天理教外の知人、インターネットなど。
利用できることは、全て利用してください。
系統によっても、拗れることもあるような。
本当は、天理教の教務支庁が、
中立性があれば、直ぐに済む話なのですが。
天理教側は、整理することなどに対しては。
とても陰湿で、手続きを教えたがりません。
教務支庁の担当の方も。
中立で協力的な方も、教団寄りで陰湿な方もいます。
割りきって、法人を残したまま。
生活を続けて行く方も、いるのも確かです。
裏社会などと呼ばれる業界では。
宗教法人を、一億ぐらいで買うこともあるらしいです。
全国の事情教会の整理もしないまま。
自ら整理を望み声を上げると。
烈火の如くに叩く天理教組織。
守りたいのは、人でも教えでもなく。
はりぼての、
穴だらけに荒んだ看板のような気もします。
でも、もう何年か経てば。
教会の整理、態勢の方針も変わるかもしれません。
とにかく、心折れないことを願います。
そうですね!
自分自身の歩みを振り返ってみると。
折れずに、腐らずに、今の此処まで。
乗り越えて、乗り越えて、
やっと此処まで来れたと思います!
ほんとに、自分でも思いますし。
社会にいても、周りの方々と対話しても。
自分がどれだけのことを乗り越えて来たのか。
感じることも出来ます。
世間、社会では味わうことの出来ない。
様々な経験と体験と、自己犠牲をしてきました。
歳よりも、経験に勝るものはなし!
仮に、天理教の上層部の方々とでも。
天理教用語になど惑わされずに。
堂々と対話出来るぐらいには、成った気もします。
僕の人生のバイブルは。
高校時代からアルバイトに始まった外仕事。
その後、別の職種の職人の弟子に入り。
二十数年続けた職人世界での経験と体験。
もう、無理に無理を重ね過ぎて。
体を壊し、職人界からは退きましたが。
日本人て、DNAが職人基質だと思います!
そして、先輩、同世代、後輩…仲間。
そして、バイブルには。
好きな、沢山のマンガもあるのです!
僕がコメントに書き込む言葉に。
「人間の尊厳、生きる魂、宇宙、森羅万象、志…。」
実は、マンガで響いた言葉なのです。
それぞれの作者の。
伝えたい熱量や想いが伝わってきて。
小説、文庫本などは、とても苦手ですが。
でも、自伝本とかは好きです。
この前は、田中角栄の本とか読み入りました。
僕は、正直なところ。
お筆先、おさしず、などは。
昔は家にもありましたが。
ほとんど読んだこともなく。
教祖伝なども、修養科の授業だけで。
別席の話も、ドジョウ…ぐらいしか。
でも、このブログであり。
他の天理教の掲示版を読むと。
お筆先、おさしず等を引用して。
わかりやすく説明してくれるコメントもあったり。
お筆先、おさしず、って。
本当に、素晴らしい内容ですね。
今更ながら、とても思うことがあります。
でも、今から取り寄せて読もうという気持ちは。
全くにありませんけど。
天理教を整理した時に。
天理教の全ての物、まだ使える書物なども。
天理教にお返しして。
僕が処分するものに関しても。
地元の神主さんに、相談して整理しました。
お袋の写真も、天理教関連に写っているもの。
僕自身の写真も、天理教関連に写っているものは。
全てその時に整理しました。
僕の家の中に、
天理教は、1つも残してくはありませんでした。
そして、年月も経ち。
今は天理教のお勤めさえも、あやしいぐらいです。
そして、僕自身の心も体も。
拒絶していると思うのです。
天理市へは、十年もっと以上行っていません。
現在の、本部内、周辺部、アーケード、詰所。
さらに、閑散とした。
寂れ続けて行く情景が、目に浮かびます。
そして。
お袋の介護、看病、看取り、送り出し、
その後の葛藤し続けた日々。
その時間は、僕の今までの人生の時間で。
一番に、濃くも重くもあり、乗り越える時間でした。
親との別れは。
間違いなく、人生に一度しかない。
人間には必ず、最期の末があることを。
思い知る時です。
そして、生きている。
ということを、もっと想うように成るときでした。
お袋との最期の時間と月日を通じて。
天理教が押し付け、騒ぎ立てること。
僕に対して、散々に天理教を押し付けてきた。
特に、上級や部内の会長方々、天理教な大人達が。
どれ程に、空しいものなのかを感じ得ました。
昔に天理教と接し、対峙していた頃に。
何か言い返せば。
反発だ、不足だ、お前は何もわかってないと。
「因縁があるぞ。悪いことが起きるぞ、何かあるぞ。
お前のために言っているんだ!」と。
当時接した天理教な大人達の九割ぐらいに言われて。
最初は我慢したけど、いい加減に呆れてしまい。
「人に対して、そのようなことを言って。
何が楽しいのですか?
それが、天理教だからですか。
あなたが俺に対して、面を向かって言ってる言葉は。
天理教のどうかでなく、あなた自身の言葉だ。
今のような言葉を人に浴びせて。
それを、教えだ、信仰だと喜んでいる。
俺は、貴方のような人には成りたくないから。
そうなりたくないから、天理教は要らない。」と。
もちろんに、さらに怒鳴られましたけど。
天理教でも。
年下や立場、相手を選んで。
調子に乗ってしまう方々が多いので。
大の大人が、出る杭を叩いて喜び。
末端の会長や信者さんが病気になれば、
信仰が足りないからだ、と怒鳴り。
言われた側は、押し込み、だとさらに縮む。
上部の会長が病気になれば。
大丈夫ですか?と金一封を持ち、見舞いに行って。
そのあとに、神のお手入れだと、陰口を言う。
いい人になろうと、装おうとしなくていい。
悪口も陰口を言うのはかまわない。
人と人として、言って欲しい。
ただ。
それを、神だ教えだと正当化して言うことが。
どれだけに、卑怯で恥ずべきことなのかを。
その当時も、今も思います。
カインさんも、ある記事に書いてあったように。
天理教は…後出しジャンケンだと。
確かに天理教は、後出しジャンケンをして。
あえて、引き分けを選ぶ。
白も黒もつけない代わりに。
世間には、様子見をして、当たり障りなく済ませ。
内側に対しては、相手を選んで、権威を振るう。
それでは、人は守れない。
卑怯…という感情が、強く残るだけです。
昨日の晩に。
他の天理教の掲示板を読み。
このブログを読み返して。
一つ思うことがありました。
僕の中では、最終形かもしれません。
天理教の云う、陽気ぐらしの実現とは。
「天理教を無くす」ことではないのか…と。
上級にお供えなど、
無理し続けて、身を削り続けて。
届ける必要はないですね。
信者さんが数人の教会は。
信者さんが数人になるまでも。
理不尽に耐えて、教会を守ってきたのです。
天理教の教会の半数が。
信者さんは数人、の状態なのでは。
横暴な権力や、
異常な金額のお供えを要求し摂取する。
そのように、人を踏み潰しても。
陽気と云う、会長がいつまでも。
注意を受けることなく続け。
地道に、信仰を貫き。
天理教に想い、意見や行動し。
末端と呼ばれ。
土台から、天理教を支え続けてきた方々が。
クビになるようなこともあるかもしれない。
そんな、理不尽な宗教は。
もう、要らないのです。
僕は、おやさまの雛形とは。
今までに、さほど考えもしませんでした。
でも、ほんの最近になって。
少し、わかるような感情が出てきました。
天理教がなくとも。
天理教の隠蔽、湾曲など調べあげても。
もしかしたら、親神様でさえも。
天理教の造り上げたものかもしれない。
そこには、真は無いような気がしました。
でも。
おやさまの雛形、生きざまも。
お筆先、おさしずも。
世界に認められたものなのですから。
天理教関係ない方々にも伝わる。
この世に残り続ける、生きざまと想いです。
お袋を看取り送り出し。
葛藤して、自問自答して、分岐点まで辿り着き。
天理教の因縁などは、
天理教が騒ぎ作り出しているものだと。
人は、人生を全し、最期を迎えれば。
そこには、天理教も宗教も、括りは無くなるのだと。
残るのは、想いなのだと。
先人の魂も、いつまでも。
現在の人達の都合で、縛り付けてはいけない。
信仰していても、何かあるときは何かある。
病気も怪我もする。
苦しいぐらいに悩む時もある。
どん底に落ちるときもある。
それは、生きているから。
後悔するのも、生きているから。
生きているから、これからも生きていく。
生きていく!というリアルを。
天理教の都合で、誤魔化せれたくはない。
人を踏み潰して、陽気ぐらしと云う。
そんな宗教ならば、要らない。
天理教に限らず。
真っ直ぐに信仰を想い敬う方々が。
宗教によって、報われないのであるならば。
宗教そのものは、要らない。
人は、宗教に振り回されてはいけない、と。
天理教組織の、続けてきた背伸びは。
もう、透けすぎて、要らないのです。
トップから、末端まで。
それぞれに、間違いは自覚しているはず。
もう、腹をくくり、道を示すべきだ。
これからの、子供達や若者達。
ずっと、理不尽を受け入れて。
信仰を通してきた会長さん方々に。
多くを捧げ、支え続けてきた多くの信者さん方々に。
ここれ以上、失望させないで欲しい。
何か一つでもいいから。
大切なことを。
ハッキリ示して欲しいです。
可能性は、少しでも残っている。
天理教だからこそ。
世界の組織の、先駆けに成って欲しいと。
そうここに、伝えます。
「信仰とは。神と自分の一対一の。
対話の繰り返しだ!」と。
宗教色の全く無い本に。
そんな一言が書かれていました。
何か、胸を撃ち抜かれた気がしました。
信仰にも、教理にも。
人の最期の時まで、答など見つからない
のかもしれません。
だから、毎日に求め葛藤し。
もがき、抗うものなのかもしれません。
そして、これは。
実際の、ある方の伝え残した言葉。
僕の好きなマンガに、引用されて知りました。
「stand & fight! スタンド アンド ファイト!
立って。そして、戦いなさい。」
世の中には、生きていくことには。
理不尽も、迷いも、葛藤も、不平等も必ずあります。
笑顔も、憂いも、愛情も、希望も。
乗り越えた先の向こう側に。
在るものかもしれません。
守りたいもの、貫きたいもの。
それぞれに在ると思います。
限りある、末のある人生に。
毎日の、常に過ぎ行く時間と月日の中で。
求め。立って、そして、戦い続けましょう。
天理教のブログかもしれませんが。
天理教を全く知らない方々も。
沢山の声を、書き込んで欲しいな、と。
僕は思います。
周りの感じたことって、とても大切です。
そこには、遠慮のない率直な、リアルがあるので。
せっかくの、全国につながる。
声の集まる場所です。
神や仏も。
宗教も信仰も教理もなくとも。
言葉一つに。
気が付けること、支えられることも。
沢山に、あります。
愚痴のはけ口であることは確かです。
本当にご苦労の連続であったと思います。
それはそれとして認めなくてはいけない現実です。
年祭のときは本当に大変のことが起こること。今回実際にありました。
それは、布教所の月次祭時、訪問した時にいつも迎えてくれる
布教所の奥様がいなかった。
月次祭の10日前のこと。
とある共同住宅での出来事。
今回の年祭テーマであるチラシを配っていた時に
そこの階段からすべり落ちて、大腿部分にひびが入り手術することになった。
これは本当にご守護なのか?
私は本当に災難であると思っていましたが、
見舞いに訪問した際に、ご本人は、反省の心を話されていました。
「私でよかった」というのです。
その言葉で私は純粋に信仰をされている姿に頭が下がる思いです。
私にはそのようなコメントはできません。
強い心とやさしい心を持ち合わせていないとできないコメントです。
そのような方からご守護を頂くべきです。
そうでなくては報われないです。
そう思います。
はぐれ雲様の散文詩のような文章には、胸にズシンと響く言葉が散りばめられています。
「天理教の云う、陽気ぐらしの実現とは。 天理教を無くすことではないのか…と。」 そうかもしれない、と思いました。
宗教は人を救うものでもあるが、又、人を縛り、苦しめるものでもあります。という文をどこかで読みました。天理教は残念ながら、後者になっています。 いんねんと、人を罪人の如く責め、罪の意識を植え付け、一生、理の親の前に、頭の上がらない人間にする、それのどこが、人をたすけていることになるのか? 天理教のいう、陽気ぐらし、とはどういうことをいうのか。 これ程、言葉と現実が乖離している宗教も、他には無いと思います。
nanacyさん。
その布教所の奥様の「私でよかった」という言葉。なんともいえません。
ちょっと無理しておられるかも知れないと思ってしまいます。
教会ではなく布教所ですから、経済的に基盤がある方でしたらいいのですが、末端の教会でしたら入院するのにも、後ろめたさを感じる方もおられるかもと思います。
天理教を批判する裏には、深い嘆き、恨み、悔恨、いろんな感情が張り付いています。愚痴を書くべきでは無い、としたら、批判も書けない、という事になります。何にしても、言論統制とも思えますよ。
匿名さま
同意です。
私の経験では文字にすることによって、他者に聴いてもらうことによって、自分自身を見つめることが出来てそれ以前の自分とは変わっていました。消化(昇華)されていくのかなと思いました。
出された批判や愚痴(?と思いませんが)の言葉をどう読み取るか、どう聴きとるかは読む側、聴く側の自由なのですから。
古い教会長さまが歩んできた歳月とその時代に生きた母が重なり、なんと申しましょうか。
言葉では語れない、どうしようもないものを背負って生きた、仕方のないことだったのでしょうか。
真摯に答えてくださっているのに、どうしたものか、あまりにも悲しすぎて言葉が見つかりません。
部外者です。無責任と思われるでしょうが感じたことを。
高校の時の友人が天理教に入っていて近所にも信者の親しい方がいたのでなんとなく興味は持っていました。奈良の山辺の道とかが好きなので天理にも何度か行きましたが本通り商店街、すごく寂れてましたのでびっくりしました。12、3年前は行事とかの無い土、日でも結構人が多く歩いてたのにと思いこのサイトを見ました。
あのすごい神殿、施設群を見ていると書かれている信者の方の苦しみが解ります。あれってみんな寄付でできたものでしょう?部外者でも想像つきますよね、維持するだけでも莫大な費用かと——。数多い詰所など普段はガラ空きでしょう、勿体無いですよね、何か活用方法は無いのかな?私も何度か勧誘されましたが大体がドライで不信心なもので——-まあ、この内容では入っていても辞めてますけどね。
高齢化社会だわ不景気だわでこれからますます信者は減るでしょう、信者さんも割り切って考えられたらと思うのですが無理なんでしょうかね。私の友人はそれから天理大学に入学しましたがどうしてるのやら、熱心でしたからまだ信者だと思いますが。
徳子様
熱心な信者様方には失礼を承知ですが、どうしてもこの考えが取り除けないのです。
徳子様の仰ったように、中山正善氏が天理教の教理の編纂に、深く関わっていたのなら、悪く勘ぐれば、中山みき様の教えも入ってるでしょうが、自分の宗教学上の知識を材料として、正善氏が作り上げた、正善教が、天理教の実態だった、正善氏は自分の考えを、みき様の教えとして、教理を作った、我々信者らが信仰していた天理教は虚構であった、という可能性だって否定できない、という事になりますね。
恐ろしい考えでしょうか?徳子様はどうお考えになります?
古い教会長さま
私が通う布教所はお店を経営しています。
道一条でないので、日銭稼ぎはできます。大丈夫です。
しかし、どこの自営業も稼ぎの波があるので、なんともいえないのですが。
私の経験上、必要となると稼げるものなので、心配はしていません。
神様はそうゆうところはちゃんと見ているのです。
そうでなきゃ。自営はやってられません。
布教所も最初は道一条でしたが、上級教会からのお達しで、方向転換しました。
事業立ち上げのころに信者さんの中に応援して頂いた方々がいて現在の姿となっています。
ある意味 信頼関係でここに集まっている教会 ということになりますでしょうか?
私のいる布教所はそんなところです。
教祖が「貧に落ち切った」のも、秀司さんが米相場に手を出して、失敗したからであり、又、ずっと貧に落ち切っておられた訳では無く、後には売り払ったものも買戻し、裕福な暮らしをしていた、という説もあります。ならば、教祖伝に書かれてある「この屋形取り払え」は全くウソという事になります。教祖伝は、虚実入り混じっている、と解釈するべきでしょうが、ならば、「教祖のひながたを通れ」、というのは、あまりにあつかましい要求です。確信犯で言ってるなら、呆れます。
天理教が「だめの教え」と書かれてるのは、正善氏が編纂した経典、教祖伝にて、そのように書かれてるだけで、おふでさきには「だめの教え」というお言葉は無かったと思います。「だめの教え」という言葉に、信者は必要以上に囚われてしまいますが、単に正善氏が、自教を、自分のとこが一番だよ、と言ってるだけです。他の宗教でも自分達の宗教を最高の教え、としますが、それらと、何ら変わりないということです。
売り払ったものを買い戻ししたのも事実。また教祖存命中の中山家の後半の暮らしは相当裕福であったと言うのは説ではなく史実です。相当のお供え金があがっていましたから。秀司さんがお供え金を溜め込んで教祖は嘆いていたらしいです。「教祖の時代とその周辺」と言うようなタイトルでしたか、史実にもとずいた書籍が出されていて読みました。一般信者が抱いている貧に落ちきった姿ではなかったようです。鯛にひらめではないですが、かなり贅沢な食材を手に入れ食していた帳面等が残されていて、中山家の暮らしが垣間見える史実に基ずく書籍です。そういう意味でも私たちは教団(中山家)からだまされ続けています。今もって。
「おふでさき」を、久しぶりに眼を通してみました。こんなことをいうと、叱られそうですけど、あまり内容が無い、と思われました。ひたすら、神の言葉を聴き分けてくれ、というお言葉がえんえんと続き、わかりましたから、早く、教えの真髄をお聴かせくだされ、いつになったら尊い教えをお教え頂けるのですか、とページをめくりながら思わせられる、という啓示書。
教祖のお歌形式の文の多さに比して、内容がそんなに無いように感じます。泥海こうき、、ほこり、往還道、たすけ一条などの記述もあるが、あまりの不要な文は省いて頂くのは、まずいのでしょうか?
はぐれ雲様、またここに書いて下さい。
あなたの投稿は、同じ思いを持っている者たちにとって、救いになるのです。
あなたと気持ちを共有し、涙し、過去を清算し、明日へ向かう、そのために、あなたの言葉がたすけになるのです。
お待ちしてます。
匿名さん、よくぞ言ってくれました。
たしかに「おふでさき」は、かんじんの神様の教えの内容が少なく、正味は今の10分の1もあればいいと思います。それもそんなにすごい、目が覚めるようなことが記されているわけではない。
早くつとめせよとか、そのくりかえしがやたら多く、ときに差別用語や下品な言葉づかいも見られます。生き神様の直筆とは信じられません。
みかぐらうたも、まったく単調なメロディーで、今の時代にはあわないように思います。あの複雑な手振りを全員やれと言われても困ります。
命の切り替えになるからと言って、習わされるけれども、別段何もかわりませんでした。おつとめしている人が長生きしているわけでもありません。
おさしづも、側近が腹が痛いとかしょうも無い相談ばかりしているし、刻限さしずも意味不明で、どうとも取れるものが多い。
教勢低下は、理の親がどうだとか、教団組織が悪いとか、皆さん書かれているけど、もともと原典がこんな状態なので、要は現代人には魅力が無くなってしまっているだけなのではないでしょうか。
匿名様
勿体ないお言葉に、恥ずかしくなります。
ありがとうございます。
僕は、…様。を付けていただけるような。
人格者ではありませんし。
僕自身が、社会の中で綺麗に!?
生きて来た…ともいいません。
葛藤、苦悩しながらも。
自分の存在意義を、探し求めてきて。
これからも、探し求めて生きたいのです!
いつまでも、生意気に、抗って。
最後の時まで、探し求めたいと願い生くのです。
ちなみに、「自分の存在意義」も。
僕の好きな、バイブルなマンガの。
響いた言葉の1つですよ。
書き込みをしていると、入り込み
話が脱線してしまうことが多く。
長々と、なってしまいますが。
気が向いた方は、お付き合いを。
伝えたい、主の書き込みを思った時に。
カインさんの記事に、当てはまるコメント欄の場に。
コメントしていこうと思います。
僕は、はぐれ雲、浮游雲です。
あちこちに、ふわふわと、現れますので。
縛られずに、時には黒く、雷もあるのかも。
結局のところ、脱線して。
長々と書き込んでいますが。
沢山の方々が、それぞれの立場、経験、感性で。
情報や書籍などを読んで、さらに伝えてくれます。
ネットの普及は、様々な問題、善し悪しはあります。
それは何事でも、善し悪しは付いて回るので。
判断し、取り込むのは、自身の感性です。
天理教に対しては、ネットの普及により。
天理教が、今まで装い続けてきた、
メッキが剥がれ落ちていきます。
もう、だいぶ昔から。
剥がれて落ちてはいるのですが。
本部、中山家一族、親族と。
自己満足な、横暴な権力を振るう方々も。
頑張って装おっているつもりなのでしょうか。
いつまでも、昔のような独裁思想は続きません。
天理教、中山みきさんの看板で。
人を馬鹿にするのは、もう見苦しいのです。
教祖伝はやはり、
中山家側寄りに作られた物、なのだなぁ…と。
修養科の時にしか、読んだことはありませんが。
とても、不自然なキレイさに。
なんだかなぁ?と感じました。
日本昔話の方が、まだ夢があるような。
貧に落ちきれ、も実際は違うのですよね。
僕もその記事は、他のサイトで読みました。
中山家は、一時期は暴落したが。
最終的には、裕福な生活をしていたと。
だめの教えは、正善氏が発したことなのですね。
たしかに、他の様々な宗教団体関係者と対話すると。
他の宗教の教えも良いけど。
やっぱりうちが一番!と、自信を時折みせたり。
老舗のラーメン店のような。
でも昔に。天理ラーメン。
カップラになって、コンビニで見たときは。
ちょっと感激でした!
「天理教の時代は、もう終わった。
天理教の役目は終わったと。」
と言う決まり文句も。
他の様々な宗教の方々から。
よく聞きましたけど。
僕には、
「天理教も、どこもかしこも。
どんぐりの背比べですよ。
それぞれの宗教団体内部に、問題も。
臭いものも、持っているじゃないですか。」
そう、お答えしてきました。
お菓子とお茶と、その方とのトークが楽しければ。
宗教話は、僕には二の次、三の次なので。
結局のところ。
教祖伝などが、組織寄りに作られた物としても。
秀司さんが、博打うちで、女遊びも好きで。
ろくに仕事もせず。
どうにもならん、息子だったのは事実ですね。
中山みきさんの伝えた、だめの教えとは。
「駄目な、どうにもならん息子に。
どうにか、ならないものなのか。頼む…。」
と、切々と嘆き、願い伝えた。
一人の親の、希望の願いなのかも知れませんね。
やっぱり、子が反れてしまっても。
なんとか、思い返し、真は持って欲しいと。
親は、願い伝えるものです。
今の天理教の現状も。
同じなのかも知れませんね。
「道を反れて、造反もし。
駄目な天理教に、どうにかならないのか…。」と。
親子にも、多様な親子関係があります。
中山みきさんも、息子秀司さんを想う。
一人の母親だったのは、事実なのです。
ただ、天理教内に蔓延る、理の親とは。
まるっきり、反対のような。
子が、親のワガママを聴いてあげている。
子が、親を成り立たせてあげている。
ただ、自身の子は可愛いから。
若と周りに呼ばせ、
贅沢を与え、アメリカへ留学させ。
自身より立場の弱い子には。
高校にも行かせず、結婚も破断させたり。
上納金は、キッチリ吸い上げる。
話を聞くだけで、心が腐ります。
中山家、血縁、周囲教団関係者が。
中山みきさんの。
想いと感性を、都合よく偽造して。
天理教の教え、天理教の生き筋として。
縦系統、天理教的な一方通行の縦社会を造り上げ。
神のご用、人助け、世界助けの名目で。
上納金を摂取し続ける。
そして、「確信犯」です。
土地や財や家族、家庭さえも失った方々。
個の人生の意味さえも失った方々。
どれだけの方々の無念つらみが。
天理教に遺恨を持ち、
無念が溢れていくのでしょうか。
天理教的に。
出直し、と言う概念がありますが。
中山みきさんから始まり。
天理教を尊う、会長さん、信者さん方々の。
直向きな想いや感性を。
天理教の一部の教団内部者が。
人を欺き。
自己満足な権力の立場の為と。
情もなく、ひたすらにお金の摂取に。
全力を注ぎ込む。
その、欺き続けた方々が、出直したら。
出直した先の世で。
オレオレ詐偽をするのですかね。
天理教の因縁とは。
よくにわかりません。
心を失うと。
痛まなくなるのですかね。
少しチキンな僕には。
時々に、心の痛まない人が
羨ましく感じる時もあります。
そう成りたい、とは想えませんが。
成れませんが。
僕は、教典も教祖伝もおさしづもお筆先も。
よくにわかりませんが。
天理教的には、落第者のような落ちこぼれでしょう。
それで良かったです!
天理教は、ただの通過点です。
もっと早くに、
見切り通過出きれば良かったのですが。
色々とありましたので。
社会で生きてきて。
これからも社会で、
自身の存在意義を探して求めて行きます。
自分の人生とは!
自分自身にしか、
造り上げることができない。
世に1つだけの、ブランドです!
天理教の全てを否定はしません。
もちろん、肯定もしません。
天理教の方々の全てを否定はしません。
天理教に存在意義を求め探す方々も。
もっと、堂々と胸を張って。
天理教を探して求めて。
それぞれの感性で伝えてください。
今日よりも明日は。
また新たな、発見があるように。
また新たな声も。
この場所に届けばいいな!と思います。
お道の中には、悩んでおられる方もおられますが、天理教のいい加減さと上手く折り合いをつけて、結構たくましく生きておられる方も多くおられます。
落ちこぼれた教会の会長さんが結構、骨があったりします。
裏も知っていて、自分の信仰を貫いている人もいます。
でも多くは、洗脳状態の人が多いのかな。
教会長講習会や大望塾で洗脳されるのだろうな。そういう人は、洗脳状態の時はイキイキとしているのですが、解け始めたり気づき始めた時に悩むのだろうな。
そんな人に、「無理しなくていいよ。今のまま楽しく生きればいいよ。」と、ちょっと話をすると、気が楽になったと言われることがよく、あるんですよね。
はぐれ雲さんへ
お母様の写真整理なされたんですね。
私の母は20年前阪神大震災で亡くなりました。
当時持ち出したのは膨大な家族の写真、月々の団参のスナップ
母が娘時代日章旗を持っていた写真も混じっていました。
70年も前になりますね。それを20年も抱えていました。
天理教では異端とされる愛町分教会の初代・2代目・3代目の写真もありました。
両親の写真だけ残して処分してしまいました。
ただ それだけのことですが はぐれ雲さんの清潔な文章に惹かれてコメントいたしました。
高校生の頃、夕勤め後「おふでさき」を母や信者さんの前で朗読するのが日課でした。
読後、心に残るものがなく単に我が息子のことを語っているくらいにしか理解できませんでした。
その中でひとつだけ記憶にあるのは「コレラというのが月日手入れや」の言葉があります。
私なりに要約すると、「コレラ!コレラ!とみな騒ぐが、これも神の手入れぞよ」
しかし、コレラを蔓延させないために、心を尽くし命がけで民衆を守った方々がおられます。
もちろんコレラ菌を発見された方がいて、救われたのですが。
ただ神の手入れで、指をくわえてじーと待っていることがいいことなんでしょうか?
人が人を守り、良心ある行動が人として正しい生き方ではないでしょうか?
匿名さまや無名さまと同じく、天理教の教理そのものに揺るぎないもの普遍的なものがあれば、もう少し違った形になっていたのではないかと思います。
それは、芹澤光治良先生のような優秀な方が信徒さんやその子弟にたくさんおられたはずです。
その方たちが、社会に出て世の中に役立つ人材として育てる環境を天理教教団がしていれば、なるほどお道の人はすごいな~となって、社会が認めてくれたと思います。
残念ながら、形ばかりにこだわり、人を育ててこなかったことが教団にとっての大きな損失ではなかったのではないでしょうか?
今となっては、もう遅いのです。
まるで、テレビドラマを見ているように、生々しい光景が見えるようです。教祖が秀司さんに、神様の仰せのとおりしてくれと、くどくどとかき口説き、秀司さんはそっぽを向いている。ギャンブルで家を傾かせ、金が欲しい、という事しか頭に無い秀司さんには、教祖の言葉も素通りするばかり。教祖を使って、いかに金儲けをするかという算段のみ。まるで、現在にもあるような光景です。
そしてそれは今の天理教でもあるのでしょう。そもそも天理教は、人助けより、金儲け、で立ち上げられたものかもしれない。天理教の、果てない屋敷普請、異常ともいえる、お供えへの執着。そもそも最初から、金儲け目当てで、崇高な理念など無かったから、ということでしょうか。
宗教は、金儲けが出来る、と知った者たちによって立ち上げられたから、欲にまみれた天理教になったと言えましょうか。何の不思議も無いことですね。信者たちこそ、いい迷惑です。
27日のNHK・TV「日本人のルーツ大解明、ご先祖さまを探る旅・・・」をどのようにご覧になりましたでしょうか?縄文人のDNAからルーツを探る内容でしたが、いまだにイザナギ・イザナミの神話を説く天理教首脳たちは見るに耐えられなかったのではと推察いたしました。かんろだいの一点つまり中山家の庭であった場所が人類発生の地であるとの「どろうみこうき」の完全否定であったと思うのであります。「人類のふるさと」はかんろだいのある中山家の庭だと思い込んでいる信者なんているのですか?教えてください。
みき様のおふでさきに飽き足りない方は、大本教にも出口ナオ様のお筆先、今、世に広く認知されている、日月神示などもあります。(サイトもあるから見られます。)泥海こふきも、別に、天理教の専売特許ではなく、大本にもあります。 日月神示を世に知らしめた、中矢伸一氏によると、黒住、天理、金光、大本、日月神示、すべて同じ神様らしいのですが、我々にはややこしくて、わからない世界ですが、要は、一つの宗教に入り込むのはお止めなさい、と言いたい訳でして。
あっちゃこっちゃ、いろんな世界があるよ、と、天理教が全てではないよ、と知って頂きたいのです。
こんなに末端教会や信者たちが
苦しんでいる現状を見れば、
中にはいい大教会長もいるとか、
教会制度も組織として必要悪だとか、
いまだに言う人がいるが、
全く間違いだ。
教会本部、大教会を頂点とした階級ピラミッドは
末端をこれだけ苦しめているという点で、
いちれつ兄弟としての存在意義を
まったく喪失している。
そんな大教会を解散して、
部内教会を自由にするような
勇気ある大教会長はいないものか。
末端さん、確かにそうですけれど、大教会長への本部の締め付けが結構あるのではないかと思っています。
しかし、多くの部内の長ですから、やる気になれば部内教会を守ることは出来るとおもいますが、問題意識を持っておられるかどうかが問題です。
しかし、多くの部内の長ですから→しかし、多くの部内を抱えている大教会長ですから
カイン様、皆々様、あけましておめでとうございます。新しい年の一番手の投稿が私で申し訳ないです。
私は一信者なのですが、信者といっても、月次祭に参拝する親の運転手として付いていく位ですから、一般人と変わらないです。その一般人の感覚からすれば、天理教社会は異常としか思えません。非常識を通り越して異常です。
知らぬ者がよけいな口出しをすることを、お詫び申し上げてから、あえて、差し出がましいことを言わせてもらいますが、なぜ、「お供えはこれ以上は出来ません。」と言えないのでしょうか。言ったら村八分に会う、ということなのでしょうか。
一つの末端教会で言いにくければ、同じような苦しい思いをしている末端で寄り集まり、話し合いの上、一緒に言上されるのはどうでしょうか。
この民主社会において、天理教社会だけは、いまだに江戸時代です。お上に逆らったら、牢に繋がれるのか、磔、獄門にでも遭うかのような、恐れを抱いておられるようです。
匿名の教会長様のお父上様は、誠にお気の毒で、上級に対する怒りが込み上げますが、上に従っていれば、同じような状態に陥りかねないのであれば、上にはっきり、物申したらいかがなものでしょうか。
村八分にされたとしても、借金地獄に陥るよりはましです。そんなことしかできぬ、しょーもない奴、と相手にしなければ良いし、もし、目に余るようなひどい事をされたら、弁護士や警察に相談すればよいです。世間の方が、本部や大教会より、頼りになるかもしれません。えらそうにえばってる奴らに限って、弁護士、警察という言葉に弱いものです。
一般人からの一つの意見として、申し上げました。ご無礼をお許しください。
テーマ: 天理教衰退データー
50年前の80年祭の年(1966年)には、初席者は年間11万人を超え、おさずけの理拝
戴者は年間3万7千人を超えていた。
<教祖80年祭と130年祭の人数対比>:
別席の誓い おさづけの理
50年前、昭和41年(1966年)教祖80年祭の年:112194人 37681人
一昨年、平成26年(2014年)年祭活動2年目: 11507人 5274人
———————————————————————————————————
48年間での減少数(年間) 100、687人減少 32、407人減少
(89.7%減少) (86.0%減少)
<衰退を続ける天理教データー>:
「天理教統計年鑑1981、2013、別席の誓い・おさずけの理拝戴人数一覧」
(2015年6月7日付けカインのブログ添付ファイル)。
年度 別席の誓い おさづけの理 修養科修了 教徒登録 教庁決算
1966年:112194人 37681人 記載なし 4547人 記載なし(80年祭)
1976年:119382人 33933人 記載なし 6450人 記載なし(90年祭)
1986年: 84190人 22892人 記載なし 4649人 記載なし(100年祭)
1996年: 35499人 13546人 記載なし 2554人 記載なし(110年祭)
1998年: 24994人 10417人 記載なし 1990人 記載なし(4代真柱継承)
1999年: 21970人 9898人 記載なし 2162人 記載なし(4代継承翌年)
以下みちのとも統計は毎年2月号、教庁決算は8月号:
年度 別席の誓い おさづけの理 修養科修了 教徒登録 教庁決算
2005年: 19568人 9444人 4201人 2065人 165億円
2006年: 22755人 9991人 3832人 1902人 159億円(120年祭)
2007年: 13619人 7055人 3176人 1528人 155億円
2008年: 13069人 6825人 3040人 1265人 155億円
2009年: 13431人 6763人 3138人 1320人 142億円
2010年: 13424人 6798人 2820人 1284人 137億円
2011年: 10780人 5850人 2451人 1057人 133億円
2012年: 10816人 5375人 2555人 1167人 128億円
2013年: 11862人 5541人 2446人 1069人 120億円(活動1年目)
2014年: 11507人 5274人 2546人 1037人 118億円(活動2年目)
2015年:1月―11月(実績値)
21898人 6365人 2358人 1016人 未定 (活動3年目)
2015年:1月―12月(推定値)
23000人 6700人 2600人 1100人 未定 (活動3年目)
<天理時報発行部数>:
1984年(昭和59年)10月13日(天理教史参考年表):
天理時報30万部達成。
2007年2月25日布教部・道友社決起大会時:
時報発行部数15万5千部(手配り率6.9%)。
2015年6月「布教月報2015年6月号」記事:
時報発行部数:12万6千部(手配率50.2%)。
<天理時報、31年間の減少部数>:
1984年から2015年までの31年間:
発行部数:17万4千部減少(58%減少)。
<「120年祭地方講習会」と「130年祭ようぼくの集い」対比>:
2003年3月―6月「120年祭地方講習会」参加者34万3千人。
2014年3月―6月「130年祭ようぼくの集い参加者」27万1千人。
11年間で7万2千人(21%)減少。
以上
テーマ: 現役会長平均死亡年齢81.5歳
みちのともに教会長、前会長、前々会長の死去を知らす「出直し譜」の欄がある。
この欄には、出直し日、氏名(享年、立場)、教会名、住所が記載されている(前々会長も
前会長と表記されている)。
2015年1月1日から6月30日までの6ヶ月間に死去した教会長、前会長(前々会長)の
平均死亡年齢を集計した。
集計方法: 死亡者全員の死亡年齢を男女別にエクセルに打ち込み、死亡年齢の合計
を出し、その合計年齢を死亡人数で割ることにより、平均死亡年齢を算出。
<「出直し譜」2015年1月1日から6月30日までの6ヶ月間集計>:
現役教会長死亡人数(男女合計): 130人
現役会長平均死亡年齢(男女平均):81.5歳
<内訳>:
現役会長(男)死亡人数:86人(平均死亡年齢78.3歳)
現役会長(女)死亡人数:44人(平均死亡年齢87.7歳)
<2014年日本人平均寿命(厚生労働省調査)>:
日本人(男)平均寿命: 80.5歳
日本人(女)平均寿命: 86.8歳
女性は3年連続世界一、男性は世界3位。
<天理教現役会長平均死亡年齢と日本人平均寿命との対比>:
天理教現役会長(男)平均死亡年齢78.3歳は日本人(男)平均寿命80.5歳より2.2歳短い。
天理教現役会長(女)平均死亡年齢87.7歳は日本人(女)平均寿命86.8歳より0.9歳長い。
<分析>:
現役会長(男)が平均78歳という高齢で死去すると、その教会は教会長不在となるか、ま
たはその高齢な妻が教会長となる。
超高齢教会長(女)が数年で死去すると、その教会はそのまま教会長のいない無担任教
会となる。
78歳(男)や87歳(女)で死去した教会長に息子や娘がある場合、かれらは教会ではな
く外の社会(会社、役所、教職員その他)で働いていることが多く、年齢的には50歳台で
10年ほどで定年になる。
定年になり年金が受け取れる年齢となり、実家の教会長になる者も何割かいる。
一般社会においては御用済みであり、においがけお助けに走りまわるために教会長に
なるわけではなく、老齢の信者が若干いるので義理で教会長になり、何もしないとボケる
ので健康のために教会長になる。
教会に住めば家賃はタダで、生活費は年金でまかなう。
定年になっても教会に戻らず教会長にならない者も、割合は不明であるが相当多い。
教会長が平均78歳(男)や87歳(女)という超高齢で現役のまま死去しているのが、天理教
教団組織の実態である。
一般社会にはあり得ない「超高齢組織」であり、天理教教団組織が空洞化していること
の証しであり、将来の存続が極めて難しい組織である事は誰の目にも明らかである。
では、教会長が平均78歳(男)や87歳(女)という超高齢で後継者も決めず、無担任教会に
なることを知りながら死去する事は、果して間違っているのであろうか。
結論から先に言うと、間違っておらず、極めて正しい出直しの仕方である。
末端教会長を親に持ち、時代錯誤の世襲制身分制度の中で、末端教会に生まれたその
日に末端教会長となる人生が決まっていた人たちである。
上級や大教会に家来のように扱われながらお供金を上納し、若いころはおだてられてそ
の気になっても、30代になれば教団の教える教理は真柱や中山家、教団幹部を美化し、
神の教えを曲げたウソの混じった中山教であり、本当の中山ミキ・おや様の教えではないと誰でも気づく。
上級や大教会長が尊敬には値しない人たちであることをいやというほど見聞きし、体験する。
気付いた時には手遅れで、末端教会長を続けるしか道が無い。
組織・制度にガンジガラメになった末端教会長が苦しまぎれに使い分けるのが面従腹背、
自分の力では解決できない難しい事は考えない、諦め、ホンネと建て前の二枚舌。
面従腹背、ホンネと建て前の二枚舌の人生は、自ら選んだ道とはいえ、中山ミキの教え
に反するから苦しい。
おや様の教えでは、人間の常命は115歳である。
ようぼくの中のようぼくである現役教会長なら、世間一般の人より長生きするのが自然で
あろう。
信仰的良心に反し、自己矛盾に満ちた苦しいストレスだらけの人生をおくるので、現役教
会長(男)の平均死亡年齢は78.3歳となり、一般の日本人(男)平均寿命80.5歳より
2.2歳短くなるのであろう。
日本人が女性は世界一、男性は世界3位の長命をえたのは天理教のおかげではない。
日本人は勤勉に真面目に良く働き、自らの努力で、生活水準が向上するとともに寿命も
延びてきた。
陽気くらしを掲げる天理教が衰退すればするほど、日本人の生活は向上し寿命が延び
るとはなんと言う皮肉であろうか。
日本も世界もウソ混じりの「中山教」を必要としていない。
中山ミキの本当の教えではない、教団が教えるウソ混じりの中山教は自分の代で打ち
切りにしようと決意し、後継者も決めず息子や娘に教会を継がせない超高齢現役教会
長は、ものも言わずにろうそくの火が燃え尽きるように消え去る。
わずかな信仰的良心が残っている超高齢現役教会長が見せる教団への最後の抵抗で
あり、まっとうな出直し方である。
<参考>:
「出直し譜」2015年1月1日から6月30日までの6ヶ月間集計:
前会長(前々会長)死亡人数(男女合計): 115人
前会長(前々会長)平均死亡年齢(男女平均):86.8歳
「平均余命」:各年齢の人が平均してあと何年生きられるかの期待値が「平均余命」。
「平均寿命」:その年に生まれた0歳児の平均余命が「平均寿命」。
「平均寿命」と「平均死亡年齢」は異なる。
以上
自立人生様のコメントはいつもながら考えさせられる内容であり、我自身を振り返り我の呪縛を紐解く作業の役にたっております。
いまだに一族が天理教信仰者なので、私の姉など人としてどうなの?みたいな生き方をしておりますが、大教会婦人会№2の位置にいるらしく、おかしなことをしている姉のことをを味方していて、天理教批判者である私の顔を見たらいちゃもんつけたくて説教してきます。
とってもおかしな奇妙な世界ですが、どっぷりハマる人が教団の存続を維持しているだろうけど、傍目からみているとなんだかお気の毒なように思います。
「みちのとも」という天理教の刊行誌に、お道に非常に熱心な婦人会長が、信者のお供えのほとんどを上級にまわし、教会に一緒に住まわれているお母様が、ガス、米代、など何か月も滞納しており、再三催促されている、それの支払にお供えを廻したい旨を、遠慮しながら言うと、親を厳しく叱りつけ、人たすけに燃え、神様の為に尽くしきる、ごりっぱな娘さんの記事がありました。お母様は娘に、それ以上何も言えず、黙してうつむくのみ、という内容でした。
それを読んで、娘会長さんのご立派さに感心するより、親ごさんの胸の内を思うと、お気の毒でした。娘さんは、信仰の上からは賞賛されるのかもしれませんが、支払の催促に、つらい思いをされている親ごさんに対し、もう少し心を使ってあげるべきなのではないでしょうか。信仰熱心が過ぎると、世間からずれてくるように思われます。
「みちのとも」は、本部の指示なのか、そのような記事ばかり、載せているようです。はっきりと、洗脳の意図を感じます。
私の知っている老婦人の会長は、とても熱心でした。
でも、晩年は病院で寂しい最後でした。
それを見ていて、今いくら頑張っていても、お供えが出来なくなったら自分も同じ扱いだと思いました。
一生懸命やっている人が報われない姿を沢山見てきました。
お供えなんて、減らしてもしなくても、関係ないです。平気です。
心を煩わせることが一番よくないことです。
自分が納得した生き方をしたいです。
そもそも何のために「お供え」をするのでしょうか?
苦しいと藁にもすがりたい思いになり、「お金(お供え、心定め)で解決」できるのであればと思い、
無理をしてしまうようなこともあるかもしれませんが、物事を解決するのは、
本当にお金(お供え、心定め等)なのでしょうか?
多額のお供えをしたり、貧しい生活を自ら選択しているのは、
具体的にはどのような理由からなのでしょうか?
自分を犠牲にすればするほど、それが後で何倍にも自分が望む良い結果となって帰ってくる
という考え方も聞いたことがありますが、
それでは、神様が与える 「今」 を放棄して、 「自己犠牲」 を神様に差し出し、
神様と取り引きをしていることにはならないのでしょうか?
神様は、本当にそのようなやり方、生き方を望まれているのでしょうか?
自ら自覚できる因果応報という考え方は理解できますが、
人を苦しめる「因縁」という法則は、本当に神様は創られたのでしょうか?
呪縛さま
阪神、淡路大震災。
二十年前の当時に、TVに映った光景は。
同じ日本とは思えず。
理解が出来ることでは、ありませんでした。
その後、毎日に続く報道で。
大震災というものを、少しずつ知っていきました。
でも、やはり。
TVの向こう側に広がる光景は。
理解出来ることでは、ありませんでした。
昨年、NHKの特集で。
阪神、淡路大震災の時に。
生まれた子供達が、成人式を迎える…と。
それぞれの若者達、大人達の。
胸中に残る想い、残像を語っていました。
成人を迎えた子達に。
たくましく一歩一歩、
歩んで行って欲しいと願いました。
東日本大震災も同じく。
沢山の方々の、胸中に残る想いを。
TV、ネットで読み聞きました。
被災された方々、被災地の方々の。
悲しみや、消えない恐怖、絶望感。
生涯背負っていく、傷、痛み、辛み…。
受けられた方々の胸中は。
受けられた方々しか、わからない。
でも、それぞれに。
胸中に、色々な想いと一緒に。
生きている、生きて行く。
人生には、教えも理屈もないのかもしれません。
僕は、母を介護して。
日に日に、痩せ細って行く姿を看て。
日に日に、自身で手も動かせなくなる母を看て。
母の最期と、別れが来る。
覚悟をする時間がありました。
母は、平均寿命よりは少し早かったですが。
それでも、介護、看病しているとき。
病気に壊され、苦しむ母を看ることが。
辛く、逃げたいと思いました。
震災により。
ご家族が、突然に、一瞬に。
居なくなる現実を。
震災という、目の前に広がった酷な現実を。
受け入れることは、
受け入れられることでは、ないかもしれません。
時間が解決できることでも、
ないかもしれません。
そして。
生きている、生きて行く。
言葉には成らない想いも辛みも。
人それぞれの形で、胸中に在りますね。
僕と母の間には、天理教はいらない。
どちらが、親でも子でもいい。
僕と母が、在ればいいのだから。
天理教に写る母の写真に、
残す想いはありませんでした。
そして、亡くなった母も。
看取り、これからを生きる僕自身も。
天理教から、解放してあげたかった。
天理教以外に写る母の写真は。
アルバムに残してあります。
僕の家にも。
歴代の大教会長、上級会長、会長婦人の方々の。
写真がありました。
その方々に対しても、想いはありませんでした。天理教の物と一緒に、整理いたしました。
昔に。
天理教が、家の中にあった頃。
おつとめ、月次祭…。
天理教のお社と対した時、
何を願い、何を望むか。
とりあえずに、天理教に対しての。
膨れ上がる、
嫌悪感を抑えるのがいっぱいでした。
天理教に対しての、理不尽を訴えるように。
睨み付けていたようにも、覚えています。
天理教を整理して、母を看取った後日に。
「俺の家の中に、宗教はいらないけど。
でも、母ちゃんの居場所は欲しいから…。」
と、神主さんに相談して。
小さな信徒壇を買いました。
母ちゃんの写真を置いて。
毎日に、朝晩と。
多いときは、一日に何回でも。
信徒壇に納まる母ちゃんと。
ほんの一言、二言と対話してます。
「母ちゃん!おはよう、おやすみね。
母ちゃん!行ってくるね、ただいまぁ。
母ちゃん!今日はプリン買ってきた。
母ちゃん!今日はね…」と。
天理教があった頃に。
天理教のお社に対峙したとき。
こんな気持ちには、成れなかった。
天理教では、得られるものはなかった。
手を合わせる想い。
願い祈る想い。
そこには、教えも神様もない。
強要もない。
手を合わせる想いには。
その人にしか、わからないものが在るのだから。
何を守りたいのかさえ、
伝わらない天理教が。
作り騒ぎたててきたことなど。
どこか、とても虚しいものにも感じます。
呪縛さま。
呪縛というネームを読んだときに。
僕の考え過ぎかもしれませんけど。
何かに、自身を。
縛り続ける想いがありますか。
消えない残る辛みが在りますか。
僕も、生涯に背負っていくことは。
大小に在ります。
でも、少しずつでも。
解放して生きたいと思います。
社会学研究所に集う皆様方も。
狭く偏ってしまった天理教では。
感ぜられず、得られないことが沢山あって。
広く流れ行く、日々の各々の日常の中に。
想い得られることが、
沢山に溢れていると思います。
今日は昨日よりも。
一つでも、気が付けて。
想い得られることが在りますように。
震災にあわれた方々のことを思うと、神様こそが、まさに理不尽とも思えますね。もしかして、神様の目には人間はアリ程度のことなのか、と感じる事もありますが。それでもはぐれ雲様のおっしゃるように、生きていくしかないのですよね。命が尽きるまでは生きていくしかないのですが。だから、よけいに、自由に、縛り付けられずに、生きていきたいものと思います。私は、親を、天理教の御霊様には祭りたくはないです。死んでからも、天理教の上下関係の中で、肩身の狭い思いはさせたくないです。
みき様にかかった神様は、中矢伸一氏の説に拠ると、ニギハヤギノミコトという、神武天皇が大陸から渡って来て征服するまで、大和の地を広く治めていた、その地方の首長であったそうです。初代天皇であったともいうことです。それで、合点がいったのですが、おふでさきに、「とうじんにほんをままにする」と、とうじんに対する恨み言がやけに多いが、それは文字通り、大陸からの征服者に対する、被征服者の恨みつらみであるように思います。中山家は、未だ教えを知らぬ人々、と恣意的に解釈していますが。
しかし、世界中は皆わが子とも仰せになっている、それと、とうじんに対する恨み言と矛盾するように思いますが、みき様にかかった神様は、高次元におられる霊であるでしょうが、神様の心中も複雑というところでしょうか。
その高次におられる御霊様が、この世界をご創造された、最上位の神様のお心を、お教え下さったのかもしれませんね。
はぐれ雲さんへ
>呪縛というネームを読んだときに。
>僕の考え過ぎかもしれませんけど。
>何かに、自身を。
>縛り続ける想いがありますか。
>消えない残る辛みが在りますか。
その通りですよ。
母を失った悲しみは消えましたけど
今、体調も経済的にも絶不調でしてね。
困った時の神頼みで検索して研究所に辿りついたんです。
幼い頃、寝物語に聞いた天理教に救いを求めようとしましたが
自力で解決しなければ無理なようです。
ところで、はぐれ雲さんのお母様は亡くなっていませんよ。
はぐれ雲さんが、思い続けている限り、はぐれ雲さんの心の中で
生きていらっしゃいますよ。私の母も生きています。
肉体は脱いでも、霊魂はずっと生きているそうです。これは単なる願望ではなく、実際の話だそうです。お姿は、この世にいる我々には見えませんが、はぐれ雲さんや呪縛さんのすぐ傍に、今も来られてるかもしれませんよ。
上級に一切、ノーと言えないなんて、常識で考えれば、おかしなことなのに、そういうことが不自然だ、と思う感覚すら、麻痺してくるのだろう。大教会長なんて、末端から見れば、雲の上のやんごとなきお方、という感覚であろうが、そういうことは、教祖の教えには無かったことだ、と、少しでも通常の感覚を取り戻した人たちが、増えていけば、だんだんと、教団も、今よりマシなものになるかもしれないが。
皆さんは年祭のお供え金どのくらいしているのでしょうか?
私は正直あまりお供えしていないほうです。
しかし、月次祭もお供えしている。年祭もしている。
今回教会の外壁工事のお供えもして今年は結構自分なりにお供えしました。
先生方も不満もなく受け取ってくださいました。
お供えしたから幸せがくるわけではありませんが、お供えしないと悪いような気がしてですね。
私は天理だけじゃなくて、おつきあいと縁が重なり、毎年、春・秋に地場の2神社で、お付き合い程度ですが
お供えしています。
私のような人って日本国中いるのではないかと思います。
もし、自分の母親が亡くなれば、今度はお寺様にも毎年夏・冬に、お墓の維持でお供えしなくちゃいけない。
日本はやおよろずの神様がいっぱいいる。御付き合いと思っています。
だから、そんなに多額なお供えはできません。
でもお供えします。
家内安全・商売繁盛をお願いしているのだから。
当然、お供えはしなくてはいけませんね。
同じ教会の信者さんですが、高野山の方にも参拝に行かれてますね。うちの教会では一番多くのお供えをしてる方ですから、会長さんも気を使ってるのか、何も言わないですけどね。まあ、反対する理由も無いからでしょうね。
やっぱり、日本人の感覚は、一つの神様ばかり拝んでたら、他の神様に申し訳ない、と思っちゃうのかな?まあ、どちらがいいともいえないところですね。
カインさんが、こんなに、天理教のことを詳しく研究されてる意図は、なんなのだろうか、と不思議に思う。カインさん自身は信者でもないとのことだが、知り合いに天理教の会長がいるというだけで、これだけ綿密なデータを調べ、鋭い批評を論述され、我々にとっては、随分と目からウロコをとらせて頂いた、奇特な方という他ないし、ありがたいことと思う。
カインさんの天理教に対する意識も、当初に比べて、だいぶ厳しくなってきているように感じる。天理教をよくしようとしてくれているのか、上に目くらましされている、教会長達や信者らを啓蒙しようとしてくれているのか。何にしても、カインさんには、天理教研究に嫌気がささず、ずっと続けて頂きたい、とお願いします。
このHPに限らず、インターネットの普及により、いろんな情報が氾濫している。
天理教も情報氾濫で、ある部分被害者でもあり、加害者でもある。
それを信じるか信じないかは私たち閲覧している人が判断することです。
私は先生にこのHPの話はしましたが、結局この話題は避けるようにしています。
これ以上討論しても平行線であるわけですから。
個人個人で判断することです。
そうゆうことですね。
皆様の貴重な御意見 胸がすくわれる思いです
長年信仰させて頂いておりますが、近頃教会に不信感を抱くようになり悩んでおりました。
私は親神様、教祖をお慕いしておりますが、会長様はお慕い出来ません
おつとめもひのきしんもお供えも心をそえなければなりませんよね
なかなかしんどいです
若い頃は気付かなかった、今気づいていまいました。色々。。。
実家の母が教会の娘でした
子供の頃は部内の会長様達に教えられて育ちました
誰にでも好かれ本当に慈悲深い素晴しいお方ばかりでした
初代の会長様方はどなたも皆、教祖の教えを守り、おたすけをして
教会を設立なさったのでしょう
2代3代4代5代と代を重ねると親の徳にあぐらをかき
おたすけどころか好き放題の有様
信者さんもどんどん減っていきます
教祖もお嘆きかと思います
友人 知人はほぼ教会長、または夫人
はっきり言うと申し訳ないのでこの場をおかりしました
有難うございました。
『天理教の「御供え」について』とうい掲示板に「さっちん」という人の書き込みがありました。
http://6706.teacup.com/5051/bbs
『クレームが出そうですが、どうかお許しを。
「添い切る」「立て切る」「信じ切る」「尽くし切る」、まだ有りましたっけ?こういう言葉に、だんだんスポイルされていくのではないでしょうか?自分の意思は失くせ、絶対服従せよ、と言ってるように思えます。
そしてもう一つ、私が違和感を感じるのは、「思わさせて頂きます。」こんな言い方、日本語であります?講話などで、先生方が皆様よくお使いになってるみたいですが、私は耳障りに感じます。私だけでしょうか?そんな事思うのは。』
結局は、洗脳。マインドコントロールなのです。
130年祭なんてしょせん天理教だけの内輪のお祭り
年祭、年祭と目の色かえて信者にハッパかけてる教会長を見ているとしょうじきドン引きします。
もっと世の中を見たらどうかと言いたい
情けない天理教
信者ですがさん、
教会にはお社はあっても神様は居られないかもしれません。
一人ひとりの心の中に神様はおられます。
お供えは、会長が受け取っているだけです。
それでもよいと納得して持って行って下さい。
何も得るものはない、と納得してお参り下さい。
全て自分でよく思案して、自分の責任で、自分の意志で行動して下さい。
私は古い教会長様のお考えに賛成です。でも、ご本部からは異端だと言われるのではないでしょうか。心の中に神様がおられる、というのは、天理教ご本部の教えとは違うと思いますけど、私も、自分のうちに神様が存在して下さっている、という方が真実と思います。
只、ちょっとご質問させてください。おぢばは、運命切り替えの場所と教わりました。おふでさきにもそのように書かれてたと思います。やはり、尊い理のある場所には違いなかろうと思いますが、教会には神様はおられないだろうが、おぢばに対しては、どう思われるか、古い教会長様のお考えを、お聞きできますでしょうか?
匿名さん、
私は研究者ではありませんので、詳しくは分かりませんが、おぢばは「世界たすけ」の、おつとめをする処で、
おぢばの中心に居られる方は、大きな責任と義務があると思います。
参拝者、帰参者が多くても少なくても関係無しに、真実込めたおつとめを、し続けることが大事だと思います。
神様の方を見ないで、人の方に目が行っているのではないでしょうか。
毎日、おぢばでおつとめをするべきです。
130年祭は26日一日だけです。では春季大際はいつやるのですか?
全国の教会、教区、支部の中で人材を出して、おぢばで毎日12下りのおつとめがつとめられたら、人も神も勇まれるでしょうね。
おぢばは、ある特定の人の専売特許ではないのです。
ぢばの理を戴いて、各教会でも月次祭が行われるのであれば、どこの教会でも同じ理となります。
わざわざ、上級や大教会に行かなくてもいいし、別に来て貰わなくてもいいのです。
参拝に行けば、お供えがいります。来ていただいたらお礼がいるのです。
とにかく、いつもお金がかかるシステムです。
立場によれば、いつもお金が入るシステムでもあります。
同じ理ではないのです。
おつとめの責任を地方の教会に押し付けるのではなく、おぢばで、しっかりと「世界たすけ」のおつとめをつとめて頂きたいです。
古い教会長さんへ
全く仰るとおりです
教会と信者はお金で繋がっています
部内の教会長さん達もお気の毒です
ワンマン会長ですから
お金が無いから教会に行けないと嘆いておられる方も大勢おられます
慎ましい暮らしをしてお供え運んでおられる信者さんばかりです
歳老いて参拝行かなくなったら放ったらかし
宅祭には来られますが
目的はお供え
何なの~
私も将来考えて慎みたいと思います
幼少の頃 おやさま の絵本を与えられました。
ボロボロになるまで毎日毎日読んでいた者です
家族に手をひっぱられ本部の廊下をすべって遊んでいました
毎年友達いっぱい誘ってこどもおぢばがえり行きました
電話もない時代でしたので、5月ごろから毎日母と友達の家に行き、おぢばがえりの勧誘をしてました
楽しかった思い出です
失礼しました
今さっきの話ですが。
日課のウォーキングをしていたらシルバーカーにハッピを載せて歩いているおばあさまを見かけましたので
こんにちわと声をかけしばらくお話しました
錦E大教会からの錦織?分教会の信者さんだったそうです
跡取りがいなくて今や跡形もなくなってしまったとおっしゃっていました
それでも天理教の教えが好きでこうしてわざとハッピを持ってよくあちこち行くのだと
お歳は90
頭下がります
そういえば以前も1時間ぐらい世間話したこと思い出しました
いつもの事ながらお道の人によく出会います
知らずにお付き合いしていたら神殿でばったり出会ったり
よくあるんです そんなこと
所属」されている教会が、跡取りが無いなど、何らかで、なくなるのだったら、会長さんが、責任もって信頼できる教会にご紹介するなりすればいいと思うのですが、でもやっぱり、自分の長年所属していた教会じゃないと嫌だということもあるかもしれませんね。もし、その信者さんがお若い方で、教会に通いたいというのなら、ご紹介するなりのことはしてあげないといけないと思いますね。
しかし、いろいろと問題はあるにしても、特にご高齢の信者さんなどは、そのように、お人柄の良い方が多くて、ありがたいことだと思います。
古い教会長様
見識のある方と存じ上げますので、納得の行かない点を、お聞かせください。
>教会にはお社はあっても神様は居られないかもしれません。
>何も得るものはない、と納得してお参り下さい。
そうしますと、古い教会長さんは、献饌などは一切しておられないのか、お祭りもしておられないのか、信者さんを一切、自教会に参拝させておられないのか、一体教会長さんとしてどのようなことをなされているのか、をお伺いしたいのですが、よろしいでしょうか?信者さんを教会に集めて、お話なども一切なされてはおられないのか・・・?
匿名様。
神様のご守護は世界に満ち満ちています。だから教会の狭い箱の中に閉じ込めてしまっては、いけないという思いです。
もしそこの教会の会長に信仰が無ければ、いくら教えを説いても、そこには神様は居られないという意味です。
お供えをしたから助かるとか、願いが叶うとか、何かを求めてお供えをしても、人間の思うようにはいかない。
目に見えたご守護は何も無いかもそれませんが、それを承知で納得してすればいいことだと思います。
目に見えない、何かを得るかもしれません。
私は日々、今までの歩みを反省をしながら人の役にたつ人間を目指しております。
人間としての生き方が大事だと思い、天理教の立場からではなく、人間として、会長として、どう生きるべきかを自問自答しております。
匿名様。
>教会にはお社はあっても神様は居られないかもしれません。
教祖は「神はあるといえばある。ないといえばない」と言われました。
教会のお社には神がいる教会と、いない教会があるのでは。
>何も得るものはない、と納得してお参り下さい。
神のいない教会では、何も得るものはない。と思います。
よく自分の頭と心で思案して、納得して、自分の責任で行動することが大切かと思います。
理解致しました。古い教会長さんは、教会長としてのお仕事はされてるわけですね。
しかし、古い教会長さんのおっしゃることは、抽象的、あるいは形而上的というか、わからない時が、たまにですがありますので、ちょっと、レベルを下げて仰って欲しいな、と思う時があります。すみませんが、よろしく。
前に、上級に、「お供えはしたくないです、お供えの意味がわかりませんから」とか仰ったそうですが、上級からその後、嫌味、あるいは叱責など、無いですか?古い教会長さんの貫録の前に気圧されて、言えないのかもしれませんね。なかなか、古い教会長さんのようには、他の教会長さんは、上に言えないと思います、残念ながら・・・。
匿名さん、
私も結構、上級には気を使っているのですよ。
ただ、おかしいことは、おかしいと言う努力はしています。
しっかりした強い意志があれば、誤解や偏見はなくなります。
今はとても良好な関係ですよ。
いち教会としての最低限のつとめしかしていませんが、それで十分だと思っています。
26日は皆様本部参拝に行かれるんですよね
物心ついてから4度目の年祭ですが今回は自分の心ト向き合い
神様とだけお約束しました
一応守ってこれたかと自負しています
教団本部には学校始めなんでもありますよね
老人ホームとか介護施設は作れないのでしょうか
個人教会レベルではなく大々的な
そうすれば私も安心してお供えするよと
言われたご婦人がおられました
私 入力たどたどしく
稚拙な言い方しか出来なくてすみません。
もっともっと言いたい事や聞きたい事はあるのですが
文字におこすのは大変です
お付き合い下さり有難うございます
訂正します
物心というより自分の意思を持って迎える5度目の年祭です
うちの会長さんは、借金作ってまで、お供えをされていた方ですが、最後は寝たきりになり、実子がおられず、養子さんは教会には寄り付かず、病院に入ることも出来ず、教会に寝たきりでしたが、おかわいそうでした。一生懸命天理教に尽くしても、天理教さんは、最後の面倒はみてくれないのですね。
身寄りの無い会長さんなどが、最後を安楽に過ごせる場所、会長さん用の老人ホームでも作って下さればいいのにな、と思います。
気の毒な会長さんですね。要するにいくらお金を積んでも、ご守護は「お金の取引ではない」という証明ですね。ご守護を信じてお供えを上げきった会長さん。それでも結末はご守護のない姿ですよね。お供え信仰と最後の悲惨な結末。どう説明がつくというのでしょうか。やっぱり洗脳だったのですね。自分自身の中にいる「内在神」に向き合い、感謝し、毎日を生きる。人の中に居る「内在神」を尊ぶ。そして助け合う。自分も他人もすべての命は天然自然のエネルギーや、宇宙の法則や、自然の深遠な力の中に生かされているという真実。そういうことを心におさめて日々を謙虚に生きる。それでよいのではないでしょうか?不幸にして教団組織に組み込まれ、お供えのお金で悩み苦しむより「さわらぬ神にたたりなし」ということかもしれませんね。今ではこの信仰形態が人間の都合によるものだということが判りかけて、お供えはしないと決めました。心が随分開放されて陽気に過ごせるようになりました。教団に渡さず、人の役に立つようなお金の使い方をすれば良いと思っています。
匿名様のお言葉、至極もっともと思います。今、よく、内在神という言葉が聞かれるようになりましたが、これは伊勢白山道さんから始まった言葉なのでしょうか?それとも以前からあった言葉なのでしょうか?一時、伊勢白山道さんに傾倒していたこともあり、アマテラスオオミカミ、と拝んでましたが、いつの間にか止めてしまいました。
なぜ宗教を信仰しなければならないのでしょうね。宗教は所詮、他人の手垢がついてしまった神の教えです。神様は、あらゆる人間に、それぞれに、啓示を発せられていると、言います。それらを感じ取れた、特別な人が教祖として、あがめられるわけですが。
でも、私たち皆、心を澄ませ、神の声を聴きたい、神の思いを知ろうとすれば、神は私たちのもとに訪れてくれるでしょう。他人が作った宗教を、信仰させられるなんて、馬鹿らしいとおもいませんか?それより、自分の神様を見つけ、自分の神様を信仰しましょう。
こちら同様、お供えの掲示板に投稿されているコメントに只ひれ伏しております
プータローさん、ぶたまんさん、一文字さん、しんどいさん、ラグビーさん、kazuさん、すみませんさん
まだまだ全部よみ終えていませんが、いっぱい教理を教えて頂きありがとうございます
何百回聞かせて頂いた教会の講話など足元にも及びません
特にさっちんさんのコメントが解りやすく私の気持ち代弁していただいているようです
昨年10月26日のコメントは全くもって仰るとおり!!!
冷たい板の間に何時間も座った時はさすがに疲れました
でも皆さん平気そうなので口にも出来ません
かんろだいでおつとめされる本部員様はお手洗いもいけないのだからと思いました
何年も抱いていた素朴な疑問が日々解消、解きほぐされ、我が心の小さな神様に手をあわさずにはおれません
皆様 本当にありがとうございます
26日は体調よければお参りしとうございます
今年いっぱいが年祭ですからなるだけお参りしなければとも思っています
以前、匿名さんが(2015年10月31日7:36pm)書かれていた本が気になっていたのですが図書館にありましたのでお知らせします。
『教祖とその時代ー天理教史の周辺を読む』石崎正雄編 立教154(1991)8月1日 天理教道友社発行
7章 秀司「覚書」を読む 執筆者:上野利夫
はじめに
『萬覚日記』についてー文久年間における中山家の経済事情
『辰年大實恵』について―慶応四年の賽銭と中臣祓
『牛年大實恵』についてー明治三年の賽銭と金品貸しの覚え書
『申歳大實恵』についてー明治五年の金銭出納覚え書
以前に、ブログを読み、コメントもしていた者です。
昔を思い出し、嫌な気分にもなり、
辛くなるので…と。
少しの間、見ないようにしていました。
先日に、少し思う出来事があり。
久々に覗いて、書こうと思いました。
あくまで、僕の自己満足ですので。
先日に、小さな娘さんを連れたお母さんが。
宗教の勧誘に、僕の家に来ました。
天理教ではありませんが。
「このお嬢ちゃんは、貴女の娘さんですか?
とても可愛い娘さんですね。
大人が宗教を選ぶのは、大人の自己責任です。
でも、子供には神様を使わないで下さいね。
子供に神様を使うと、子供は悲しくなりますよ。
子供に神様を使うと、親ではなくなります。
お母さん自身が産んで、育てている子供さんです。
子供さんを、守るのも育てるもの。
お母さん自身であり、親であり、人です。
神様ではないと、僕は思ってます。
僕の家は、昔は天理教でした。
天理教で沢山苦しみましたし。
僕自身の、沢山のことを犠牲にもしてきました。
何が親で子なのかさえ、
わからなくなった時もありました。
今でも、時々に。
天理教に残された不条理に苦しんでます。
僕にとっては、教えが神様が違うとか関係なく。
天理教も、他の宗教も同じです。
どこの宗教団体も、
臭いことに蓋をして、耳を傾けなくなります。
お母さんにとって素晴らしいことでも。
子供には。
苦痛にしかならないこともあります。
貴女にとって素晴らしい教えでも。
その神様の教えで苦しむ人が。
もっと沢山にいることも、
知って欲しいとおもいます。
こんなに可愛い娘さんいるじゃないですか。
神様よりも。
娘さんとの時間を、大切にしてください。
お母さんとして、子供と居てください。
僕からの、勝手なお願いです。」
他にも、違う少し話もしましたが。
お母さんは、下を向いて、
すみませんでした…と。
お嬢ちゃんは、最初はつまらなそうにしていて。
お母さんが困っているのを見て。
お母さんの手を引いたりして。
お嬢ちゃんに。
「ごめんね。 お母さん大好きだよねぇ!」
と、家にあったお菓子を渡して、バイバイしました。
子は小さいながらも、親を庇おうと思うものです。
例え、親が親らしくなくとも、庇おうとします。
大きくなるにつれ、色々を知り感じて。
生意気にもなり、親の不甲斐なさも感じもします。
それでも、不甲斐なさを受け入れる努力もします。
もちろんに、子でも限界はあるのです。
僕は、日常的一般的な
、宗教的な文化は必要であっても。
宗教、教えと固執することは。
洗脳することも。
とても余計なもの…
人の存在を駄目にするもの…だと思います。
自分の母を、介護看病し、病院で看取った時に。
そのあとの時間に。
僕に対して、
天理教の大人達が騒ぎ立ててきたことの。
くだらなさを、とてもに痛感しました。
人の最期は、必ずにあることを看取り。
命と時間は同じものだと、感じました。
息を引き取ってしまったら、
話も、顔も合わせることも出来なくなりますよ。
そして、人生を全うされた方を。
いつまでも、引っ張ってはいけませんね。
人の魂は、帰るべき所に向かうと思います。
今を語るのは、今を生きている人です。
天理教には、
百十五歳定命?説のようなものがありましたね。
確かに科学的には、
人間は百三十歳?までは生きられるような。
介護を経験した身にすると。
長生きすることの現実を、考えてしまいます。
僕の友人、知人に。
若くして、病気事故などで。
早くに永眠した方々が何人もいます。
明日の命さえもわからない…。
だから、時間の大切さを思って欲しい。
いつか…とは、
明日にあるのかさえ、わからないのです。
特に、十代から三十代の若い世代には。
縛られずに、大人の洗脳などに負けずに。
冒険も失敗も、沢山にして欲しいと思います。
平均寿命が延びることで。
人は、がむしゃらに走ることも大切だと。
忘れてしまっている気もします。
宗教団体に限らず。
人が集まれば、ルールが出来て。
勝手な宗教的な空気や、洗脳などもありますね。
僕は、時々に。
社会、世間、組織、企業、人の集まりに。
宗教みたいだなぁ?と感じてしまうことが多くて。
空気を読め!などとは、まさに宗教な洗脳のような。
あえて読まずに、行動するので。
騒ぎ立てられることも多いです。
染まりたくないと…。
どこか人間嫌いが強くなってしまった。
天理教でのトラウマかもしれませんね。
洗脳の意味合いは、色々あると思いますが。
洗脳とは、先に生まれた大人達が作っている。
大人の都合で、子や次世代を洗脳する。
そのように、時々に思うこともあります。
天理教では、天理教がわざわざに苦労を作り。
勇んで、喜んで、通らせていただくと…?
おかしな話ですね。
昔に、天理教の上級の前の奥さんが。
勇んで通る!と、ことあるごとに言っていて。
日頃、部屋の掃除もしない貴女が言うから。
薄っぺらく感じますよ!と、一人笑ってました。
部内での評判も、良くない奥さんでしたが。
周りが気を使うことで、増長してしまうことがありますね。
良心とは、なんなのですかね。
他にも沢山に、勘違いとか、洗脳とか…。
やっぱり、染まると怖いなぁ…と。
ほんとは、確信犯だよなぁ…と感じることも。
天理教の中には、ゴロゴロと溢れていました。
天理教だから。
善い人で、なくてはならないわけではなく。
実際に、家族もメチャクチャな教会も家庭もあり。
やっぱり、言ってることと、やってることが。
ズレ過ぎているから。
当人も迷い悩み、周りも嫌になってしまう。
出来ないなら、出来る形を見つければいいのに。
宗教や信仰を、取り繕おうと無理をするから。
余計に、薄っぺらになっていくように感じたり。
教えなど、世の中にはないように思ってみたり。
毎日に、学んで見つけて生きたいものですね。
人は最期が、必ずに在るのだから。
最期まで、子や次世代からも、学んで行くべきだと。
過去に縛りつけるより、未来を考えたいと思ってはいますが。
想いある先輩を、敬うのも大切ですね。
想いある後輩の盾になり、魅せられるのも。
先に生まれた大人達が出来ることです。
大人達が、綺麗でいようとするから。
失敗を恥として、偉そうにしているから。
子供達の未来は、さらに狭くなってしまいます。
中山みきさんは。
人を問わず、魂は五分五分だと。
その言葉は、惹かれましたが。
教えを宗教にしてはいけないと。
そう伝えてる、中山みき様を教祖にして。
天理教は、理…と言う言葉を多用するけど。
一番耳にして、感じることは、理不尽だったり。
天理教の方々にも。
素晴らしいと感じる人は、沢山にいますが。
でも、決して天理教を信仰しているから。
素晴らしいと思うわけでなく。
その方々の、生まれ持った性分と経験です。
逆に、生まれ持った性分の良さを。
宗教に関わることで、狭くしてしまうことが。
勿体なくも思ったり。
天理教が衰退するのは、いっこうに構いません。
災救隊や、地域に貢献している教会が。
無くなることは、勿体ないと思いますが。
ただ、それ以上にも。
天理教の積み上げてきた、理不尽は。
度が過ぎると思います。
今後、さらに。
片寄った権力や勝手思想も強くなるだろう。
隠蔽体質も、無責任さも変わらないだろう。
本部から、末端まで。
親族血縁ばかりが、強く残り。
天理教は、すでに超高齢化社会です。
天理教に集う人も、日に日に減って行くでしょう。
人として、大人として、宗教関係なく。
十年後、二十年後の。
天理教に残される、若い世代のことを。
もう考えるべきではないのだろか。
全国の教会の整理もしないままに。
勘違いな権力者は、無駄な建物ばかりを建てて。
人が減る一方を承知で。
少ない人から、いつまでも上納金をかき集める。
上層部は。
組織も人も、空洞化し疲弊したら。
散々に、やり散らかして来ておいて。
後は知らない…と、きっと投げ出しますよね。
後片付けや、維持が面倒臭くなれば。
非現実的ではあるが。
先行きのなくなった天理教組織を。
中国や外資系に、投げ出すことも。
そんなことさえも、有るかもしれませんね。
財を溜め込んだ、一定の天理貴族は。
生活も心も、痛くは無いだろう。
でも、他の嫌々にも。
残された天理教の若い世代は。
どうなるのでしょうか?
初代の思い、先人の苦労も大切かもしれないが。
末代の理などと、洗脳してはいけない。
次世代が、宗教によって余計な苦渋を背負ったり。
先行きが見えないならば。
少しでも、後片付けをしていくのが。
その代、その代の。
先に生まれた大人としての、
責任感ではないのだろうか。
宗教だと、信仰を語れば。
責任逃れを続けて、いいのだろうか?
もし、天理教が。
今の腐敗した天理教組織、天理教意識を。
一掃し、大手術をして。
教内外の声を思案する宗教組織に。
声に伴う行動の出来る、大改革すれば。
世界中の、宗教団体、組織、企業、人々から。
絶賛させ、敬われる天理教になるけど。
ほんの1%以下の可能性ですけど。
全然に、難しくもない話なんだけど。
何が邪魔をしているのかなぁ?
可愛いお嬢ちゃんの、
バイバイする笑顔を見たときに。
とっても、嬉しくも思いましたし。
お嬢ちゃんの、お母さんをかばう顔にも。
色んなことを、想い考えました。
僕は、天理教の中で。
親心は、一つも感じることはありませんでした。大人は大人で、沢山に悩んでもいます。
でも、神や仏、宗教、信仰などの言葉の前に。
人として、大人として、大切なことは。
もっと、もっと、
手前に、目の前に、在ると思います。
またまたに。
無駄に長々と書いてしまいました。
また、覗きにきます。
はぐれ雲 様
「でも、決して天理教を信仰しているから。
素晴らしいと思うわけでなく。
その方々の、生まれ持った性分と経験です。」
同感です。若かりし日、修養科でその事を悟りました。修養科で学んだのは、その事だけ、といっても差支えありません。修養科では、要領が悪く、ひのきしんを上手く出来ない人、怠けてしまう人も、いろいろおります。、信仰篤いと自負されている方が、そういう人達に、思いやりの無い、厳しい言葉を投げかけていたり、逆に、信仰などしてないけど、仕方なく入って来た、というような人が、人の痛みを知る、思いやり深い方だったり、そういう事を経験しました。
昨日、教会の人にはっきり
来ないで下さい、いきませんと宣言しました
>世界中の、宗教団体、組織、企業、人々から。
>絶賛させ、敬われる天理教になるけど。
提案
本部の周りには大教会などの詰所がありますけど、普段何に使ってるんでしょうね?
年祭なんかは信者で一杯になるでしょうけどね。
普段空いているとしたら、老人ホームにしたらどうでしょうか?
ミクシでも天理教が大好きなおばあちゃんが死ぬ時はおじばで死にたいと言うので
呼びかけていましたが多くの声は集まりませんでした。
世話係は若い人に任せて、優しくしてもらえたら、また元気になって年上の人の相手もできるでしょう。
私だって還暦は過ぎていてもまだまだ身の回りのことは自分で出来ますし
園芸は得意、特にバラは20種ほど5年間育てたことがあります。
バラは老若何女、楽しませてくれます。そしてその色と香りは癒してもくれます。
広大な天理市がバラで埋まれれば、人が集まってきます。
どこかのお寺が桜を一本植えただけで名所になったようにね,,,
まだ、寝ぼけてるのかな(苦笑)
久々の休暇の時間に。
久々に、覗かせてもらいました。
新しい記者も更新され。
沢山の意見、感想が書かれていますね。
多種多様な声が、これからも。
集まり交わり、思考していければよいと思います。
久々に、読み。
少し思うことがありました。
僕は、以前に自身のコメントにて。
「非現実的ではあるが。
先行きの行かなくなった天理教組織を。
中国や外資系に投げ出すことも。
そんなことも、有るかもしれませんね。」
と、書きました。
確かに、僕自身が書いた言葉です。
他の記事の、コメント欄に。
僕のコメントを、引用された方がいました。
引用してもらえるのは、一向にかまわないのですが。
「アジアのブローカーに売るでしょう。」
と、文面が変わっていました。
そのコメントの後に、数人の方々が。
コメントを寄せてありました。
その流れを読んだ時に。
少し、疑問のようなものを感じました。
引用された方も、
僕とは形は違えど。
天理教で、とても苦労されきたことは。
数々の文面で、伝わってきます。
その方も、叫び訴えたい気持ちもあると思います。
ただ、僕は。
非現実的と前置きして、投げ出すと…。
引用したその文面は、
ブローカーに売るでしょう…。
となってしまうと。
受けとる側の意味合いは、
変わらないのかもしれませんが。
何故そう書いたのか、など。
気持ちや、言葉…方向が違ったままに。
ズレたままに、繋がって行ってしまいます。
まっ、僕もそれほど深く考えずに書きましたので。
気分を損ねたなどは、全くありません。
少し、クスッと、してしまいました。
天理教も同じことですよね。
教理はあれど、その言葉の受け取り方が。
人それぞれに違ったり、伝わったりで。
言葉の重みも感じたり。
逆に、言葉の薄さも感じます。
天理教の建前が、
何を伝えたいのか、守りたいのかは。
僕は、全くわかりませんでしたが。
この社会学研究所のブログにも紹介されている。
掲示板の方も、久々に読んで見ました。
投稿されている中で。
数名の方々の投稿と言葉が、とてもに残りました。
「被害と加害」
「時として、白か黒か示さなくてならない時もある」
その投稿があったときに。
少し慌ただしい意見が出ていたので。
蒸し返す気はありませんので、お願いします。
僕は、今までのコメントに記してきたように。
たまたまに生まれた場所に。
天理教があっただけ、のことで。
天理教により、大きな被害を受け続け。
昔に、天理教は整理しましたが。
整理することによって、
天理教のさらなる理不尽さも知りこともありました。
とてもに、激怒もしました。
書ききれないことの方が多いです。
今も、これからも。
天理教で受けた理不尽を背負って、片付けながらも。
生きて行かなければかりませんし、生きて行きます。
天理教が家にあった、当時。
天理教で良かったこと、嬉しかったこと、恩恵など。
1つも有りませんでした。
僕自身も、時間であり、財や金銭も。
天理教に奪われてきました。
家族も破綻していましたが。
でも。
選んだわけでも、望んだわけでもありませんが。
天理教の組織構造の、
加害している側に居たのも確かです。
加害している側にいることを。
僕自身、当時に。
若いながらにも、思い感じていましたから。
天理教の教理も、学ぶ想いにもなれませんでしたし。
天理教が、素晴らしいとも思いません。
ただ、望んだわけでもなくも。
自身が天理教として身を置いていることが、
加害している側に居ることも、
とてもに苦しかったです。
だから、理不尽な負債も背負い、決別をしました。
加害している側にいたからこそ。
大きな声で、僕自身の言葉で伝えて行かなければ…。
と、そうも思いました。
僕個人の感情ですので。
不快に思われた方々には、先にお詫びしておきます。
残念ながらに、どのような言葉を並べても。
やはりに、天理教が守りたいものは。
人権でも、人の幸せでも、家庭の幸せでもなく。
天理教が守りたいものは。
過剰なお供えであり、組織構造であり。
お偉いさん方々の、自己欲の塊であり。
一部の先生、会長、役員方々の自己満足である。
人を苦しめつづけて。
金銭、財を、これからも、どれだけ摂取しても。
天理教組織は、満足はしないでしょうね。
天理教で、苦悩する方々へ。
天理教を、する必要などありません。
天理教に、望みを持つ必要もありません。
天理教に、気持ちが向かなければ。
気持ちの向く方向に、手を合わせて想って下さい。
手を合わせる日が無くてもいいのです。
天理教の伝える人助けなど、しなくてもいいです。
しようとすると、自身も相手も困っていることが多いですから。
とりあえずは、自身のことが出来ているかどうか。
自身の生き方をしっかりすることも、
人助けの形の1つだと思います。
善い人でいようとしなくていいです。
悪い人でも、相手は救われることもあります。
先日に、地区の集まりで。
「罰があたる?」みたいな会話になって。
思うこともありました。
天理教から、離れようとしても、離れても。
罰など当たりませんよ。
人を散々に使い捨てにして、財を摂取して。
平然と、詫びることなく生きている。
一部の天理教の自己欲の塊の方々が。
罰など当たらないと、見せてくれています。
でも、人として、個人としても。
そのような大人に、成りたくないと思いますが。
人には個性があって、各々の頑張り方があります。
頑張り、実を結ぶ方法を探して見つかればいい。
天理教に、宗教に、信仰に。
無理に当てはめて、求めなくとも。
世界や日常に、探し求めるものはあります。
天理教社会では。
強要強迫まがいが、当たり前になってしまってます。
洗脳よりも、責任転換の塊かもしれません。
天理教、宗教に接することによって。
持っている個性や、時間を潰してしまうのは。
とてもに、勿体ないことだと思いました。
神様にすがりたい、託したい気持ちもあります。
でも、神様に名前をつけることによって。
苦しんでいる方々が沢山にいます。
神様は、神様で。
漠然としていていい、無形でもいい。
各々に、悩み葛藤して、自問自答して方向を出して。
あとは、自身が進む。
「勇気があるか、ないか。」
それだけかもしれません。
知りたいのは。
結果を出さないことを。
さもわかったように、理由つけることでなく。
自身の行動や言葉の、出す出る結果です。
勿論に、傷もつけるし傷もつきますよ。
生きていくことは、
決してきれいなことではありませんね。
コメント欄を覗いていて。
以前より、コメントする方々がとてもに増えましたね。
天理教内外のほんの僅かな声かもしれませんが。
これから、もっと沢山の声が。
増えて行って欲しいと思います。
批判でもなんでもありません。
肯定的でも、批判的でも。
各々の声で、意見で、生きてる証です。
少しだけ、天理教肯定的な意見が。
潰されてしまってる、ような感じも受けましたが。
各々の、見えて感じる環境がありますよね。
コメント欄に、「匿名」の方が多いことに。
勿体ないなぁ、と思いました。
とても、響く意見もあるのに。
たかが、ネームかもしれませんが。
案外に、その方の個性を感じることもあります。
僕も、まだコメント欄が賑わっていないころ。
はじめは匿名で、数回コメントしていました。
でも、自分の意見じゃないような気になってしまい。
ネームをつけることにしました。
僕自身、コメントを読んでいて。
残るコメントって、ネームがある方々が多いです。
案外に、現在も天理教の中で。
自身を持って進んでいる方のコメントは。
どこかに、気持ちのよい部分もあります。
天理教外の方々も、各々の観点で。
コメントを寄せていてくれたり。
コメントを書くということは。
大人としての、感性であり、意見です。
もし匿名だから、言いたい放題になっていたら。
読む方々には、せっかくの響く声が。
少し響かなく、なってしまいます。
確かに、閉鎖的な天理教社会です。
感ずかれたりするのは、気が引けますね。
やっぱり、どこか怖いかもしれませんね。
匿名の多さは、天理教社会の色んな意味での。
表れかもしれませんね。
でも、コメントすることによって。
ネーム、匿名関係なく。何か少しでも。
見つかることがあると、いいですね。
天理教内外の沢山の方々が。
このブログを読んでいると思います。
案外に、コメントしたくても。
投稿する手段が、
苦手で出来ない方々もいると思います。
文章にすると、カッコつけにもなっていたり。
きれいに書こうと、しなくていいのですけど。
画面に向き合うと。
文章にすることで、書けることと。
文章にすることで、伝わらないこともありますね。
僕は、天理教外の人達にも。
沢山の方々に読んで欲しいと思います。
特に、若い世代、同じ世代の方々に。
天理教って、宗教って、怖いなぁ。
信仰って、そんなに大切なの?
どうして、苦しんでまで続けるの?
なんでもよいので、感じて欲しいです。
もし、コメントする気力があれば。
率直に、そのままに書いて欲しいな、と。
画面から覗ける、理不尽な天理教社会を通じて。
大人達の、善いも悪いも見極めて。
何かを感じて欲しいな、と思います。
反面教師でも、あって欲しいと思います。
天理教内で困っている方々を。
天理教外の方々が、手を差しのべて欲しいとも願います。
天理教であり、宗教団体は。
外からは見えにくく。
閉鎖的な部分も多く、隠蔽体質です。
社会では犯罪になることも、宗教団体では。
通ってしまっていることもあります。
書面、裁判、訴訟、などを利用して。
行政、司法、第三機関、第三者の目の前で。
公衆の面前で、事実現実を伝えることが出来れば。
宗教被害などは、もっと減ると思いますが。
とてもに、労も要り、酷なことです。
そしてわざわざに。
録音機などを持ち歩いて。
会話を録音して、証拠としなければならない…とか。
考えてしまいます。
平和な日本も。
とんでもない世の中になってますね。
日本人の持ち合わせる優しさが。
違う方向へ、利用されてしまっているような。
お年寄りの方々も、若い方々も。
相手を信じようとする方々…。
内気な方々、考えすぎてしまう方々…。
これからも、天理教の中で苦しむ方々は。
絶えないと思います。
宗教とは…。
本当に、人の支えになっているのでしょうか。
僕は、生涯に。
天理教を許すことはできませんが。
正確に言えば。
天理教を利用して、己の自己権欲を。
僕に押し付けてきた、大人達に対してですが。
天理教、その方々への。
恨み辛みも消えることはないでしょう。
でも。
天理教の中で、腐敗した天理教と戦いながら。
葛藤し進んでいく方々は、嫌ではありません。
応援は出来ませんが、頑張って欲しいと思います。
相変わらずに、内容がまとまらない長文です。
同じ内容の繰り返しになってもいます。
今までも。
書き込むことは、とてもに疲れました。
無理をして、書き込んでもきました。
望まない宗教や、
大人の自己権欲に縛られたくはありません。
流動的でも、ありたいと思っています。
だから、はぐれ雲とネームをつけました。
書き込み続けることで、見つけられたものが。
僕の中にはありました。
はぐれ雲を卒業しようと思います。
お付き合い頂いた方々、ありがとうございました。
カインさんの活動も。
実を結んで欲しいと願います。
先月の講社祭りに会長さんに130年祭のお供えは幾らぐらいされたのですかと、尋ねると、何と答えられたでしょうか、会長さん、聞いただけは責任をとってもらうぞとの返答でした、さわらぬ神にたたりなしでしょうか?
ななし様
それはいったいどういう意味で、会長さんは仰ったのでしょうかね?冗談で仰られたのか、それとも不機嫌な様子でしたか? でもそんな事を尋ねる、ななし様もすごいですね。私はそんなこと、よう尋ねられません。
匿名様。
ななし様の >聞いただけは責任をとってもらうぞとの返答でした・・・
というのは、
そこまで心配して気になるのなら、もし借金をしてお供えをしていたら、その分、お供えを頼むで・・・と云う意味だと思います。
カインさんのおっしゃるように透明性が大事かと思い、要らぬことを聞いてしまいました、少しむっとした感じでしたね。
10年で50億減っているとは、おどろきです!会長さんも思うように集まらないのでしょうね、おはちがこちらに来ては藪蛇だったでしょうか。
グラフは良くまとまっていて、おおよそ正しいものだと思います。
以前、上級の月次祭に参拝した時、上級の教会長が、何か憂鬱そうだったので、お世話になったお礼の手紙に、「会長さんもお忙しいでしょうが、お身体にお気を付けて下さい。」というようなことを何の気なしに書きましたら、会長奥様からお返事で「身体の心配をしてくれるより、お供えを増やしてくれる方が嬉しいです。」というような事が書かれてありまして、いささか、ムッとしたものです。
はぐれ雲様
毎回、この道によって深く傷ついたご自身の体験を通し、この道の間違いに対して核心をつくコメントをありがとうございます。同様な息苦しさを持つ者として、ネットの向こうに、痛みの判り合える方がおられることに心癒されておりました。おっしゃるように、私もこの組織に縛られることなく、「流動的」でありたいと思います。
いつまでも過去の体験を思い出すのはお辛いことでしょうね。しかしこの場所で、はぐれ雲さんが生命をかけて「失った物」に対し、また決して取り戻せない「自分自身に帰属すべき尊い物」に対し、静かだけれど真っ直ぐなメッセージをいただくことにより、洗脳によって道を間違いそうになっている危なげな若者を天理教から救い出す、本当の意味での「人助け」であったと思います。教団本部、大教会関係者、またこの道の洗脳の入り口に立っている多くの教会の若者たち。必ずやこのページを見ていることでしょう。どうぞ、またいつの日か、この場所に戻ってきてくださいませ。お待ち申しております。
はぐれ雲様
あなた様が「はぐれ雲を卒業しようと思います」、と書かれてるのを読み、言い知れぬ寂しさに襲われました。あなた様の言葉はいつも、私たちの心の奥底まで届き、この方はなぜこのように深い言葉を紡ぎ出せるのだろう、と感嘆しながら、はぐれ雲様の思いに同感し、又、目を開かせられる多くの言葉もありました。
もう、あなた様の言葉を眼にすることが出来ないのは、寂しい限りです。またいつの日にか、あなた様に会える時を待ち望んでおります。そういう方々が、他にもたくさんおられることでしょう。ありがとうございました。お元気で。あなたは私たちの心の友です。
はぐれ雲様
どんな綺麗な言葉より、純粋に真実に立ち向かう勇者である あなたの
研ぎ澄まされた言葉は、心に響き届きました。
それは、受け売りではなく、虚飾もなく、勇気を持って自分と向き合い、
本当の自分の中から紡ぎだされた 紛れもない 「あなたの言葉」 だからなのですね。
誤魔化さず、風を受けても、嵐にあっても、真っ直ぐに生きることの
美しさを感じさせて下さったはぐれ雲様に感謝いたします。
どうかお幸せになって下さい。
私は教会の長女です。
上級です。
消して贅沢な暮らしもしていません。
あとお供えの図間違っています。
子供でも分かります。
もしそれが本当なら本部以外は餓死してるし、信者さんもついていきません。
あなたがみているものは本の一部の人が悟りをしてしまったのでしかない。
それに本当に本部120億円の収入があっても
維持費、人件費、に相当かかります。
他の宗教にくらべ冠婚葬祭の値段も相場より安いです。
長女様
冠婚葬祭が安い?
結婚の理だて50万円の請求でしたよ。
葬祭はお礼が30万円。足元を見て下さい。。。
>維持費、人件費、に相当かかります。
相当かかるのかを考えてください。
無駄なふしん、無駄な本部員・・・
教会の長女様
ちょっと見当違いです。
人間思案による無駄な建物、おそよ神に仕える人間とは正反対の私利私欲の、ほこりまみれの本部員(全員とは言いませんが)。人件費と言いますがその一部、または多くは将来を保障された天理貴族、彼らへの人件費や社会保障費ですよ。信者や教会は彼らの生活保障のために、あなたのように贅沢をせず、したい事もせず、食べたいものも食べず、行きたいところへも行かず、質素倹約をしながらピラミッドのトップを養っているのではありませんか。無駄な建物群。維持費がかかるのは子供でもわかること。誰がそのような維持費に苦しむようなことをしたのですか。私たち信者や教会は知ったことではありません。この教団、もう先は見えているのです。今後は教団が質素倹約に努め、無駄な人員は整理縮小し、身から出たさびとして、中山家が責任を取ればよいのです。信者につけを回すのは神の怒りに触れることです。神の意思に反します。
自分の恥をさらします
若い頃
教養掛かりの会長に
されました
初めていいますが 本当です
偉そうに教理を語る人間が
やることはゲスの極みです
3月11日 3:33 PM の 匿名様
あなたの恥ではありません。その教養係の先生の恥です。神様が見ておいでです。そのゲスの会長は自分のやったことのツケを何らかの形で取らされるでしょう。
私の友人は、教養係の会長に、部屋で裸にされて触られたそうです。その子は引きこもり状態の子で、修養科が辛かったのでしょう。皆と団体行動が出来ず、部屋に一人でいた時に教養係の先生が入って来て嫌らしいことをされたそうです。人間では無いですね。ゲスの極みです。
私の周りには、そんな「ゲスの極み教会長」はいませんが、私が知らないだけでしょうか?
私の周りは会長と信者で出来てる人
会長同士で不倫してる人
呆れるほど 大勢いますよ
なまえは隠しておきますが。
私にはどうでもいい事なので。
普通の感覚ではないのでしょう
匿名様。
驚きです。
「ゲスの極み教会長」達は、二代真柱の「ひながた」を辿っているつもりなのでしょうか。
大教会で女子青年してる頃は大教会長さんのマッサージ
してました
リビングで、家族の皆さんもその場に居てました
格別嫌ではなかったけど、あまり効果は無かったと思います。
やはり詰所ではハメをはずす方が多いように思います
友人の大教会の話ですが
女子青年が居ないそうなんです
なぜなら 昔(どれぐらいかは聞いてませんが)
青年さんが暴行して任◯させてしまったから、と聞きました。
大教会も詰所も怖いところです
若い女の子を、修養科や大教会等の住み込みなどにやるべきではありません。羊を狼の群れの中に放り込むようなものです。天理教だからと安心して、親は行かせますが、これ程危ないところはありません。そこには、常識の無い人間が待ち構えているのです。
任ではなく妊でした スミマセン
自分の恥をさらしたので
教内の本質もさらしました
一部の人間とはいえ、隠しては通れないことを知っていただきたいと思います
真面目に通っておられる会長様たちには、不愉快な思いをさせて
申し訳ないと思っています
思いもよらなかった事と驚愕されてる方もいるでしょうけれど、事実は事実ですから。
どこにでも闇の部分はあるでしょうが、天理教組織も例外では無かったという事です。
クズの教会長は神様の罰を受け、まともな教会長さんだけが、天理教組織で活動されるように、願います。
多分、事実だと思います。
本部の先生でもあるようですから。
どこからか聞こえて来るのですよね。
隠しようがありません。
本部関係で責任のある方が、もしこのコメントを見ておられたら何か対策が必要だと感じられるでしょう。何も感じない位麻痺しているとしたら大問題です。
もし、嘘だと云われるなら反論するなりして下さい。
結局は責任者と呼ばれる人が不在の組織なんでしょうか?
指導者がノーテンキすぎます。
悲しい話。でもむかしから、週刊誌で繰り返し取り上げられていたような話。最近、そんなことをみなくなったのは、天理教を書いても売れないからじゃないですか。『文春』は来ないっすよね。本部の人にも、昔、学生にいいよって、ポジションを失った人もいるらしい。ところが、みんながわすれていることをいいことに、学校に来るようになって、いつの間にか天理教の授業を持つようになった。狭い世界で、昔はなしを知っている親もいるのに。学生が後ろ指指しているのじゃないか。普通の学校ならそんな不名誉を許さないんじゃないかと思うのだが、これじゃ誰も文句をいわないか。
真柱だってわかってるんだろう。使用者責任?総理大臣なら任命責任?
人材不足っていうことか。
この人たちの「対策」って、きっとブログをやめさせることに違いない。。。。
2016年3月11日 3:33 PMの匿名 さん。
>自分の恥をさらします
若い頃
教養掛かりの会長に
されました
かなりショックを受けています。
その教養掛だけの問題でしょうか。
あり得ない恥ずかしいことです。
私が知らなくて、よくある話なのですかね。
これで、いいのですかね?
女性側からすれば、親にも誰にも言えず、沈黙と忍耐だけです。
仲のよい友人にさえ、言えませんでした。
そんな時代でもありました。
大教会や詰所に行くのが嫌でした。
相手が妻子持ちだったから噂にはならずに済みました
これで終わります
自分から発したもののやはり
忘れた方が幸せです
こんばんは。
一応、末端も末端の教会関係者です。
末端教会の生活困窮について、べつに、いまにはじまったことではありませんが、そりゃ大変です。
とにかく上級や大教会にお供えを持参しなきゃいけない。
最低限のノルマはやはりあるようで、お供えできなくても具体的なペナルティはないらしいですが、教会役員の並ぶ前で、この教会はいくら、この教会はいくらと、金額の発表会があるそうです。
教会も末端にもなると信者はほとんど身内という教会も少なくなく、宗教行事が多すぎて、普段は正社員じゃ勤務できませんから、休みの取りやすいアルバイトや日雇いの仕事して、なんとか生活を維持されている教会長さんもいらっしゃいます。
私が疑問に思うのは、分教会や布教所が無駄に多すぎること。
それぞれに会長や所長と呼ばれる責任者が駐在しとりますが、こんなに末端の教会が必要なんでしょうか。
それも本部に金額を集めるためといえ、採算の合わない店舗をだらだら営業させても仕方ないと思います。
会長職にしがみつきたい人もあるんでしょうけども、ここは仕切り直しで、大幅な教会整理が必要と感じています。
あとは時代錯誤の世襲制度。
生まれた家で、その人の立ち位置が約束される。
本部員の子は本部員。大教会長の子が大教会長。
これじゃどんなボンクラでも、一定の年齢や教理の修めかたをすれば、その道が約束されている。
ボンクラが理の親ですからね。そりゃやる気ある人のモチベーション消えますよ。
末端が本部を支えるのでなく、本部が末端の世話をしてやんなきゃ。搾取だけは本当にうまいよね。
信者さんから頂く真実の千円は、本部員の無能連中が陽気暮らしで使うためにあるんじゃないよ。
周知のように本部直轄の分教会長、大教会長には本部より月50万のお与えがありますよね
本部員も勿論それ以上お与えがありますね
世間働きで50万というとかなり優秀な、かつ働き詰めでないと貰えない金額です
それこそ
毎日 かぐらづとめをするなり、12下りのおつとめをされるべきだと思います
本部で毎日月次祭のようなおつとめをして下さると
26日の渋滞も緩和され畳にも座れて信者さんも喜ばれるでしょう
古い会長さんがおっしゃってたように・・・
全国の会長さん、奥さん、後継者さん達が、年に一度の本部のおつとめ以外は
正社員として仕事すれば、本部も安泰ですし・・・
おやさま御在世の時と違い、国内なら日帰りで行ける時代です
本部員巡教も止めて下さい
大教会から部内教会の巡教も
特に真柱様の教会巡教はなくした方が皆さん喜ばれます
↑
真柱様は巡教ではなく
お入り込み というんでしたっけ
むかーし 前真柱様
お入り込み 有難うございました
何にも覚えていませんが
なんか凄い出費だった事は覚えております
2016年3月15日 7:49 AMの匿名 様。
>周知のように本部直轄の分教会長、大教会長には本部より月50万のお与えがありますよね
本部員も勿論それ以上お与えがありますね
これは本当の話ですか?初めて聞きました。
本部の役職のある人は、お与えがあるでしょうが、全直属教会長にお与えがあるとは考えにくいですね。
そんなに羽振りの良さそうな会長は最近見ていません。
本部直属の分教会 大教会長さまたちは本部から
頂いております
この場を借りてお詫び申し上げます
100年以上前に母方の先祖が教会になりました
それ故に
部内教会が7.8箇所有り
そこに繋がる信者様も何十、何百人となっているやもしれません
かなりの方にお尽くし、お供えを運んで頂いていると思います
皆様 申し訳ございませんでした
祖先にかわりお詫びさせて頂きます
ご巡教、お入り込みがあると、下部教会はご接待、お礼、お車代と多額の金を出費しなければならない。いい加減に止めて頂きたい。来るなら、手土産に心づくしの補助金をお願いしたい。それこそが、上の思いやり、心遣いというものである。何しに来るのか?美味いものを食べたいから来るのか?
直属が月に50万も貰っている、その出処は当然お供えの筈だが、末端は全くの無給で、かつ奉仕する一方だが、阿保らしい限りだ。考えると腹が立つので考えないように、思考停止させるしかない。
本部や直轄などに、高級をだすのなら、全国の末端にも月10万でも5万でも、お与えを頂きたい。 末端から本部へ会費等払う一方なのは全く不条理である。本部からこそ末端に教会維持費を払って頂きたい。そうすれば、末端に金をやるのが惜しくなって、廃業したい末端にはすぐに廃業許可をくれることだろう。
本部から全教会に全ページカラー写真入りのダイアリーというものが配られているというのは本当なんでしょうか?
直属や、大教会が月50万もの給料を貰っており、本部の人間はそれ以上、というのが、本当の事なら、深い憤りを感じる。大教会や、本部にお供えを上げているのは、末端では無いのか?その末端に何のお与えも無いというのは、可笑しなことではないだろうか?会社では、平社員でも一定の給料は貰えるが、本部や大教会のみに、高給が支払われているということは、社長や、会長、会社幹部のみが、給料を取り、平社員には、給料無しの只働きをさせているのと変わらない。給料をくれる気が無いのなら、せめて、お供えの厳しい取り立てを止めて貰いたい。我々も食べなければ生きていけないのだ。
もし私が日本語を読めたら、インターネット翻訳機に依存しないでウェブサイトの掲示物を見るとか、あるいは関連書籍を買って読むでしょうに、そうでなくて非常に惜しいです。 インターネット上で天理教に対する世論を見たりしたんですが、現実で大多数の普通の日本人は天理教をどのように思うの? 好意的? 悪意的? あるいは “そんな宗教があることも知らなかった”?
乾邦人様
あなたは、どうしてそんなに、天理教に興味を持つのでしょう。あなたが興味を持つ程の宗教とは思えませんが。研究するなら、文鮮明さんの統一教会の方が、はるかに世界中に信者も多く、芸能人も多数入ってるし、研究しがいもあると思いますが。韓国発祥の統一教会に比べれば、天理教なんて、マイナーな宗教です。
大多数の日本人は、天理教の事はほとんど知らないです。単に数ある宗教の一つです。天理教を知っている人、つまり、過去に多額のお供えを搾取されたり、土地建物等をお供えしてしまったりして、被害を被った人は、恨んでる人が多いでしょう。好意的なのは、信者の中にどれ位いるか知りませんが、天理教の先生方の言う事を信じ切っている、疑う事を知らない、完全に洗脳された信者さんだけは、好意的なのではないでしょうか。
説明ありがとうございました。私特異な場合です。私は2005年に日本に行った大本敎人たちに会ったことがあります。数ヶ月前に大本敎に興味が生じ論文を探して読んで、学者らが大本敎と天理教を相互に比較することが多いということが分かりました。 19世紀に年配の女性に神霊が憑依て敎祖になった共通点があるという理由です。だから天理教にも関心が生じたが、韓国に大本敎人はいなくても天理敎人はいるので、比較的データを集めるやすかった。ところが、知れば知るほど、材料を集める集めるほど不思議に感じたのです。
度を超すように「中山家」中心的な姿がまさにそうです。真柱を中山家の男が世襲することを除いても「じば」を世界の中心としながら、現実に世界観を上書きしまうのも目立ちます。もちろん、宗教界で象徴的な世界の中心を設定する場合は、かなり多いです。しかし、天理敎のように、現実のある特定のポイントが(象徴的な中心ではなく)実際に中心とする場合は、珍しく、その中心が敎祖が居住し、その家の人が代々居住する家の敷地である場合は、はもっとないです。
非効率的で閉鎖的な宗教組織はい。月次祭の日付が上級教会と下級教会が異なること、そして上級教会の日ほど本部に近いことも天理敎組織の非効率性と上下関係の厳しさを礼儀レベルにまで適用した結果でしょう。カトリックの場合、全世界で重要な宗教祝日の日付がほぼ同じです。
だから知れば知るほど否定的な意味でおかしいと思うようになりますね。
乾邦人様
大本教は今は、かつてのような大教団は無くなり、信者数も少数になっております。つまり、出口ナオ、出口王仁三郎が亡くなると共に、大教団としては幕を下ろしたのですが、天理教は、中山みき様が亡くなっても、未だに大教団として、活動しています。「おぢば」つまり「人類を宿しこんだところ」という虎の子を持っていたからでしょうか。この「おじば」を真柱、又、天理教教団が手中にしている限り、天理教は宗教教団として生き残れるでしょう。只、信者や下の教会からお供えを取りすぎるせいか、教団も昔に比べれば、信者が激減しています。
乾邦人様
大本教と天理教と比較した場合、天理教の方が、宗教教団としての戦略に優れていたと言えます。天理教は教祖が亡くなった後も、「教祖存命の理」、そして「真柱制度」という、教祖の教えには無かった制度を導入し、真柱を生き神様同様の地位に祭り上げ、未来永劫、信者の崇拝を受ける教団を作り上げたのです。
今はかつての面影も無い大本教ですが、王仁三郎氏は晩年、「神殿は人の心の中に建てるものだ」、と仰られていたそうです。王仁三郎氏の言葉こそが、宗教家としての本来あるべき言葉と思います。
ここに詳しく記載が有りますね。
http://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q14156926349
親神は、天理教を立教したかったのでしょうか?
多分、親神が天理教を立教したのではなくて、人間が天理教を作ってしまったのです。
正直いって、神様も呆れています。その証拠に115歳と約束していたのに90歳と予定変更してしまったではありませんか。
それを存命の理という苦しい言い訳を考えだして正当性を作り上げたのです。
おさしずを、後ろ盾にしていますが、かくされた「おさしず」もあるみたいですし、「みかぐらうた」の原本も見つからないって可笑しい話です。
130年祭後、真柱の祭典講話の勉強会を直属教会毎に教会長夫婦講習会でしましたが、そこに強調されていることが、教会長夫婦を洗脳する文言です。
その強調されている部分こそが教祖の教えを教団の教えにすり替えた部分で、繰り返し、繰り返し、すり込まれて行くように仕組まれているのです。
今更、どうでもよいような話を聞かされながら知らぬ間に洗脳されるのです。
真柱のお言葉と称して、誰かが意図をもって作った文章です。
ここに寄せてあるコメントは一部の人だけの意見でしょうか?
確かに天理教の教会で素晴らしい活動をしている教会もあります。成る程と社会にも認められている教会も一杯あります。
そんな教会は、さて何か所くらいでしょうか。100くらい?1000くらい?多く見積もって2000の教会が素晴らしい教会だったとしても、それ以外の15000の教会が大変な、それぞれの色んな事情を抱えているのです。
言う場所もなく、聞いてくれる人もなく、「不足は切る理」と言われるので、自分のいんねんと悟るしかなく、黙って愛想笑いでごまかしながら生きていくしかないのです。
その人達の代表として、ここに集う人達が意見を申し上げているのだと思っています。
決して一部の人の意見ではないのです。
本部員・世話人・修理人といわれる本部の権威のある先生方にお尋ねします。
お供え、お尽くしの素晴らしさ、天理教を通ることの素晴らしさ、理の親を立て切ることの素晴らしさを誰にでも分かる言葉で、ここで説明して下さいませんか?
教会の上段から一方的に、誰も異論を唱えられない場所ではなく、ネットのコメントという誰もが見れて、誰もが意見を言える、この場所で、その素晴らしさを誰もが納得出来る言葉で話をして頂きたいのです。
そして、あなたの信仰と信念を聞かせて頂きたいのです。
本部は大教会長等の直属教会長の洗脳に力を入れているように思います。
(例えば、真柱の理、真柱の接待の仕方や、お言葉の重要性、おぢばの理、存命の理、理の親・・等)
本部ではバリ天じゃなくて、バリ本(バリバリ本部信仰)を作っているのです。
修理人で来られる本部の先生は決してお供えの話はしません。優しい言葉で労りの言葉でねぎらって下さいます。
お供えの話は大教会から聞くようになっているのです。
真面目な大教会長ほど厳しい取り立てになるのです。
ちょっと洗脳が解け始めている会長は悩んでウツ病になります。
洗脳が解けている会長は本音と建て前を使い分けて、Wスタンダードじゃなければ生きていけないのです。
それでも、なかには信仰的に生きている人もあると思いますが。
本当に罪な本部です。でも、本部って一体誰でしょうか?
多分、天理教の中で一番、幅を利かせている一族だと思います。
昔の天理教では考えられないくらい疲弊しているのは事実でしょう。今の本部員は充分気を遣い、それように対応しているとのことです。でも、給料50万は大嘘です。生活保護の支給より少ないのが現実でしょう。あとは雑収入としての講演料等です。時々確定申告のお手伝いしてましたから・・・・
古い教会長さん、教祖ならばって考えたことありますか・・・?その教祖が現天理教をご覧になられるとしたらお供え?大教会?本部員?その組織トップの真柱 なんて構図は教理のどこの一節にも出て来はしません。むしろ、おふでさきの最後に「さとさと たおとたおと びよさまびよさま」とあり、続いて「このはなしあいずたてあいでたならば なにについてもみなこのどうり」 更に、「いちれつ心しあんたのむで」と、むしろ先行きを案じて道の先達の責任の重いことをあらかじめ予言なさっています。
たとえ中山であろうが、前川であろうが、松村であろうが、誰であろうが特別扱いには一切しないと宣言なさっていると考えます。ところが、形骸化した本部あたりの偽信仰者の現状維持作戦は、大阪の商人よろしく、あちらの機嫌を伺い、こちらの顔色を眺めて、我が尻に火のついていないことを確認しつつ、生きていこうと画策しているのが現状でしょう。
教祖おひとりから始まったこの道、全くゼロからの道です。そこに無謀に建ったクソ名誉と金と力です。そんなものが万人うけいれられるわけがありません。砂上の楼閣ですね、なにもかもね。
本部が、大教会に気を使うのですか?
お供えの多いところとか?
それじゃあ
立派な大教会長さまたち
集まって談じ合う事できますよね
たそがれもん様
「給料50万は大嘘です。生活保護の支給より少ないのが現実でしょう。あとは雑収入としての講演料等です。」
末端教会長は、全くの無給です。講演料などの雑収入なども一切ありません。
本部員の方は、天理市内にお住まいと思います。末端教会長達のように、、おぢばに参拝するために、旅費を工面する必要もありません。
興味深い文章をみつけました。「わが中山みき」福島ひとみ(天理教霧路布教所)。1998年で古いのですが胸を打ちました。ご興味ある方は「天理教とフェミニズム」で検索して「no26 september1998」を選択してください。
2016年3月25日 6:24 PMの匿名 さん。
>本部が、大教会に気を使うのですか?
お供えの多いところとか?
それは、違うのです。
本部からの修理人は、部内(末端)教会へ来られるのです。「修理人で来られる本部の先生は決してお供えの話はしません。優しい言葉で労りの言葉でねぎらって下さいます。」もちろんお礼は支部から決められています。
大教会へ来られるのは世話人と呼ばれる人です。考えられない程のお礼を貰って帰られます。
本部は大教会長等の直属教会長の洗脳に力を入れているのです。(例えば、真柱の理、真柱の接待の仕方や、お言葉の重要性、おぢばの理、存命の理、理の親・・等)で本部の正当性をアピールして上納金の心定めをさせるのです。
古い教会長さまへ
わかりました。
有難うございました
修理人と世話人 よく聞く言葉ですが
違いがわかりました
しかしよく考えたものですね
信者は他人様からお礼を頂く事などよっぽど
喜んで頂ける事がなければありません
出してばかりです
たそがれもんさまへ
本部員のおあたえが少ないそうですが
子供さんたちは県外の私学に行かせるぐらいは
容易い事でしょう
中学 、高校でも部活などしていたら
かなり出費があると思うのですが
それとも
いちれつ会からかりているのでしょうか
本部員の中でも格差があるのでしょうか
天理教教祖逸話篇
おやさまを慕う気持ちが篤くなる素晴しい本だと思っていたのですが
ミカタを変えれば
本部の重鎮のご先祖様
おやさまのおそばでがんばったぞっていわれているのかなとも
思いました
両匿名さま。
>たそがれもんさまへ
本部員のおあたえが少ないそうですが
子供さんたちは県外の私学に行かせるぐらいは
容易い事でしょう
多分、そうだと思います。お与えが、たとえ少なくても生活にかかる費用(衣食住)が殆んどかかりません。お産の費用も出ます。厚生年金も入ります。嫁入りには白扇だけ用意すればいいのです。修理人・世話人としての巡教のお礼がかなり入ります。5季のお礼といって、春季大祭・誕生祭・中元・秋季大祭・歳暮と年に5回、世話人をしている大教会からお礼が入ります。そのお金は、大教会で全部内教会からお供えとは別に集金したものです。本部の人の人間性が変わってもおかしくないシステムです。
>天理教教祖逸話篇
もっと教祖の逸話はたくさんありますが、今の天理教の本部に近い人の先祖が主に取り上げられています。脚色されたものも多くあるようです。
もちろんあります。逸話編は稿本天理教教祖傳を編纂された時、あまり確実性のないものは逸話編に、中山家に都合の悪い話は闇に葬り去られている事じゃないでしょうか。信仰の切れている人の話はあまり聞きませんもんね。
> 私達は、上の理不尽を、こうして掲示板に投稿したり、いろんな他の情報も目に出来ますが、全国の末端教会で、年配の会長さんなど、インターネットを使ってないところも多く、このように、天理教や、本部、大教会等、上の理不尽についての投稿がされていることも全く知らず、苦しみも不満も、胸の内に溜めて、成す術も持たない会長さん方も多くおられると思いますが、お気の毒です。 それらの会長さん達に、このような天理教の現状、組織の支配から抜け出す事、組織の洗脳を解く事などを、何とか知らせて上げる方法は無いものでしょうか。全国の末端教会が、お供えを止める事、あるいは最小限に抑える事、又、それを上に物申せるようになる為に。
お供えのさっちんさん
無断引用ごめんなさい
激しく同意いたしております
10年または20年後は明らかに衰退しているでしょうが
今はまだ高齢者様が年金をお供えされておられましょうから
楽な教会はのんきに暮らしているでしょう
私の親もなかなかお供えを止めようとしません
働き詰めで歳おいて体もボロボロなのに・・・
教会の人間は何もしてくれないのに・・・
教会、つまり神様にお供えする事で、大難小難と、皆が無事に健康に連れて通って頂ける、家族が幸せに生きていけるとそう信じておられるのでしょうね。若い時などに一度刷り込まれたものから、抜け出すことはなかなか難しいことでしょう。熱心な信者ならよけいに、年老いて身体がボロボロになっても、お供えをしていなければ、不安になるというところまで、なってしまってるのでしょう。
宗教は、信じることが前提ですから、たやすく人を洗脳できます。その洗脳からの脱会は、至難でしょうね。
天理教上層部は、本当に罪深い事をしています。神様の前で、申し開きができるのでしょうか。
>教会、つまり神様にお供えする事で、大難小難と、皆が無事に健康に連れて通って頂ける、家族が幸せに生きていけるとそう信じておられるのでしょうね。(略)熱心な信者ならよけいに、年老いて身体がボロボロになっても、お供えをしていなければ、不安になるというところまで、なってしまってるのでしょう。
匿名様、これでは、「信仰」ではなくて、「依存」ですよね。
共依存的な関係は、お互いを高めあえる健全な関係性とは非なるものです。
参考
宗教依存症
https://ja.wikipedia.org/wiki/宗教依存
http://karadanote.jp/12674
私はお金がないから出せと言われても無理。因縁はお金を出したからって切ってもらえるものじゃないでしょう。因縁も人生の宝物です。そんなに嫌わなくていいのじゃないですか^_^ガンと一緒です。仲良く出来たら因縁も長く付き合ってくれますよ。
教祖は陽気ぐらしの生き方を自らの生き様で示し、教理で教えられましたが、お金持ってこいとは仰られて居ませんね。ひながたの通りです。苦しいんでしょうね。本部様は。なりふり構ってなあい@
それでも12母屋を新築しようとしている。又お金が入りますよ。自分で払え、ゼンスケナカタ。せんきょうのお供えでしたっけ。これは失礼しました。
せんきょうって金持ち教会なんですね。事情教会に10万円づつお返ししたら?
たそがれもん さん。
12母屋は「せんきょう」の母屋になるのですか?
もちろん本部の母屋です。よくお金あるなぁ、よく決断したなぁと思っただけです。
黒い法被と扇子を持たされて、13曲もの歌詞や踊りを覚えさせられ踊らされる。
さらに数種類の楽器まで覚えさせられる。今時、若者どころか高齢者もしないよこんなの。
天理教の垂れ幕 「ようこそ おかえり」 ただそれだけ。
天理教をまったく知らない人には何のことかよくわからない。
なぜ「人類の故郷に ようこそ おかえり」などのように書かないのだろうか。
もしかして違うから?
「 ようこそ おかえり お供えしてね」 と書いた方がいいですね。
たそがれもんさんの「12母屋(もや)、せんきょう(宣教)」のコメントがよくわからなかったので検索しているうちに興味あるブログ「うきしま」の「天の定規」 番外編;「 お金について」諸井慶徳著作集より抜粋。お供え(お金)や教会システムについての皆様の様々の意見、感想、経験を読ませていただき、また自分の経験も含めて、よく思っていたのは教会システムと教理の乖離です。このことをシステムの上部の大教会長であって天理教学者だった故・諸井氏はどう考えていたのだろうかと言うことでした。矛盾に悩まれることはなっかたのか。100年祭頃、系統部下教会分会長の自殺と絡めて。いま一つ、すっきりせずにきました。(氏は1961年に出直され直接には関係はないのですが)ただこの文を読んで少しだけわかりました。美しいのです。理想的です。信仰が深ければ納得するのでしょうか。教会システムについて一切、触れられていません。なるほどと言う次第です!?
mamiさま。「せんきょう」は「ゼンスケナカタ」さんの教会名です「ゼンスケナカタ」さんは「オモテトウリョウ」です。「シンバシラ」のオトウトです。
「うきしま」の「天の定規」 番外編 読みました。
説得力はありますが、本部や上級が神に代わってお供え(お金)を集金しているのが、納得いきません。
http://www3.tokai.or.jp/ukishima/okane.html
古い協会長様
ありがとうございました。教会名だったんですね。
「納得いきません」私も同意です。言葉は真実を表しもしますが真実を隠しもします。
お詫び。協会長^~教会長さんです。ごめんなさい。
ありました。天理教鮮京分教会 中田善亮・会長。
1月26日に教祖130年祭のお供えをしたばかりですが、今度は4月18日の誕生祭のお供えを、部内教会25000円出さなければならないそうです。教祖は、もうプレゼントは結構、と思われてるのではないでしょうか。一体それらのお供えは、どこにいってるのでしょうか。誰が欲しがってるのでしょうか。
>現在でも毎月10億円を集めている天理教本部は、たとえば「◯◯大教会からのお供え金は今月は◯◯万円」という各大教会ごとのお供え金を記録した詳細なデータを持っていることは間違いないであろう。今回は天理教本部だけのデータであるが、全国にある各教会のデータがあり、それらは各教会どこも公表していないことは改めて明示しておく。公表してはいけないルールなんてないはずである
カイン様のブログより
年祭 普請 と称していくらでも吸い上げるのか
全国 全世界の分教会、信者に公表していただきたい
4月1日 12:07 PM の匿名様
「掲示板お供え」の方に、あなた様のコメントを引用させて頂きました。無断ですがお許し下さい。
天の定規読みました。美しいし理想です。
じゃ、お供えは千円でいいじゃ無いですか。 50年前の文章です。
2016年の現在において、将来今の年金受給者の様に皆が年金を受給出来るのか?
答えはNoです。年金制度は制度としてはとっくに破綻してます。今の日本は借金の上に成り立っている国です。
教団は教債でも発行するつもりでしょうか?
金は持ってる。でしょうが、破綻は早いです。教会は整理して教会家族全員で詰所に引っ越し、整理する必要が有ります。
こんなムチャクチャ教団に引っかかり、若い人は人生をムダにしないで下さい。
>あの時代に神殿や詰所を大きく拡張せずとも、欲を出さずあるが範囲内で納め、沢山の種類の多くの桜の木を沢山植え、手を掛けて世話をしていたら、平成の今の時代には春には見事に桜が咲き誇り、いつ行ってもあそこは桜が咲いているとサクラの里として有名な名所になっていたかもしれない。
どんなに大きな神殿を建設しても歴史の前には勝てない事を良く勉強しました。
サクラの里になるにももう遅いでしょうね。
↑
引用お許し下さい
桜を見てこの方の投稿を思い出しました
建物の寿命は何年位あるのでしょうか。いくら寿命がもったとしても50年位がせいぜいでしょう。天理には、ばかでかい建物がたくさんありますが、傷めば修繕費、修繕で間に合わなくなったら、又、新しく建てる、信者は永遠に、お供えを払い続けさせられます。きりなし普請は、きりなしお供え。
かしこい方は、もうとっくに、天理教から離れてるでしょう。
さっちん様へ
オススメの本
Amazonで購入しました
笑いと怒り 感動のツボが同じ者です
天理時報の発行部数について。 100年祭には30万部。130年祭の今は12万部だそうです。今日の例会で世話人が発表していました。無料で配布されている全国の教会17000か所、そして布教所もこの数字の中に含まれますから、純粋に一般信者の購読者は10万人を切っているのではないでしょうか。
教団が把握している信者数には寝たきり高齢者、認知症高齢者も生存している限りにおいては数字に含まれますから、実働している実際の信者数は10万人の購読者とその家族を入れて20万人を下回るのでは?と想像したりします。
今後はあの巨大な建物の修繕の、「きりなしお供え」が出来るのも、ついてくる人間がいてこそのこと。もうこの教団からは人が逃げ出しつつあるからどうなることやら。がらんどうの建築群の中で、中山家がしてきたことの長きにわたる過去を悔い、蒔いたる種はみな生えるのだから、一家で責任とって刈り取り、一家で修繕するなり壊して更地にするなりすればよい。
自分の頭で考える賢い二世、三世は今の天理教がやっていることには疑問を呈しており、寄りつく気配はありません。
匿名様、ありがとうございます。自分でも変わり者だと自覚してますが、ひんしゅくを買う事も、時に書いたりしてると思いますが、匿名様のように言って頂けると大変嬉しいです。落ち込まず、前向きに書き続けられます。ありがとうございます。
『シャーマニズムの心理学』[アズ]1994年 32号 新人物往来社 小田晋(筑波大教授)
p135 Ⅱ.教祖および宗派の構造と社会的背景
、、、、、、。現代の精神病院に入院させられている病的教祖と、幕末期や戦後の新興宗教の開祖たちのあいだの差異は、
ひとつには本人たちの天賦のちがいに規定される面もある。H・オーバンによると、真の神秘家や予言者は、その託宣や作品の中にある輝きが認められるが、偽の病的神秘家は、心的解体のために二次的な創造をなしえず、非実践性と夢想の中に埋没するとされる。しかし、精神的創造としての信仰体験の表現が”輝き”をもつとき、それは病的条件によって支配されつつそれをこえたものによって規定されるわけである。そこには創造的天賦の問題がかかわっていることは否定できない。この場合の創造性は、ひとつには、神からの託宣を詩歌あるいは経典の形で定着させる言語能力に、第二には、宗教的象徴を心像として定着する能力に、第三には、神のことばに従って行動する実践力に支えられているといえる。ここで成功した典型的な女性教祖の一例についてみよう。[奨励2]天理教祖 中山みき(1798~1887)の場合、 、、、、、、、、。
『新宗教と総力戦』2015年名古屋大出版会 永岡崇著
序章六 中山みきとは誰かーほとつの”読み”として p47
たとえば精神医学者の中井久夫は、みきの「忍苦が限界を超えた」ことによる「変貌」を「宗教的「創造の病い」」と位置づけ、「暗鬱な雲が一度に吹き払われて、明るい天地が眼前に開けた印象」を語っている。中井にかぎらず、みきの前半生における苦難の蓄積が、寄加持というきっかけによって神がかりによる人格転換をもたらしたと考える論者は多い。
『岐路に立つ天理教』1974年 エール出版社 神宮寺真著
p236
、、、、、。私は鏡ヶ池へと足を伸ばした。みきが自殺を図った場所である。、、、、、、、、、、、。哀しみに満ちたみきの顔があざやかに浮かんだ。あわれなみき!、、、、、、、、、、、。私はしばらくのあいだ池端に佇んでいた。、、、、、、、、、、
、、。生涯を孤独に過ごしたみき。両親にも、夫にも、下卑にも、そして直弟子たちにも裏切られた哀れなみき。90年の生涯を苦悩と慟哭のなかにあけくれたみき。-そのみきが死後90年を経ようとしている今日すら、200万もの人びとの生きるささえになっている。いまさらながらに私は、みきの偉大さをしったのであった。、、、、、、、。
130年祭は20万でした。興味あるところを抜粋してみました。
誤字訂正:奨励ー症例 ほとつーひとつ 申し訳ありません。
命の泣き声~天理教への信仰でお悩みの方へ~
「命の泣き声」さんのホームページのリンクを張ります。
http://inochinonakigoe.grupo.jp/
古い教会長様
ご案内ありがとうございます。
早速「命の泣き声」さんのホームページのリンクへと行ってまいりました。
紹介されていた本も注文しました。
ありがとうございます。
古い教会長様。命の泣き声さんの壮絶な体験、拡散ありがとうございます。。腹の底から怒りを覚えました。慟哭にも似た叫び、取返しのつかない心の傷、取り戻せない時間、順調だった経済活動の損失等々、天理教はどうやって償うのか?天理教は神を語りながら、一人の人間を、また家族を巻き添えに、半殺しにしたと言って良い。
親神の教えからかけ離れた創作教理や人間思案の上下組織にがんじがらめで本当の信仰を見失っている多くの被害者たちが、声を上げられないで、もやもやしながら教内にいる現実を、もっと拡散して世に知らしめたい。
古い教会長様 拡散ありがとうございます。マインドコントロールされている人に一人でも目を覚ましていただくために、今後も目にかかられた情報を取り上げてください。
また命の泣き声様、よくぞ生きて来られました。今後も人助けと思って発信してください。応援しています。本も2冊注文しました。私もこの教団の「いい加減さ」の確認作業にかかります。
両匿名様、有難うございました。
出来ればコメントの最後にリンクを張って頂ければ嬉しいです。
いつの間にか過去の投稿になってしまいますので、お願い致します。
命の泣き声~天理教への信仰でお悩みの方へ~
「命の泣き声」さんのホームページのリンクを張ります。
http://inochinonakigoe.grupo.jp/
命の泣き声~天理教への信仰でお悩みの方へ~
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おやさまの御誕生祭 婦人会総会を控え 本部も準備に追われる頃ですね
おやさま180歳ですか?
中山みきという一女性の教え?は
あの時代には盲目的に広まったのですね
施して?全財産を失ったけれども
親戚一同は
教団を設立し
よくがんばりました
おやさま どうか 安らかに お休みください
ありがとうございました
年老いた会長さんたちも
我が身を大切に為さってください
訂正します
おやさま 220歳です
お働き過ぎですね。
命の泣き声~天理教への信仰でお悩みの方へ~
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http://inochinonakigoe.grupo.jp/
ご自分の誕生日のお祝いに、多額の上納金が集められることを、教祖なら、お喜びになる筈が無い。誕生祝いなら、違った形でいくらでもできるだろうに。教祖伝に花や菓子、ケーキでもお供えすれば、その方が教祖もお喜びになると思う。金集めに利用されている教祖がお気の毒なことだ。
漢字訂正 教祖伝ではなく教組殿です。
命の泣き声~天理教への信仰でお悩みの方へ~
「命の泣き声」さんのホームページのリンクを張ります。
http://inochinonakigoe.grupo.jp/
おやさま
1798年~1887年
12代将軍 徳川家慶の時代!!!
命の泣き声~天理教への信仰でお悩みの方へ~
「命の泣き声」さんのホームページのリンクを張ります。
http://inochinonakigoe.grupo.jp/
子供時代、ちゃぶ台を囲んで家族で夕食を摂っていたら、突然精神を病んだ父が幻聴や幻覚で「貴様ー!何者だー!」と叫び、いきなりちゃぶ台をひっくり返し包丁を持って暴れる。
これが我が家の家族風景でした。
そして、この父から守ってもらえるものが、教会の神さまであり、絶対的な存在でした。
精神病院に入院している父の病状が安定すると、必ず母は父を家へ連れて帰り、家では決して薬を飲もうとしなかった父を野放しにして、結果的に病状が悪化して家族を苦しめるのですが、その一大事に母は必ず神様のご守護とを結びつけ、神様のお陰だと言うんです。
そして母が生きている間は、この修羅場が延々と続き、揚げ句の果て借金だらけにしてこの世を去りました。
「親に感謝しなさい」と言ってくる人もいましたが、正直感謝より身勝手な人に振り回された感が強いです。
周囲の猛反対の中、教会を売ってお金が入ったら姉達が私を裏切り、また母の弟の凄まじい強迫などで、私も命の泣き声さんと同じ苦しい症状で息をしているのがやっとの時がありました。
その時の心の叫びは、「だれも私を助けてくれない」世の中から見捨てられたような孤独感がありました。
そうなんです。子供時代受けた心の傷が、私を苦しめたのです。
なんか昔を思い出して書きました。
私の家庭も修羅場でした。私は父母が大喧嘩をしている時、只、蒲団を被って泣いてました。あれから何十年経った今でも、私の中に、泣きじゃくってた小さな子供が未だに存在し、時に顔を出すのです。孤独を感じる時、辛い時などにふと、、、。成す術も無く、只、只、蒲団をぐしょぐしょに濡らして、咽喉が痛くなるまで、泣いてた小さな子供の時の私、、。あの時の私を抱きしめてやりたいと思います。
自分で自分の心の傷を修復するのにどれほどの時間を要したのか。長かったです。
憎しみと怒りが渦巻き、自分でも飽きれるほど執念深かったです。
裏切った姉も母の弟も、天理教を信仰しております。
親戚縁者どなたさまも天理教人ですが、私は天理教に染まることはありませんでした。
子供の時から、「どうもこの天理教おかしい?」この疑念に対して揺らぐことのない信念がありました。
そして今いろんな方が、私と同様に形は違ってても天理教による苦しみがあるのを知り、やはり私だけではなかったこと、天理教の罪をしみじみ考えたりします。
命の泣き声~天理教への信仰でお悩みの方へ~
「命の泣き声」さんのホームページのリンクを張ります。
http://inochinonakigoe.grupo.jp/
天理教のおかげで友達はたくさん出来ました
大切な友人たち
ずっと教内に居ると当然ですよね
何人もの友人が声 代弁します
私は辛抱するけれど
子供には絶対継がせない
離婚してでも実家(教会)には帰らない
親がいるうちは辛抱する
主人が上級の言いなりだから話会いにもならない
仕事と教会で大変
教会の息子でも全然優しくない
上級が大嫌い
参拝は行きたいけど教会の人苦手
みんな違う人の声です
本部にはこの声がきこえないのでしょうか
喜んでるのは上級教会の人だけです
少なくとも、この署名入りのお供え金システムを採用している教会には決して近づくべきではない。初めてこの封筒を見せられたとき、私は「天理教は恐ろしい。しんどなるわ」と思った。こういった感覚は天理教人にはないのだろう。改めて宗教は怖いと思う。
この袋がなくても天理教の教えを信仰することはできるはずである。
tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.co.jp
上記
2015年8月 カイン様の記事
よくよく考えたらこのような当たり前の事に誰も気づかなかったのかな
また 気づいても言える雰囲気さえ無かったのだろうか
私は洗脳されていたんだとやっと気づいた
オウム真理教の信者もきっと・・・
でしょうね
感じる
悩む
考える
調べる
教わる
人の話を聞く
大切ですね
病気になったので薬を使用したい。
A薬は、8割の人に効果があり、副作用もほどんどない。
B薬は、6割の人に効果があり、副作用は多少ある。
C薬は、3割の人にしか効果はなく、副作用も強いので注意しなくてはいけない。
A薬もB薬も効果がなかった人が、C薬を試したいが果たしてどれだけの効果があるのか、効果があっても
どんな副作用に悩まされるのだろうかと考える。副作用が心配なら温泉療法や、民間療法もあるので
そっちをしたらいいのではないかと人にすすめられそうする患者さんが増える。
C薬は売れなくなり、自然と製造中止になる。
天理教をこの中であえて例えるとどの薬になるだろうか。よく考えてほしい。
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途切れなく張り付けさせて頂きます!
天理教が、というかその本部が間違っていて、自己的に改善する能力がないのだとすれば、あとは第三者的立場の人々が介入するわけだが、結局、先ずはだれが悪いわけだろう。
いまの表頭領の中田なにがしか? こいつを徹底的に追及すれば良いのだろうか。
その具体的なところから、そろそろ始めませんか。
世界で一番貧しい・・・
元ウルグアイ大統領のムヒカさんのほうが、
よほど天理教の教えを実践している件
私はカトリックを信じている韓国人です。大本敎と天理教について宗教学的に調べてみる一般人です。(私の趣味が儀式、宗教を調査するです。)韓国で天理教信者は20万人余り、全人口の0.5%未満に過ぎません。あまりにも存在感が不足するためにも天理教に反対する人もないでしょう。知りもしない宗教に反対する人がいるでしょう?
だから、このコメントを読んで人に聞きたいと思います。日本に住んでいる皆さんが天理教に反対する最大の理由、天理教に反感を抱くようにされた最大の理由は何なのかコメントに答えていただきたいと思います。 (私は日本語を知らないので、Web翻訳機を使用しています。なるべく簡単平易な文章で答えてください。ように翻訳がよくなります。)
理不尽な天理教のお供え。お供えをしたら理の親である会長が喜び、親神様、教祖も喜ぶとの巡教の話。
これ、世間で通用しますか?
天理教の「御供え」についてをリンクします。
http://6706.teacup.com/5051/bbs
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今、サミット開催で注目されている伊勢神宮のことで、週刊ダイヤモンド誌の興味ある記事がありましたので、貼り付けます。神社界のヒエラルキー、神社本庁と政治家との結びつきなどがわかります。ブログ貼り付けておきます。
「伊勢神宮が550億円の遷宮費用を賄った集金力の“内訳”」
http://diamond.jp/articles/-/89351
記事から
「この神社本庁の“政治部隊”を務めるのが、神道政治連盟と呼ばれる政治団体。その活動を支持する「神道政治連盟国会議員懇談会」には、与党自民党議員を中心に、304人もの議員が参加しています。安倍晋三首相をはじめ菅義偉官房長官など、現閣僚20人うち8割がこの懇談会メンバーです。」
創価学会は勿論公明党、神社本庁も安倍信三氏始め、大勢の政治家と結びついてるようですから、宗教法人法の改正など、夢の又夢ではないでしょうか。
乾邦人さま
私も問題はお供えだと思います。ただの不完全な人間でも、上級という立場にあるだけで、親であり神への入り口であるとして、彼らを喜ばせる。それがあなたの幸せや因縁切りや徳積みになるという教団が考えたご都合教理。
私達は元の神、実の神から命を頂いているお互い一列人間です。不完全な身であるにもかかわらず、親とあがめられることを当然の立場と思い、無理難題、理不尽を押し付け、それを仕込みと勘違いしている上級教会の人間たち。神の目から見たら、おかしくも、哀れな信仰ごっこ。いい加減にせよ、と見えてることでしょう。
今のおじばに神は居ないと思います。神が働かないから、どんなに信者獲得を願っても、世間の誰もついて来ない。おさずけも当然効かない。
教団組織に所属せず、一人でしずかに神を想い、真理を求めるほうがはるかに精神が癒されます。
これだけ、天理教組織の問題点、教理体系のの問題点を指摘するコメントがあるのに、本部の責任ある立場の方の説得力ある反論が出て来ません。
多分、書かれている事は、全て反論のしようのない事実だという事ではないでしょうか。
本部の責任ある立場の方といわれる人事態が不在の組織かもしれません。
昔からの〇〇家、〇〇家、〇〇家といわれている家系の皆さん、天理教を、これからどうしょうとしているのですか?聞きたいものです。
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高市早苗総務大臣の電波を止めるかもっていう発言と、天理教の中田善亮の思考停止を導く影響力はよく似ています。あの人は大◎分教会のようぼくですから、よく似てしまうんでしょうね。
奴の高校時代はボンタン穿いて、ペッちゃんこのカバンを抱え、真柱邸の表玄関である会計門から肩で風切って歩いているバカボンボンでした。そういうバンカラなら、加えてシンバシラの子供なら、友人関係は奴に共鳴する奴は少なからずいるはずなのに、コ偉そうなだけ。周りは人間性を見切ってましたねぇ。私もへって思ってました。そんな奴が天理教をコントロールしてる現実に未来はないし、ここの場所は中山・中田政権をけん制するマスメディアたるべきだと思ってます。
決して電波は止められないようにしないとね。
会社や商店などでも、経営者が世襲制だと、3代目で潰れるとよく言いますが、天理教株式会社もそろそろ、危ないでしょうね。
いや、天理教の中山家につながる幹部に至っては、あちこちに運営資金を分散して、あちこちに隠し金を管理していると推察される。だから、ここ数年の本部員になった人たちの傾向を見ると、中山家につながる一蓮托生・裏切れない人が圧倒している。知力、能力、世間知らず、すべて合わせてもその評価では、もどこの会社でも雇ってはもらえない人的能力の人ばかりでしょうね。
教祖当時の元始まりの魂の因縁という考え方が、本部員諸家を温存する要因になっているのです。
本部こそが救済の本拠地でありながら、本部員こそが人類のひながたでなければならない。という自覚無しに、どんな活動をしても、空しさが漂うんですね。
本部員に人類のひながたとは、無謀な要求ごとだと思います。信仰の上から言えば、教祖の50年のひながたこそ将来ともに究極の道であると思います。しかしながら、我々が知っている教祖のひながたは、二代真柱によって、既存の中山、中田をはじめとする歴代本部員の利益を第一義に決定されたものがほとんどであると私は思ってます。
本来だめの教えが、そんな閉塞感を誰もが感じる教えであるわけがないでしょう。
教祖のひながたは、信者に要求するのではなく、本部員自らが通らねばなりません。ひながたは、本部が自らの利益を第一義に捏造したのであったにせよ、じゃ、自分らがまず通って見せてくれ、ってことですね。
カイン様へ
いつもながらすばらしい記事を挙げて下さり有難うございます
私が本部要職なら資料修正部主任に推薦させていただきます(w)
本部は何にも反論もしないし だんまりを貫くお考えですね
あのだだっ広い西礼拝場で私はたった一人で参拝する時間があったことを思い出しました
なんと誰もいない~
昨年秋、平日の午後のことです
寂しいやら有り難いやら。。。
現実見ろよ ですね
具体的にここはどう言う機関ですか?
天理教の現況について、社会的にも一般人にも解り易く解説をしたサイトです。
宗教の世界は一般でも常識でも語れ無い天地天命の宇宙の神の世界だと言われれば確かにそうでしょう。
だってやってる事世間に語れませんから。
善亮氏の弟さんはどんな方ですか?
>善亮氏の弟さんはどんな方ですか?
久保善平さんと言います。本部直属の教会長で本部員です。とても人のよい方と思いますが、組織の上に立って指導するようなタイプではないようです。
中山家に生まれなければ、今の立場はないでしょうね。
ブログ<原典からの出発>植田義弘先生のブログです。
http://tenkoku0805.blog9.fc2.com/
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こちらで相談できると知らず、最新記事で相談事を書かせてもらいました。
ちっぽけな悩みかもですが、よかったら相談にのってください。
だそうです。
>しかし、信仰心の篤い、一般信者さんのお母様のような方々は、そんなにも、教会に、天理教に尽くし切る、信仰というものを通り越して、まさしく洗脳状態としか思えません。そしてそこまでさせる天理教の教会は、
《異常》です。信者を洗脳状態にさせる宗教は【カルト】、『多額な金』を信者に出させる宗教はカルト、とこれまでも投稿者の方が言われてましたが、その通りと、何べんも言いたいです。
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皆でワガママ言いましょう。
植田義弘氏(ブログ<原典からの出発>)が新たなブログを発信されておられるようです。
* 教外向けブログ「未来をひらく生命の哲学」
* ツイィター「万年青年」
ごめんなさい。「万年青年」でなく 「万年哲学」です。
だいぶ前の話であるが、何かの用事で教会に足を運んだ際、ちょうど、おなじ系統であるべつの若い教会長さんが、何かの用事で訪れていた。その時の話。
その若い教会長さんはまだ教会を継いで日が浅く、それまでは民間の会社で普通に仕事をしていた。
自分の親が教会長をつとめていたが、老齢となり、御用するにも身体的負担がこたえるようになっていた。
自分が後を継げば、親の負担も減り、またそれ以上に喜んでくれることを知っていた。
しかし、今の仕事を辞めることは、すなわち生活がたちいかなることであり、おいそれと決断するわけにはいかない。教会に納めるお供え金も、信者がいるといっても金額的には微々たるものであり、その人の収入が大半なのである。それに、その人は結婚もし、子供もいた。
決断の日が来た。
大教会長からの言葉であった。
後を継ぎなさいと。
継いじゃったよーん。あホーン。
無職になり、収入ゼロ。奥さんがパートしてるけど、生活はキュウキュウ。両親も年金はあるが、まともに払ってないから貰える金額も低い。
子供たちは天理高校へ。
困窮する生活も、教祖の想いを感じながらと、健気に生きてらっしゃる。偉いんだか、なんだかなー。
大教会長様は理の親だから、そのお言葉に従いました。
それが後を継ぐ背中を押された大きな理由だった。
話を聞いていた当方の会長さん。
エライねー。だって。
私は遠目に二人を見比べて、アホだねー。
大教会長様、今日も貧に落ち切れの話をしながら、刺身食って、ビール飲んでまーす。
こんな天理教、ほろんじゃえー。
かわいそうに・・。又、天理教の犠牲者が一人。
会社に勤めていたのなら、教会長みたいな、収入も安定しない仕事など、継がない方が良かったのにね。
大教会長は、無責任極まりない。教会を継がせば、後はどうなろうと、お供えさえ払ってくれれば、どうでもかまわないのだ。
教祖、本席御在世当時なら、無責任大教会長でも、たんのうできたが、今では不満の矛先を教祖にさえ向けてしまいそうで、、、
したがって、在家のまま付かず離れず、不足せずの不良信者でございます。 ハイ
もうひとつ疑問が。
天理教組織は、一般人には腰が低いけど、教会を訪れてくれるようになると、だんだんエラソーになるのは気のせいか。
俺は理の親だぞ! 親の声は神の声だ!
なんてね。
かみはかみでも鼻紙だろが。ハナクソ会長。目くそ大教会長。耳くそ本部員。
目くそハナクソを笑う。
世間から笑われてるのも知らず。
各地方教会は、本部直属大教会を無視して、包括法人天理教から一度離脱すればどうだろう。上層部が浄化されれば再度復帰すればいいことだろうし。何でしがみつくのか理解不能だわ。
>天理教組織は、一般人には腰が低いけど、教会を訪れてくれるようになると、だんだんエラソーになるのは気のせいか。 >俺は理の親だぞ! 親の声は神の声だ!なんてね。世間から笑われてるのも知らず。
気のせいではないでしょう。一般人には、できれば信仰に入れたい、においがけの意識もあるから、反感を買わないように、腰低くする。
しかしいったん、引っ張ってくれば、しめたもの、後は、自分の権力を誇示し、理の親だ、神の声だ、と信者をコントロール、強迫。つまり、自分達は徳のある、神に近い人間だ、お前達とは違うんだ、と勘違いしてるんでしょう。かわいそうに。勘違いの人間達が、集まってる天理教組織。なぜ衰退するかもわかってないのかもしれませんね。気の毒に。
本部は「裸の王様」をどれだけ育成するつもりなのか。
オカシい、変だなと思いつつ「徳がある」「偉い」と思わされ、訳の分からない話を無理に有り難いと思いながら聞く。だから自分は大した王様だと勘違いして振る舞いをする。
これは誰に責任があるのか?これは本部員、大教会長に責任があると言うより、本部の「裸の王様育成システム」に問題があるようです。
本部は裸の王様を育成しているつもりではないのでしょうが、実際に「裸の王様」がアチコチに存在しているのです。
この問題を本部が根本的に解決しようとすれば、本部中枢にもメスを入れなければならないので永遠に解決することはない。
この問題を本当に解決するとしたら、神様のクーデターしかないのかも知れない。
ブログ<原典からの出発>植田義弘先生のブログです。
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(天理教の「お供え」についての掲示板に「匿名の教会長」さんが、投稿されていました。
一方的に巡教に来る先生に、一方的にお礼を決められる。
道と世間は裏腹といいますが、世間では決して通用する話ではありません。皆さんはどう思われますか?)
匿名の教会長 投稿日:2016年 5月24日(火)22時45分4秒 返信・引用
「巡教会長にお礼○○円、神饌料○○円これが相場だからな。ちゃんと準備せねばいかんで。」上々級会長から電話があった。「精一杯させていただきます。」と返事したら、「精一杯とはどういうことな?少々包むんじゃないで。」
「はい、精一杯させていただきます。」(この後「精一杯とは」についての色々やりとり。)
「理の親が言う事は素直に黙ってきけ」
「は?理の親って・・理の親は親神様・教祖ただ一人ですよ。それは違うでしょ。私は親だなんて思っていませんよ」
「・・・・」びっくりした様子で無言。「上級があって今のあんたの教会があるんだろうが。あんたが一人で教会やっとんではないで。」
「理の親というのは教会が出来た順番のことであってうちの教会は後から教会になっただけのことです。先に教会になっただけの人を親と思えと言われても、私には思えません。」
「そないなこと言うとったら二、三年であんたの教会つぶれるで。」
「はい。親神様がつぶそうと思われたら二、三年の内につぶしますよ。親の目にかなわなかったら、つぶれるときにはつぶれるんです。私は、間違った道を進まないようしっかり勉強して、陽気な正しい信仰をしたいと思ってるんです。黙って言うことをきけと言うのは信仰ではありませんよ。私は黙って言うことは聞けませんねえ。今、消滅寸前の天理教はなぜこんな姿になったか、今までやってきたことが間違っていたから親神様・親様が働いてない姿じゃないんですか?働いてくれてたらもっと繁栄してるはずじゃあないですか。」
「そんなことはいいんだ。あんたは目の前のことを一生懸命すればいいんだ。」
「いや、会長さん。なぜ消滅寸前になったか、今までしてきたことの何が間違っていたのか、そこから目を背けたら天理教の繁栄はないと思いますよ。」
「・・・・」無言。
「これは喧嘩ではなく議論ですから、風通しよく、またこういう機会は必要ですね。また話しましょう。素直に黙って言うことを聞けと言われてもねえ。私はできませんよ。」
「今日のところは、ここまでだ」
「はい、ありがとうございます。」
「巡教の時の手は必ず揃えるように。いいか。全力で努力せえよ。手が足りねば私が行くから電話してくれ。いいか電話してくれ」以上。
次の言葉はさすがに言えませんでした。
「いいえ、来てくれなくて結構です。ただでは帰されませんから。お礼を取りにくるのでしょ?そういう配慮は当然ないのでしょ?申し訳ないが迷惑です・・・」何とも言いようのない虚無感で、精神状態がおかしくなりそうです。
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教会が潰れても、ご当人ご家族の身体の健康を大切にする事が第一です。
神様はそちらの方が喜ばれると思います。
陽気暮らしの為の手段としての教会ですから、陰気暮らしになるなら、主な信者さんと相談されて、天理教から離脱すればいいでしょ。
詰所が使えなくとも、お地場への参拝は可能ですし、出版物も書店やネットで購入可能ですよ。
これからは、自由教会の時代じゃないですか。経済的に余裕があれば、尊敬される方を勝手に招いて講演してもらったり、お勤めに支障にならない限り、内職だって自由にできるんですよ。
自由であるという自覚から、神への感謝と喜びを深める事が出来るんです。
まぁ当該教会の上層部のバカ度次第ですけどね。
名義上組織には残っているけれど、かしもの説いておつとめはするけれど、上級や大教会には一切行かないという、ツワモノな会長さんもいらっしゃいますよ。
上納金は、義務金以外はせず、お地場で遭っても、会釈はしても、お互い無視していますけどね。w
そんな自由な天理教のほうが、我々も付き合いやすいし、面白いじゃないですか。
このような頭の固い、話の通じない会長が上々級なんて、どうにもたまりませんね。そのまだ上には大教会があるのですからね。そして本部。私なら、「相場(相場というのも、つくづくおかしなことを言うものですが)の金など、とうてい出せません。借金しろ、というのですか?」そして終いには、「やってられるか!辞める!」と言いますね。本当に、こんな組織でやれませんよ。
>「巡教会長にお礼○○円、神饌料○○円これが相場だからな。ちゃんと準備せねばいかんで。」上々級会長から電話があった。「精一杯させていただきます。」と返事したら、「精一杯とはどういうことな?少々包むんじゃないで。」
>「理の親が言う事は素直に黙ってきけ」
>「上級があって今のあんたの教会があるんだろうが。あんたが一人で教会やっとんではないで。」
>「そないなこと言うとったら二、三年であんたの教会つぶれるで。」
>「そんなことはいいんだ。あんたは目の前のことを一生懸命すればいいんだ。」
>「今日のところは、ここまでだ」
これを、「脅し」や「恐喝」、「威嚇」と呼ばないとしたら、何と表現したらいいのでしょう?
親の子供への愛情?教育?
いや、どう読み返しても、失礼ながら八九○に脅されてるようにしか感じられないんですけど。
>どう読み返しても、失礼ながら八九〇に脅されてるようにしか感じられないんですけど
その通りですね。知らない人がこの言葉だけ読めば、八九〇に脅されてるとしか思えない言葉の羅列です。
最後の捨てぜりふ、「今日のところは、ここまでだ」 怖いですね~。八九〇映画ですか?
おやさまの理の親は、おや神様だった訳です。有り難い、結構、優しい、勿体ない、低い心で通られよ。
と親神さまに教えられ、お地場の組み立てという特別な事情もあり特段にご苦労された訳です。
又、我々先々には、小なりと云えども土地所の手本雛形たれと教えて頂いてる訳です。
先々の現状は、本来本部の仕事であるはずの、御神言の研究に時間と労力と金を費やさざるを得ない状態な訳です。
その上、本部上層部の余計な普請を含む、余計な活動に参加する時間と労力と金を割いていたら、教会を中心にしたたすけ合いどころか、信徒さん達にまで余計な負担を掛けざるを得ないのです。
本部と教会は息一つの理と云いながら、地方教会の現状や意見の把握能力に欠け、吐く息だけは強い訳です。吐く息だけの上位下達システムでは生物は滅びます。
そもそも教祖、本席という教えの親(理の親)が現在の本部に不在である以上、全ての指令システムに神の権威を借りる事自体がナンセンスなんです。神ならその言葉に守護とリヤクが伴うハズですからネ。
先ず、真柱が人間宣言をし、全ての教会が自由教会宣言をし、本部直属教会が、詰所付のお地場事務センター宣言をし、各自由教会がどの教会の下に付くのかを、数年毎に主体的に選ばせればいい。上下の入れ替わりも可。
とにかく献金にしろ活動にしろ、たてまえ通り、教会担当者の裁量に任さないと人材が育つ土壌がますます狭まってしまうだろう。現状は馬鹿タコが足食って生きてる状態だろうし。
本部は、本席様のお言葉通り、慎みをもって、規模を縮める事が先決。余計なものは困っている先々の教会へ年祭毎に施せば如何だろうか。
本部が、親心を発揮して普請の凍結宣言をする。神ならざる歴代真柱の道楽は100年先送り、心は大きく形は小さく。
結論 あんまり上の者が先々を虐めていると、神戸天理組が出来ちゃうゾ。
我々が溶け込むべき神の想いと、中山家ご一統さんの思いが乖離してきたが故の、先々の天理教人の苦悩の種。
御神言の勉強とお勤め以外に、上層部とは、関わりたくないという姿勢が教会長の理想の雛形なのかもしれませんね。
何でしょうかね。ここの方の極端だけどわからんでもない発言。
でも、素直に「そうだ!」と思い切れないのは何でなんでしょう。
皆様の書き込みをしている時の表情を拝見してみたい気持ちになります。
きっといやらしい大人の顔をしているのかな、と。
なんかねちっこいんですよ。
意見するなら意見しないと。
会長さんにボンクラもいるでしょう。教会本部にもいるでしょう。
でも、それを裏でネチネチ言ってる人って大概だとも思います。
所属の会長さんがアホならはっきり言いましょうよ。
言わずに「今の天理教教会本部はだめだ」とばかり言っていると
なんだか「それと違って俺らはしっかり教理を治めてわかってる」
という思惑が透けて見えます。そしてそんな連中とネチネチ言ってる。
正直思ってるでしょ?天理教批判だけじゃここまでならない。
心のどこかで「自分はわかってる。上級や本部はわかってない愚か者」
というスタンスが出来上がっているんですよね。
それこそ高慢。何がしたいんですか?
もっと建設的に行きたいんですよね。
貴方こそ 嫌なら読まなければいいのに
2016年5月26日 10:46 PM 匿名様
あなたには裏でネチネチ言ってるとしか思えないですか?
いやらしい大人の顔もしてないと思いますよ。大方は、怒り、不満の顔だと思います。又、諦めの顔も多いことでしょうね。意見できるなら意見もしましょうが、そんな相手では無い、我々も意見ができる位置にいない。しかし、止むに止まれないから投稿しています。
我々を見下ろすあなたも、高慢に見えますよ。
地方教会が、陽気暮らしの道場だと仮定して、教会関係者の自殺だの刃傷沙汰だのが多発した問題を無視して
又、その大半が後継者不在という現実を無視して、その教会群の陰気暮らしの原因を洗い出さずして、どうして世界に陽気暮らしを弘められるでしょう。
本部大教会の無理な普請からくる、教会間上納金の(暗黙の)強制による、地方教会の経済的負担感が大き過ぎる事は大原因の一つです。
徳ある中山家一統は、豪気強欲によって、存命の教祖の神の教えを顕示欲によって汚してしまっているんです。
天理教の教えは好きだが、天理教団は嫌いという教会子弟の割合が、事情教会の割合なんですね。
初代さん達のような粗野でもエネルギーに溢れた人達なら、いやならやめるべ、ですが、そこに生活の場や先祖供養の場が同時に併存しているから、少々の信仰心や親々を思う気持ちと相まって、迷っている後継者も多いはずです。
泥の混じった理は流すわ、献金の取り立て厳しいわ、現在の大人しい、教会関係者が心を痛めて事情身上が発生しない方が不思議なぐらいです。先々の事情身上に対して、本来ならタスケルべき立場の上層部がかえって悪影響を与えている事を自覚すべきなんです。
外からのものは防げても、内からの大砲は防げない。上層部の顕示欲支配欲の自覚ととりこぼちの後、御神言に反しない現実的且つ建設的意見が先々の現場から発生する事を期待します。
眼前に命に係わる問題が横たわっている以上、高慢の誹りを気にしている程紳士ではない。ですね。
匿名 2016年5月26日 10:46 PM さんの建設的ご意見をお願いします。
私も教えは好きです。こちらを拝見していますが、正直なところそこまで教団を否定する気もないし、
本部のお偉いさんに対しても、あいつは…とかはないです。なんなら友達のお父様は大教会長様なので、悪く言われていると「そんな人でもないけどな〜」とすら思います。
じゃあなんで見ているのか、やはり末端の1信者としての疑問もあるんですよ。
でも、末端の1信者がそんな事を思っても、やはり口にはしにくい。なぜかって。
やはり教えに間違いはないと思うからですよ。そしてそのように教え込まれてきた。
天理教内部で言えば、本部や上級、会長さん各位の方が「立場が上」という暗黙の格付けがあるし、
ぽつんぽつんと点在する信者が1人で異論を訴えてもまかり通りません。痛くもかゆくもありません。
なのでこのようなネット上でもいいから「ここは矛盾してるよね」という信仰者同士の確認作業があってもいいと思います。
砂漠にたった一滴水を落としても潤いませんが、一滴ずつでも継続的に水をおとしていけば潤う、
そういう場所もあって良いのではないでしょうか?
あらま、良い議論ですわね。
どちらサイドも『井の中の蛙大海を知らず』というやつでしょうか。
天理教は人を幸せにしてるよ。
天理教は人を不幸にしてるよ。
人それぞれの解釈でいいじゃん!
僕たちはそれで良いよ。
でもね。
組織の姿勢として綺麗な部分にしか目を向けないのは終わってるっつーの!
どこをどう客観的に見ても天理教は人を不幸に陥れている側面があるんだから、当事者はそれを意識しなくては社会の一員ですらないし、大人として超未熟だね。
それを指摘されて感情的になってるようでは極左と極右の争いと同レベルってことだね。
当事者にも拘らず、傍観者の天理教本部幹部たちには死んでいただいて結構なんじゃないかな。
教理の解釈に齟齬が生まれるなら、教えすらも完全じゃねえっつーの!
あ、僕はニヤニヤしてますよ。
そのうち天理教も時代がマイノリティに成り下がらせることが明確なのに、何をごちゃごちゃと議論してるのかってね。
我、高慢でございやす。
http://inochinonakigoe.grupo.jp
匿名 2016年5月26日 10:46 PMさん。
>何でしょうかね。ここの方の極端だけどわからんでもない発言。
でも、素直に「そうだ!」と思い切れないのは何でなんでしょう。
皆様の書き込みをしている時の表情を拝見してみたい気持ちになります。
きっといやらしい大人の顔をしているのかな、と。
私はこのような議論をいろいろな場所でやっていますが、いやらしい顔をしている人は一人もいません。あなたの心の中に「いやらしい顔」があるからそう思えるのではないのでしょうか。
>なんかねちっこいんですよ。
意見するなら意見しないと。
会長さんにボンクラもいるでしょう。教会本部にもいるでしょう。
でも、それを裏でネチネチ言ってる人って大概だとも思います。
所属の会長さんがアホならはっきり言いましょうよ。
ここは、裏ではなくて表ですよ。ところで、あなたは、ボンクラ会長を見ると「アホ」といっているのですか?
大人だからこそ、気づき、悟って欲しいのです。
>心のどこかで「自分はわかってる。上級や本部はわかってない愚か者」
というスタンスが出来上がっているんですよね。
そんなこと、誰も言っていないし、思ってもいません。多分、あなたが「自分はわかってる。書き込んでいる奴らは、はわかってない愚か者」というスタンツなんでしょうね。今、現実に困っている事、可笑しいと思うことを言っているのです。
それも駄目とおっしゃるなら、自由にものの言えない組織になってしまいますよ。
ブログ<原典からの出発>植田義弘先生のブログです。
http://tenkoku0805.blog9.fc2.com/
天理教の「御供え」についてをリンクします。
http://6706.teacup.com/5051/bbs
命の泣き声~天理教への信仰でお悩みの方へ~
「命の泣き声」さんのホームページのリンクを張ります。
http://inochinonakigoe.grupo.jp/
裏でねちねち。とんでもない。この掲示板こそ大勢の人の目に触れる表ですよ。裏で言っていても届かないからこういう表に出てきているのです。
本部の幹部・その家族などの目もに触れているはずなのです。その方達に真逆の意見を唱える信者が少なからず大勢いることを知らしめ、知る機会を提供し、ネットはわずかでも流れを変える一役を担っています。
どうにもなれば直接言います。どうにもならない相手だからこそではないですか。あなたはお幸せな加害者ですよ。
心配しなくてももう意見は出てきませんよ。
どうせ逃げたんですからね。
大体わかるでしょ。
それが天理教人のやり口ですからね。
対抗しようとしても火に油を注ぐだけで、
話が通じないという訳のわからん理屈をつけて議論から逃げるんですよ。
まー、そんなレベルの天理教人と対峙するだけ時間と労力の無駄ですよ。
切り捨てましょう。
って、それに四苦八苦していたのが私ですけどね。
詳しくは私のホームページを参照してくださいませ。
http://inochinonakigoe.grupo.jp
一よふぼく
ときおりコメントさせてもらっています。
私自身は天理教は概ね好きです。お供えでのトラブルはありませんし、尊敬できる友人もたくさんいます。
ただ、ほとんどが教会関係者のため、言いにくい事もあると思うのでこちらで相談したいです。
今のところ天理教は所属教会制度ですよね。天高も、確か教会のお許し?がいりますよね。
ちょくちょく出てきますが、所属教会の会長さん夫婦がちょっと考えが合わないという場合、どうなんでしょうか。自分に何となく感じるものがあったのか、会長交代くらいからどことなしに気持ちが離れ、
私の家庭の問題を相談した時の対応が不親切で一気に苦手になりました。
天理教は好きなのに、です。
(昔はかなりどっぷりでしたが、今はそこまでではないです。)
なんだかんだ言っても、教会は教会関係者の住まいでもあります。
会長さん夫婦にモヤモヤしていて、でも天理教の教えは好きという矛盾感に悩んでます。
私が至らないんだという感じで…でも、言われた事やされた事を思い出すとやはりそこに
おやさまをかんじることはありません。
お供えでもなく教理でもなく、会長さん夫婦のやり方が苦手。
自分たちは高笑いして、私の心はいずむ。
私がわかってないだけでしょうか。皆さんみたいにお供えや教理、脅しであれば
言い返してもいいかもですが(脅しじみた感じはあるかな…)、なんか合わないだけです。
一よふぼくさん。
>今のところ天理教は所属教会制度ですよね。天高も、確か教会のお許し?がいりますよね。
ちょくちょく出てきますが、所属教会の会長さん夫婦がちょっと考えが合わないという場合、どうなんでしょうか。
そういうことが、よくあります。教会制度の最大の問題点です。
事情を説明して、気のおける教会へ参拝したらいいと思いますよ。
>今のところ天理教は所属教会制度ですよね。天高も、確か教会のお許し?がいりますよね。
そうですね。その時だけお願いに行けばどうでしょう。所属変更も出来ないこともないですが、すべて紙の上のことですから、信仰には関係ないと思います。
いい距離感で付き合えばいいのではありませんか。
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天理教信者が順調に目減りしていることを記念して、天理教組織撲滅キャンペーンをはじめます。
やり方はとっても簡単。
お供えしないで下さい。それだけです。
カイチョーという人種が、もしかしたらキョーリという言語で、「OSONAE、OSONAE」と手を出してきますが、相手にしないで下さい。コアラがユーカリにの葉を食べるように、カイチョーはOSONAEを食べて生きています。危険ですので、見るだけにしましょう。
そうなんですよね~
信者に依存しているくせに、偉そうな態度で金銭をを奪う教団のどこに陽気ぐらしがあるのでしょうか?
旅人さん、その通り。お供えするからこの社会悪の教団が生きながらえるのです。「心の世界」は置き去りです。信者獲得、数字達成に信者は振り回されています。魅力がないのに人がついてくるはずがないです。お供えは個人の自由と言ったら、「教祖逸話編の二の切りを読め」と言われました。
日頃はごろごろしていて、においがけもせず、仕事もせず、自分は実践してもない教理をならべて、大教会と直属兄弟教会にだけははお供え金や、数字で対面を保ちたい人。
お供えで食べてるくせによく言うよ、と思いました。生活費を断つことが目を覚まさせる早道です。
2016年6月4日 7:52 AM 匿名様
>お供えは個人の自由と言ったら、「教祖逸話編の二の切りを読め」と言われました。
「教祖逸話編の二の切り」の意味は、人に施しをせよ、という意味であり、教会へのお供えをせよ、という意味では無いそうです。掲示板「お供え」に書いてました。
天理教の「御供え」についての中の、「金銭二の切り」おところをリンクします。
http://6706.teacup.com/5051/bbs/907
http://6706.teacup.com/5051/bbs/910
2016年6月4日 7:52 AM 匿名様
あ、お供えの場所、リンクでは無く、コピーで貼り付けただけですので、すみませんが、ウエブ検索のところに張って、開いてくださいね。インターネット初心者なので、リンクの方法がわかりませんでした。ごめんなさい。
ご存知の方もあると思いますが、ようぼく手帳なるとても怪しい冊子があります。
書いて字のごとく、ようぼくたる人のためのガイドブックです。
ちなみに初版が出来たのが昭和42年6月26日。それから何度も改訂しているようです。
さて、この本の中でも、天理教全般の教えや取り組み方を記載しているわけですが、お供えのことにも触れています。
一部引用します。
「日々のお供えは、各教会を通して、元のぢばに運ばれます。そして、それがかんろだいにお供えされ、親神様に真実が届くのです」
かんろだいにお供えされて、はじめて真実? 誠意?が届くそうです。
教会長の懐に入ったお金は、親神様に受け取ってもらえないってことなんでしょうか。
もっとも、突っ込みどころ満載のテキストなので、他にもたくさんあるのですが。
教会へ行けば、ほこりのかぶった同じ本が何冊もあると思います。
お供えは当たり前じゃないんですけどね。
信者さんに、もっと思いやりを向けてあげて下さい。
本部の勤めが健康回復現象を爆発的に実現させるなら、布教や宣伝などしなくても、世界中から人も金も集まって来るだろ。
人のタスケよりも都市計画が大事な宗教なら。天理教教会本部改め中山普請教にしたらどうだ?
そうすれば当教会も心置きなく離脱するんですけどね。
最近あまりにも匿名さまの投稿が多すぎません?
何か自分の考えから逃げているようで面白くありません。
徳子さんへ。
実名で行動できれば早いんですけどね。
なにかとしがらみがあるから、仕方ないところと汲む必要もあるのでは。
中山家を軸とする本部組織を壊滅するために、組織に憤りを感じてる人の方が、本部が発表する信者数より上回れば、ボチボチ現象として出てくるでしょう。自然と。匿名なんて謙遜することなく。
いまのところ、古い教会長さんと、命の泣き声さんがリードして、下地を作りつつあるようです。
一番は、本部員、大教会長クラスの、儀式だけやってりゃ家族を養う給料を、20から50万の平均的幅で当然のように懐に入れ、実はそれは全国にいる貧困生活者も含めた真実を求める信者さんたちのお布施(お供えという言葉はどうも納得できない)なんだけど、あいつらはそんな感覚は皆無のようなゴミです。
本部神殿は素晴らしい、落ち着く、立派なもんだ、そんな感覚があるなら、無理です。
そういう形を作り、維持し、あわよくば政治家、芸能人、企業経営者にのみ媚びを売り、ようやっと死ぬ思いで神殿にたどり着き、ボロボロの服装で、しかもコップ一杯の水を所望するような本物の求道者を、汚いと片付けるゴミばかりです。いまの本部はね。
うわっつらのメッキだけというのは、徳子さんもご存知のことで、重ねて言うことはありません。
今立ち上がっている本部破壊、及び本部員の給料制の中止、それから生じる貧乏生活、大教会システムの破壊、中山家は所詮、神輿であることでシステムが再構築されていく、そういった大改革が必要でしょう。
教えは本物なら、1,000年後も残るでしょう。
まずは本部員の、一部既得権益の無駄なゴミどもを、排除すべきでしょう。
そこまできてると思います。
どうでしょうか。
匿名A様、匿名B様
こないだ天理の居酒屋で飲んでたら、私の隣で天理教の勤務者と思しき人たちが話をしていたのが、へぇーって思いました。最近、天理教の勤務を志す者がこの数年の間で30パーセント減り、取分け、昔から中山家の近くでつとめていた在籍者と言われる人たちが、見切りをつけてしまう現象が数多く出てきている。
結局、中山筋の人たちの結集で人事が結集されている。つまり、新本部員と言われる人たちは、中田表統領をはじめとする裸の王様の集合体になってしまっているとの話でした。だから、これまで本部の在籍者と言われる人たちは、口では言わないまでも、本部の勤務をささない方向にむいているようです。
いわゆる泥船には乗り込ませないのでしょうね。本部の人たちも。
君子危うきに近寄らず、ですね。
ほどほどさまへ
匿名では、コメントを投稿した人のイメージがわからない。
組織のしがらみがあるのもわかりますが、でもあえてそこから脱出するいいチャンスだとも思うのです。
しがらみも案外自分の思い込みってこともあるでしょうし、信仰はもっと自由であっていいと思う。
>昔から中山家の近くでつとめていた在籍者
とは、教祖伝に出てくる人達の直系の家々という事ですか?
これまでの、彼らの本部での待遇はどんなものだったんのでしょう?
一時本部員になったとしても、内外からの批判に対して矢面に立たされ、責任はあっても、権限、発言権は少ないのなら、やってられね~って思う人がいても不思議ではないですね。
教祖伝血族連から新中山血族連へと本部の執行部構成が移っていくという事でしょうか?
前善衛真柱様も中枢から離れたところへお子様を養子に出されたり、嫁がせたりしている訳ですが、中田家は別格としても、土佐家などの新血縁外様系の人達の割合が多くなるという事ですか?
ネット信者様
>彼らの本部での待遇はどんなものだったんのでしょう?
私の知る範囲では、本部のお与えです。立場が出来ると、巡教のお礼とかが入ります。
厚生年金も掛けてあるので老後は安心です。住む所も費用がかかりません。
私たち末端は国民年金も未納の所が多いです。
>教祖伝血族連から新中山血族連へと本部の執行部構成が移っていくという事でしょうか?
そんな、難しい人事は無いでしょう。只、真柱のお気に入りとか、気ごころ知れているとか、親が実力がある。嫁の血筋がよい。で決まっているように思います。
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仰る通りです。真柱や、弟の善亮氏の兄弟姉妹の主人等、いわゆる親族と言われる人たち、またそれを後援するお気に入りの人たちの集権集団になっていってます。特にこの数年は。だから、それ以外の人たちは、ご機嫌伺い組合状態でしょうね。直属の会長も含めて。
うちの会長も以前は、中山さんらとは親交が深かったようですが、今は余りお気に入りではなくなったようで、色々教会の上でも影響が出てきています。所詮、中山個人商店ですから、宗教といえども公益性はありません。
そういうことを懸念なさった教祖は、おふでさきの最後で、「さとさとたおとたおとびよさまびよさま」との筆があり、更に「いちれつこころしあんたのむで」とあるのは、教祖の教えを都合よく解釈し、中山家を通じた利益のみを追求するこれまでの不条理、あるいはこの先を予言なさった事だと思います。
ご本部に限ったことではないと思います。
私の所属教会も親族信仰です。
教会に行っても参拝に行っているのかよそのお家におじゃましているのかと思うときがありました。
ただ参拝したいだけなのに、教会の奥さんから「何しに来たの?」みたいに言われたり。
「…ちょっと参拝したくて…」というと「あぁ、いや、今日なんか用事あったっけって思って」と。
教会の人間が、教会は信者がお参りに来るところという認識を忘れてしまうほど、
宗教って組織になっているんだなって思いました。
私はご本部の先生のことは詳しく知らないし、カインさんはじめとした教内の話を聞くたびに
「大げさじゃないの〜!」と思うときもありますが、
運営は信者じゃなくてもできるもんね…って、冷静になる部分でもあります。
教会の後継者の方とお付き合いしていたこともあるので(もちろん自教会ではありません)、
大げさすぎるというわけでもないよな…としみじみしています。
逸話編に梅谷四郎兵衛さんの話で『人がめどか、神がめどか。神さんめどやで。』というお話があります。一部の腐敗は、教祖の教えて下さった本当の信仰ではありません。そこに重きを置くと、どんどん自身がずれて行ってしまうように思います。
その中にあって自分はどうあるのか、芯が大事だと思います。
神様に、とお供えしたものはどうなっても必ず天の貯金として、受け取って下さってるんやでと母は言い切っておりました。20年経った今、本当にその言葉の重みを感じています。
目先のこと、目につくことは色々ありましょうが、そんな小さなものでなく、もっと大きな大きなスパンで、視野で考える、そんな教えであると思います。
特集 天理教とフェミニズム
わが中山みき…(「天理教とフェミニズム」で検索してみてください。)
・・・・・・・・・・・(略)
縁あって私は一九八〇年から二年を奈良の天理教本部で過ごした。どんなに素晴らしい信仰者に会えるかと期待して飛び込んだ本部であったが、そこで私が見聞したのは、色と金にまみれたまさに「この世の地獄」であった。
たとえば、私が二年間居住した「ひのきしん寮」という女子寮は、金を取らない売春宿だった。私がこうした罵署雑言を吐いても、プロの売春婦に対する偏見とはいささかも関係のないことを御理解いただきたい。
起居を共にした十八から二十までの女の子達は、長期休暇が近くなると頭を寄せ集めて自分達の生理日を計算し、排卵日をはじき出しては、「安全日」を割り出していた。もちろんこうしたことは妙齢の女の子にしてみればごく自然なことなのだろう。問題は、彼女達がほとんど全「教会の子」であり、いずれは「教会に嫁ぐ身」であり、その「教会」は信者の寄付で食っているのであり、信者にとっての「教会」とは神の鎮座まします「聖域」であったということなのである。
女の子達が相手の男を好いていた、ということであればまだしも救いはある。しかし私の見るところ、彼女達が恋愛の何たるかを思い知るほど濃密なおつむと心を持っていた、とは到底考えがたい。
彼女達は、まるで何かに「追われる」ように男を欲し、男と寝た、のである。男にしてみれば、たとえ丸太のように横たわるだけの「売春婦」であったとしても、タダでやらせてくれ、避妊まで面倒を見てくれる、こたえられない美味しい話、だったことだろう。私には、男達が女の子達を卑狸な話題の肴にした高笑いの声が聞こえるようだった。
女の子達も、話題は男とセックスと芸能界に限られ、これが宗教の殿堂たる「聖域」で繰り広げられる人間劇かとまさに目を覆うような惨状が展開されていたのである。
なぜ本部勤務の女の子達がこんなになったのかを考えてみれば、理由はいろいろあるだろうが、女の子達のために弁明するなら、まず教会の貧しさがあげられる。貧しさゆえに、教養を積む修練を経る機会がなかったのだ、と言ってしまえばあまりにも紋切り型の説教調になってしまうけれど、それが現実である。
というのは、寄付が潤沢になる大教会になればなるほど、その子弟は「マトモ」になっていったからである。そして又、教会本部が勤務する女の子達に「おあたえ」と称して払う給料が月に二万円という額だったことも、理由の大きな一つとしてあげられる。この二万円から女の子達は、食住は保証されているとはいえ、衣類から化粧品から嗜好品にいたるまで賄わなければならなかったのである。
それは当時三十を過ぎていた私の目から見て、年頃の女の子が満たされた青春生活を送るには到底無理な金額だった。本部よ、せめて五万円この子達にやってくれ、そうしたならば、 “娯楽はセックスだけ”という惨状も何とか打開されるだろうに、という老婆心から私は何度念じたことか知れない。
カネがすべてを解決する、とは言いたくないが、私が本部で目にした現実は、その程度のものだった。
天理教本部について言いたいことは諸々あるが、この「無料の売春宿」たる女子寮が、現在の本部の堕落と頽廃の有り様を体現していると私は思う。・・・・・・・(略)
今の天理教本部は、人の迷惑も顧みず、徹底した自己満足のみを追求するカルト教団と化し、オウムと大して変わりはない。宗教には、現存する人間を脆拝してはならない、という原則を設けるべきであり、その禁を犯した時から、単なる詐欺集団に成り下がる。オウムがいい例だし、日本の新興宗教のほとんど全部がそうだろう・・・・・(略)
本部なんか本気で相手にしてたら、布教なんて馬鹿らしくてやってらんねえよ、というのが大方の目覚めた信仰者の思いだろう。私の中山みき信仰は、本部の堕落と腐敗とは一切関わりがない。・・・・・・・(略)
・・・・・古い教会長の感想(多分、限られた時期の、限られた何人かの女子の話だと思いますが、事実だと思います。丁度この頃、ゴルフキーパーをしながら学校へ通う、天理関係の寮があり、乱れていたという噂を聞いた事があります。程なくして閉鎖されました。)
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A実町のK西が、また倒れたということをリークします。
2016年7月15日 10:19 PMの匿名 様。
>A実町のK西が、また倒れたということをリークします。
K西さんが、どなたかよく分からないのですが、所長さんのことですか?
何か問題でもあるのですか?
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コメント欄では有益な情報も埋もれてしまいます。
コメント欄に書き込むことで云々…として本部への効果を考えておられる方もあると思いますが、方法が消極的すぎます。
というのは、コメントが膨大かつまとまっていないから基本的に見る意欲がわかないということに原因があります。
コメント欄のレギュラー陣の先生方は天理教の現状の問題と打開策を示したサイトを作ったほうがいいと思います。
このサイトは著者に信仰がないのと、社会学的視点であるため、信仰的視座に立っていないと思うんです。(もちろん有意義なサイトだと思っています。)
そうしたことから、信仰ありきでこれからどうすべきかという課題を体系的にまとめていけば、分かりやすい上に多くの人の目にもとまるのではないでしょうか。
幾分他人任せになっていますが、いつも発信なされている方々に一つ提案をいたしたく思いコメントさせていただきました。
私は本部の政治的無能さ、無為無策さについて問題提示したいと思います。
なぜなら本部の政治的無能さのおかげで、私たちは幾度となくまともにその実害を受けているからです。
本部の月次祭は26日で、これは誰もが分かっていることです。
にもかかわらず、この26日前後名古屋方面から名阪国道を通って天理方面に向かうと、必ずと言っていいほど道路の補修工事などを行っていて常に渋滞に悩まされていました。
ある時など26日月次祭を参拝し終え、天理東インターから名古屋方面に名阪国道に入ったところからすでに工事渋滞で、十数キロもその渋滞がつづいていました。
この問題は本部が、名阪国道の管理者、国土交通省の奈良県事務所や三重県事務所と事前協議して、26日前後は不急の道路工事は避けて頂くという協議をしておけば簡単に避けられる問題です。
にもかかわらず、このような状態つまり名阪国道の26日前後の工事渋滞が何年も続き、多くの帰参者がどれだけ不便を被ったか分かりません。
また一般の利用者も多くの帰参者とともに渋滞に巻き込まれ、いい迷惑だったと思います。
行政側と何の交渉もしない本部と教庁輸送部の無能さ、無為無策さには呆れるばかりです。
さらに本部の政治的無能さを痛感したのは、教祖100年祭時の西名阪高速道路の天理インターの拡張工事についてです。これについては事実確認をして後日述べたいと思います。
人様の裸の写真を断りもなく掲げたり、Twitterのトップに持ってきてはいけません。
人格を疑われます。家族やバイト先などにも大きく影響します。
匿名です様
誰のことを、誰に対して言っているのですか?
匿名様
具体的には書けませんが、これを見ているであろう人に向かって書いています。
様々な人々がどういう未来を辿るのかが分かる程には、私は歳をとった。
彼の未来の方向を変えるべくアドバイスをしています。歳上のものとして。
匿名です様
あなたはどうしてそんなに彼のことが気になるのですか?
以前から執拗に彼を批判する。
実は自分を見ているんでしょ。
皆世界の胸のうち、鏡のごとくにうつるなり。
って御神楽歌で歌われているじゃないですか。
自分の姿は見れないから、相手を鏡にして見せていただいているんですよ。
気持ち悪いコメント書いて皆さんの大切なコメントが流れていくように邪魔する。
皆さん、大切に言葉を選んで選んで真剣に書かれているのに、
あなたは短いセンテンスでわけのわからない言葉で流れを止めるような行動を平気でする。
立ち向かうなら正々堂々とすればいいのに、
曖昧な表現でのらりくらりかましていく。
「バカにすんな!」と怒鳴りたくなるような衝動が何度もあった。
彼は今一生懸命生きようとしている。
私はそっと見守っていますよ。
匿名です様は彼より年上なんですね。
だったら彼の今の状況を広い心で包み込んであげる豊かさがあってもいいのではないですか?
彼はきっとすばらしい道が開かれる。
私は確信しています。
人のことをとやかく言う前に、あなたは自分の道をしっかり地に足付けて生きればいいのです!
彼より親御さんが気になりなす。時間がない。そして彼の子供さんについても気になります。
彼は素性を明かしている。就職時にはTwitterも調べられるだろう。
などなど。薬変わって夜寝れてないなどど。
しかし毎回裸が出てきて私もイラッとしてしまいます。
不愉快な思い失礼しました。
匿名様
私はお会いしたことはないですからね。
お顔も存じ上げてません。老婆心というものです。
不愉快な思い失礼しました。
匿名です様
裸が出てきてイラッと毎回するなら見なければいいのです。
イラッとするのにどうして毎晩チェックするのでしょうね。
不思議な人だ。
あの写真は確かに気分のいいものではない。
しかし今の若者たちならノリですることでしょう。
ただそれだけのこと。
何十年も前ですが、青年会の真面目な真面目な男性たちが
酔っぱらって真っ裸になって踊ってました。
不愉快でしたが、今となれば若気のいたり。
そんなもんですよ。
いいですか。
不愉快で見たくないならば、もういきなさんな。
あなたのおせっかいに申します。
人の人生にはいろいろな波があります。
嵐は誰も通りたくないけど、その中でもがきながら踏ん張る時期というものがあるのです。
自分の中にしっかりと理想を思い描いていても、
ままならぬ中、苦しむ時期というのがあるのです。
その時期に人は多くのものを得るのです。
それこそ後々のお宝です。
余計なおせっかいはしなさんな。
それから心のない謝罪は要りませんので。
嘘と追従これなんとかっていいますね。
後の匿名様
私は私なりに助けたかった。天理で助けることが出来ると思うから。
天理でいろいろな人々を助けることが出来るから、だから伝えた。
天理は奇跡をおこしてきてるから、天理を伝えたかった。
おせっかいすみませんでした。
分かりました。
匿名です様
奇跡ってなんですか?
不思議な現象ですか?
天理教でいう鮮やかなご守護とやらですか?
生きていること、今この世に存在していること、
息をしていること、すべてが奇跡ですよ。
本気で助けたいという思いがあるのであれば、
私にたやすく謝るべきではない。
それこそあなたが本気でない証拠。
我々家族は彼がこの先自分の夢を実現したとき、
彼のおもてなしの心をいただきにかけつけたいです。
私は毎日そっと祈ってます。
彼は今大変な中にいますが、先が本当に楽しみ!
しっかり読んでいればわかるはずです。
私もトンネルから抜け出すのに苦しい思いをしましたからね、
小手先だけのさとしが毒にもなりえることを知っています。
天理教の教理もさとす相手によって変わってくるということ知っておいてください。
同じ言葉でも発する人の魂によって毒になるのです。
この前の匿名様
奇跡とは、鮮やかな御守護のことをさして言いました。
私の魂では毒になりそうです。だから黙ってます。
匿名です様
正義感から「良いことをしてる」としても、
ここは個人的な伝言を伝える場ではありません。
人の為と書いて「偽」という字になります。
「良いことをしてる」つもりになる前に、
なぜ自分はそういう言動をするのか、
それは本当に相手の為なのか、実は自分の為ではないのか?
など、よく考えてみることをお薦めします。
匿名です様は、なぜ「良いことをしてる」のに、と思われているかもしれません。
人の心配などに逃げ込む前に、そういった根本部分に気付かなければ、
匿名です様は、また同じことを繰り返していくでしょう。
潜在意識や「エゴ」は巧妙です。
「宗教」や「教え」すら道具に仕立てます。
宗教関わらず、『本物』を求めている人は誤魔化されません。
なぜなら、自分の中のエゴや矛盾と苦しく惨めな思いをしながら、
対峙してきているのですから。
だから、こちらのコメント欄でも、『本物』を求めている人たちが、
教団に対する多くの矛盾や辛い体験に基づく意見など、
我が事として問題提起をし、意見を交されているのです。
自分含め、多くの大切な人生が掛かっていることでもありますから。
自分の影と向き合うのは苦しく辛いことではありますが、
自分を理解出来た分、理解力も深まるのです。
自分自身と向き合うことは、それだけの価値があると思います。
それこそが、本当の宗教ではないかと思います。
台湾・慈済基金会 の活動が素晴らしい。
天理教は本来こうあるべきだ。
http://alternas.jp/work/ethical_work/61822 より。
「4人の弟子と30人の主婦」が起源――台湾・慈済基金会
東日本大震災――この時、国内だけでなく海外からも様々な支援が行われていた。慈済基金会そのうちのひとつだ。慈済基金会は被災者の手に直接見舞金を渡していた。慈済基金会とはどんな団体なのだろうか、そんな疑問を持ち、私たち被災地支援のための市民メディアプロジェクトは、この慈済基金会の方々にお話しを伺うため台湾へ向かった。(学生による被災地支援のための市民メディアプロジェクト支局=細川 楓・武蔵大学社会学部メディア社会学科2年)
市場に買い物に行くときに5銭を節約して竹筒に貯金する。月の終わりに集まったお金で貧困で苦しむ人に手を差し伸べる。このほかにも、ご飯を炊くとき、一握りのお米を壺の中に入れる。こうして貯められた壺のお米は食料で困っている人に分けられる。
證厳法師が立ち上げたこの慈済基金会は、50年ほど前に4人の弟子と30人の主婦が行っていたこの小さな行いから、現在では台湾で仏教をベースにした巨大なボランティア組織へと成長した。
竹筒貯金は今でも形を変えて行われており、貯金箱にお金を入れいっぱいになったら慈済基金会に持ってくる。こうして集められた資金は災害地域の援助等に役立てられている。決して、慈済基金会を支える尼僧が使うことなく、すべて支援にあてられるそうだ。
では、尼僧はどのように生活しているのだろうか。
200名ほどの尼僧全員が生活する「静思精舎」という場所を訪れた。尼僧は毎朝3時に起床し、4時20分からお経を唱え、5時20分からは證厳法師の説法が始まる。6時20分に朝食をとり、7時には世界中で行われているボランティアについての話し合いを行う。日中はそれぞれ日ごとに決められた担当の作業に取り掛かかり、掃除や炊事、畑仕事だけでなく、台湾各地に存在する支部での説法や、静思精舎への来客のもてなし、隣接している工場での作業など様々である。
工場では石鹸やろうそく、アロマグッズ、提灯、災害時にガスや電気が無くても食べられるアルファ米などを製造し、尼僧が生活するために必要な資金を得ている。
そのため、畑には食事に使われる食材以外にも、石鹸やアロマに使用するハーブなどがたくさん育てられていた。また、調理の際に出る生ごみや、枯葉などを集め、肥料にする。これを利用し、つくられた作物は、化学肥料を使っていないため、体に安全な作物ばかりである。その他にも不要になった袋をごみの分別の袋として利用するなど、普通ならごみになってしまうものさえ再利用し、ものを大切にすることが徹底されている。
このようにして、静思精舎ではものを大切にし、自給自足の生活を送っている。これを「自力更生」という。自給自足で得たお金の一部は尼僧の生活費にもあてられるが、使わなかったお金は寄付しているそうだ。
寄付したお金が確実に支援に利用されるという透明性から安心して支援のためのお金を託すことができる。そのため慈済基金会ではお金の管理がとてもしっかりしているのだという。
私たちは取材時に竹筒に見立てた貯金箱をいただいた。私たちが「日本支部へ届けます」と言うと、慈済基金会の方は「集まったお金は慈済基金会ではなく他の慈善団体に寄付してもいい」と私たちに言った。私はとても驚いたが、それは、「困っている人を助ける」という同じ思いが根底にあるからではないかと感じた。
<制作した映像はこちら>
https://www.youtube.com/watch?v=VccSGYw1Qko
基本様
基本様が豊富な知識と崇高な解釈をお持ちであることはわかりました。
しかし基本様以外の方の多くの方のコメントも読んで自由な議論・意見を楽しみしています。
でも基本様が非常に多くの投稿をされるので、他の方のコメントを読んだり、探すのが難しいです。
ここはカイン様が開設したところであって、基本様の所有ではありません。
多くの読者はカイン様の意見や考えを読みたくてきています。
いまの時代、無料でブログを開設できますし、多くの掲示板があります。
基本様はそちらで自由に思うままに持論を展開されてみてはどうでしょうか。
ここは基本様だけの場所ではないことを理解してください。
はい。
主たるテーマは、このブログそのものにあって、カイン様に対して意見を言えるのはこのブログよりありませんから、お許しください。
カイン様は洗脳のプロで、討論のプロと理解していますので、相手にとって不足なしですので、万やむを得ない次第です。
投稿の量は出来るだけ少なくしますので、お許し下さい。
天理教教人さんの言う通りです。申し訳ないですが、基本さんは人様のブログに書き散らしすぎです。やむを得ないことではありません。これを世間では「荒らし」とも言います。存命の人の名前を出すのもネチケットに抵触しています。このようなことで天理教社会学研究所のブログが閉鎖されてしまっては何にもなりません。どうぞご自身で基本さんのブログをお立ち上げください。
討論にすらなってないし、教理を掬い上げて暴論に達する大妄想イカレポンチなだけやん。
モラルも倫理観もない人間が恥をさらしに来て、いい気味じゃないんですか。
http://inochinonakigoe.grupo.jp
医療ばっかり頼るんなら血液検査もしてもらわないといけないですね。
ある投稿記事です。
>どんな親に繋がるもひとつの神様から与わった姿に違いなし キツイ言葉に置き換えたなら、あんな会長じゃしょうがない こうでなければいかんと思うとしたら、そういう中を通らんとたすからないと 見える世界のもっとその先、その奥に神様の思いを感じとれたら間違いなく自分の信仰が一歩進むのではないかと素直にそう思う。
確かにあるかも知れないが、危険もはらんでいるようにも思う。こういう考えがモンスター会長、モンスター奥さんを生んでしまう。これは一般社会の人間関係の話であって、教会組織に当てはめてはいけない。洗脳の始まりになってしまう。
>確かにあるかも知れないが、危険もはらんでいるようにも思う
「盗人にも3分の理」程度の理屈で、9割7分は危険ですね。
逸話編や教祖伝には幾つか出てくる「輪廻転生型のこの世は修行の場」という考え方は、「みかぐらうた」「おふでさき」には出てこないんですよ。
「この世の苦労や困難は神の与えた試練だから堪能して修行しなさい」という内容は、その苦労や困難を生み出す「上級」にとっては都合のいい、下の者を奴隷化するための教え以外の何物でもありませんからね。
しかも、苦労したからといって、先々立場や身分が入れ替わるかというと、絶対に変わらない。
そのまま世襲制で子や孫にまで伝えられて、ますます固定化された身分制度が確立していく。
「身情事情は神の手入れ」は、今までの価値観や考え方を見直す切っ掛けになるモノであって、教祖さまの教えを知る、考えるための「導入部分」に過ぎないと思います。
その切っ掛けや導入部分から先が、苦労や困難、理不尽や身分差別が末代まで続く生活で「陽気ぐらし」など出来るわけがない。
「若い時の苦労は買ってでもしろ。」と説教する年寄りは嫌いです。
若い者に苦労させない世の中を作るのが、年寄りの役目ではないでしょうか?
すでに、年寄りの仲間入りをしてる年代ですが、そんなつもりで働いてます。
末端教会子弟様
「身上事情は神の手入れ」
このフレーズを読んで、思い出したエピソードがあります。
学生時代、原因不明の体調不良に苦しんでいた私。あるとき教会に行くと会長さん(当時)が
「身上事情は道の花というんや。なんも心配ない、なんも心配ない」と声をかけてくださいました。
(当時の会長さんは数年前に出直されました)
現在の会長さんは前会長さんの息子さんです。
いわゆるやり手というか、主張の強いタイプで、私が夫婦問題で悩んでいるとき
「信心する気持ちある?人のいうこと聞かんからちゃう?」とバッサリ言われました。
前会長さんも癖の強い方でしたから、家族の方は大変だったとも聞いています。しかし、私たち信者にはこれでもかというくらい心をかけてくださいました。
どっちが正しいかわかりませんが、おやさまだったらどっちの言葉をかけるだろうかと考えたとき、
私は前会長の教えで育てていただいたんだなぁという気持ちになります。
高校から親元を離れ天理高校へ。病気でも寮の先生が見守る。もっと親子でいたかったでしょう。
天理を守ってきたということは並大抵のことではなく、ただただありがとうございますと言いたいです。
過去のある投稿コメントより抜粋しますーーーーーーーーーーーーーー
○さんは、おそらく、典型的な依存症タイプだと思います。
こういう人は、自分の深いところにある本当の感情に対する自己認識が浅いんです。
なので、本心と言動を一致させることができないんですよ。親に教え込まれた
イイコちゃんを演じる以外の自己表現ができないんでしょう。
もしもね、他人の悪口に同調するのが嫌い、っていうだけの、それなりに強い意志と
正義感を持った人なのであれば、こんなに嫌われないと思いますよ。
そうじゃなくて、自分の中のマイナスの感情を認めるのが怖い、
という浅い人なんだろうと思います。つまり、相手を思いやってのことではなく、
自分がそういうのに触れるのが怖いだけです。結局、自分しか見えてないんですよ。
こういう人ってね、自分のマイナスの感情をきちんと自分で受け止めていないので、
無自覚にへんなところでその抑圧された感情の発散や埋め合わせをしようと
する傾向があるんじゃないかと思いますよ。たとえば、自分の不安を埋め合わせるために、
場の空気やニーズに無関係に、小さな親切・大きなお世話的な干渉(実は対人依存)
をしてくることが多いとか、ね。実際、どうですか?
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
真 様
>「身上事情は道の花というんや。なんも心配ない、なんも心配ない」と声をかけてくださいました。
よく使われる言葉では「身情事情は道の花(華?)」ですね。
意味は諸説あるようで正確ではありませんが「身情事情を切っ掛けに入信した人は、熱心に信仰する素晴らしい人」といったような意味かと思います。
真様が繋がった会長さんは、心の出来た会長さんのようですね。
ネットで叩かれるお金に汚い会長さんなら「お供えの金額」に結び付けますから(笑)
「教祖さまなら何と答えるか?」は、私も常に考える事です。
身情事情や悩める人に対してだけでなく世の中のニュースや事件や世界情勢に対しても、「教祖さまのお言葉」が知りたくて天理教に繋がっているのが正直な所です。
匿名様の抜粋は考えさせられるものですね。
発言しすぎましたし、発言をしばらく控えようと思います。
【掲示板「お供え」について】の意見を拡散すべきである、という、命の泣き声さんの勧めにより、「お供え」に多数投稿されたご意見を、現在ツイートにしています。
又、天理教被害を広く周知させる為にも、社会学研究所さんのコメント欄に投稿された皆様のご意見も、無断ではありますが、ツイートにさして頂いてます。
https://twitter.com/sazannkasatuki
皆様の文章をツイートにする上で、拙いところは多々あると思いますが、お許し頂きたいと思います。宜しかったら、覗いてみて下さいませ。
又、過去に発信したツイートは見るのに手間がかかりますので、twilog (ツイートをブログ形式で保存してくれるサービス)に登録致しました。過去に発信したツイートも、今、現在起こっているものですから、全てを通して周知させるべきと思いますので。
twilogの開け方 開け方は簡単です、次のように打って下さい。
1 まず、【 twilog 】でウエブ検索して下さい。
2 【 Twilog – Twitterのつぶやきをブログ形式で保存 】をクリック
3 開いたtwilog の画面の中央右側の枠内に 【 sazannkasatuki 】と打ち込み、そのすぐ右横の「GO」をクリック、以上です。
twilog の各ツイートの左下にある、「 posted at 時刻 」の、時刻を 「クリック」 すると、そのツイートに関連した前後のツイート画面が開きますので、より、詳しい内容が解りますよ。
今までに発信したツイートが、月別にどこでも開けられます。宜しかったらご欄になってくださいませ。このtwilog は「お供え掲示板」と「社会学研究所」さんの投稿者の方々皆様のご意見で、出来上がっているものであり、皆様のものです。宜しくお願い致します。
TwitterはOS不足にて出来ませんが、お供え掲示板は見てます。
でも私はお供えの催促で悩んだことはないので立場が違ってますので静かに見ています・・。
ささやかではありますが、所属教会を支えていきたいです。
私が見た闇は皆さんとは違った視点の闇です。
自分なりにその闇に対抗するためには、天理教が必要だと考えています。
匿名ですさん、お久しぶりです。
またうっかりミスしておりますね。
お供えの掲示板には、「タイトルは天理教の「御供え」についてとなっておりますが、 組織制度についてでも、教理についてでも、 天理教のことであればなんでも談じ合ってください。」
と書かれているんですよ。
実は私もお供えを強要されたことは一度もないのです。
親は相当されてましたけどね。
自分がされてなくても想像力というものがあるでしょ。
皆さんの書き込みを読ませていただいて、想像してみてください。
ご自分だったらどうだろうかと。
その想像力こそが人への思いやりとなり、
それは匿名ですさんが大切にされている人をお助けすることにつながるのです。
twilog ややこしい仕方でやらなくても、古い教会長さんから教わりました。
http://twilog.org/sazannkasatuki で 私の twilog の画面が開きます。
古い教会長さんも twilog に登録されました。
http://twilog.org/huruikyoukaityo です。
よろしくお願いいたします。
訂正 すみません
【http://twilog.org/sazannkasatuki で 私の twilog 】
↓
http://twilog.org/sazannkasatuki です。すみません、そそっかしいので。
再度 訂正 なぜ ミスをするのか、自分に絶望する瞬間・・・・。
http://twilog.org/sazannkasatuki
あれ、又ダメでしたね、ごめんなさい、わからなくなった・・・。
50代元信者様
以前は適切なアドバイスをいただきありがとうございました。
まだまだきちんとした応対もできないまま自分の意見を書いてしまっております。お許しください。
闇は天理教に関することではなく、現代社会の作ったひずみのようなことに関してのものです。
天理教の浸透していた時代にはそのひずみは少なかったのです。
またおさづけに関してもそうです。おさづけをさずける方は天理に関して心がゆらげばさづけられなくなるように思います。受ける方もおさづけをさずける方を信じる心が大切に思えます。
教祖殿でおさづけの始まる前に、今日は教祖が教祖殿におられると感じる時があります。双方が天理を信じきっていると思います。すごい波動を発しながらおさづけをとりついでおられる場面に遭遇します。複数人で体験しました。
皆さんのように親が神一条とか、そういう環境にいたわけではないので皆さんと同じ経験はできてないのです。その変わり神一条のすごい方々と接する機会がありました。
教会の貧しさに関してはささやかですが、御供えをしていきたいと思っています。
天理教を守らないといけないです。遅い時間なのでこれで失礼します。
私がおさづけをとりついでいただいたのは神殿から遠く離れた所属教会でしたが、さすがです。しっかり効きました。
依存性人格障害の特徴
http://tanemura1956.blogspot.jp/2013/09/blog-post.html
宗教依存症になった場合のデメリットーーーーーーーーーーーーーーー
宗教依存症は、自分の行動全てが教祖様だったり信じているモノのお陰
だと思っているため、基本的に人の話を聞かない事が多いようです。
ココロの隙間、自分の弱さを宗教で埋めているため、自分に自信もなく、
自分で決定していても『◯◯(信じている宗教)のお陰』となります。
また、全ての事を宗教のお陰だと思ってるので、お金なども差し出したり、
友人、知人の意思とは関係なく勧めたりします。
教団の活動が激しくなっていき人との付き合いが出来ない状態になります。
また、不安や恐怖などを煽り宗教に勧誘する人が多いため、そういった不安や
恐怖を持っている方が宗教にハマる場合が多いようです。
主婦、1人で友だちがいない人などが宗教にハマる場合が多いと言われています。
宗教は自分の芯を持っている人であれば、ココロの拠り所、安静を保つため
にはいいですが、不安から宗教に逃げるなどの場合、時間が経つに連れて
どんどん依存症になると言われています。
http://依存症の治し方.com/%E5%AE%97%E6%95%99%E4%BE%9D%E5%AD%98%E7%97%87%E3%81%AE%E6%B2%BB%E3%81%97%E6%96%B9.html
より抜粋
匿名です 様
>教会の貧しさに関してはささやかですが、御供えをしていきたいと思っています。
> 天理教を守らないといけないです。
それぞれの思いや気持ちで感謝やお礼を込めて、教会に繋がり信仰を続けて行くのは素晴らしい事だと思います。私の(父の)教会にも毎月通いお参りをしながらお供えを上げてくれる信者さんが、僅かですがいらっしゃいます。
私の個人的考えですが、素晴らしい事だと感心しながらも「何に対して信仰をしているのか」が分からない(教えてあげられない)ジレンマに陥っています。
「天理教の組織」なのか、「教祖様の教え」なのか、「自分が素晴らしいと感じた体験」なのか。
これまでの書き込みからすると、匿名です様は「おさずけ」を受けてご守護を頂いたとの事。
その事実は素晴らしい事だと思いますし、その感謝やお礼の気持ちを持ち続ける事は、信仰云々は抜きにしても人として素敵な心だと思います。勿論、その気持ちから「お供え」を続ける事を否定はしません。
とはいえ、この掲示板やお供え掲示板に書かれている事や書き込んでいる人の殆どは、天理教の組織に苦しめられ、教組様の教えが不明のまま、個人的信仰体験もなく、日々、悩みながら心の平安をや生活の安定を得ようとしている人が多いのです。
その立場や状況の違いをご理解いただいて、「天理教は」とか「教会は」という言葉を使っていただけると、匿名です様の書き込みやご意見が伝わりやすくなるかと思います。
教会師弟様
皆さんには育てられた才能があります。小さいころから大勢の中で揉まれてきていて、常識も知識も対人能力も卓越したものがあります。
天理の知識も深いし、何より身についています。朝起きにしても、病気であろうと早い時間にきちんと起きることが身についています。他人を思いやる精神も、幼いころからしつけられて育てられた中で身についています。
私は信仰の深いすごい方々と接する機会があり、いくつも奇蹟的な体験を得て、人様の奇蹟体験を知り、10全の守護のすごさにも気づき、おさづけのすごさも知ってる。だけど、皆さんが持つものは卓越したものがあります。
魂の段階が違うものを皆さんはお持ちなのです。
匿名です様
>魂の段階が違うものを皆さんはお持ちなのです。
教祖様は「高山に暮らしているも谷底に暮らしているも、同じ魂」と言っています。
「魂の段階が違う」という考えは、仏教系の「輪廻転生」と「不遇は神の罰だからこの世で修行しなさい」という考え方です。
元の理でも、全ての種から一度に生まれ出直し生まれ変わりをしてきた人間というお話ですから、魂に段階も上下もありません。
この世で立場や境遇の違いは魂の違いではなく、人間が作った社会の仕組みで振り分けられているだけで、月日親神の意思に反したものであると思われます。
教会師弟様
教えていただいてありがとうございます。祖母を仏式で弔った際に仏教思想の影響も受けたと思います。
仕事をする=人に頭を下げる
匿名ですさんに質問です。
今までに人を傷つけて後悔されたことがどれだけありますか?
恥をさらけ出します。
私は夫に手をあげたことがあります(子どもにはありませんが)
夫の理不尽さに対してですが、でも苦しみましたよ。
手をあげた私の心と体が痛くて。
その他いっぱい失敗しております。
だから辛いだろうなって思うと涙が溢れます。
清濁併せ呑むってどういう意味かご存知ですか?
善・悪のわけへだてをせず、来るがままに受け容れること。 度量の大きいことをいうのです。
度量の大きな人間になる。
そのためにどんな道もとおらにゃならん。
今は辛くとも、いつかきっと花開く。
母は、若かりし日に沢山の過ちをしてきました。
今は反省の日々のようですが、そんな母だから人様に優しいですよ。
私はただただ真面目に正しく生きた人の言葉より
過ちを繰り返した中で削られ丸くなった人の言葉が心に響きますね。
削られるには痛みを伴うのです。
50代元信者様
遅くなってすみません。腹を割った誠意というのでしょうか。身を削りながら全身で相手のために何かをなさろうとされるところが、潔い印象です。
傷つけて後悔というのは、良かれと思って言ってることが傷つけていたり、何気ない一言が傷つけていたり、口けんかしたりいろういろです。
発した言葉についてはうじうじ考えたりします。
学生時代は暗くて地味でした。本ばかり読んでました。天理に触れてから明るくなってきました。社会人以降は8つのほこりを思い浮かべて感情に照らし合わせてきてます。8つのほこりが積もると心の鏡が曇ると教えてくださった友人の目がいつも思い浮かびます。海外布教華やかなりしころでした。友人も非常に苦労をされていました。
度量の大きな人間の生き方とは程遠くせこせこと生きている感じです。
身を削って飛び込まれるお姿は人間が大きいなと思いますよ。
<末端教会長は水飲み百姓 >
天理時報が届いた。教会長が活躍している記事はない。
目玉はちゃんと仕事を持って世間で活躍している人ばかり。
会長の記事は「座右のおふでさき」を除けば、訃報だけだ。
末端教会長は江戸時代の水飲み百姓。元気過ぎると文句を言う。死んでしまうとお供えが滞る。生かさず殺さずが丁度いいようだ。
古い教会長さま
こういうことではないでしょうか。つまり、教会長は文化活動、社会活動して目立ちすぎるな。信者獲得(においがけ)に信者管理(おたすけ・丹精)だけをやっていればよろしい。天理時報の一面にはデカデカとヨーロッパでの宗教間対話の記事が出ていたが、そういうことは表統領、大学の学長のような本部の偉い先生方のなさること。末端教会長が宗教間対話するのはもってのほか、そんなことをするくらいなら信者を獲得して来い、ということです。
匿名です様
匿名ですさんに光を与えてくださった所属教会の皆さんやご友人に
今心から感謝され、その元となる教えがこの先もずっと続いて欲しい一心で書かれているんですね。
体に力が入っていませんか?
体がカチカチになられているような、そんな気がします。
体をかためるとしんどいですからお気を付けくださいね。
そりゃ力が入りますよね。
誰も組織の上層部は援護射撃してくれないんですもの。
「いやそうではない。我々も改革に乗り出しているんだ」と語ってくれる人が現れないんですもの。
お彼岸を境に、ずいぶんと秋らしくなってきました。
芸術の秋、食欲の秋、楽しいことでご自分を満たしてあげてくださいね。