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天理教次期真柱の結婚披露パレードが不評だったワケ  幸福の科学化する天理教はそろそろ人助けの看板を下ろした方がいい

「この大型ビジョンとレーザービーム、スモークと花火。次期真柱中山大亮氏の結婚披露パレード。高校生まで動員し、贅を尽くしたパレードは数千万円はくだらないでしょう。これだけのお金があったら、毎日世界で貧困で死んでいく子供たちを何人助けられたことでしょうね」

この言葉は、熱心に信仰する天理教人と話す中で語られたものである。天理教が衰退する全ての本質をあらわしていると私が感じた言葉だ。

おさらいしよう。毎月26日は天理市にある天理教本部の月次祭がある。その中でも1月と10月には「天理教の始まり」と「教祖の死去」という重要な記念日であり普段より大きい大祭が開催される。人が集まる記念日に合わせるように、天理教次期真柱である中山大亮氏の結婚披露パレードが開催された。新婚の若者を批評するのは気が引けるが、天理教が衰退し、信者が減少する象徴を感じざるを得なかった。

周知のように天理教は年々信者数が減少し天理教本部に集まる献金も激減している。天理教の関連施設や天理市などへの回付近や寄付金も減少の一途を辿っているほど、経営はヤバイ状態である。昨年12月には実質的教団運営者である表統領の中田善亮氏が信者向けの内部機関紙で「御供(献金)は命のつなぎ」という脅迫ともとれる発言をしたことで週刊誌にも取り上げられ、天理教から信者も離れた。
この問題発言をした中田善亮氏の実兄が、天理教のトップである真柱の中山善司氏である。その中山善司氏には子供がいないため、中田善亮氏の長男、中山大亮氏を次期真柱後継者として大学卒業後すぐに養子として迎えいれた。(中田善亮氏も中山家から中田家へ養子にいっている)

その中山大亮氏がこのたび、天理教の有力系統である河原町大教会の役員の娘と結婚することになった。すでに天理教役員や天理教と関係が深い有力関係者の前原誠司氏や高市早苗氏などへのお披露目は済んでいる。2017年10月26日夜に実施された結婚披露パレードは主に大祭で集まった多数の信者向けであると考えることができる。

この結婚には以前から全国の教会で不満がくすぶっていた。なぜなら今年夏頃から、天理教本部が、系統や都道府県支部を通して、各教会から金額を指定した祝儀を集めていたからだ。金額は1教会数千円と多くないものの、全国に1万6千箇所ある教会の数を考えれば集まる金額は膨大である。数百万円の祝儀であれば常識の範囲内として贈与税はかからないが、数千万円であれば十分に課税対象であろう。さてこの祝儀は個人か法人か、どこの財布に入ったのだろうか。
また天理教では1万6千箇所の教会の7割は後継者不在を抱える事情教会と言われる。その事情教会を抱える上級教会は、数千円すら払えない事情教会分の祝儀までも肩代わりして拠出したようだ。また系統と支部という2方向からの祝儀要請を直撃した教会も少なくなく数千円で済まなかった教会も多い。また大教会単位では本部を忖度し、要請金以上に自主的に祝儀を拠出した大教会も少なくない。
この件に関して、「たった数千円の祝儀だからいいだろう」という反論をする人は全く天理教の実態を理解していない。そもそも親類でも友人でもない人間に金額を指定した祝儀を出せと言われること自体が、普通なら狂った組織だと感じるだろう。
祝儀は気持ちで出すべきだと考えるのが常識だ。

加えて、天理教に従事する若者(青年)は最低賃金を圧倒的に下回る月に1-2万のお与え(給与)しかもらっていない。もちろん社会保険も年金も払っていない。「彼らは修行の身だから労働ではない」と反論されることもあるが、やっている業務は会長の運転手や教会の掃除、雑用をこなすことが大半でとても自分自身と向き合うような修行とは考えられず労働と言える。青年でなくても天理教の教会で生活する人間は就職を忌避され、金にならない天理教の布教一筋であることを美徳とされる。そのため子供や扶養家族がいても天理教を信仰する親はバイトしかしていない家族が多い。信者から集める献金方法にも大きな問題があるが、ここでは割愛する。

このような「文化的な最低限度の生活」が困難な教会家族や信者が多い中で、祝儀を出せという天理教本部は、国民が貧困で苦しんでいるのに数億円のミサイルを発射する北朝鮮と同じであると揶揄されて当然であろう。今回パレードで使用された大型ビジョンは1日1台レンタルするのに200万円以上かかる。しかも2台である。レーザービームや花火にも、専門のイベント業者が関わっているのは明らかであろう。天理教本部は収支報告を公開していないので誰も経費を知ることさえできない。一晩のパレードだけで総合経費は数千万円では収まらないかもしれない。天理教では全国から集めたお金をごく一部の人間だけが動かすことができるようだ。これほどセンスがなく、信者が離れていくバブルのようなことをなぜ天理教は平気でおこなうのか。
天理教は過去にも同様のパレードを開催したことがある。真柱継承報告祭や教祖の誕生祭などである。しかし、さすがに現代の常識でこれほど異様な金のかけかたをするのは、天理教と幸福の科学くらいではないか。ましてや神や教義に関することではなく、たかが次期真柱の結婚という私的な行事である。そこにまるで中山家の所有物であるかのように現役高校生まで動員するというのは、極めて教育上問題があるだろう。このパレードこそ、天理教的に言えば人間思案そのものの醜態であろう。私はもちろん参加してないが、当然のようにパレードの異様な状況はSNSで一気にリアルタイムで配信されたことは言うまでもない。
一昔前であれば政治家の暴言や芸能人の不倫などは誰も知ることはなく、また知ったとして批判されることはなかった。それが現代では一気に批判に晒される。天理教人が「これまでと同じように振舞っているのに、なぜ批判されなければいけないの?」という疑問を持っているとすれば、それは天理教人が恐ろしく社会の流れや常識から置き去りにされている証左であろう。なぜこれほど社会の流れから逸脱した頓珍漢なパレードを実施したのか。私は不思議で仕方ない。もし私が結婚披露の主催者であれば新しい門出を迎えた若者が、信者に愛されるような、信頼してもらえるような披露を企画する。天理時報に写真と御礼のコメントを載せて、集めた祝儀は国連の難民支援に寄付するでも学校建設に寄付するのでもいいだろう。「こんなリーダーにならついていきたい」と思ってもらえるようにするだろう。少なくとも、集めた祝儀を自分たちの威信のため、組織を盛るために使用することなど敢えて不評を招くようなことはしないだろう。今回のパレードは冷静に長期的にみると逆効果でしかない。なぜ天理教は、不評を招き天理教から信者が離れるようなことを敢えてするのだろうか。なぜ人に嫌われることを天理教はするのか、私は本当に不思議で仕方がなかった。
天理教は常に内向きで喜んでいるが、本当に社会で苦しむ人を知らないのだろうか。次の日には天理教青年会の総会があり、威勢のいいスローガンが並んでいるが、果たして天理教は世界で苦しんでいる人を何人救う気があるのだろうか。本当に疑問でしかない。世界情勢、社会常識を備えた人間であれば、この徹底した内向きな宗教団体が社会のためになっていないと思うことは当然であろう。

SNSで荒れたコメント以外に、実際に天理教の中の人間はどのように考えているのか、どうしても気になるので、本部に近いある役員に電話して聞いてみた。以下はその方の推論である。
今回の結婚披露パレードでは、「どうしても盛大に成功させ、天理教の威信を『これでもか』と信者にアピールしなければならない人間が一人いる」とのことである。その方は、ずっと表統領になりたくて仕方のない人であり、中田善亮氏の次の表統領の座を絶対に逃したくない人物であるとのことである。表統領になりたくて仕方のない権力志向の人間であれば、パレードを盛大に成功させ、中山家(中田氏)への忠誠心をこれみよがしに発露させるという十分すぎるほどの理由と意味があったということだ。
この推論がどの程度真実かはわからないが、金で困っている信者が多い中で、異様なほど金をかけて盛大にパレードを行う理由としては最も納得がいった。それが正しければ結局、天理教というのは権力ゲームでしかなく人を助けるなど微塵も考えていないのだろう。

天理教は今回の結婚披露パレードではか非常に高額な金をかけたが、天理教は「宗教として非常に安っぽくなってしまった」と感じたのは私だけだろうか。レーザービームとスモークで登場するのは、今のご時世、幸福の科学の大川隆法と天理教の中山大亮氏くらいではないか。パレードの沿道には若い子たちが「キャー」とディズニーパレードのような歓声を上げており、新婚夫妻は何の躊躇いもなく嬉しそうな表情を見せていたが、宗教法人の次期トップとして、この学園祭の王子様役のような勘違いの情景は、後世に渡って語り継がれるだろう。大金を掛けて一瞬で消えたレーザービームとスモークの中で語られた声に本当に社会と末端の信者は耳を傾けると思っているのだろうか。情けない。

中山大亮氏は養子に迎えられ天理時報に掲載されはじめた当初は、精悍な顔つきのラガーマンであり、爽やかで体育会系の明朗さが好感を持たれていた。信者は皆、天理教への明るい未来を期待した。しかしある日、自宅から数百メートルのところにある体育館で行われている天理教校マーチングバンドを見るために運転手付きのベンツで行き、何もわからない高校生たちに頭を下げさせていた。その庶民とはかけ離れた一連のやり取りの様子はすぐにネットで流れ、今でも天理教信者の中で語り続けられている。イメージが全てとは言わないが、こんな常識外れで庶民の苦しみを理解しない人間が後継者では、天理教を信仰する人間がどんどん離れていくのは当然であろう。

世界では食うものもなく、WFPによると毎年310万人の子供たちが栄養不良で死んでいる。この事実を人助けを標ぼうする天理教の人間たちはどれほど知っており、どのように受け止めているのか。天理教の言う人助けとは、「災害救済だけやっていれば金は自分たちのためだけに使っていい」というものなのかと理解に苦しむ。他の宗教を賛辞するのは好きではないが、生長の家は世界の貧困や環境問題に積極的に関与し寄付金も継続的にしている。天理教本部や本部員は、声高らかに陽気ぐらしを宣言するが、災害救援で信者に動かせるばかりではなく、実際に何か行動をして世界に貢献しているのか甚だ疑問だ。

私が聞きたいことは一つだ。信者から巻き上げた金を自分たちで存分に消費し、目の前でレーザービームとスモークを浴びせられ、神聖な神苑に大型ビジョンを乗り付けられ、天理教の神と存命の教祖は、果たしてどのような気持ちで見ていたのだろうか。

 

※天理教本部、大教会、上級教会、支部等から配布された書類、メモ、写真等を集めております。ご協力いただける方は下記メールに送ってください。送っていただく際には発行元とおおまかな日時をご記入ください。

tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.co.jp

天理教の象徴である甘露台の倒壊を「ただただ申し訳ない」と謝罪する内統領山澤廣昭氏が何に対して謝罪しているのかよく分からない。そんなに責任を感じて謝るなら辞任した方がよいのでは

天理教には教祖が定めた「ぢば」という中心点がある。天理教信者は、世界中どこからでも、この「ぢば」に向かって礼拝を行う。「ぢば」は奈良県天理市の天理教本部の神殿家屋内にあり、「ぢば」の場所には甘露台(かんろだい)という木製のブロックを積み上げた、だるま落としのような塔が立っている。この「ぢば」に置かれた甘露台は四方を畳の参拝場に囲まれている。参拝場の中央は一片20mほどの正方形の窪みがあり、その中央にぢば甘露台が鎮座しており礼拝上から枠越しに見ることができる。中央の窪みは高さ1mほどの木製ポールで結界(枠)が作られ一般参拝者は入ることはできない。また神殿内には警備員が配置され見張っている。明らかな不審人物は警戒され警備員に距離を詰められる。
甘露台が置かれた「ぢば」は信仰目標であり、原点であるため、ここに巡礼することを天理教では非常に重視される。「お『ぢば』がえり」という概念化された行為があるのはまさにここが核心的象徴の場所であるためである。

そして、その甘露台という塔が2017年7月26日の18:20頃に「侵入者」によって倒された。情報によれば若い男性が甘露台めがけて突進していったようだ。

私など外部の人間にしてみれば塔が倒れたとしても、外部圧力で防ぎようがないし、信仰目標である場所が不変なのであれは「ささっと直せばいいのではないか。大ごとにするほど後々の対応が大変だろう」と考えるが、信仰者にしてみれば象徴性の倒壊は看過できない一大事のようだ。

天理教公式ホームページでも発表があったので引用してみよう。
http://www.tenrikyo.or.jp/yoboku/information/2017/07/27/25057/
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2017年7月27日 (木)
7月26日夕刻のふしについて
7月26日午後6時20分ごろ、本部神殿結界内への侵入者により、かんろだいの上部が倒されるというふしを見せられました。
その後、定時に夕つとめが勤められました。
夕つとめ後、急遽、本部員会議が開かれ、その席で、真柱様からお言葉がありました。
引き続き本部員会議で、このふしについてねり合われました。
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私はこの発表を見て驚いた。なぜなら本部の対応が非常に素早いからである。普段、天理教本部の発表は基本的に遅いと私は感じている。なぜ今回はこのような早い発表となったのか。それは天理教本部は相当に焦りを抱えているためだと予想する。

現在、天理市の天理教本部では毎年恒例の「こどもおぢばがえり」が開催されている。そこでは子供たちを対象に遊びの行事が行われている。信仰の有無に限らず全国から子供が天理市に集まる(近年では大人の方が多い)。こどもおぢばがえりでは、遊びの行事に加えて、子供たちには本部の参拝、天理教の教えを学ぶことが必須である。その際に、象徴である「甘露台がない」というのは非常にマズイであろう。

また普段天理に来ることはないが、こどもおぢばがえりにはくる信者予備軍の鼓笛隊員や引率の若者や保護者などに対して「ぢばの象徴である甘露台がない」という事実は、天理教本部の不安定さを印象づけることとなる。

それに加えて甘露台倒壊の情報は一気にSNSを駆け巡る。「個人が好き勝手に天理教を語るのはケシカラン」という姿勢の本部が、信者に好き勝手に喋らせて、甘露台の倒壊に対して信者への動揺を必要以上に広げるわけにはいかない。そのため今回のような素早い対応となったのであろう。ちなみに過去に何度も甘露台は「侵入者」によって倒壊されている。その度に、新しいものと据え替える儀式を大々的におこなっている。

今回の倒壊に対する天理教本部の対応は厳しく難しいであろう。そのため「真柱のお言葉」も「本部員会議のねりあい」も決して全て公開されることはないだろう。

天理教本部の本音としては時期が時期だけに、さくっと終わらせて、できれば「倒壊」を無かったことにしたいと考えるのが普通であろう。「あるはずの一番大事なものがない」という事実を未来ある若者たちに晒したくはない。すでに大量に発信されている「ほんとに甘露台がなかったよ〜」という若者の何気ないSNSへの投稿は、天理教本部にとってみれば本部への不信感を増強させるボディブローに感じるだろう。
しかし、対応をさくっと終わらせてしまっては天理教本部としては絶対的な「ぢば」を軽視することとなり、天理教本部の存在自体が軽視されることを容認してしまうことになる。天理教本部は天理市じゃなくてもいいとなれば、それはそのまま幹部(本部員)への転覆運動や反本部員運動に繋がるであろう。最も恐れるのは「ぢば=天理ではない」という雰囲気が作られることだろう。

しかし一方で、今回の甘露台倒壊の原因を、信者の心の不足に責任転嫁しようものなら、天理教本部に恨みを持つ者によって甘露台の倒壊が今後も連続する恐れがある。天理教本部が次に最も恐れる日は次期真柱候補の婚姻日となる9月1日であろう。その1週間くらいはかつてないほど最も本部神殿の警備が厳重になることは予想できる。

話を戻す。今後の対応で最大の注目点は、この象徴の倒壊に天理教本部はどのような意味を付与するかである。たとえば「今回の事故は天理教全体に神が見せた試練(ふし)である。信者が一つになって、心を一つにして乗り越えよう」などと信者の心の未熟さに責任転嫁するようなことであれば、幹部に対する不信感のエネルギーは一気に本部不要論(大教会長及び本部員はいない方がマシ)に向かうであろう。
今回の倒壊に関しても「天理教本部が教義に反する、間違ったことばかりしているから、神が本部に怒ったのではないか」という本部への信者の不信感の声は根強い。

信者に責任転嫁するようなことがあれば、もう天理教本部は真の天理教を信仰する上で邪魔でしかないという雰囲気はゆっくり確実に醸成されるであろう。

ここまで書いたところで今週日曜発行の天理時報4534号が手に入ったので見てみよう。天理時報の発行を一日送らせて内統領のコメントを差し込んだ内容である。
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反省の意を強く持ち
7月26日夕刻のふしについて 山澤廣昭 内統領

 かんろだいに大ぶしをお見せいただきました。
 ぢばにお鎮まりくださる親神様、ご存命の教祖に、ただただ申し訳ない思いでいっぱいです。
 月次祭の当日、こどもおぢばがえりの始まる日であり、帰参者の方に心配や動揺をお掛けしていることについて、ぢば近くに勤める者として深く反省し、お詫び申し上げます。
 親神様、教祖、ぢばは、その理一つであります。ぢばに据えられたかんろだいは、私たちの信仰の芯であります。そこにふしを見せていただいたことは、私たちの信仰態度が、親神様の思召に沿いきったものなのかどうかを、強くお知らせくだされたものと思案します。
 お互い、ぢば一条、神一条の精神を再確認することが必要だと思います。神一条とは、自分の考え方に合わせて、親神様の教えを解釈する姿勢ではなく、教えに自分の考えを合わせていくことです。そのことを、あらためて胸に治めさせていただきましょう。
 現在、かんろだいは、下の二段のみが真座に坐(おわ)します。明示14年、二段まで造られたかんろだいの石普請が頓挫し、翌年、没収されました。先人たちは、必死にこの道をお通りくださり、今日の姿を残してくださいました。
  そのこと思うとき、現在当たり前のようにかんろだいを拝し、おつとめをつとめさせていただいている自分に、慣れや惰性があるのではないかと、反省の意を強く持ちました。
  まずは教会本部内々の者から心を治め直し、真摯に親神様の思召をたずね、御心に沿ってつとめさせていただきます。
  教内のようぼく・信者の皆さま方も、このふしを”我がこと”と捉えていただき、実の親である親神様にご安心いただけるように、それぞれの心を育てる機会とし、今回のことを活きぶしとさせていただけるように、共々おつとめくださるようお願いいたします。
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さて、これを読んで読者はどのように思うだろうか。私は内統領が何について神に謝っているのかさっぱり分からない。どんな理由から内統領は神に「ただただ申し訳ない」と謝っているのだろうか。
侵入者を侵入させてしまった警備の甘さだろうか。それとも「献金しないと命が切れる」という暴言を表頭領中田善亮氏が信者に言い放ったことに対してであろうか。それとも、こういった事態を引き起こしたのは、我々と信者の心が間違っているからだろうか。

内統領のコメントは、何に関して神に反省し謝っているのか私にはよく理解できない文章である。

そして予想通り、甘露台倒壊を「信者の心の問題」としてすり替え、責任転嫁したストーリーを形成しようとしている。外部圧力で器物損壊されたことを信者の心の問題にすり替える技術は天理教は本当に天下一品だと思う。天理教本部に良くないことはすべて「信者の未熟な心のせい」にしてしまうのは、結局天理教本部は謝罪する気など毛頭なく、信者に「お前らの心が一つじゃないから」と言い続けることができる。
このストーリーを手放さないことで常に天理教本部は勝者であり、強者であり続けることができる。せめてもの救いは「まずは教会本部内々の者から心を治め直し、真摯に親神様の思召をたずね、御心に沿ってつとめさせていただきます。」と本部にも改心が必要であること宣言していることであろう。

しかし内統領が「ただただ謝罪」するのであれば、地位に恋々としがみつくのではなく辞任してみてはいかがだろうか。甘露台の倒壊についてまで信者の心の問題に責任転嫁されては信者はたまったものではないだろう。信者にしてみれば「いやいや、お前ら幹部が教えをおもちゃにしてるだけだろ。都合が悪いときだけ信者のせいにするなよ」と不信感を広げることになる。内統領が責任を感じて、本気で謝罪する気があるのなら辞任すればいい。そうすれば「あの人が悪かったんだね」と責任の所在は明確になり、信者は理不尽な責任を背負わせられないで済む。本件は一気に収束するであろう。謝罪はするが誰も責任を取らないのであれば、それは謝罪する気など毛頭ないということなのではなかろうか。内統領のコメントは結局謝罪よりも「私は悪くない」というパフォーマンスであり茶番だ。地位に恋々としがみつくあまり支持率が急落しているのは、連日のニュースでもう見飽きた光景であろう。

天理教災害救援ひのきしん隊(災救隊)を政府や国民が特別視してはいけない理由

2017年4月21日の参議院、東日本大震災復興特別委員会において、民進党の藤田幸久氏が「天理教災害救援ひのきしん隊」、通称:災救隊(さいきゅうたい)について質疑をおこなった。私の論評は後にし、まずは動画から一連の質疑をテキスト化した。口語文のため読みにくいが、できるだけそのままを再現した。
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議長:藤田君

藤田氏:時間の関係で次移りますが、資料をご覧いただきたいと思います。これは実は天理教災害救援ひのきしん隊という恐らく、これは実は120年以上の経験のある日本最大の民間災害支援組織であるという風に思います。私も実は今まで、国内もさることながらスマトラの津波、ジャワ島の地震、パキスタンの地震、ハイチの地震、東日本大震災と行ってまいりましたが、実は日本国内にこういう組織があるっていうのは、直接目にしたのは5年前の筑波における竜巻の現場でございました。それから一昨年の常総を中心とした災害のときに、この、こういう方々の活躍を目にいたしました。で資料を持ってまいりました。1ページ目、実はこの組織はですね。阪神淡路大震災、新潟中越沖地震等々を活躍をしました。これみんなこの実際に、こういうしっかりとした装備を付けながら活動している状況であります。で、陸前高田の市長さんもおっしゃっておりますが、下から8行目ぐらいですけども、東日本大震災で絆という言葉がクローズアップされたが、まさに救援隊のこのあの皆様と被災地の関係にふさわしい言葉だろうと思っております。それから次のページいきまして、この部隊の凄いところは全部機材を持ってるんです。私も見ましたけれど、この必要な機材のところで、4行目くらいですけど、ダンプカー、パワーショベル、クレーン車、スコップ、チェーンソー、無線機、マイクロバス、給水車、で、全部これ自己完結的にやっております。で、これも宮城県の東松島の市長さんが、えーこれは上から8行目ぐらいですけども、泥やヘドロの処理、瓦礫の搬出、公園、公共施設内の清掃や整備、植樹、炊き出しなど、様々な要望に対応していただき、延べ1000名を超える方々がいらっしゃったと。それから次のページでございますけれども、この衣食住、自己完結でございます。え、衣の部分もそれぞれがしっかりした装備を着ておりますし、食の所は食料、飲料水、炊事設備を持参し、食事は全部この救済、災援、災救隊でまかないますと。大釜などの炊事設備も持ち込みます。で、これはあの熊本の阿蘇市長の佐藤さんという方が、これは下から7行目ぐらいですけども、産業資機材はもちろんですけども、衣食住と全てにおいて自己完結型であり、意識の高さと統率された行動に、これまでの経験の深さを改めて感じましたと。それから次のページに行きまして、こういう具体的なことをされておられます。例えば土砂崩れを起こした斜面に、この石段を造成する。右の方で倒木の処理、それからその下の写真で土嚢で土砂崩れを防止をするということであります。これは当時の兵庫県の知事の言葉が下の方に出ておりますけれども、阪神淡路大震災において医療活動や給水支援、瓦礫処理等を資機材の調達や隊員の宿泊場所の確保を含めて自己完結型の体制で出動していただきましたということでございます。それから次のページにいきまして、これがですね120年の歴史であります。左の一番上、明治24年の濃尾地震、それから関東大震災、そして右のページにいきまして、平成7年阪神淡路大震災、これ括弧で2万名が、この団体から実際に動員されていったと。えーそれから下の方にまいりまして、平成23年のところに東日本大震災、これ3万名、3万人くらいの方が実際に出動されているという歴史でございます。そして次のページでございますが、これは東日本大震災における出動記録でございますが、この宿営拠点地というのがあるんですね。宿営拠点地というのが右側にありますけども、こういう宿営拠点地を寝城にしながら、炊き出し、瓦礫撤去をおこなったという、この延べ3万人の中の内訳が出ております。で私もですね、こういう団体があるというのを知りませんでした。で、恐らくあの、日本で見てる中で、あるいは世界的にもですね、これだけの部隊というものは恐らく他にないんじゃないかと思っておりますけれども。で、これをですね、政府の方で、私も知らなかったんですが、政府の方でこういった団体があるっていうことの知見がなかったんじゃないかと思いますがいかがでしょう。

議長:内閣府緒方審議官

緒方氏:お答えいたします。いまご指摘のございました天理教災害救援ひのきしん、ひのきしん隊につきましては、災害時に組織的な動員力と建設機械などを用いた技術力を駆使いたしまして活動されていることにつきましては、承知をいたしておりました。

議長:藤田君

藤田氏:という程度なんですね。それで、つまり今私読みましたのは、阪神淡路大震災のときの知事も知っている、それから色んな市長さんも知っている、だけど政府でこれだけの部隊があるってことはほとんど実は共有してなかった。ということは私は共有することは非常に重要だろうと思っています。で、特に私も色んな援助に関わってきましたけど、この宿営拠点地を持っているというのは人道援助で路地があるっていうのは一番重要です。そして自己完結型の機材、それからお風呂も含めてですね、全部持っていく。こういう部隊ないんですね。それで、ということは実はあのこういう災害で、こういう部隊がいった所においては社会福祉協議会に登録をしたりしています。茨城県もこの筑波とか常総にいった後になっているんですね。たぶん恐らく阪神その他、災害でこういう部隊が行った後は、社会福祉協議会等の登録をしたり、あるいは県の災害関係者の中には知見があるんですが、これ現場を見たら凄いって分かるんですけども、重要なことは、事前にですね、こういう部隊があるんだと、ということは、ここにお願いをすればこういうことをやってくれるということを知ってるか知ってないかって非常に重要なんです。で、こういう実は部隊があるっていうことを政府で共有するためには、あの今はそれがないんですけどね、どういう風にしたら共有できるか、についてお答えいただきたい。

議長:緒方審議官

緒方氏:お答えいたします。今日、災害時におきましては、今お話ございました天理教災害救援ひのきしん隊のような技術やノウハウ、それから災害対応経験を持ちますNPO等のボランティア団体が、被災地に駆けつけまして、国、自治体では手が届かないきめ細やかな被災者支援活動を展開されていることを、でございます。こういった風な活動を促進していくためには、NPO等と国、自治体の連携が大変重要と考えておりまして、例えば熊本地震におきましては、300以上のNPO等が参加されました熊本地震支援団体火の国会議が設置されまして、その場を通じてNPO等と県との連携がはかられております。同会議につきましては、天理教災害救援ひのきしん隊につきましても参加されまして、熊本復旧支援に取り組まれたというふうに聞いておりまして、そういった風な連携におきまして、引き続き力を発揮していただきたいという風に考えております。

議長:藤田君

藤田氏:だから駄目なんですね。つまり熊本で地震が起きた後に、そういうグループを作った中に入ってくださいという話なんです。そうじゃなくて、すでに政府の中で、こういう部隊があると、例えば日赤はこういうことができる、あるいは緊急援助隊だったら海外だったらこういうのがあると知ってれば、じゃあ連絡をしてここに行ってくださいと、おたくの部分の、この部分が行ってくださいと指示ができるけども、情報がないから今みたいに、Ad hocな話です。災害が起きた後の、そうじゃくて事前に政府の中に組むことが重要なんで、少なくとも地方公共団体、警察、消防、社会福祉協議会等においては、パンフレットもあることですから、これを共有してですね、常にあの政府の方で、そういうものを、情報を提供できる。すでに普段の段階から少なくとも都道府県、警察、消防、社会福祉協議会等については、これは普通の、なんか今の話ではワンオブゼムの話なんです。で、私も民間のNGO団体にいましたが格が違います。レベルが。プロです。ですからこういうプロ集団がいるということについてはワンオブゼムの扱いじゃない扱いをしていただきたいと思いますが、いかがですか。

議長:緒方審議官

緒方氏:お答えいたします。こういった熊本県の今回の対応の経験などを踏まえまして、全国の各自治体におきましても、それぞれの地域でNPOとの連携を深めていく動きを進めていっております。そういった中で、各自治体につきましても、また国の方におきましても、それぞれのNPOの活動につきまして承知していくことになっていくかと思っております。

議長:藤田君

藤田氏:あのね、起きた後に、地方自治体でこういう団体もありますからどうぞっていう話じゃないんで、政府の方で、非常にこれ重要なね、ありがたい団体があるんです。それを有効活用しないってことは政府の怠慢ですよ。だから、例えば政府の防災会議なのか、他の仕組みの中で、例えばあの中央防災会議ですか、日本医師会入ってなかったんですね最初、311の時、後で下部組織に入れましたけど、同じようなもんです。そういう意味での、政府の中できちっとこういう組織があるっていうことを、政府の方でしっかりね、認定をし、組み込んでくださいって話なんで、どうですか。じゃないと今のようなことになっちゃいますよ。後になってから、あの、後追い的にしましたみたいな。それじゃ間に合わないんだ。どうですか。

議長:緒方審議官

緒方氏:お答えいたします。NPOのネットワークがござますので、そういった中で活動されております団体につきましては、私ども承知する状況にございますので、そういった中で必要に応じましてお願いすることもあろうかという風に思います。

(女性議員が議長の元に歩みでる)

議長:速記止めてください。(音声ミュート、映像のみ)

(複数の議員が議長席に集まる)
(画面上部に「速記を止めている間、音声は流れません。何卒、ご理解ください。」と表示される)

1分40秒後
議長:改めて藤田君、質問お願いします。

藤田氏:あの起こった後のワンオブゼムのNPOではなくて、比較にならない、ある意味じゃ政府が持っていないような機能を持っている部隊、路地も含めて、を活用しなければ私は政府の怠慢になると思いますが、それに関して検討もされていない、検討する意思もないということですか。

議長:緒方審議官

緒方氏:天理教災害救援ひのきしん隊におかれましては、非常に活動を展開していく条件が揃っていると承知はいたしております。こういった風なNPOの活用していただくことも含めまして今後政府といたしまして検討したいと思っております。

議長:もし大臣、補足があればお願いしたいんですが。(大臣挙手)今村大臣。

今村氏:ただいま藤田委員の話を聞いておりましてですね、私もなるほどなと、噂には聞いておりましたけども、こんなにですね、以前から、こんなに、きちっと組織だった活動をしておられたということをうかがいまして、改めて大変感動しているところであります。それであの、我が国災害国ですから、いついかなることが起こるか分からないと、そういう中でですね、やはり今回の東日本もそうですし、熊本もそうですが、やはり初期活動ですね、これは非常に大事です。ですからそのときに備えてですね、どういうことができるのか、どういう体制でできるのか、どういうチームがいるのかというのはですね、これは国だけでは駄目だと思いますから、せっかくこういう色んな団体、チームもいらっしゃるわけですから、そういったものをある程度まとめてですね、きちんと、なんていうんですかね、把握しとくと言いますか、いざというときにはすぐ活動できるようなそういう体制づくりをすることも必要じゃないかと、備えを常にという言葉がありますが、そういったことにですね、準じて私もですね、また関係箇所と相談しながら、せっかくのそういった組織がですね、うまく機能的に活かせるような仕組みを検討していきたいという風に思います。

議長:藤田君

藤田氏:大変いい答弁をいただきましてありがとうござました。私は最後申し上げようと思っていたのは、この緊急援助隊は大変大きな問題を持っているんです。それは何かと言うと、自分たちの手柄を一切言わない団体なんです。だから120年たっても、この、こういうことが知られてなかったんです。ですから、今さきほど後ろの方で宗教団体がって話がありましたが、この団体は布教活動一切やっていないと思います。私が見てる限りで、でむしろ宗教団体が故に、あの手柄を言わないできてる。ですから例えば県とかに行くと新聞に出てるんです。こういう団体がやってくれた。ところが一般紙に載らない。だから知れないわけですけど、でも私はこれは大変な宝ですから、是非その背景が、逆に背景があるんで宿営地があるんです。ですからそれをむしろ有効活用していただきたいということを今の大臣の答弁に加えてですね、お願いをして次の質問に移らせていただきたいと思います。
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以上が委員会での質疑である。

全体的な印象として藤田議員の主張は、天理教の災害救援隊を、その他の数多あるNPOと一緒にせず、特別視するようにという要求であった。政府の答弁は「天理教だけを特別視はできないが、今後の検討にする」という当たり障りのない返答であった。同席していた今村雅弘前復興大臣こそ天理教に限らずに「力のあるボランティア団体は、災害前に政府と関係を築くべきだ」と前向きな答弁をおこなっていた。その直後に彼は失言で大臣を辞任してしまったが。

印象的なのは、藤田議員が天理教をゴリ押ししている点である。途中で質疑が中断したのもその影響ではないかと思われる。藤田議員の質疑を聞いている議員にしてみれば「災害救援で活躍している団体や優秀な団体はたくさんあるのに、なぜ天理教だけを特別視する必要があるのか。それはおかしいんじゃないか」という異議があったと考えられる(中断中の音声はミュートのため実際は聞こえない)。質疑の最終部で藤田議員が「今さきほど後ろの方で宗教団体がって話がありましたが」と言っていることから、どうやら議場内の他の議員から「天理教は宗教団体だろ」という野次があったと推測できる。しかし藤田議員は

「私は最後申し上げようと思っていたのは、この緊急援助隊は大変大きな問題を持っているんです。それは何かと言うと、自分たちの手柄を一切言わない団体なんです。だから120年たっても、この、こういうことが知られてなかったんです。ですから、今さきほど後ろの方で宗教団体がって話がありましたが、この団体は布教活動一切やっていないと思います。」

まず天理教という宗教団体の説明は一切していない。どちらかというと宗教団体であることを避けているようにも感じられる。そして、天理教が天理教災害救援隊の活動を声高に宣伝している事実は隠されている。新聞などの一般紙に取り上げられないことを「手柄を一切言わない」のではなく、「一般紙は天理教だけを特別視しない」という方が事実に近いだろう。なぜ一般紙はどこも天理教を特別視しないのだろうか。自己完結型の優秀なボランティア団体や、規模の大きいボランティア団体は天理教だけではない。確かに天理教は自己完結型の規模では日本で最大規模かもしれない。しかし天理教では天理教以外で活躍している他のボランティアの情報など一切無視されて宣伝されるのは誰もが知っている常識であろう。そのため天理教人は「天理教災害救援隊が、日本で素晴らしい唯一無二の団体」と洗脳されきっている。

一般紙では取り上げられない代わりに、教団の機関紙や新聞では代々的に、これでもかと宣伝されており、布教用の冊子にも度々取り上げられている。これを「手柄を一切言わない団体」と説明できるか非常に疑わしいのではないだろうか。

加えて、この委員会での質疑に関して天理教内では早速「天理教災害救援隊が、国会で取り上げられたぞー!やったぞ!」という声があちこちで聞かれ、SNSで拡散させている教会長や本部役員などが多数いる。これが手柄を言わない団体といえるのか。幸いにも現時点で教会本部の公式として宣伝していないのが救いである。天理教本部が宣伝に利用してしまっては藤田議員の発言がウソになってしまう。

そして一国民として最も聞きたいことは、政府が一宗教団体を特別視することが、国民の信頼を得られるものかどうかであろう。藤田議員の発言だけを切り取ると「天理教災害救援隊の活動はなんて素晴らしいんだ」だけで終わってしまう。しかし、天理教災害救援隊が本当に信頼できるものなのか、国民の生活の復興を任せるほどの組織なのかという議論は全く触れられておらず非常に危険である。ここはきちんと事実関係を整理しないといけない。

結論から述べると、私は天理教災害救援ひのきしん隊を特別視し、政府の災害救援の第一線を担わせることに反対である。その理由を以下に述べる。

前提として、私は概ね藤田議員が述べた天理教災害救援隊の説明には賛同する。天理教の災害救援隊は歴史が長く、活動実績も豊富であると思う。この団体は、宗教法人天理教が所有している非法人の任意団体である。構成員もみな天理教の信仰者であることから、共助の精神を背景にしている。都道府県単位を分隊として定期的な訓練をおこない、関東地方や東海地方など地方ブロックごとの訓練も行われており、応急体制もとっている。天理教のホームページを見れば高齢者ばかりで非常に頼りない組織にも見えるが、都道府県単位の分隊の土壌として、数日から1ヶ月単位の訓練もおこなっており高齢者だけでない人も多く参加しており継続的なマンパワーも確保されている(この訓練も参加人数のノルマが課せられている大教会もあるようだが)。また阪神大震災や東日本大震災のような大規模災害の際には隊員だけでなく、天理教信者がボランティア(≠ひのきしん)として被災地に入るため、天理教全体として人手は非常に多いと思われる。また、この団体の趣旨の根拠となる「ひのきしん」は「神に対する自己献上」(諸井慶徳)とされており、人への善意というよりは神への感謝を肉体を使って表現することがメインである。利他的行為であるボランティア精神とは異なるものの損得のない精神に好感がもてる。この天理教災害救援ひのきしん隊の活動は尊敬に値することはいうまでもないことは前提としたい。

では、災害が起こる前に継続的な政府のパートナーとして国民生活の復興を担うに相応しい団体だと言えるのかという点で以下に私は反対の理由を述べる。

1 天理教災害救援隊の金銭の収支は不透明であり、国民の信頼を得ることは非常に難しい。このことは「天理教里親活動」の中でも取り上げたことと同じである。活動内容は素晴らしいが、宗教法人のお金の流れは不透明であり、財政的な疑惑が解消されない。つまり天理教災害救援隊のかかる費用や集めた募金が適切に使われているのかさっぱり分からない。国がNPOを重視し、NPOを支援しているのは、まさしくその点であろう。NPO法人のように法律の中できちんと収支報告を公告し、誰でも閲覧可能な活動実績を公開している組織を信頼するのか、組織の情報を一切市民に公開していない団体を信頼するのかは論を持たない。東日本大震災では天理教は被災地へ送る義援金と、災害救援隊等で使用する義援金の2種類を集めたが、きちんとした報告書や収支報告は一切公開していない。信者には救援の美談で騙せても、国民からは到底信頼できないであろう。

さきの委員会答弁をした役人は天理教災害救援隊のことをあまりよく知らない様子であったが、「知りようがない」というのが本音であろう。天理教災害救援隊を調べれば、美談は山ほど出てくるが、組織として、団体として“まともなのか”どうかは、天理教が情報を一切出さないために知りようがない、金の流れが不透明で信頼を得ていない組織を認めるわけにはいかないというのが本音だろう。国の事業に関わったものなら理解できるが、国民の信頼を得ない事業はどう足掻いても決して認められない。森友学園問題など利権や政治が複雑に入り組んだ特異な事例を除き、膨大な国の事業では基準に達しない事業は簡単に切られる。その際の決まり文句は「国民を納得させられない」だ。今回の災害救援の場合、税金は扱われないが、国民の生活に関わることであり、より慎重にならなければいけない。

2 天理教災害救援隊の意思決定や組織構造が不透明であり、誰も社会的責任を取らない。1とも同じであり天理教によく見られることだが、一部の人間によってすべてが決定される傾向が強い組織である。ある日突然に、わけのわからない方針が発表されることは大きな組織ではよくあることだが、それを災害救援に適応されるのは非常に危ない。その一部の人間が判断を間違っていれば、すべて間違ってしまうリスクが大きい。このことは天理大学おやさと研究所が2012年3月25日に発行した「東日本大震災における天理教の救援 -全教あげての活動と今後の課題を考える-」の中で、東日本大震災の天理教災害救援隊で指揮をとった田中勇一天理教災害救援ひのきしん隊本部長の講演録から見て取れる。活動自体は素晴らしいので、ケチをつけるようになってしまいで恐縮だが、本部長という役職にありながら感動話に終始しており、実際的なマネジメント論やシステム論は皆無であった。これは天理教災害救援隊の専門性の低さを物語っていると感じる。行き当たりばったりの根性論ばかりである。それはそれで大学生のボランティアサークルのようで悪くはないのだが、本部長が災害マネジメントや復興アプローチの教育や経験をどれほど受けているのか疑問でしかない。これは、天理教災害救援隊の活動が、非常に即効性があり柔軟性があるものの、東日本大震災では天理教本部が災害救援対策本部を設立し、その傘下に災害救援隊が位置づけられたことも、意思決定の不安定さを物語っている。大災害の対応手順が何もないような印象だ。このことから天理教災害救援隊の意思決定は、一部の人間によって容易に覆される危険性がある。この件に関しては、私も3.11の時にいろいろと耳にしたことと符合する。話を総合すると、天理教災害救援隊は意思決定に関して自律的組織とは思えない。

3 天理教災害救援隊で隊員として活動する人間の多くは、平時に天理教の業務をおこなっており、天理教からは最低賃金を圧倒的に下回る低収入や、アルバイトなどを兼務しているという点で即応できず、救援活動にも専念できない現状がある。彼らには常に金銭と生活の側面で不安定な部分があることは否めない。私は今回の記事作成について何名かの隊員から話を聞いた。実際はどのように出動するのかと。もし災害が起こったら数時間中に都道府県単位の隊長から連絡がくるとのことだ。しかし連絡が来ても『今から行きます』などとすぐに人は集まらないという現実があることを聞いた。特に天理教の末端の人間などは毎日のように行事や祭事が詰まっており、「明日はうちの教会のお祭りの日なんでいけません。さらに3日後には上級教会のお祭りなんで行けません。その次の日は大教会のお祭りが・・・」という返事ばかりだという。そこで出動日程を調整し、その日程で行ける人を集めるということで、即応性とは言い難い。藤田議員の質疑では災害が起こる前に体制を整えるべきだという主張は、専任ではない人間が多数いる災害救援隊は現実的には非常に厳しいであろう。
皮肉にもすぐに動ける人間というのは、信者から巻き上げた献金で安定な収入を得ているものの、現場にはいかない天理教本部の人間ばかりではないのだろうか。彼らは本当の現場には行かずに、役所まで義援金を持っていき天理教広報のカメラに収まるのが仕事である。天理教トップの真柱でさえも、お付きを連れた視察で汗をかいた様子もなく宣伝用のカメラに収まる。冷静に考えれば、彼には何の行政執行能力もなく、まるで天皇ごっこにしか見えない。

天理教災害救援隊をボランティア団体という認識であれば、仕事の合間を見つけて駆けつけようとする意思、これだけで尊敬に値することは言うまでもない。しかしこのような不安定な組織運営を信頼し復興の一翼を担えと言われても困難である。

以上のことから、私は天理教災害救援ひのきしん隊が政府と国民の信頼を得るためには、別法人やNPOを設立し財政的、組織構造的な透明性を向上するべきだと考える。天理教組織に関わることすべてに当てはまることが、天理教が発行する媒体も含めて、まともな議論を展開できる大人が天理教には不在である。「苦労して人を助けたぜ」という美談に明け暮れ、歴史学者のように教義をこねくり回すのは結構だが、きちんと現代の社会に認められるまでに組織構造を昇華させようとする大人は天理教の幹部には一人もいない。口を開けば「神様に喜んでもらうため、動員せよ献金せよ」と美談や感情論などの幼稚な議論ばかりである。信者や学生は騙せても、社会の一員として国民に認めてもらえるには到底物足りない。特に金の流れの不透明さや、信者への半強制的な献金などをおこなっている組織を特別視しろというのであれば、他の宗教団体もNPO団体も黙ってはいないだろう。もし天理教が災害救援に自信を持つのであれば、NPOのように天理教災害救援隊の「事業報告書」「貸借対照表」「財産目録」「役員名簿」を公開してみてはどうだろうか。きちんと広く国民に見てもらえばいい。そうできない理由でもあるのだろうか。

今回、気になって更にいくつかの資料を見返した。天理教災害救援ひのきしん隊というのは、天理教の対外政策の中で、天理教の中では非常に評価が高いと感じる。天理教の活動の中でも、例外なく社会に対して説明がしやすいからなのだろう。ただ、天理教人は誰もこの団体を組織論や災害マネージメントとして言及しないのが不思議で仕方ない。宗教たる所以なのか、冷静で知的な議論ではなく、表面的、感情的な「災救隊って素晴らしい!」という議論で終わってしまうことが残念である。これが宗教法人の限界であろう。この団体の意思決定と責任の所在が明示され、収支報告が毎年公開されていればより格段に信頼されると思う。ただ、やはり天理教本部が、同じ不透明さを持って国民への説明責任を放棄している以上、到底無理な話だと失望するしかない。

最後に、委員会で質疑をおこなった民進党の藤田幸久議員について、私は天理教との関係で強い疑義を持っている。ツイートもしたが、改めてここに再掲する。

天理教の災害救援隊を絶賛し政府に天理教災害救援隊をごり押しするように言った民進党の藤田幸久議員は、過去10年間に何度も奈良県天理市の天理教本部を参拝している。委員会質疑では天理教災害救援隊について「知らなかった」と発言していたが、本当に知らなかったのだろうか。なぜなら前述したように天理教は災害救援隊を広告塔にしてホームページでもSNSでも機関紙で何度も宣伝しており、信者も天理教災害救援隊の活動を誇らしく認識しているためである。もし藤田議員が天理教災害救援隊を本当に知らなかったのであれば、それは天理教のことを全く理解しようとしていなかったわけであり選挙のためでしかなく天理教信者に失礼であろう。そして委員会で取り上げた詳細な資料は誰が用意したのであろうか。画像に写っていた豊富な写真資料や、詳細なデータは、資料を収集している私でも知らなかったことがあった。つまり、藤田議員の質疑の裏には少なくとも天理教関係者が深くコミットしていることは間違いないのではなかろうか。特定の宗教団体が、国会で議員を利用して価値を高めようとしているのであれば、それは政教分離や宗教法人の公益性という別の深刻な問題として大いに議論の余地があろう。藤田議員と天理教の関係をきちんと整理してからでないと、一国民としてまったく納得できない。

天理教ホームページの災害救援隊ページ
http://www.tenrikyo.or.jp/jpn/about/activities/saikyu/

2017年4月21日 参議院復興特別委員会  12:48〜
http://www.webtv.sangiin.go.jp/webtv/detail.php?ssp=29467&type=recorded

藤田幸久議員 ブログ
https://y-fujita.com/archives/18526

以上のことから、私は政府が天理教を特別視することに反対する。

ご意見、情報提供は下記までお願いします。
tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.co.jp

天理教に献金しないと命がなくなる!? 天理教表統領中田善亮氏の発言は恐喝罪、詐欺罪に該当するか 天理教本部、教義を曲解し犯罪集団へ変質

天理教内部向け機関紙「みちのとも」2016年12月号において、実質的な天理教運営者である表統領 中田善亮氏(真柱中山善司氏の実弟で、次期真柱後継者である中山大亮氏の実父)が、献金をしなければ命がなくなるという趣旨の発言をしたようだ。私は「みちのとも」を購読していないため知らなかったが、この発言に関して多くの批判が噴出し私にも確認を求める声がいくつか届いた。真偽がわからなかったため、「みちのとも」12月号を取り寄せてみた。

P.28直属教会長・教区長へ方針発表(要旨) 中田善亮表統領「再出発の気持ちで、基本から始めよう」というタイトルで2ページに渡って語られている。

「現在のお道(天理教)は、全体的に元気がないように感じる。(中略)今日申したいことは、あらためて基本を確認し、基本から始めようということである。いまこそ真剣に、わが身、わが教会を検証し、再出発の気持ちで今後へ臨むことをお願いしたい。(中略)まず「ご恩報じ」の意識を高め、ご恩報じの実践を徹底すること。(中略)会長は上級に、直属教会長はおぢばに伏せ込む。これは親から先に示していかなければならない。」とある。()内は筆者が加筆

天理教への信仰が、いつのまにか理の親とする上級教会への忠誠心にすり替わる。天理教の基本とは神への感謝ではなく組織への忠誠へとすり替わったようだ。相変わらずの真っ直ぐな北朝鮮ぷりである。

問題の箇所である。

「また「おつくし」についても、しっかり説かねばならない。おつくしができなくなると、たすかる道が途切れてしまうからである。おつくしによってたすけてもらった経験があれば、その理が分かる。説くうえには、おたすけをしっかりすることが前提となる。「お金のことは言いにくい」と避けていては、よふぼくは、おつくしの意味がますます分からなくなる。おつくしは命のつなぎであり、親神様にお受け取りいただく真実である。」

とある。まず「おつくし」の定義であるが、教義上の定義は知らない。しかし「お金のことは言いにくい」と言っているため明らかに「おつくし」=「お金」のことで間違いない。つまり「お金は命のつなぎ」である。「お金が命のつなぎ」であるということは、お金を出さなければ命がないという帰結になる。天理教に献金しなければ「命がなくなる」と考えるのが一般的な解釈であろう。

さて、落ち着いて冷静に考えてみよう。この発言を冷静になって考えれば考えるほどヤバイことがわかる。「お金を出さないと命がなくなる」と言うのは、ヤクザか犯罪集団でしかない。万が一「そういう意味ではない。天理教では意味が違う。そういうつもりで言ったのではない」と頭の悪い政治家のような言い訳をしても、現代社会では全く天理教の言い分は通用しないであろう。また恐喝まがいの言動の後に「親神様にお受け取りいただく真実」という言葉が続くことから、天理教は組織的な恐喝集団を志向しており、過激派に向かっていると考えることができる。彼のこの言動を問題と思わない人がいたら、ひどく重症な洗脳状態であろう。こんな低俗な言い訳が許されれば犯罪など成立しなくなってしまう。

天理教の解釈を考えてみよう。2015年道友社発行の「天理教の考え方・暮らし方」という本の中でP.72「金銭はつなぎの役割」をたどってみる。

「親神様のご守護の理をもって説き分け、それぞれに神名を配して教えられた「十全の守護」のなかで、「くにさづちのみこと」は「人間身の内の女一の道具、皮づなぎ、世界では万つなぎの守護の理」と示されています。金銭の性格は、第一に天の与えということですが、第二には、この「つなぎ」ということがあります。文明社会では、金銭なくしては一日も暮らせません。すなわち、金銭は命をつなぎ、生活を成り立たせる元となるものです。また人と人の間をつなぐものでもあります。これを逆に言いますと「金の切れ目は縁の切れ目」となるわけです。

これを読むと、お金は生活をしていく上で欠かすことのできない、命と人間関係をつなぐものと至極当たり前のこととして理解できる。間違っても表統領の言うように「おつくし(献金)しないと命がなくなる」なんて解釈は一切されていない。むしろ「無理に集め、人の恨みがこもりますと、むしろ悪い運命につながります。これでは良質のお金とは言えません。量はほどほどでも、よく働いて自然にそなわってきたお金ならば、命をつなぎ人と人の間をつなぎ、さらには良き運命につながっていきます」と書いてある。いい教えじゃないか。表統領は完全に教えを間違って解釈しているようだが、これが表統領という教団を代表する者の考えで大丈夫だろうか。「みちのとも」という公式書籍で残して大丈夫だろうか。天理教は犯罪集団と言われて、どのように反論するのだろうか。

結論。これら天理教表統領中田善亮氏の反社会的言動は紙面を通して不特定多数の人間に向けられた者であり、恐喝罪に問うことは難しいであろう。しかし詐欺として消費者生活センターでは十分に対応してくれるレベルである。また、この言動と同様の言葉を指導者や会長に面と向かって言われた方、教会長会議など少数の場面で言われた方は、すぐに警察に相談にいくべきだ。恐喝罪、詐欺罪で被害届を出すことができる。「私は言ってない。表統領が言っていたんだ」と言う会長がいても同じだ。相手に不安を与えて金銭を出させる方法は 宗教法人といえど十分に犯罪である。ましてや命を危険に晒すなど人として言語道断である。

加えて、この表統領の発言を知った上で見て見ぬふりをする天理教人も人として最低だ。学校などで問題となる「いじめ」を助長する最大の問題は「傍観者」にあると言われるが、この表統領の犯罪を誘発するような発言を読んで何も反論しない、何も行動しない天理教人に陽気ぐらしを言う資格はない。こんなクズのような発言を許して、天理教をズタズタに傷つけられて宗教人である前に人として恥ずかしいと思わないのか甚だ疑問である。

私は例えば人の失敗や政治家などの失言などには寛大な方であると自負している。批判は抑制的で大人な対応でありたいと。
「そしたら今回の中田善亮表統領の発言も、言葉尻を捕らえて目くじら立てなくてもいいのではないか」と言われるかもしれない。
しかし今回は以下の点で許せるものではない。

1 公式書籍の活字であること。話し言葉の中でテンションが上がってしまい「やばい。言ってしもた」であれば誰にでも経験があるだろう。しかし活字で残るということは、何人もの天理教を熟知した道友社の中の立派な教人が校閲をし了承したということだ。表統領一人の責任ではなく、天理教の公式見解であることは間違いない。これは表統領個人が危険思想で済む問題ではなく、天理教が危険思想と認識されても活字で残した時点で反論できない。訂正しなければ、これが天理教の公式見解として永遠に残るであろう。

2  犯罪であること。犯罪に抵触するということは道徳的問題や、思想的問題とは次元が異なる。説明の余地はなくシャレにならない次元である。

以上の点から、「おつくしは命のつなぎ」発言を見過ごすわけにはいかない。私は大人として「悪いものは悪い」と言わなければ子供に合わせる顔がない。

私のブログを読んでよく言われるのが「警察に相談に行っても、警察は民事不介入だから相手にしてもらえませんよ」ということ。しかし裁判を経験すれば分かることだが、裁判では「警察に相談に行った」(例え警察に相手にしてもらえなくても)という事実は非常に重要であることは間違いない。それに今回のことは恐喝罪や詐欺罪を前提としており民事だけではない。その話し合われている場面の録音ができれば、立証は間違いない。

以上のことから、宗教法人の代表役員の発言として私は今回の事案を非常に問題視している。彼の言動について、関係各所と連携の上、今後行政機関、司法機関に通報し、天理教の反社会的姿勢を批判したいと思う。こんな恐喝宗教が現代社会で許されるわけがないだろう。天理教は社会の制裁を受けるべきだ。

最後に、表統領の発言を見て、メールをくれた方の感想を載せる。
「天理教は素晴らしい教えです。それは人間生活の指針となるものです。これまで70年間、それだけを信じて暮らしてきました。だからこそ、今回の表統領の発言は悔しくて、悲しくて、なんて教組(おやさま)にご説明させてもらえばいいか分かりません。毎日泣きながら教組と信者様にお詫びしています」

奈良県警察 情報提供
https://www.police.pref.nara.jp/cmsform/enquete.php?id=2

消費者庁 相談窓口
http://www.caa.go.jp/region/shohisha_hotline.html

文化庁 宗教法人問い合せ
https://inquiry.bunka.go.jp/InputForm.aspx

報道機関、研究者の方へ
本記事で参考にした一次資料のコピーを提供いたします。下記メールまで御連絡ください。
tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.co.jp

 

天理教を信仰する若者には未来がない

毎年、お盆と正月には天理教を信仰している若者から相談を受けることが多い。お盆や正月の里帰りでは、教会や信仰の後継問題が話し合われるためであろう。家庭環境や育った地域も異なるのに天理教で悩む若者の置かれている立場や混乱の状況は同じパターンばかりであることに驚く。

私は相談を受けて、できるだけ具体的な支援の情報提供をおこなう。しかし事情や背景が分からないので最終的には「行動するのはあなただから無理せずに頑張って」としか言えない。しかし、これまで何人もの若者が親である会長達とコミュニケーションができないと嘆いて、結局「もう二度と教会には帰らない」と天理教から離れていってしまうのを見てきた。驚くのはその天理教の若者達がみな社会的に優秀な者が多いということだ。中には政府の中枢で働くものや、何百人もの部下をしたがえる企業の幹部候補までもいた。こうなってしまっては天理教を出ていくことが、健全でまともな思考の持ち主だと考えることもできる。

親である会長達とのコミュニケーション不全というのは、私が会長達と話したときに感じる不全感と全く同じであると考える。なぜだか分からないが、会長達は多くの確率で「自分が絶対的に正しい」と疑いなく思っている。だから元々コミュニケーションなど成立しない。信仰とは自ら追い求め続ける内的作業というのが通常の理解だと思うが、天理教の会長達はなぜか「俺が正しい信仰を教えてやる。俺の話を聞け」という絶対的姿勢を崩さない。談じ合いと言いつつ「違う。教祖(おやさま)は実はこう言っているのだ」と神の権力を勘違いした自己解釈を展開することが多々ある。多くの会長達と話してみれば、そこに感謝、慎み、助け合いなんてないことはすぐわかる。それらは一部の人間というよりも一貫した体質であると大教会長や本部員のセンセイたちの話を聞いて思う。(天理教が発行する媒体などを見れば、自己の発言に正当性を与えるために「神様は〜」と自分が神にでもなったかのように教義を継ぎ接ぎしたものばかりで辟易する)

私が天理教を宗教ではなく自己啓発セミナーに近いと感じるのは、指導者たちの言葉が生活侵襲的すぎるためである(具体的な教義論ではない)。この議論に天理教人と一緒に踏み込んでしまうと、散らばった先人の歴史やパッチワークされた教典を引き合いに出されて結局うやむやにされてしまう。しかし一般的に宗教とは主体的な内的作業である。通常、指導者やメンターは、目標となる教義を提示することで「あとは自分で考えろ」と信仰へのチャレンジを促す存在であるはずだ。上下なんてものはない。信仰とは、失敗も含めて自分で教えを噛み砕くようなアソビの部分がなければ教えを涵養させることは到底できないだろう。誰かにあーだ、こーだ言われるのは信仰とは言わない。

しかし天理教と自己啓発セミナーは共通して、かなり具体的な生活にまで侵入する。まさしく「金を集める」「人を集める」という行為が究極の具体的侵入行為である。全国の各教会にいけばスローガンやノルマ表が掲げてあり、そこは厳かで落ち着いた信仰の場として相応しい雰囲気ではない。天理教の教会はポスターや張り紙だらけのガチャガチャした営業所やセミナー会場に近く、極めて神聖さに欠ける、といくつかの天理教教会を見て来た私は感じる。

その他にも「天理の学校へ進学しろ」「神名流しをしろ」「戸別訪問をしろ」「路傍講演をしろ」「新聞を配れ」「講習会をするから集まれ」などかなり生活や人生を縛ってしまうほど侵襲的で反宗教的だ。10月の秋の大祭において真柱の神殿講話で「ひのきしんに決まった形はありません。身の回りの小さなことも、地域社会で役立つことも、その現れ方は様々ですが、親神様にお喜びいただきたいとの真心からのおこないは、すべてひのきしんと言えるでしょう」と言っている。しかし天理教本部や大教会は決まりきった形や枠組みに、信仰を押し付けようとしているようにしか見えない。大号令で信者を行事等に動員させ、右向け右をさせる。決まった形はないと言う真柱は言行不一致ではなかろうか。もしくは天理教の実体を少しも知らないのであろうか。

天理教から離れた若者たちの話を聞くと、どう考えても彼らの方が天理教的感覚と天理教の教えを正しく理解し実践しようとしているように感じる。同じように感じている人は多いのではないかと思う。

反対に天理教から離れることができない若き信仰者たちは、天理教本部や大教会に、ことあるごとに大号令で集められ講習や行事に参加させられている。そして、いつの間にか社会から遊離した天理教用語と、人を追い詰める独特の言い回しを学ぶ。先日も天理教の若者と話をしたが、彼は「今後、天理教の教えを正しく理解する人はより少なくなる」と、大真面目にあたかも自分が正しく理解しているかのような偉そうな口ぶりであった。神や信仰とは生涯を通して問い続ける謙虚なものではないのか。天理教では違うらしい。「あなたがすでに天理教を正しく理解していると考えているなら、誰も人は付いてこないよ」と伝えたが、ピンときていないようだった。天理教から分離、独立する団体が多い理由がどこにあるか全く理解していないのかな。きっと彼は天理教教団から分離、独立する団体は、異端で悪で、天理教を正しく理解していない団体と思い込んでいるのだろう。カルト思想に近い。天理教の後継者育成は思想面でも間違っているんだと私は確信した。

しかし彼らのような若き信仰者は行事参加の人数集めや、においがけという名の営業、新聞の手配りという名の宅配サービスにすり替えられてしまい、自身の信仰に向き合い、教えを涵養させる時間などないというのが実際のようだ。北朝鮮は、体制に疑問を抱かせないように人民に集会や会合へ強制的に参加させて、考えさせる時間を奪うと聞いたことがあるが全く同じだろう。
そのような人集め、金集めの前時代的姿勢が天理教への嫌悪感となり、社会から向けられる不信感からいつまでたっても天理教は抜け出せない。「天理教は社会に認められ必要とされている!災害救援も自治体に要請されるほど信頼されてるんだ!」と多くの団体が要請されているにも関わらず、あたかも天理教だけが特別かのように天理時報では煽る。その欺瞞さに天理教以外の人間は気づいているのに天理教人だけは気づかぬフリをし騙されたフリをし続ける。

天理教は歴史があり規模も大きく新興宗教ではないと言われたことがある。学問的にはそうかもしれない。しかし一般社会から見れば、天理教だろうが、創価学会だろうが、幸福の科学だろうが、”その辺”の宗教は総じて怪しい、何をやっているか分からない危険な新興宗教のイメージというのが一般的な見方であろう。これが金と人を集めるという結果だ。

しかし今さら人集め金集めを止めてしまっては、収入の9割以上を信者からの寄付金に依存する天理教は間違いなく一年も待たずに財政破綻し法人を解散するしかないだろう。宗教法人は信教の自由を担保するために税金の優遇を受けている。裏を返せば宗教法人は財政破綻しても、国は一切助けてはくれない。企業は倒産しても救済措置があるが、宗教法人は簡単に消失してしまうことに気づいていない人が多いのではなかろうか。

確実に多くの天理教人が気付いているのに誰も言わないこと。それは組織を運営するのに金が必要なことは理解できるものの、”信仰”に金が必要であることを全く説明できていないことだ。なぜ神を信じるだけなのに金を出す必要があるのだろうか?この話をすると必ず天理教人はみな話をすり替える。私は天理教人からまともな回答を聞いたことがない。誰かいたら教えてほしい。

「天理教は組織が巨大だから運営に金がいるのは当然だ」。その論理は教団側から見れば当然かもしれないが、金を払う末端の信者たちの気持ちには全く寄り添っていない。部と同じ勘違い目線である。巨大な組織だから運営に金がかかるというのであれば、天理教の信者は幹部を食わせるために献金していることになる。幹部のための信者だ。そういうことになる。天理教本部があるから天理教があるという意識では社会から決して信頼されない。天理教信者がいるから天理教があり、天理教本部があるのだ。なぜ、天理教信者でもない外部の私がこんな基本的なことを言っているのか訳がわからなくなる。

こういうことを私が言うと、天理教人は「天理教も会費制にするべきだ」と言う。いや違う。会費制以前に、神を信じるのに金と組織が必要な根本的な理由を教えてほしい。組織があるから金が必要になる。その結果、多くの人が苦しんでいる。多くの人が天理教に不信感を持っている。献金だろうが、会費制だろうが、それは変わらない。会費制だから問題ないとなってしまっては、複数の会費が乱立するだけだ。いまでも献金の他に会費、お供えなど、名目を変えた支払いばかりではないのか。

そして何より私が最も天理教に失望するのは、弱者に寄り添おうとしない、そういった高圧的な姿勢を天理教人が示すことだ。大学で福祉学や経済学の概論でも学べば、「組織が巨大だから金が要る」という主客転倒は基本的な間違いであることに気づく。「誰の何のための献金行為か」と。このような弱者の視点を無視した偏った認識では、天理教は天理教であることの意味を失う。社会から信頼を得ることは決してないだろう。天理教の組織運営には哲学がない。

私が感じる天理教の矛盾は、こうした言行不一致に散見される。多くが私自身が経験したことに由来するが、寄せられる経験談には共通点が多い。これまで天理教学生会や青年会、女子青年会などの会合に足を踏み入れたことがある。そこには「陽気ぐらし」や「ひとだすけ」とは程遠いほどの特異的グループが形成される。学生会は、悩みながらも自己開示を求められ「皆仲良しイエーイ」と絶叫する「サークル的一体型モデル」が提示され、青年会は社会との付き合いに悩みながらも「何も考えずに神様にもたれて突き進もう」という「軍隊的モデル」が提示され、女子青年会は文句も言わずにコツコツと男性と組織を支えるという「おしん的モデル」が提示される。すべて「洗脳モデル」とも言える。そのモデルに適合しないものは、「助からない」「喜べない」「ふせこめ」「たんのうせい」「理がない」「徳がない」と徹底的に排除される。私も過去に言われたことがある。

「陽気ぐらし」や「ひとだすけ」というのは天理教人にとってみれば、多様性受容モデルではなく、「モデルに適合する人間のみに許される」メンバーズオンリーの特異的均質サークルでしかない。そんなグループから優秀な人間は生まれるはずはないし、陽気ぐらしとは真逆である。縦の伝導(信仰の継承)がうまくいっていないのは、清濁合わせ飲むような器の大きさが天理教にはないからである。天理教という特異組織に合わない組織、合わない人間を「異端」や「わかっていない」とラベルを貼り排除していることに気づかないといけない。まさしく社会から「異端」「わかっていない」と言われているのは天理教だと気づかないと今後組織は危険な方向に向かっていくだろう。

天理教が集めた莫大な金を株式や不動産へ巨額の投資をおこなうことは違法ではない。しかし宗教法人として倫理的に疑問が残る。教会に掲げられた人集め、金集めのノルマ目標や人集めのスローガン。毎月の御供を署名入りの祝儀袋に入れさせ、建物の建築時には献金袋とは異なる集金袋が配布される。金を集めている責任者たる大教会長たちは、天理教本部の責任役員も兼任している。つまり半強制的で巧妙な集金方法を天理教本部が知らないはずはない。非公開のその金の流れを把握している教会本部と大教会長、教会長は共犯関係にあることは間違いない。

これら半強制的な献金の信者への説明でよく展開されるのは「神様に喜んでもらう」という理由付けである。この説明も先ほどと全く同じ論理である。本当に神は喜ぶのだろうか。金を出すことで神が喜ぶと言うのであれば、天理教の神は薄汚れた欲まみれの神ということになると考えるのが普通だ。天理教人はそれでいいのだろうか。金を集めることが一番の問題とは言わない。しかし人々が必死に働いて得た金を毎月集めるためだけの説明責任を天理教は一切してない。「天理教の献金は自由だから」と、自由意思を偽装し、不安を煽る献金ビジネスは終わりにすべきだ。

文化庁文化部宗務課が発行している「宗教関連統計に関する資料集 平成27年3月」によれば、平成26年の家計支出における宗教関係品目では、「信仰・祭祀費」が約15,700円、「葬儀関係費」が約18,900円、「祭具・墓石」が約6,200円とある。つまり平均的な一般家庭では宗教への献金は年に平均約15,700円と考えてよい。月にすると1000円程度の支出である。月に1000円以上、天理教に献金をしている人は、日本人の平均を上げていることに貢献している。ちなみに我が家は正月や観光で寺社仏閣にいったとしても浄財金は家族全員でも年に数千円だろう。
http://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/tokeichosa/shumu_kanrentokei/pdf/h26_chosa.pdf

何度でも言う。天理教は、金を集める理由を個人の思想や組織の経費にすり替える以前に、宗教的意義を明確にするべきだ。金を心の問題にすり替える時代、不安を抱えた人間に金を出させる時代はもう終わっていると私は感じる。

私だけだろうか、献金の意義を「真心の御供」などと個人の思想や組織の経費にすり替える天理教人の説明は、結局神を侮辱していると思うのは。天理教の神はお金で喜ぶような人を差別するクズみたいな神なのかと。金を払う人間を必要とするなら、金を払わない人間を天理教は見捨てることになる。

天理教人が気付いていないフリをするのは、「天理教を信仰することが真に正しければ人も金も集めなくても勝手に集まる」ということだ。こういう話を天理教人にすると、ほぼ100%の確率で「人や金が集っても集まらなくても、信仰者としての振る舞い(頑張り)を神様は見ている」という話しに再びすり替わる。私にはまったくこの日本語が理解できない。金集め人集めを正当化するその歪んだ論理展開は全く論理の理がない。何度も言うが、天理教人をみて思うのは、天理教の神は人集め金集めを渇望する欲にまみれた神なのだろうか、という単純な疑問だ。歪んだ論理の背景には全農幹部と同じ、「俺らの生活のために献金しろ」という思想が見え隠れする。そこには「たとえ少額でも神様に集められたお金をありがたく頂戴し規模に応じた組織を運営する」という謙虚さは少しも感じられない。

天理教から抜け出せない若者は、天理教本部行事に集められたところで、学生会のように「天理教大好き!」という洗脳のような熱狂もなく、談じ合いというガス抜きも効果なく、ボディブローのように交通費の出費と胸に刺さらない幹部の自慢話で時間を無駄にした徒労感しか残らないようだ。せめてもの救いは、天理に行くことで高校時代や大教会の同じ境遇の友達を見つけ合って傷を舐め合うことくらいである。

天理教の権力者たちは話し合い、談じ合い、耳を傾ける、寄り添うと言いつつも、最終的には「素直になれ」「伏せ込め」「徳を詰め」「理を立てろ」「心を寄せて」「勇め」と自分が神になったかのような文言を並べて最終的には自分の思い通りにしようとする。私の元には全国から続々と同様の経験談が寄せられる。その結果、会長たちは自分の思い通りになれば「俺の言ったことが正しいだろ。神様は見ているんだ」と言い、思い通りにいかなければ「お前は助からないぞ。神様は見ているんだ」と暴力的な言葉で若者を縛ろうとする。どっちに進んでも行き止まり。これがカルトじゃなければ何なのだろうか。

中には会長夫妻が高齢になり、毎日のお勤めや行事、天理時報の手配りが体の負担となってきため「早く教会に帰ってきて親の負担を継げ」と露骨に若者に嫌な物を押し付けるような言葉を吐き捨てる最低な会長夫妻もいるようだ。それが「お前の役割だ」(ご恩報じ?)と、都合のよい運命論(いんねん)で不安を煽りながら。
教会で生まれた子供たちに我慢を強いて育ててきた結果、成人し教会に寄り付かなくなってしまった我が子たち。天理教から距離を置き、給料をもらいながら家族で幸せを噛みしめる子供たち。そこには天理教の教会にいるよりも確かな”幸せ”がある。教会では実の親が”理の親”のため”ご恩報じ”と頑張って教会運営してきたものの、高齢となり支えてきてくれた信者も少なくなってきた。気づけば周囲には誰もいなくなり孤独と老後の不安だけが残る。天理教が大好きな「家族だんらん」や「たすけあい」「親のため」「御恩報じ」などの言葉は、自分の都合が悪くなったときだけ若者に吐き捨て「あいつは本当に大事なことをわかっていない。贅沢ばかりして全然伏せ込んでいない」と若者を悪者に仕立て上げる。高齢となった親を心配して遠方から来た若者は再度傷つき、より教会の実家には寄り付かなくなる。こうなってしまっては何のための信仰だろうか。若者が天理教を離れるのも納得できる。

天理時報の手配りなど分母である発行部数が減少しているために手配り率が自然に上がるのは当然の現象である。しかし天理教本部は「皆の頑張りで手配り”率”が上がっている。もっと頑張れ!勇め!」と相変わらず末端に負担を強いることしかしない。天理教本部は老いも若いも末端が疲れ切っていることは見て見ぬふりをする。

新聞の手配りという負担を強いれば強いるほど、末端の疲労は蓄積し組織が内部崩壊するなんて、少し考えれば小学生でも理解するだろう。まともな思考のできる経営者は天理教にはいないのか。このような点こそ専門家を配置せずに、特定の家系だけで役職を回してきた組織の劣化の結果だろう。天理教本部の会計責任者は天理大学の卒業だが、経営学科もない天理大学出身者で会計ができるのだろうか。天理教のバランスシートでも見れば、献金に依存しすぎるイビツな経営体質は会計的に非常に危険なものであると誰もが考えるだろう。会計責任者としてどう対応するのだろうか。(天理教本部の会計責任者が会計の専門家であれば謝罪するが)。
私は「天理時報の手配り」こそ、天理教を内部崩壊させる加速器だと思っている。手配りによって疲れ切った声が私には届くが天理教道友社には届いていないのだろうか。弱者への想像力なんて天理教にはできないのだろうか。

私も過去に天理教人に言われたことがある。「お道は知恵学問ではない」と天理教は学問を否定するような教えがあるようだ。私が天理教の運営や、やり方に口を挟もうものなら、「あなたは天理教の専門家ではない。そのような人間を我々は必要とはしていない。あなたは専門的助言だけでいい」と、面と向かって言われたことがある。その結果が、素人集団で時代遅れで数字も読解できない現在の天理教の姿ではなかろうか。天理教の専門家であることだけを必要十分条件とするなら、天理教教団は経営の素人、学問の素人ばかりとなる。天理教から人が離れ、天理大学が定員割れで入学者が減っているのは、まさしく、それを運営している人間が素人集団だからではないだろうか。天理教の運営を天理教の専門家だけでよければ、天理教は出版や医療、教育から撤退するべきだ。天理教しか知らない素人でも運営できるということは医学や教育学を侮辱していることになる。天理大学の学長は、天理教の名家の出身らしいが、彼は研究もしたことがない大卒だ。彼に「教育とは何か」をきいてみたいものだ。AERA以上の思想哲学を無知な信者たちではなく、教育の専門家に語れる知性をお持ちだろうか。聞いてみたいものだ。

高度経済成長で儲けた成金経営の結果、経営戦略が末端弱者に負担を強いることしか思いつかない。その経営モデルはすでに破綻している。天理教は倒産寸前のワンマン中小企業であろう。もうお分かりだと思うが、天理教が空中分解している根源が、天理教の政策や組織経営の失敗であることは明らかである。下部教会や末端信者に負担を強いることしか天理教本部はしない。上納金を集める一方で、社会保障も与えないのは組織として責任を放棄していることになる。震災の募金すら大号令で信者から集めた金のみで、天理教本部は一銭も支出していない。こんな無責任な天理教の政策は、天理教内部はもちろん誰にも支持されるわけがないと普通の社会人なら考える。

お金のトラブルや上納金のこと、大教会長による進路変更や婚姻などにも及ぶ強権的な人事権のことなど天理教人に聞いてみると、多くの天理教人が同意してくれる。「聞いたことがある」「よくあること」「それ〇〇大教会の話だね」「◯◯家であった話」と。私の元にも多く体験談と証拠ファイルが寄せられる。

しかし多くの天理教人が知っているのに、目の前の理不尽な権力に対して立ち向かおうとはしない。それが私には不思議で仕方がない。私であれば身内ほど厳しく糾弾するし、それが例えば人の道に逸れるようなものであれば、しかるべきところに突き出して徹底的に反省を促す。我が子の教育はそうしてきた。身内だからこそ厳しくありたいと思う。しかし天理教人は身内の権力の暴走には決して立ち向かわない。「そんな人もいるが一部だ」や「組織に問題があるのは分かるが、それは私には関係ない。私は私の信仰を深めるだけだ」と、天理教以外の一般人が聞いたら呆れる無責任な言い訳しかしない。こんな姿勢で天理教が「人助け」「陽気ぐらし」なんて、どの口で言えるのか私は不思議で仕方ない。こんな発言をする人間に誰がついていきたいと思うのだろうか。

次期天理教トップとなる中山大亮氏の婚姻が発表されたようだ。天理教本部では新郎新婦の実質的な後見人は誰かということで噂になっていると聞いた。実質的トップの今の統領や責任役員では140年祭まで天理教はもたない。次の表頭領の座を虎視眈々と狙っている人間は誰だと。結局、末端信者のことなど誰も興味がないのだろう。

話を戻すと、私は天理教問題で相談を受ければ、しかるべき窓口に紹介するようにしている。人権侵害であれば総務省や都道府県の人権侵害センター、お金であれば消費者生活センターである。もちろん場合によっては警察などの捜査機関である。現在、公益通報者保護法の改定が消費者庁で検討されている。基本的には労働者を対象としているが、宗教法人も労務が生じており範囲内と考えられる。また今回の報告では役員や退職者も含まれる。天理教幹部や辞めた人も守られることになるだろう。

天理教で悩んでいる方は、問題を整理し、証拠を収集し(動画や録音ファイル)、きちんとした行政機関に相談されることをお勧めする。私もこれまで天理教に関して行政には通報しているが、意外に行政は親身に相談に乗ってくれるし、各自治体の人権相談などは世間の関心の高まりもあり調査結果報告までしてくれる。また「相談件数としてきちんと分類・計上されるので個別事案であっても無駄ではない」と言われた(消費者生活センターからの助言)。

間違っても、会長や上級教会や天理教本部にある渉外課に相談してはいけない。「ちゃんと会長と相談するように」「たんのうせい(現状を喜べ)」と言いくるめられ余計に傷つくだけである。天理教本部は本気で人を助ける気はないのだろう。

ここまで書いていると、ある読者から天理時報9月4日第4490号の「時代担う若者の育成へ」という記事を紹介していただいた。次期真柱(トップ)である中山大亮氏が、後継者を育成するために講習会を開始するから「対象者が一人でも多く受講するよう、各直属教会での力強い働きかけをしてほしい」と本部幹部会で要請したとのことである。

この記事を送付してくれた天理教の若者は、この記事を読んで「将来への絶望」を感じたとのことである。その絶望を要約すると、「権力を用いてわざわざ地方から交通費も援助せずに若者を本部に集合させ、『俺が正しい信仰を教えてやろう』と偉そうなことを言う若きリーダーの姿勢に信仰のカケラもない。同じ世代で末端の苦悩を共感してくれると期待していた次期真柱まで、これまでとまったく変わらず集団主義の権力頼みしかみられない。『各直属教会での力強い働きかけ』によって強引に集められた若者たちを見て、きっとこの次期真柱は順風満帆なリーダーの一歩を踏み出すのだろう。」と。本当に北朝鮮のようだ。

ここは本当に平成の日本なのだろうか。天理教を信仰する多くの若者は苦しんでいる。天理教とは一体誰のための組織なのだろうか本当に私には分からない。

次期真柱である中山大亮氏はすでに権力を自身の力と勘違いしているのだろう。彼の言動でどれだけ多くの若者が苦しむのか、外の世界を知らない彼は全く想像ができないのであろう。自分の一声で多くの人間が右へ左へと動くのは、さぞかし気分が良いだろう。権力者が「力強い働きかけ」をする組織なんて人望も信頼もない現れである。もし企業の業務命令と勘違いしているのであれば、全国の天理教専業者に賃金と社会保障を与えるべきだ。賃金も与えず社会保障もせず、「金を出せ」「人を集めろ」ということが人の道として狂っていることに早く気づいた方がよい。

彼の言動を批評すると必ず反論がくる。「彼は時間をみつけては神名流しやにおいがけに積極的に行っているから、いい人だ。今日も天理駅で神名流しをやっていた」と。いい人?そうかもしれない。しかし本当に感情論で終わらそうとするなら、私の過去のデータをよく読んでほしい。

これまでの慣例から彼は年収数千万円の収入があると見ていいだろう。もしそれほど貰っていなくとも、将来数億円の年収が約束されている。もし天理教が大嫌いな人でも年間数千万円貰えるなら喜んで神名流しもにおいがけもやるだろう。神名流しを1回やれば数十万円貰えると計算すれば楽勝だ。年間数千万円をくれるなら私も”いい人”になろう。
彼は何不自由ない人生を送れるが、末端の若者はその日暮らしで将来の保証もない。この天と地ほどの違いは組織への信頼を破綻させるには十分すぎるほどの格差である。人の気持ちが離れる時は一瞬である。金の話はゲスいだろうか?しかし信頼を得るとは正にそういうことだ。もし高額な年収を適正化するか、公開する気がないのであれば、それに見合った結果を出さないと誰も納得しない。結果とは、これまでの権力経営ではいけないということだ。

例えばビル・ゲイツが、ビックカメラで営業していたとしよう。客は喜ぶだろう。しかし株主は「お前の役割は客に媚びることではない。営業利益を最大化することだ」と言うであろう。信者と同じ目線で営業(においがけ)することは決して悪いことではない。しかし権力を持っている人間の役割は、末端に媚びることではない。組織を変えるということは権力を持った人間しかできない。

信頼を得ることの難しさを誰か彼に教えてあげた方がいいのではないか。次期トップとしてやることは、信者に媚びて神名流しや布教をすることなのだろうか。お正月に国会議員を集めて挨拶をすることだろうか。

それとも献金に依存せずに、天理教の存在価値を高めて、天理教人が喜んで信仰生活を送れるように自信を取り戻させることではないだろうか。次期トップには次期トップにしかできない仕事があるだろう。組織を変えることだ。

末端の若者に金を払わず、権力を使って人集めをして何の信頼が得られると思っているだろうか。真柱や大会長たちに従順で何の力もない末端の若者の背後には、多くの信者が厳しい目と冷めた目で教会本部や大教会を見ていることを忘れてはいけない。

彼だけではない。天理教本部員のツイッターやFacebookを見れば、頻繁に刺身を食べて酒を飲んで、休みには旅行に出かけ、子供は天理大学以外に行かせ、海外に行かせてと文化的で豊かな”普通の”生活をしていることがわかる。
年金も健康保険も払えておらず、毎日の食事も節約している末端の若者が、その本部員のSNSをみたときのやるせない気持ちを天理教幹部は考えたことがあるのだろうか。その気持ちの機微が分からないから天理教から人が離れるのだろう。

権力を用いた集団主義の強化、これが天理教の人材育成の方法であり、天理教から人材が流出する原因であることに天理教本部は誰も気づいてない。そして会長である親と組織に、若者たちは絶望を感じるのであろう。

今後、天理教が空中分解、組織瓦解するにつれ、天理教本部の「研修会をするから本部に集まれ」「大教会に集まれ」「この書籍がお勧めだから買え」「◯◯会をするぞ、◯◯名集めろ」「新聞を配れ」「天理の学校に行け」という号令や、創業当時の関係者や伝説的逸話への回帰現象、逆行傾向は強まることは間違いないであろう。特に天理大学は教団から年間30億円もの支援がないと経営できないほどの異常事態である。天理大学は授業料が安いことで金のない家庭の学生が集まるが、値上げすれば学生が集まらないというジレンマを抱えている。そのため今後天理教信者の子たちに天理大学への進学を勧める傾向は強くなるだろう。これらの原点回帰現象は私が知らないだけでもう始まっているのかもしれない。
余談だが、私の経験や見聞きした中で「ダメな教会」の典型例は「大教会◯◯清掃ひのきしん」などと、大教会に忠義を尽くす行事があると考えている。社会に忠義を尽くせば、天理教への信頼やプレゼンスが上がると思う。しかし「ダメな教会」ほど部下教会や信者を集めて、権威づけをする傾向がある。北朝鮮と同じ。

天理教人は勘違いしてはいけない。天理教が正しいかを判断するのは天理教人ではない。神であり社会だ。神と社会がNOと言えば、天理教はこの世から消えるしかない。本当に天理教が正しいと思うのであれば組織、金、生活の実態を正々堂々と情報公開するべきだし、集めるだけの経営では今後天理教は内部崩壊していくだろう。真摯で謙虚な姿勢こそ、神と社会が見ているのではなかろうか。その謙虚さがないと誰も天理教を信じることはできない。電通のように追い込まれてからの遅すぎる方針変更ほど、信用を失墜するしかない。
天理教人こそ、「感謝、慎み、助け合い」のスローガンを外に言う前に自分で意味を熟考するべきだ。天理教に傷つけられた若者の話を聞くたび、私は怒りに震える。

tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.co.jp

文書活動の低迷は天理教の知的劣化か

前回の天理教里親の記事では、天理教人以外で反響が大きかった。何点か事実を確認したい。天理教機関紙「みちのとも」2016年6月号の「第237回定時集会」という天理教本部の予算委員会での質疑P.57から、

「天理教里親連盟の会員数は現在、賛助会員も含めて約520人で、約90%が教会関係者だ。里親登録数は416世帯。90%以上が養育里親で、そのうちの92世帯が専門里親としても登録している。近年は、4人から6人を預かるファミリーホームが増加傾向にあり、現在は47箇所ある。全国の里親のうち、養育里親の約4.7%、ファミリーホームの18.3%が天理教の里親である。また、会員が委託されている子供の数は全国の11.4%、実際に子供を預かっている会員数は全国の9.3%だ。」
とある。
数字的には日本で里親をされている家庭の恐らく10組に1組近くは天理教の教会と考えていいであろう。

私の中での天理教あるあるだが、天理教は必要以上に実態を大きく見せるためなのか、上記のように実数と%をごちゃまぜに表現する手法が多いため文章が理解しにくい。そもそも天理教関係の里親の何%が天理教里親連盟の会員なのか明らかにしていないので最後の文章は理解し難い。なぜこのような理解し難い数字を議会で出せるのか。どうせ資料など誰も読んでいないのだろうが、そんな議会に何の意味があるのか・・・

前回の記事で私は天理教里親の金と宗教性の問題点を指摘した。そのことについてもp57で

「里親専門研修会や里親手当の使徒明確化・透明性確保のための研修会も行っている。」とあるが、具体的な説明や資料はどこにも明らかにされていない。その研修会内容と調査報告を公開するだけで天理教里親への信頼感は上がるはずだ。公開できない理由が天理教の里親にはあると考えるのが普通だ。

また前回明らかにしたように里子を天理教行事に参加させているケースがあることには天理教本部からは何の言及もない。前回の記事の反響の中には「天理教以外の宗教団体でも里親をされているが、里子を宗教行事に参加させている宗教団体は天理教以外に聞いたことがない」という声を天理教ではない現場の人から多数いただいた。この事実はきちんと調査して厚労省に報告すべきである。
こういった社会からの不審や疑問に天理教はまったく答えていない。里親という慈善事業に財務状況が不透明な宗教団体が関与している実態は、子供のためにも明らかにされるべきだ。

さて、本題であるが上記で引用した天理教機関紙「みちのとも」2016年6月号の「第237回定時集会」では「本教の文書活動のあり方-次の時代に向かって」が大きなテーマであった。

まず事実関係から天理教の中心的な媒体である週刊新聞「天理時報」について。

西浦忠一道友社長の答弁「発行部数は、教祖100年祭(1986)の三年千日活動中の立教147年に30万部を達成して以後、110年祭(1996)まで緩やかに減り、120年祭にかけては25万6千部から16万1千部へと10万部近く減少した。さらに130年祭(2016)にかけて緩やかに減り、今年(2016)の‪3月6日現在で12万3千部だ。(中略)新よふぼくへの配布は続けていく方針だ。一年間の無料配布は立教174年(2011)1月から始まった。新よふぼくの約8割が受け取っているが、一年後の継続率は平均17%だ。」(下線部は筆者が追記)

現在の天理時報の発行部数は公式で約12万3000部である。私が知らなかったのは、新よふぼくへの無料配布である。ちなみに2013年の新よふぼくは年間約5,500人であり現在は年5000人ほどと推察できる。このような無料配布は天理教道友社の収入には直結しないためお金を払っている購読者は12万部を切っていることは間違いない。また天理教本部の団体職員は職場や家庭で購読していても一人一部の購読を勧められていたり、一つの教会で複数部を発注するケースもあるようなので、発行部数は12万であっても実質的な主体的購読者はさらに少ないと見ていいのではなかろうか。私は教祖140年祭までには10万部を切るあたりまで落ち込むと踏んでいる。

私が天理時報の購読を止めたのは、中身が大変につまらないためである。宗教法人の機関紙であるから仕方がないのだが、天理教賛美というプロパガンダがキツくてまともな思考では読むに耐えなかった。行事報告や天理高校や天理教関係の学生スポーツが好きな人だと彼らの活躍が紙面を通して知ることができるのでいいだろう。しかし本当に天理教を知りたい人や信仰を深めたい人にはあまり意味がないのではないかと感じる。天理教を信仰していない著名人や信仰が浅いであろう専門家が出てきて天理教とは特に関係のない人生論を語っている。社説にあたる「視点」では幹部が執筆しているものの話題になったニュースの説明に大部分を費やして最後の一文に「だから我々天理教は頑張らなければいけない」という決まった結論ばかり。「天理教はこれだけ社会に受け入れられいる」と自画自賛するのも現実とはかけ離れている。これに年間4000円近く払うと思うと目眩がした。

上記のような体験も含めて現在の天理教の最大の欠点は思想や思考を語る人間がいないということであろう。天理時報をはじめ天理教の媒体の発行が創価学会や幸福の科学のように教団の大きな収入源として成立できないのは、まさにその点だと私は思う。いくら手配りをしようが無料配布をしようが、インターネットを活用しようが、中身がつまらなくては媒体に価値はなく部数は減るばかりであろう。

先述した議会でもインターネットの充実ということで天理教ホームページを活用するような話があった。受動的な情報取得のためにインターネットを活用するなど、天理教だけがこの情報化社会の中で周回遅れの議論をしているように感じるのは私だけだろうか。

話は変わるが、私に批判的なメールを送ってくださる方の半数以上が「インターネットから得た嘘の情報ばかりで天理教を批判するな」というメールである。インターネットを批判しておきながらインターネットを使って批判されてもと感じる。「私は嘘つきだ」という人間をどう信じたらいいのだろうか。思うことがあるなら、正しいと思うなら、多くの人に見てもらえればいいじゃないかと思うが、天理教人たちはなぜかそうはしない。

改めて言うが、具体的に私が懸念していることは、天理教幹部が社会に対して天理教を語らないことだ。真柱をはじめ、主に天理教の責任役員である。彼らの思想や思考が語られないため、天理教の指揮系統が混沌とし、現場の士気が上がらないように見受けられる。昨日まで全く知らない人間が、修理人だの会長だの親だのと言われて、接待し謝礼金を払わなければならない。

こんな状況では今後、天理教という船が一体どこに向かうのか誰も見えてこない。現在のままでは沈没まで待った無しというのが大方の見方であろう。ちなみに月刊誌「みちのとも」で散見される幹部たちの座談会や講話の文章もできるだけ目を通すようにしている。これらは思想発信よりも、建前や決まり文句ばかりで天理時報と同様に”生きた言葉”ではない。今さら天理教がいかに素晴らしいかを語ったところで食傷した読書にとって意味のないものである。天理教人にとっては内向的思想を強化するという点で意味があるだろう。みちのともは内部機関紙だから仕方ないが、WW2に突入する日本軍が、市民に言論統制し幹部は自画自賛し、大本営発表ばかりおこなう状況と似ていると感じるのは私だけだろうか。

次に、トップによる思想発信として真柱が著してきた書籍数を調べる。国立国会図書館には国内で出版されるすべての書籍が保存される。そこで歴代の真柱を著者として検索をかけてみた。初代真柱である中山眞之亮氏は時代的なものもあり0冊である。二代真柱である中山正善氏の著者は170冊、三代目真柱である中山善衛氏は18冊、現真柱である中山善司氏は0冊という検索結果であった。あまり学歴にこだわるようなことは控えるべきだが、二代真柱が東京大出身、三代真柱が慶応大、現真柱が立命館大という点を考えると、思想表現力や文章執筆能力などの基礎学力は偏差値に対応していると考えても差し支えなかろう。ちなみに次期真柱である中山大亮氏は関西大のラガーマンである。ラグビーの本なら沢山書けそうだが、どのような思想をお持ちなのか是非ご自身の言葉で表現してもらいたい。果たしてその能力はお持ちだろうか。http://iss.ndl.go.jp/

次に国会図書館の詳細検索において出版社を「天理教」、データベースを「国立国会図書館」、資料種別を「本」、所蔵館を「国立国会図書館」にして検索した場合、下記のような結果になった。

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教祖100年祭前から教祖110年後数年までは天理教の出版活動も概ね年間15冊以上の活発な出版状況であったが、1999年以降は教祖120年祭2006年の17冊を除き11冊以下の出版状況である。

検索方法の問題もあるだろう。しかし全体的傾向として天理教関連の出版状況が110年祭以降大きく低迷しているのは明らかであろう。これらの低迷の意味するところは天理教に“語れる人間”がいない知性劣化なのか、それとも個人的発言を抑圧する組織的欠陥なのか。
私は両者とも正しいと思う。それは検索結果を詳しく見て感じることだ。ここからは私の主観も入るが、出版活動が活発な30年前から20年前の書籍は、筆者が天理教幹部と考えられる人間が散見され、著書名も教義に関するものが多い。しかし近年は幹部ではなく天理教を信仰する科学者や専門家などが執筆しており、また天理教とは関係ない専門領域やエッセイが増えていると感じる。これは天理教を語れる天理教人がいないという人材不足の証拠となるだろう。天理教から発行される著書は、公開書籍としての社会に対する情報発信力である。書籍があれば、一般市民が気になったときに手にとって知ることができる。この情報発信力の低下はそのまま天理教の社会に対する説明責任の低下として換言できる。

ましてや天理教は出版部門や印刷会社を持っており、幹部が出版しようと思えば苦労なくいつでも出版できるであろう。なんと羨ましい限りだ。

このような天理教の閉鎖性は、思想(教義)の涵養という点ではマイナスでしかない。「誰が何を考え、誰が決定しているかわからない」という東京都議会のような伏魔殿では、熱心な信仰者であってお納得できない状況が醸成されつつある。天理教本部は誰の気持ちも分かってくれないという現在の天理教を覆っている不信感は、天理教の中枢まで犯されていると私は感じる。思想・発信をしないというよりも、できる人材がいないのであろう。

中身を充実させずにインターネットだの手配りだの言われても誰も納得できないだろう。天理教は本当に大切なことを見失っているのではなかろうか。無料配布や手配りをして低下する売上ばかり気にしているように見えるが、書籍の中に何を詰め込むか。そこが抜けていては誰も買わないし、思想や教義は伝わっていかないであろう。そして、何よりこの思想の欠落こそが長期的に宗教や信仰にとって致命傷となることに天理教幹部たちは誰も気づいていないのではないだろうか。文書活動の本質を営業活動と感違いしているようでは、天理教がなくても社会は何も困らないということを証明してしまうことになるのではないか。

tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.co.jp

天理教の里親政策がとても重要な懸念を孕んでいるわけ

以下は、ある方とのメールのやり取りでのカインの送信をまとめたものです。このメールには幾つかの資料を添付しましたが、それはブログでは公開しません。
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これまで私は天理教里親について何度も言及しております。結果的に、私は天理教の里親推奨政策について、議論が非常に未熟なままであると感じております。その理由を下記に述べますので参考にしていただければ幸いです。
前提として、天理教では里親も含めて立派に社会福祉活動をされている教会があるのは事実です。しかし、その個別の事象を全体として論じることはしません。また私が下記に述べるような懸念を矮小化することもいたしません。私が実際に見て聞いてきた事実ですので、数例〜数十例と少数のことなのかもしれません。それが氷山の一角なのか、特別なものなのかの判断はお任せいたします。
感覚的には、天理教の里親は非常にバラつきが大きいと感じますし、その点も議論が未熟と思う所以であります。ですので、これから述べることは「こういった側面がある」という感じで参考にしていただけますと幸いです。
まず天理教の説明をしたいと思います。
数年前より天理教の広報機関である宗教法人天理教道友社が里親政策を強力に推し進めてきました。里親関連の出版物を刊行したり、信者が読む発行部数約12万部の週刊新聞である天理時報において里親を推奨するような記事が大量に発信されました。
その結果、「私の教会も里親をしたい」という若者〜中年の天理教を職業とする天理教人に起こりました。実際に里親の研修会に参加して、里親登録をして実際に里親活動を始めた天理教の方もおられました。
次にこの天理教里親ブームの背景について、天理教内部の視点から考察を述べたいと思います。
まず新興宗教である天理教という宗教団体の教義の大枠は「共助・共生」であります。教団設立当初から、弱者(庶民)の貧・病・争の救済を目的として拡大してきました。また全国にある天理教の教会は、一般家庭よりも物理的に広く作られていることが多く、天理教を営む家族以外も収容できる機能があります。それらは教会でおこなわれる神事や行事など、信者が教会に集まることが重視されるため、そういった多人数が収容できる建築構造になっていると考えられます。
そして歴史的に見ても、天理教は行き場所のない方を教会で生活させてきた経験があります。病者やホームレス、家族不和などの方を教会で生活させてきた風土があります。もちろん全ての教会ではありません。
ですので、里子として数名子供が増えたところで部屋数や食事数など新たに里親としての負担が増えることなどは問題がない教会が多いと思われます。(天理教が行き場所のない方を教会で世話するのは一見美談に聞こえますが、福祉制度の整った現代では私は否定的にも見ています。つまり天理教が、そういった方を抱え込むことで、結果的に何年にも渡りその方の社会的自立を遠ざけている現象を実際に私が数例見ているからです。天理教の教会に何年もいる方はその蓋然性が高いです。もちろんその方たちは給与は払われておりませんので三大義務である就労、納税はできていません。)
別の側面です。天理教は「搾取の天理教」と言われるほど、信者から金銭を巧妙に集めます。「天理教の献金は自主的で強制ではない。気持ちだけ」と説明する天理教人が多いです。しかし悪徳商法のように、断れない親密な関係を築くのが天理教布教の戦略です。なにより奈良県天理市の天理教本部の建築群を見ていただければわかりますように、本部をはじめ全国各地には立派な教会が建てられています。その莫大なお金はもちろん信者から集めた浄財です。新興宗教では当たり前ですが、集めた人と金の量が「信仰者としての成熟度」という側面が天理教にもあります。信者から集めた金を上級教会に上納し、最終的には天理市の教会本部に集約されるという仕組みです。末端教会(分教会)→中級教会(大教会)→本部(天理市)となります。結果的に、人と金を集める天理教人は「優秀な信仰者」であり、集められない天理教人は「優秀ではない信仰者」という暗黙知があります。それらのお金は建築物に使われるのはもちろんのこと、天理教のトップである中山家には年に数億の収入となり、幹部たちの数千万の収入となると推定できます(公開されている納税長者番付や過去の幹部の脱税事件などから容易に推測できます)。しかし一方で団体職員として本部、大教会等で専従で働く者は月に2,3万円から数万円という支給でしかありません。
それら強力な集金を裏付けるために全国各地の教会の神殿(本殿)には、教会本部や上級教会が配布したノルマ目標や、戦時中と錯覚するようなスローガンが掲げられています。普通の方が見られたら非常に驚きます(新興宗教ではよくあることですが)。また建築物については、天理教が設立されて200年近く経ち、建て替え、リフォームは定期的・多発的に発生するため、信者にとっては、「際限のない献金地獄」となります。
一方で1990年代以降、天理教の衰退は著しいです。つまり人も金も天理教に集まりにくくなっているということが起こっています。全国各地の天理教では経営が成り立たない現象もおこっており、全国に約1万7千カ所ある教会の7割が後継者不足を中心とした機能不全を抱えていると言われています。後継者不足ということは、若者が天理教の家(教会)を飛び出すということです。若者が家を飛び出す構造なのに、里子を養育しようとする姿勢はどこかに天理教の組織的な闇や矛盾を感じざるをえません。
またオウム真理教事件も含めて、宗教全般に対する国民の嫌悪感の増加など、天理教も例外なく忌避されています(これにはいろいろな意見があると思いますが、国民意識調査などの変遷を見れば、そう考えてよろしいかと思います)
こういった背景から里親を考えると、欧米で時折ニュースとなる「里親ビジネス」が天理教も例外なく当てはまる疑惑があるということです。つまり天理教の教会が里親をするということは「宗教という儲からない底辺ビジネス」の身から、「天理教上層部の賞賛を浴びながら安定収入ビジネス」に生まれ変わることができます。天理教の若者から中年にとっては社会保障もされていない不安だらけの将来に対する一発逆転ホームランが里親ビジネスでもあるということです。天理教に専従する彼らは働いておらず、働いていてもアルバイトや月に2から3万円の給与の中で年金も保険も払っていません。私は天理教が集める年間120億円の献金を彼らの社会保障に回すべきだと主張していますが、天理教本部は決してそうしません。
今の天理教には変革の勇気を持ったリーダーがいないのはもちろんですし、肥大化しすぎた利権まみれの組織のため、誰も変え方が分からないという方が適切かと思います。もちろん教団内で安定した給与は一部の上層部や特定の家系に繋がる者のみです。そういったことも含めて法人全体の莫大な金額の使途は不透明なままです。(最近では献金全体の低迷から天理教本部の建築活動もほぼストップしていると思われます。)
私が実際に見てきたものを紹介します。
里親をしている地方にある天理教の教会では、信者の数として里子を計上しています。天理教では何か行事があるたびに「◯◯万人を集めよう!」「◯◯人のご守護をいただこう!」などというノルマが課せられます。里子はそのノルマ数に利用されているとも考えられます。これは私が天理教の教会の神殿(本殿)に掲示されてあるノルマの名簿表で確認いたしました(添付資料)。つまり、里子が天理市に定期的に連れていかれ、天理教の話を聞かされます。最悪の場合は、17歳になれば「よふぼく」と言われる信者にさせられる危険性もあります。またどの教会でも朝と晩の約20分〜40分の「おつとめ」にも参加させられています。(「させられている」と表現したのは、実際に里親の家長である教会長が里子に「参加しなさい」と言っているのを聞いたからです。)
厚労省の「平成24年 里親及びファミリーホーム養育指針」の「3 権利擁護」は宗教のことは触れていませんが、それで良いのでしょうか。
以下、天理教本部が過去に作成した天理教里親活動のVTRを引用します。里子たちが天理教に染まっていく様子が手にとるようにわかります。天理教にとっての里親活動のゴールというのは、子供の社会的自立ではなく、天理教を信仰させることにあるとも言えるかもしれません。
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写真 VTR中に登場する天理教教会に委託された里子たち 無垢なこの子たちの信教の自由は誰が担保するのでしょうか
また天理教には天理教里親連盟というものもあります。これは私は関知しておりませんので、ホームページから得られた情報がすべてです。ここを読む限り、この連盟には立派な規約や哲学などがあり、子供の接し方や、関連知識の学習会などは定期的に開かれているようです。しかしお金の流れや子供の養育に対する宗教性など、私の疑念を払拭するような本当に知りたいことは何一つ明らかにされていません。全員が天理教関係者であろうことから、明らかにしようという努力も見当たりません。むしろホームページや活動報告を読むと里親としての苦労話が宗教的美談として扱われることに違和感すら覚えます。
またご存知のように、里親登録をして子供を預かると養育里親の場合、手当7,2000円/月に養育費、自治体助成などえお含めると月に約15万円ほどのお金が教会に入ります。さらに里子が複数であれば額は上がります。これらのお金はある意味、里親への報酬という側面もあるでしょう。私はこれを逐一明細をとって収支報告すべきというように縛ることは決して養育の面や里親制度の発展という点で避けなければいけないと思います。
しかし一方で、宗教法人法で認められているように宗教法人の収支は、公開義務がありません。私は何が言いたいかと言いますと、里親制度を支える委託金が天理教の上納金として利用されているという疑念が払拭できません。里親への委託費が、車を買ったりなど、里親の生活を支える点は議論の余地はあれど許容できると思います。しかし同じ文脈で委託費を宗教の上納金として使われるのは、かなり方向性が異なるのではないかと思っています。これは正直なところ、現時点では誰も明らかにできません。もしそうであれば、天理教の教会に預けられた子供は、異常な家庭環境に委託されていると言えるかもしれません。
私の疑念は「委託金が里子のためにきちんと利用されていると思えない」ということです。天理教といえど宗教ですから里親となる天理教人が「委託金を上納金とすることは、陽気ぐらしの教えから言って何も問題はない。」という一般的に見て偏った考えを持っている可能性さえ否定できません。
私は、こうした天理教の金銭的倫理観がいけないと言っているのではありません。私の言いたいことは天理教の方も、天理教以外の方も、行政の方も、疑念を持たれることのないよう正々堂々とした制度を設計する必要性があるのではないかという提言であります。
里親という制度自体が、宗教を背景とした共助の精神に支えられていることはとても重要なことであると思います。しかし一方で、上記のような特定の宗教のための里親ビジネスと疑われることもよくないと思います。「疑いがあるのは一部の人間だ」ということも考えられますが、その不透明を許容する姿勢にこそ日本で里親制度が広がらない制度欠陥があるように感じます。議論が未熟と申しましたのは、突き詰めると里親制度で宗教の金銭問題をどこまでクリアにするかということになると思います。
例えば、宗教法人が里親をする際には上納金を明らかにできるような、年度ごとの宗教法人の収支報告の公開を里親委託の申請条件にする(委託金の収支報告ではない。宗教法人は極めて公益性が高いので公開でも問題はないはずです。)、宗教団体間の上納金には贈与税をかけるとか、また里子に対しては「宗教行事の参加には週何時間まで」や「宗教行事参加選択の自由を担保する(代諾者や後見人という問題は残りますが)」などの規定が必要ではないかと感じております。なぜなら、里親制度の原資は国民の税金であり公金です。また未成熟で無垢な子供には判断ができません。実の親は選べませんが、里親は制度です。制度に欠陥があれば修正するのは当然です。
よく海外の里親を例にとられる方がおられます。欧米ではキリスト教の教えが里親の背景を支えていると。しかし日本の宗教法人は欧米とは異なり組織内部や財務状況が非常に不透明であり、天理教も同様です。日本の宗教法人と欧米の宗教法人を同列に論じることがナンセンスと感じております。(フランスで活動する天理教の文化活動は、宗教色を一切排除したものとなっております。お金も含めた政教分離は日本と比べ物にならないほど厳しいですが、日本では不透明でも許容されます。http://www.excite.co.jp/News/bit/E1432901583704.html
別の側面から想像するに、日本では里親となる家庭が少ないと言われています。そのため里親を希望する方がいれば、研修・登録を経て比較的簡単に里親になることができます。日本では里親が少ないからといって、特定の宗教法人を一般家庭と同様に扱うことは行政の甘えとさえ感じることがあります。実際天理教の里親を志向する方はその委託金に目が眩んでいるという疑惑を私は持っております。
宗教法人をすべて敵対視すべきであるということではありません。宗教法人の財務はブラックボックスであるため、里親の制度設計や子供の宗教との接触をきちんと整理しましょうということです。
里親の発展のためにお金も含めたインセンティブはとても大切ですが、宗教法人にはそういった疑念、疑惑を持たれないように明快なルールが必要ではないでしょうか。特に公益性が高い宗教法人には厳しいルール適応も必要かと感じます。お金の扱いが極めて不透明な宗教法人だからこそ、宗教法人にはきちんと特別なルールを儲ける必要があるのではないでしょうか、というのが私の主張です。
参考までに1999年に日弁連が作成した「反社会的な宗教的活動にかかわる消費者被害等の救済の指針」のP.30を引用します。
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さらに、同項に言う「その発達しつつある能力に適合する方法」とは、第三者はもちろん、親権者でさえ、未成年者の決定を 左右することが親権の権利濫用として許されない場合が生じると解釈される。しかも、未成年者が未熟であればあるほど、すなわち原則として低年齢であるほど、親権者や第三者が勝手に未成年者の宗教的立場を決定してはいけないのである。このことを、未成年者において「権利として保有しながらも、将来、成熟した判断能力を備えた段階で権利行使ができるように、未成熟な段階で はとりあえず権利を棚上げにし、その権利が十分に行使できるよ うになる条件整備を要求する権利」という意味で未成年者の「保管状態にある権利」と呼ぶこともある。欧米では、宗教教育参加 決定権を表明できる年齢は18歳ないし14歳とかなり高年齢に設定されている。 もちろん、未成年者であっても、その信教の自由は尊重されなければならない。未成年者がその自由意思で特定の教義を信じ、 行事に参加することは、特に高等教育の年代の場合、特別の事情がない限り、その親といってもこれを禁止することはできない。 しかしながら、未成年者の人生を決定してしまうような長期間の施設内での共同生活をするような場合には、特段の配慮が必要であろう。ともすれば判断能力が乏しく、社会的経験を経ていない ことから、共同生活を経る中で指導者の教えや指示を熱狂的に受け入れてしまったり、未成年者に早々と成人後の人生を決定づけ させてしまうことになりかねない。未成年のうちから他の情報を 遮断し、情報へのアクセスを断ち切ることになってしまうことは、 児童の権利に関する条約(子どもの権利条約)第17条にも反することとなろう。
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最後に、この里親制度の骨子は、子供の健全な成長と発達であり、特定の宗教法人に寄与するものではありません。里親制度が、児童福祉法に拠っているように、子供の健全な養育に資することができなければ、天理教が里親をする必要性はまったくないと私は考えます。天理教は新興宗教の中でも比較的マシな印象だからOKというのは理由になりません。また天理教が里親から撤退すれば子供の行き先がなくなるのではというのは全く別問題です。ぜひ我が子が特定の新興宗教法人に養育されることを想像してください。
天理教も含めた宗教法人の里子への実態調査、議論をお願いいたいものです。
これらの問題は当事者である子供が判断できるものではありません。だからこそ大人の事情ではなく、一番に子供を中心に考えなければいけません。子供のためにも周囲の大人が疑いをもたれることなく、きちんと議論・整理して健全でなければなりません。里親制度が、社会の疑念を持たれたままでは、子供の信頼を得られるとは到底思えません。ぜひ、里親に関わる先生方の活発な議論を祈念しております。
私が懸念することがない、健全で正しい里親をされている天理教人がいることも付記しておきます。真面目にきちんと頑張っている方が、正当に評価される社会であることを願って止みません。
tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.co.jp

震災支援 天理教が集めている募金は適正に管理され使途不明となっていないかー東日本大震災を参考に

熊本地震において天理教は様々な支援をおこなっている。これらは今回の熊本地震に限らずに歴史も長く規模も大きい。行政からの一定の評価もあるようだ。 最も規模が大きかったと思われるのが、3.11東日本大震災であった。現場での瓦礫撤去から医療支援、生活支援など多方面に渡る活動が長期間おこなわれたことは高く評価したい。今回の熊本地震でも発生直後から天理教の災害救援隊ひのきしん隊が活動開始したようである。一人でも多くの方の支援になってほしいと祈らずにはいれない。また東日本大震災の際には総額9億2000万円余りの募金を天理教は集めた。金額も大きく、このお金が有意義に使われていると信じたい。

天理教の災害救援隊も含めてボランティアの力というのは非常に復興への大きな戦力となる。一方、今回の熊本地震ではボランティアを見る人々の目も変わってきているように感じた。ボランティア元年と言われた阪神淡路大震災では、都心ということもあり多くのボランティアが殺到したと記憶している。そして東日本大震災では阪神との規模や質の違いはあったにせよ、「ボランティアは興味本位でやってはいけない。被災地に負担をかけるボランティアではいけない」という雰囲気があったように思う。そして今回の熊本地震では「ボランティアはすぐに被災地に来ないでほしい」という雰囲気があったのではないかと個人的には感じている。道路、電話、ガソリンなどボランティアが使用することによって被災者が利用できなくなってはいけないということだろう。こういったボランティアに対する視線の変化は年々厳しいものになっている。また東日本大震災の際に火事場泥棒のように行政予算を食いつぶし、使途不明の募金活動をしていた団体があったニュースは誰しも目にしたことはあるだろう。

天理教は今回の熊本地震についても東日本大震災と同様に「天理教災害救援募金」と「天理教被災教区・災救隊支援募金」の2つの募金窓口を設置した。これらの募金が適切に使用され、本当に困っている方に届くことを強く願っている。なぜ私がそのことを強く願うのか。それは東日本大震災での天理教が集めた募金の9億2000万円余の使途が明らかにされていないからである。 震災支援に水を差すようなことは控えたいのだが、善きことであるからといって無視はできない。もし天理教に募金をする人がいたら、もし被災者に有意義に利活用されることを望むのであれば一考してほしい。

もし私の勘違いや、天理教から「震災支援記録集」や「報告書」など、きちんとした募金の使途が明らかなデータがあれば私は訂正して謝罪する。

すべてのデータは東日本大震災をめぐる天理教の月刊誌である「みちのとも」を参考にした。 結論から言うと、天理教が東日本大震災で集めた募金9億2000万円余のうち使途が明らかなものが8億円余で約1億2000万円余の使途が不明である。これらの問題は募金の目的が不明瞭であるのと、最も由々しき問題は誰がどのように配分額を決定したという募金用の特別会計の報告書等を公開していないことであろう。

まずは天理教が募金をおこなう目的が不明瞭である。「天理教災害救援募金」と「天理教被災教区・災救隊支援募金」の2つの募金をしているが、誰が誰にどういった目的で募金が使われるのかが書かれていない。タイトルを字義通りに理解すると、通常であれば「天理教が窓口となって、そのまま必要な人に手渡される」と考えるのが通常であろう。「天理教災害救援募金」であれば、集められた金額は余すことなく被災者に手渡され、「天理教被災教区・災救隊支援募金」であれば、集められた金額は余すことなく被災教区や教会、災救隊など天理教関係の被災者や支援者に手渡されると考えるだろう。しかし天理教は、そんなことはやっていないと思われる。1億2000万円の募金が使途不明であることを考えると、天理教本部としては一銭も募金をしていない。募金をしたのは天理教本部ではなく、天理教の信者でしかない。最悪の場合、募金を天理教本部の収入としている疑いさえある。理想を言えば、9億2000万円を募金として集めたが、天理教が8000万円を追加して合計10億円を募金したと言ってほしいものである。

表を作成したので詳しく見ていただきたい。またその下には、表の根拠となった「みちのとも」の募金の使途に関する記述を引用したので見てほしい。(ファイルはダウンロードできます。コピーフリーですが、数字の間違いなどについて責任を負いかねませんので、ご了承ください)

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みちのとも 2011.5月号 立教174年5月号

p9
「また19日から22日にかけて、被害の大きい岩手、宮城、福島の三県へ関係者を派遣し、教会本部からの見舞金計3000万円を各自治体に届けた」

p11
東日本大震災 被災者受け入れについて 天理教教会本部は、奈良県・天理市と連携し、天理市内の天理教関係施設において、食事つきにて受け入れを致します。問い合わせ窓口は下記となっています。

1受け入れ規模
・3000人(天理幼稚園・小学校・中学校・高校、また天理市立の小・中学校への就学も可)
・天理教信者以外の方も受け入れいします

2受け入れ施設(罹災証明書が必要となります)Z
・奈良県天理市内の天理教関係施設

3受け入れ期間
・平成23年9月末まで

4受け入れに関わる諸費用について
・宿泊費 平成23年9月末日までは無料(それ以降はご相談ください)
・食費 平成23年9月末日までは無料(それ以降はご相談ください)

5問い合わせ
・岩手県下 岩手教務支庁
・宮崎県下 宮崎教務支庁
・福島県下 磐城平大教会
・天理市役所 総務部防災課

6天理教教会本部の申し込み窓口
・震災被災者受け入れ対策室
632-8501天理市三島町271 0743-63-2517

 

2011.7月 立教174年7月号
p10
「復興委員会は、これまでに集まった義援金を岩手、宮城、福島の三県に届けた。山澤副委員長が6月7日に岩手県、9日に宮城県、10日に福島県の各県庁を訪れ、県知事らに各1億円を手渡した。」

p13
募金累計3月15日〜6月7日
「災害救援募金」3792件 3億3114万541円
「天理教被災教区・災救隊支援募金」3110件 2億8099万6990円
計7082件 6億1213万7531円

2011.8月号
p15
募金累計3月15日〜7月12日
「災害救援募金」4373件 3億5366万409円
「天理教被災教区・災救隊支援募金」3613件 3億2636万4758円
計7986件 6億8002万5167円

2011.9月号
本部から関係直属通じて 7月25日
被災教会へ「復興の種」 「東日本大震災復興委員会」(上田嘉太郎委員長)では、5月26日の発足以降、震災発生直後に設置された災害救援対策本部のさまざまな活動を引き継ぎ、継続的な救援活動を展開するとともに、被災教会への支援について検討。各委員が関係直属教会長と面談し、個々の教会の被災状況の詳細確認、復興への展望などについて話し合いを進めた。その結果、一日も早くおつとめを勤める場所をご守護いただいけるように、さらには勇んで立ち上がり、にをいがけ・おたすけに取り組めるようにとの思いから、支援金の拠出を決定。7月25日、教会本部からの「復興の種」として総額3億7千万円が、上田委員長から24の直属教会の会長に渡された。 なお、原発事故の影響によって避難を余儀なくされている教会に対する支援については、事故収束に向けた今後の動きを踏まえつつ別途実施する方針。

p21
募金累計3月15日〜8月9日
「災害救援募金」4639件 3億6834万5703円
「天理教被災教区・災救隊支援募金」3696件 3億5422万2241円
計8608件 7億2256万7944円

p52
第221回 定時集会から
<本教の救援活動>
深谷善太郎表統領室長(の答弁)
3月14日から、道友社を窓口に「天理教災害救援募金」と「天理教被災教区・災救隊支援募金」を開始。「災害救援募金」だけでは本教の活動に活用できないということから今回、「被災教区・災救隊支援募金」を新設した。「災害救援募金」から3億円を、山澤廣昭内統領が岩手・宮城・福島・茨城教区に対して慰問使を派遣。被災教会に出向いてお見舞いを申し上げ、それぞれ見舞金をお渡しした。なお、栃木・埼玉・東京・千葉・新潟教区には被災報告を提出していただき、後日、本部から見舞金をお渡しする。今年のこどもおぢばがえりは、岩手、宮城、福島、茨城の被災4県に対して、交通費、宿泊費、食費などを支援すると発表した。学生生徒修養会、高校の部でも同様の支援をさせていただく。

深谷善太郎表統領室長 (の答弁)
「教区や教会などが独自で活動する場合は、資金や人員などのすべてをそれぞれで賄っていただきたい。身の丈に合った、できることをさせてもらうことがひのきしんの基本」

2011年10月号
p10
第222回臨時集会 8月25日
復興支援施策を審議
8月25日、第222回「臨時集会」が招集された。今集会は、教庁提出の議案第1号「東日本大震災に関わる借入に関する件」を審議するもの。被災教会の復興支援の一環として、銀行融資の便宜を図るうえでの施策について島村廣義・経理部長が議案を説明した。その中で、銀行融資を受けるに際し、宗教法人天理教が保証人、直属教会が借入者となることに加え、被災一教会当たりの借入限度額、年利、年限などにも言及。利子補給については「当初3年間は教会本部で負担する」と述べた。この後、質疑応答を経て採決が行われ、全会一致で可決・承認された。
なお、借り入れの申し込み期間は9月26日から来年12月26日まで。添付資料として「罹災証明書」(写しも可)が必要となる。この期間内に復興計画が立たない場合は、特別願いを提出することになっている。詳細については、8月27日の「かなめ会」(直属教会長の会)席上、被災教会を部内に持つ直属教会へ文書で伝達された。

p75
募金累計3月15日〜9月6日
「災害救援募金」4860件 3億8155万9945円
「天理教被災教区・災救隊支援募金」4235件 3億9622万1654円
計9095件 7億7778万1599円

2011.11月号
p57
募金累計3月15日〜10月11日
「災害救援募金」5083件 3億9049万9826円
「天理教被災教区・災救隊支援募金」4528件 4億2438万4057円
計9611件 8億1488万3833円

2011.12月号
p49
救援・支援募金 受付は12月27日まで 現在8億5000万円を超えております。

p65
募金累計3月15日〜11月8日
「災害救援募金」5274件 4億2590万7540円
「天理教被災教区・災救隊支援募金」4754件 4億3306万1471円
計10028件 8億5896万9011円

2012.2月号
p8
救援・支援募金 ご協力へのお礼
本教では、東日本大震災の被災地の一日も早い復興を願い、昨年3月15日から12月27日にかけて、道友社を窓口として「災害救援募金」「天理教被災教区・災救隊支援募金」を実施してまいりました。
募金総額は、災害救援募金が4億4682万6454円、天理教被災教区・災救隊支援募金が4億7391万5132円となり、合わせて9億2074万1586円に上りました。
真心をお寄せくださいました大勢の皆さま方に、心より御礼申し上げます。
既報の通り、災害救援募金につきましては、集まった義援金の中から、お見舞金を含め、岩手、宮城、福島の各県庁へ計3億3000万円を届けさせていただきました。残額につきましても、後日、被災地へ届けさせていただきます。
また、天理教被災教区・災救隊支援募金につきましても募金の趣旨に沿った形で活用させていただきます。
長期間にわたり、多額の募金をお寄せいただいました各位のご理解、ご協力に対し、重ねて感謝申し上げます。

東日本大震災復興委員会
p44
第223回 定時集会から
春野享震災復興委員会事務局長(の答弁)
(質問:被災者のおぢばでの受け入れ人数と費用について)
9月末までに49世帯、延べ2910人を受け入れた。宿泊お供えは7ヶ所の詰所で79万円、食費は69万9650円、合計148万9650円を本部が負担した。また、本部への請求を辞退した詰所が8ヶ所あり、その金額は合計100万6000円。これは各直属教会の救援活動の一環だと理解している。

(質問:こどもおぢばがえりと学生生徒修養会・高校の部における支援で、掛かった費用)
春野事務局長 (の答弁)
こどもおぢばがえりには、被災地から108の団体が帰参した。人数は少年会員が1526人、育成会員が1509人、合計3034人。
その費用は、詰所宿泊のお供えが37ヶ所で576万6400円、2ヶ所が請求を辞退した。詰所での食事代(炊事課請求分)は281万7520円、昼食のカレー食代は104万5250円、交通費は3141万1743円、合計4104万913円を負担した。
学生生徒修養会・高校の部では、41人の受講お供えを免除した。バスによる無料送迎を実施し、青森発と茨城発の2台を手配。費用は102万3400円を負担した。
これらの費用は、教庁会計で建て替えている。

(質問:「災害救援募金」「天理教被災教区・災救隊支援募金」の総額と、その使い道)
春野事務局長
阪神・淡路大震災での経験を生かし、被災地への支援とともに、教内の救援活動を支援するうえから、2つの募金に分けた。11月25日現在、「災害救援募金」は、5354件で4億2881万2019円。「被災教区・災救隊支援募金」は、4854件で4億4018万7406円。合計8億6899万9425円の募金を頂いている。

島村廣義経理部長
平成23年12月27日の募金締め切り後、教庁予算(平成23年度)を補正し、款を起こして、教庁の歳入に入れてから予算を振り分ける予定である。

(質問:被災教会への支援について)
春野事務局長
11月25日現在の被害状況は、全壊27件、半壊36件、一部損壊133件となっている。これは罹災証明を反映させた件数だ。福島県は罹災証明のやり直しをしており、今後も多少の変更はあり得る。

(質問:被災教会へのお見舞い金について、その内訳)
春野事務局長
4月下旬から5月上旬にかけて、岩手、宮城、福島、茨城の被災4教区に慰問使を派遣し、全壊10万円、半壊5万円、一部損壊3万円として、合計761万円を手渡した。
その内訳は、岩手教区が全壊4ヶ所、半壊2ヶ所、一部損壊12ヶ所。宮城教区が全壊15ヶ所、半壊13ヶ所、一部損壊32ヶ所。福島教区が全壊1ヶ所、半壊9ヶ所、一部損壊34ヶ所。茨城教区が全壊2ヶ所、半壊8ヶ所、一部損壊39ヶ所となっている。
また4教区以外には、それぞれの教区の判断を反映し、合計57万円を渡している。

(質問:「復興の種」が7月25日に渡されて以降、増額された経緯を伺いたい)
春野事務局長
罹災証明が下りて、把握していた被災状況と異なっていた点もあり、復興委員会で検討のうえ、9月25日に4000万円、10月26日に10000万円を追加し、合計4億2000万円を「復興の種」として直属教会へ渡した。
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以上である。出版を担う天理教道友社(宗教法人)がなぜ募金の窓口となっているのか全く理解できない。 冒頭で述べたように、天理教は募金の窓口を「天理教災害救援募金」と「天理教被災教区・災救隊支援募金」の2つの入口を用意している。しかし出口は示されていない。「みちのとも」2011年9月号p52に、「災害救援募金」だけでは本教の活動に活用できないということから今回、「被災教区・災救隊支援募金」を新設した。」とある。使途を見ると区別しないのであるから、どうせ一緒くたにするのであれば、1つでいいと思う。敢えて入口を2つにするのは、2倍の金額を集めたい・自由、勝手に使いたいという意図があると勘ぐられても言い訳できない。

私が驚いたことは「島村廣義経理部長 平成23年12月27日の募金締め切り後、教庁予算(平成23年度)を補正し、款を起こして、教庁の歳入に入れてから予算を振り分ける予定である。」ということである。私は一瞬頭が真っ白になった。なぜ募金として集めたお金を天理教(教庁)の歳入として計上するのか全く理解できない。しかし、このことを企業経営の専門家に聞いてみると、これは仕方がないことのようである。お金をきちんと管理するためには一旦法人の歳入にして、募金用の特別会計なりを組むことが常識のようである。たとえば、放送局などがおこなう募金は一旦法人の歳入としているようである。私の勉強不足で申し訳ない。同時に、これには問題も多いようだ。つまり募金の全額を被災地にきちんと送っているのか疑問を持たれる法人が多いということである。明らかにしていなかったり、天理教のように集めた募金額と、受け取り先の受取金額が異なるということが多いようだ。また手数料と称して数%を抜いてしまったりと本末転倒のようなこともあるようだ。日本赤十字社では義援金については「義援金そのものは公的な資金ではないが、そのシステムは強い公共的な性格及び役割を持つものと言うことができる」と記載している。日本赤十字社の義援金ガイドラインを鑑みると、天理教の募金システムは「誰が何に基づいて判断して配分や使途を決定しているか全くわからない」という点も問題であろう。また3億7000万円が24の直属教会長に渡されたとあるが、なぜそのような面倒な手続きを取るのか理解できない。直属教会長(大教会)はきちんとお金を管理しているのか、さらに誰もわからない。伏魔殿から更に伏魔殿に送られては、本当に何も見えない。直属教会長とは、本部の役員でもある人がいるであろう。つまり送る側と受ける側が同一人物であるという疑惑もある。私は義援金がマネーロンダリングとして扱われている疑惑しかもっていない。なぜこれほどいい加減なのだろうか。 http://www.jrc.or.jp/press/pdf/20130325_01.pdf

まして我々の関心事は宗教法人の天理教である。募金を歳入に入れてしまうことで通常の「天理教へのお供え」(寄付)と一緒くたにされている危険性がある。なぜなら天理教はお金の使途をきちんと公開していないからである。天理教の経理部長の答弁では募金用に「款を起こして」とあるが、当然のこと我々はその款を見ることができない。つまり、天理教の財布に入れてしまえば一般人は誰も確認ができないのである。 定時集会などという予算委員会のようなものも天理教にはあるが、「みちのとも」でその答弁を見てみると、過疎化の進んだ村議会のような、なんの発展性もない生ぬるい議会内容でしかない。時間の無駄であろう。こんないい加減な人たちに、善意の募金を扱う資格があるのだろうか。

もし私が知らないだけで、天理教がきちんと募金の使途を明確にしている証拠があれば(9億2000万円の行方)、私は早急にこの記事を訂正し謝罪したいと思う。教えてほしい。それを願いたい。

深谷善太郎表統領室長の答弁で「身の丈に合った、できることをさせてもらうことがひのきしんの基本」とあるが、この言葉は「お供え」にも当てはまるのだろうか。詰所を新築して、膨大な金額の返済があるようだが、それを部下教会と信者に強いているのかどうかは、いずれ明らかになるであろう。権力者の責任が問われ始めているのは間違いない。結構、結構なことであろう。

 

参考リンク
天理教の「御供え」について
http://6706.teacup.com/5051/bbs

命の泣き声~天理教への信仰でお悩みの方へ~
http://inochinonakigoe.grupo.jp/

tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.co.jp

 

天理教のシステムでは有能な者は育たない 学識のない教育者たち

春になり新学期が始まった。どの職場にも新しい顔ぶれとともに新たなスタートを切るところも多いであろう。

天理教の傘下にある学校法人も人事異動で新しい顔ぶれが並んでいた。その顔ぶれを見てみよう。引用先はそれぞれの組織のホームページから。

天理大学学長    永尾 教昭

天理大学理事長   深谷 善太郎

天理高校学校長   竹森 博志

天理中学校学校長  島 幹典

天理小学校学校長  篠森 靖治

天理幼稚園     上田 恵美

学校法人天理教校学園理事長  久保 善平
学校長  大西 吉治

天理医療大学学長  吉田 修
ウィキぺディア

 

天理大学学長に就任した永尾教昭氏については天理大学のホームページに経歴が載っていたので引用してみたいと思う。
http://www.tenri-u.ac.jp/info/q3tncs0000000v6t.html

天理大学学長
永尾 教昭
昭和31年10月22日生
最終学歴:昭和55年3月 天理大学外国語学部フランス学科卒業

略歴:
昭和59年9月        天理教パリ出張所(現ヨーロッパ出張所)赴任
平成7年7月    天理教ヨーロッパ出張所所長就任 (平成21年3月まで)
平成9年4月    宗教法人天理教教会本部准員登用 (平成23年4月まで)
平成21年4月  学校法人天理大学総合企画部長  (平成21年10月まで)
平成21年11月   宗教法人天理教海外部次長    (平成24年10月まで)
平成21年11月   学校法人天理大学評議員     (平成28年3月まで)
平成23年4月  宗教法人天理教教会本部本部員登用(現在に至る)
平成24年11月   宗教法人天理教道友社社長    (平成27年3月まで)
平成27年4月     学校法人天理大学常務理事    (平成28年3月まで)

 

私は永尾氏の経歴を見て驚いた。「研究歴がまったくない」のである。総合大学の学長が大学院(修士・博士)の学位を保持していないというのは珍しいのではないか。(きちんと全調査していないが複数の大学をみた限り)

整理をする。通常では高校を卒業して次に入る大学は4年間である。大学4年間を卒業すると学士という学位がもらえる。大学4年を卒業すると次に大学院がある。大学院は2年間の修士課程があり修了すると修士という学位が授与される。さらに3〜4年の博士課程を修了すると、博士という学位が授与される。大学では主に教養や専門的知見を学ぶことを主眼とし、大学院では大学で得た知見をもとに研究をおこなう。博士課程では特に自立した研究をおこなうことを目標とするのである。天理大学には体育学と臨床心理学の上位として修士課程が設置されている。

話を戻す。永尾氏の弁護をすると、一般的に大学の学長になるためには特別な学位は必ずしも必要ではない。それに彼の経歴をみると学校法人において豊富な経験もあり(天理大学のみだが)、また恐らく学長選挙を経ているために何も法律的、制度的に問題はない。

参考資料 学長の選考方法(国立大学) 文部科学省
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo4/035/siryo/__icsFiles/afieldfile/2013/11/05/1340990_4.pdf

しかし高等教育機関である大学の長が、その上級学位を所持していないというのはいかがなものだろう。天理大学には体育学研究科と臨床人間学研究科の2つの上級学位(修士)授与機関があるが、彼がこの大学院の意義と研究の意味をどこまで理解されているのか?というよりも理解できないのではなかろうか?という疑義が生じる。

わかりやすいように比喩を用いるのであれば、別席を経てようぼく資格(学士)しか保持していない方が、真柱(学長)になるようなものである。教会長資格検定試験を経た教人(修士・博士)でもないし、お勤めやにおいがけといった実践(研究)もやっていないということである。准教授や教授を会長や大教会長に置き換えると、会長や大教会長には上記のような一定の資格や布教実務が求められる。しかし真柱になるための規定は特にない(と私は理解しているが合っているだろうか)。つまり身内の賛同があれば、誰でもなれるのである。

一昔前であれば、教授であっても大学院に行かずに学士しか持っていないという人もまれにあった。また研究はしていないが、社会で著名な実績を残した人が大学人となることもあった。しかし今では、ほとんどが大学の教員になるには博士の学位や博士と同等の研究歴が求められるのが常識となっている。

反論があるとすれば、それは「資格や学歴が大事なのではない。その人が何を考えて、何をおこなうかが重要なのだ」ということであろう。しかしこれは学歴主義批判と同等であり、社会が共通のルールで動いており、また社会の多数がその利益を共有している以上論を持たない。つまり「いい人であることは否定しないし、彼がやってきたことを否定するつもりはない。しかし「それとこれとは問題が異なる」ということである。それを是と言ってしまえば、医者も弁護士も学校の先生も「いい人とある程度の経験があれば、資格や課程は必要ではない」という極論になってしまう。

私は今の日本の大学教育や政府の大学教育政策に対して批判的に考えていることも多い。しかし大学教育自体を否定するつもりはない。大学では人の育成、科学技術による世界の発展、平和の共有など大学が果たすべき使命は非常に大きいと思っているからである。

上級学位としての研究歴がなぜ大事なのかというと、「研究」というのは専門的視点から物事の事実を深く検証することであるためである。「なぜ」という疑問を持ち、それを実際に検証・発展させることである。このトレーニングを受けていないということは、その意義も意味も見いだせていないということになる。

また研究をおこなうということは、国や団体から研究費というお金をもらい、きちんと管理し、報告書を提出しなければならない。昭和の頃であれば大学の教員というと「自由な時間のある人」の代名詞であったが、今ではそれも死語であるくらい多忙であるといってもよい(特に国公立大学では)。

天理大学に対する評価はどのようなものであろうか。「公益財団法人 大学基準協会」がおこなっている大学評価を参考にしたいと思う。

「天理大学に対する大学評価結果ならびに認証評価結果」2014年
http://www.juaa.or.jp/updata/evaluation_results/12/20141027_443500.pdf

私の感想としては概ね天理大学の評価は問題がないといってよいと思う。天理大学も例外なく志願者の減少はあるが、それは少子化を迎えた全国的な課題である。気になるのは「大学への助言」の中で、教員の研究成果が乏しいことが挙げられている。つまり研究をしてない教員が多いということである。

3 研究環境

  • 提出された資料によると、人間学部人間関係学科では、研究成果をほとんど発信していない教員や、国際文化学部および体育学部では、著者および論文が少なく研究活動が不活発な教員がいるので、研究活動の活性化に向け、大学全体として組織的に取り組むことが望まれる。
  • 人間学部、文学部、体育学部の専任教員において、過去3年間で科学研究費補助金の申請件数が少なく、外部資金の獲得について改善が望まれる。
    P580より引用

次に上記で指摘があった国が毎年審査して研究費を付与する「科学研究費補助金」の申請を見てみよう。

https://kaken.nii.ac.jp/p?q3=%E5%A4%A9%E7%90%86%E5%A4%A7%E5%AD%A6&f=1

体育やスポーツの教員を中心とした研究の申請が多数を占めている。恐らく大学院設置に際して研究をおこなうように命令があったのだろう。また体育以外の教員はあまり研究をおこなっていないようである。国の研究資金というものは申請して必ずしも採用されるものではない。採用率は3割程度である。天理大学の研究者たちは研究費申請のレベルが低くて採用されていないのかもしれない。この天理大学の研究を重視していない姿勢は、そのまま学長の選任へ影響を及ぼしていると言われても当然であろう。

大学教員の役割は教育と研究である。そのため学生の指導や講義を一生懸命やっているという弁明もあるだろう。しかし、大学は小学校や中学校、高校ではない。決まった学習指導要領はなく、講義で何を教えようが教員の裁量一つである。それは教育と研究は紙一重であり、それぞれが相補的に機能させる必要があるからである。先ほど大学の教員は忙しいと言ったが、楽をしようと思えば楽に過ごせるのも事実である。研究をせずに講義だけ。講義も毎年同じプリントを使えば資料を作成する必要もない。多くても週に5コマ(1コマ90分)くらいと考えると毎日90分間話せばいいだけである。あとは専攻会や教授会といった会議だけで楽に終わることもできるであろう。

私は常々、天理大学は天理教の頭脳として役割を果たしていないと主張している。体育学部や外国語学部に対する外部からの評価は、教員養成や国際人養成という点で高く、天理大学にいなくてもその評判を耳にすることがあるほどである。一方で天理大学の中核とも言える宗教学科や天理教学科はどうだろう。外部研究費を獲得してきちんと研究成果として国と国民に貢献しているのか疑問が残る。いくつかの学会を見ても、活発な活動とは思えない。大学評価でも指摘のあったように、外部審査を受けない紀要や学会発表では研究成果とは言えない。

昨今の大学事情を俯瞰したときに、天理大学もまた、大学評価で指摘のあったように、教員に対して研究をきちんとするようにとのお達しが出ていると考えられる。しかし親が子供に勉強しろといったところで、親が学問の重要性やその姿勢がなければ何の説得力もないだろう。ましてや学長や理事長、校長という役割が、内部の組織で役職を輪番しているだけでは、彼らから秀でた知見も見識も垣間見ることはできない。彼らに一体何ができるのだろうか。天理教の専門家であることは理解できるが、彼らは学問や教育の専門家と言えるのか。大学や教育の発展のため、きちんと競争的選考がなされていたのだろうか。それとも天理教幹部として役員報酬を得ることが目的のただの名誉職なのか。そう思う人が大多数であろう。天理教で偉くても社会の業績と評価してくれる人はいないであろう。

天理教を巡る人材登用は個人商店に近い。同族の親戚だけで役職を回している。一般論として創業当初はいいだろうが、代を重ねるごとに優秀な人間は可能性を求めて流出し、無能な者だけが残る。天理教もまた厳しい社会の中で生き残れなくなり、無能な者だけでは何をやってもうまくいかない状態となるのは時間の問題である。つまり、まともな人材を登用できない天理大学から今後の天理教から社会的を牽引するような優秀な人材は現れないだろう。
  永尾氏も、天理教の資料で検索をかけると永尾という苗字が多く、天理教の有力幹部であることは明らかである。彼らがやるべきことは「縦の伝道」でも「よふぼくを成人」させることではない。「何の信任も得ていない一族を役職から撤退する」というシンプルなことである。そしてのそのシンプルなことさえもできないことが現在の天理教であろう。中身ではない枠組みである。こんな閉鎖的組織が誰の目に魅力に映るのだろうか。営利企業であれば業績の好調によって一族経営も評価されるが、話は評判も収支も悪化し続けている宗教団体である。天理教をダメにした責任は彼らにあることは明白である。神や信仰を安売りしてはダメだ。天理教のだめの教え(最後の教え)が、本当にダメの教えになる日もそう遠くないであろう。

私は天理大学、延いては学問の私物化が心配でならない。

 

参考リンク
天理教の「御供え」について
http://6706.teacup.com/5051/bbs

命の泣き声~天理教への信仰でお悩みの方へ~
http://inochinonakigoe.grupo.jp/

 

tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.co.jp

天理教に参詣する政治家たちと天理教の「法律を恐れるな」という反社会的姿勢

天理時報のコピーを送っていただいた。一大イベントである教祖没後130年祭が終わったあと、2月6日に天理教本部に国会議員団が集まったという情報を得たためである。発信源は馬淵澄夫衆議院議員(民主党奈良)のツイッターである。天理時報のコピーは、その件に関する天理教本部の公式アナウンスを知るためである。

拡大写真をこちら。
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前列右から2番目は天理教内統領 山澤廣昭氏、3番目は天理教表統領で真柱の実弟で、次期真柱予定中山大亮氏の父 中田善亮氏である。4番目は次期真柱予定の中山大亮氏、5番目が真柱の中山善司氏である。国会議員と思われる人物たちは、胸にネームプレートをつけているので、前列一番右の人物も天理教中枢幹部であると思われるが私には分からない。

国会議員を見ると、前列左2番目に前原誠司衆議院議員(民主党京都)、2列目左3番目に福山哲郎参議院議員(民主党京都)、最後列左5番目に辻元清美衆議院議員(民主党大阪)、そして4列目左一番目が馬淵氏である。民主党ばかりに偏って恐縮だが、私が自信をもって確認でき人物は4名である。ちなみに馬淵氏以外の3名のホームページやSNSには、天理教本部に参詣したことを書いていなかった。
加えて、ネットなどで過去に天理教との関わりがあったとされる議員が写真からは確認できなかった。例えば
http://anarchist.seesaa.net/article/41644682.html

その他に、写真の人物がわかる方がいたら教えてほしい。

では、これらを天理時報はどのようにアナウンスしたのか。天理時報第4463号2月14日のP2を参照しよう。小見出しは「国会議員52人が参拝」とあり、
2月4日から7日にかけては、国会議員をはじめ地域の役員など教外の関係者が招かれた。
 6日には、衆参両院の国会議員52人(うち、ようぼく35人)が本部神殿で参拝した後、第38母屋でのレセプションに出席した。
 あいさつの中で真柱様は、教祖年祭の意義についてあらためて説明。「年祭というものは一つの目的へ向かう一里塚のようなもの。私たちは、またこれから心新たに、陽気ぐらしへの歩みを進めていかなければならないと決意している」と述べられた。
 この後、参加者を代表して、元・厚生労働大臣の川崎二郎・衆議院議員があいさつに立った。川崎議員はこの場にいる議員がさまざまな縁でお道につながっていることに言及した後、「しっかりお道の勉強をしながら、日本の国が少しでも良くなるように努力したい」と話した。
 会場では、お道につながる議員同士、和やかに談笑していた。なお、この日に中席を運んだ議員や、ようぼくとなった議員もいた。
以上である。

これらの情報からわかることは、天理教は国会議員とのチャンネルを持っているということであろう。招いたのが天理教であるようだから、天理教から各議員に案内を出したのか、国会議員を束ねる人物がいるのかであろう。例年であれば、1月5日から7日に開催される天理教お節会に議員たちが初詣もかねて参詣していた。しかし今回は通常国会が4日に招集されることに加えて、130年祭という一大イベントに日程を合わせる意味も込めたのではないだろうか。

記事の中では議員たちは神殿に参拝したということであるから、天理教本部にお金をお供えとして提供したことは間違いないであろう。問題はその金が、どこから支出されているのかということである。政治資金であろうか、私費であろうか。
過去、週刊誌が天理教のお供えを政治資金から支出したとして問題にしたこともある。例えば
http://www.news-postseven.com/archives/20141222_293917.html

ちなみに靖国神社の参拝は私費である。
http://www.asahi.com/articles/ASH8H34DPH8HUTFK002.html

こういった事情もあったから、さすがに政治資金から支出してはないだろうが、確認は必要であろう。

もう1点、私が気になったことは、天理教は国会議員が信者(ようぼく)になった際には、天理時報に顔写真付きで紹介することが慣例になっていた。しかし今回は誰であるかも紹介はされなかった。今回は紙面が限られていたのか、政治色を無くそうという方針転換があったのかは不明だが、政治との関係は今後も厳しく見ていきたい。(政治と距離を置くのは結構だが、写真と記事を読む限りではべったりな関係である)

最後に、久しぶりに天理時報を読んでみての感想である。相変わらず反社会的な記事であった。P3の「視点」では、「『医者の手余り』の定義とは」として、無知に基づく一方的な解釈で現代医学を肯定しないような論調であった(基本的には著者が何を言いたいのかは皆目分からないが)。筆者は「医療技術の進歩は目覚ましく、がんの早期発見の確率は格段に高くなっているのだが、がんによる死亡者数は一向に減る気配がなく」と書いたり、高血圧の基準が突然変わったのは、患者を増やし降圧剤を売るためであるという。
ちなみに日本でがん患者が減らないのは、高齢化と長寿化が大きな要因であることは医学の自明である。また高血圧の診断基準の変化は高血圧の予後が脳卒中や心血管疾患と関連するという研究が増えているからである。日本高血圧学会の見解を載せておく。
http://www.jpnsh.jp/files/cms/351_1.pdf

この筆者の述べることは小さな一部分では合っているが、総論では大きく間違っている。どれも自然科学だろうが人文科学だろうが、大学1年生の一般教養で習うような基礎知識である。せめて天理時報のコラムニストと記者と編集長は大卒の方がやってはくれないだろうか。宗教新聞と言えども、読んでバカになるような偏向新聞では、さすがに購読者が減っているのも頷ける。

これは天理時報の無学なコラムニストの偏った一見解だけかと思いきや、天理時報一面では、明らかに現代医学を肯定していない記事であった。「医師の反対を押し切り」天理教本部へ参拝したという信者の感動話である。その信者は2年後に亡くなったが、天理教本部に参拝していなければ2年前に亡くなっていたと家族は思う、ということである。

当事者の体験談に対しては、私は何もいう気はない。しかし、これを取材し、記事にしようとした天理時報の記者と編集長は非常にバランス感覚と文章能力に欠けた人物であることは間違いない。なぜなら、この文章から読み取れることは天理教では病気になれば医学よりも信仰が大切であるということになるからである。バランス感覚にかけるというのは、この文章を読んだ者の多くが、輸血を禁止し社会問題になったエホバの証人の記憶が蘇るからである。医師のいうことなんかどうでもよくて、天理教本部にいけば治るというのは、現代医学への否定とみられても仕方ない。天理教は自前の病院を持っているのに、このような文章を書いていては、いつまでたっても天理教は社会に受け入れられないであろう。

ただ、私は本気で天理教が現代医学を否定しているとは思わない。二代真柱が病院を建設する際に信仰上の医学の必要性を整理したからである。今回の件はコラムニストと記者と編集長が、基本的な見識と文才を持ちあわせていないだけの不幸であると。

しかし、最近になり、この辺の事情も怪しくなってきたと感じることもある。私は教祖130年祭の真柱の講話の録音ファイルを入手した。その中で、真柱は教祖が亡くなる直前の歴史を読み返し「律が怖いか、神が怖いか」と人間に決断を迫る場面を想起した。それは法律を取るか、神を取るかの二項対立を教祖の言葉として人間に述べた場面である。律というのは警察の取り締まりのことである。つまり、警察の取り締まりを恐れてお勤めをしないのか、警察に捕まってもいいからお勤めをするのかということである(当時は新興宗教に対する警察の取り締まりは非常に厳しかった)。結局、お勤めをしたが警察には捕まらずに済んだという歴史の一部である。
ちょうど130年前の話であるが、なぜ今回、その場面を真柱が述べる必要があったのかは天理教の反社会的姿勢を考える上で重要であると私は思う。「法律なんてお構いなし」とする姿勢に転じるのであれば、社会にとって大問題である。今回の真柱の発言も非常に危なっかしいものであろう。天理教の衰退が、いよいよ分水嶺にきている真柱の焦りなのか。

今回の真柱の発言は歴史を紹介した単発であればギリギリ問題はない。しかし天理時報の医学批判と組み合わせれば、何か天理教が内部に向けて反社会的な姿勢を醸成させようという雰囲気があるのであれば大問題である。法律や社会に縛られるのではなく、俺たちには崇高な信仰の下にやらねばならぬことがあると天理教が曲解していれば、私はオウム真理教の記憶しか蘇ってこない。

tenrikyosyakagiakulabo@hotmail.co.jp