久間防衛大臣の「原爆投下はしょーがない」発言が昨日、今日とメディアを賑わしていますね。
私は何ぶん深夜の一部の報道番組を風呂上がりに「ふーん」と何気に見てる程度ですが、
新聞、ネットニュースは適宜チェックしてます。(ネットの場合、勝手に目につくんですが)
とりあえず、整理しますと久間さんは「とりあえず」言ってしまった。理由は不明。
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批判続出
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いや、あれは「アメリカの立場での発言だよ」と弁解
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それでも被爆者団体を中心として世論(メディア)が大騒ぎ
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(慌てるように)謝罪。総理の厳重注意。参院選前だしね。
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与党内の広島、長崎選出の議員達が反対。罷免要求に。
現時点ではこんなところでしょうか。
確かに、日本の為政者としてこの発言は「言っちゃいけない」発言ですね。
しかし、本人は一地方の講演だからと深く考えずに「言っちゃった」のは明白ですね。
一昔前の自民党失言ラッシュではどこかの議員が「地方だから気も抜けて言っちゃうんだよね~」
と言ってたのが思い出せますね。
しかし、私は「この程度くらい・・・」と思いました。
なぜなら、この問題は政策論争ではないからです。
政策論争以前の代議士の共通使命とは何でしょう。
それは「日本をよりよくする」ということです。
そうです。日本をよくするという共通の前提があるのです。
あれ?そんな使命があるのに「この程度」って矛盾してるって?
政策論争は「どうよくするのか」という手段のレベルでの話であります。
しかし、久間発言に関してはその共通の前提が欠落しているのが問題でありますので
つまり、論争に値しないということなんです。
だれも「こんな大した問題でお騒ぎするんじゃねーよ」と言っているわけではありません。
「こんなこと言ってる奴なんて、論外だよ」と申し上げているのでございます。
では余計に「この程度くらいじゃねーじゃん」ということですが、
ポイントはこんな代議士でさえ私たちが選出したのであります。
極論を言えば被選挙権を持っている私たちは見る目がないということですね。
選挙はメディアの風潮に流され、特に新しいものを否定から入る日本人には
理由はわからんが、とりあえず太いもの(自○党)にまかれろ、安心じゃん。
ということです。
つまり、私が言いたいことは議会制民主主義を採用している以上「この程度」の議員を作ったのは私たちなのです。
(例え私が民○党に入れたとしても、選挙している時点で制度を承認した1ピーズであるから)
だいぶ前置きが長くなったんですが、天理教とからめて考えてみましょう。
天理教には特に政治には口を挟みません。天理時報を見れば一見にしかず。
天理時報という天理教最強の情報伝達ツールではいかに仲間(用木)がいいことをしたか、
に重点が置かれています。また、漠然とした出口のない批判(人々のこころが荒んでいる)。
少し前では天理教が出資している病院で臓器移植の宗教的見解という点で議論されたそうです。
しかし、その議論は静かーに終わり、何もなかったような結果を一応発表しています。
つまり、天理教は世論の議論を刺激することを極端に嫌っています。
(嫌いとは言っていませんが、必要なことも言わないので嫌いとしか言えません)
しかし、それでいーの? それって、波風立たないようにしてるだけじゃん。
ということになります。もちろん、どっかの宗教のように「輸血禁止」まで行くと極端ですが、
政治的見解の前提となる国民的合意には天理教としても合意形成を表明しておくことが必要ではありませんか?
なぜなら、国民的合意まで放棄してしまうことは、じゃ天理教は何がしたいの?となるからです。
久間発言と絡めるなら、原爆投下というのは非陽気暮らしである。という主張です。
平和への手段(政策論争)は宗教的絶対があるので参加しません。しかし、陽気暮らしと輻輳する
目的には合意しますよ。ぐらいは言っておいた方がいい。
天理教の常識は世間の非常識と言われていますが(私が言っていますが)
政治的見解と宗教的見解のレベルではなく、生命体存続のための目的としては政治も宗教も違いはない。
天理教の中にも左翼、右翼の人がいると思いますが、それ以前の問題ですね。
「天理教の存在意義は何か」というラディカルな問いは、今後多様化した世の中では
よりその真価が問われるでしょう。「何言ってんだよ!天理教は暴力的解決に断固反対だよ!」という姿勢こそ大切。
リアリストは「そんな平和主義的楽観では何も解決しねーよ!北朝鮮がミサイル発射したらどーすんだ?」
と言われるでしょうが、それでも
「それもいけない!とりあえず、正当化される争いなんてない!暴力的解決は断固反対!」と
超左翼的発想こそ存在意義があるのではないでしょうか。
また、左翼と異なるのはそれを現場でどのように実践するかというリアルなことだからです。
天理教の共通目標は陽気くらしです。そのために、もっと知恵を出して誰も負けることがない
みんな喜べる道を模索し続けることに意義があります。
ハイリスクハイリターンではなく、いかにローリスクハイリターンで済ますかは現場で頑張っている用木が一番実践している
ことではないでしょうか。