いきなり大きなテーマから入ります。
できれば避けたいですが、天理教内では頻用されてるので避けては通れませんね。
まず、簡単に説明しますと、
「いんねん」=心のつかい方一つで身の回りにいろいろな形をもって表れてくるもの。
http://www.tenrikyo.or.jp/ja/teaching/teach/innen.html
本当に簡単に引用しました。
では、詳しく簡潔に説明してみましょう。
上記に挙げた説明では、善行も悪行も、日頃の「あなた」の振る舞い=心がけ一つですよ。
ということです。
しかし、難解なのは前世の「いんねん」や先代の「いんねん」も「あなた」に
降り掛かってくるということです。
つまり
現在ある「あなた」の存在は、前世(来世)、先代(子孫)と繋がっていて、「あなた」だけではない。
ということです。
C.G.ユングの言う「集合的無意識」に近い概念ですね。
天理教では、死亡のことを「出直し」と言って「生まれ変わり」とされます。
つまり、「あなた」の「魂」は「あなた」が(肉体的に)死んでも存在し続けるということです。
だから、その「魂」は生き続けるということです。
「魂」≠「心」 は確認しときます。
ですから、風邪を拗らせようが、今晩はハンバーグを食べようが、女にふられようが、
「自己責任っす。」
では、実際的な視点を含みましょう。
先ほどは「自己責任」と言いましたが、自己責任で済まないのが救済の天理教ですね。
天理教の人(以下、用木)は何かあれば見事にしゃしゃり出てきますね。
しかも、その「何かあれば」というのは「悪行」限定ですが…
例えば「悩み(事情)」「病気(身上)」があれば用木は嬉しそうに語りかけてくれます。
「それはね、あなたの「いんねん」が悪いのよ」とね。
身内が「離婚」でもしたならそれこそ大変です。
「あなたは離婚する「いんねん」を持っているのよ。今「いんねん」を断ち切らないと
あなたの子供、孫、末代までその「いんねん」は続くのよ。」てね。
続けて出てくる言葉はきまって
「「いんねん」断ち切るために、教会に通いなさい、
もしくわ修養科(天理にある3ヶ月の修練合宿)に入りなさい」とね。
こりゃてーへんだ。
用木は他人の不幸を発見することに精を出します。
「君は何かに悩んでないかい? おじさんが相談にのってあげるとよ。」とね。
なぜ、用木はそんなに「優しい」のでしょうか。
それは、ご賢察の通り。
「信者獲得」っす。
それ以外ないっす。
それが、生き甲斐だから。
ではなぜ悪行ばかり注目するの?
それは、善行を取り上げても信者獲得には役立たずだから。
(救済しなくてもいいもんね。)
なぜ、用木はそこまで必死なのか?
それは、用木自身が満たされていないからではないでしょうか?
私の視点では、用木は自尊感覚が非常に欠如しているように思います。
教会内人員を除いた場合、ほとんどの用木が問題視されている「身上・事情」を抱えています。
(悩みを持っていない人はいないでしょう。問題視されない悩みの人は天理教にとって大した存在意義にはなりません)
だから、用木たちは自身の「いんねん」を断ち切るために、せっせと勧誘(ふせこみ)をします。
しかし、勧誘に成功しても、それは教会の業績になり勧誘した用木は目に見える形で浮かばれないのです。
会社で言えば、どんなに社員が頑張ってもその評価は社外評価として会社だけで、社内では「社長賞」も「功労賞」もないのです。
「君はよく頑張ったね」くらいがオチでしょう。
まーこの論理にはもっと複雑な「理」という概念の考察も入ってくるので後ほど。
そして、どこに行っても天理教の人ほどペシミストはいないでしょう。
何かにつけて「家族が悪い」「いんねんが悪い」「徳がない」「たんのうせい」など
言いたい放題です。「何でそんなに悪い方ばかり考えるの?」と言いたいくらいです。
しかし、心理学的な考察に委ねると頻用される「いんねん」の大半はジョークです。
なぜなら、離婚も家庭の不和も会社の人間関係も解決可能性を持っているからです。
私自身は心理学が専門ではないので詳しくはないですが、もし上記の人間的課題が
解決不可であったら臨床心理士やドクターの存在意義は喪失します。
「いやいや、彼らは「修理・肥」としてあっていんねんは存在するよ」と言われそうですが
確かに、「いんねん」の存在は認めます。
しかし、そんなに悲観論を解決可能性のある事例にまで般化していては本当の救済にはなりません。
極論を言えば、「あなたが「いんねん」と断定的に言える根拠はなんですか」ということです。
例えば、離婚を挙げましょう。どんな夫婦にも高確率で「離婚」を考えます。
そんな状況を臨床心理士なら「家族療法」や「カップルカウンセリング」を使うでしょう。
しかし、用木は高確率で勧誘します。つまり、解決とは少し遠回り、もしくわもみ消します。
その理由は決まって「いんねん」が使用されます。
私が何を言いたいか、それは用木がペシミストである以上、天理教に未来はないということ。
「天理時報(天理教の新聞)」からも、ペシミストぶりは発揮されています。
確かに、一部の人には絶対的な支持をされますが、世論には受け入れられません。
なぜなら、「感謝・慎み・たすけあい」にほど遠い現状が天理教にはあるからです。
一歩ひくと、天理教を知らない人以上に「喜べない」のが用木なのです。
「うそつけ」と思ったあなた、教会や詰所での談話に耳を澄ましてください。
「喜べない」トークの嵐です。
「感謝・慎み・たすけあい」
この標語が訴えているのは市民ではなく用木に対してなのかもしれませんね。
いんねん。
天理教の方々が、日常的に使う言葉ですね。
一般世間で言う「こんにちは」ぐらいに。
さほど深く考えずに、口に出してますね。
天理教に限らず、宗教に染まってる方々は。
宗教言葉を使うことで。
信仰してる気分に、なっている感を受けます。
どこか、自己陶酔のような。
人から人へ、伝染させている強迫観念のような。
いんねんと言う言葉は、
天理教造語ではないと思いますが。
ニュアンス的に、漢字にすると。
「引念」なのですかね?
集まり、宗教言葉を連呼して。
そんな方々を見かけた時に。
その言葉に、どこか酔っている表情を見た時に。
怖くも感じ、可哀想とも感じます。
そして、いんねんを連呼し。
天理教に染まり、自身の日常も省みない方々を。
年月、時間とともに。
とても薄く感じてしまい。
引いてしまい、嫌悪感も出来てしまい。
親、子、兄弟、孫、友人知人、周囲までも。
天理教からも、その人からも。
離れていくのが現実です。
物事には、原因があって、過程があって。
結果があります。
もちろん、原因不明の病気、難病などもありますが。
天理教のいんねんとは。
原因不明の難病と、同じかもしれませんね。
ただ、不明にしろ、目に見えないことにしろ。
人間に出来ることは。
目の前の現実をどう乗り越えていくかを考える。
乗り越える方法は、幾つもあるのです。
それを考えて、行動するのが。
人間の成長する過程だと思います。
そして、成長過程を潰しているのが。
天理教組織、天理教人の一面でもあります。
天理教の言う、いんねんとは。
天理教が造っているものです。
「いんねんを切る」そつ願うのなら。
天理教組織、天理教人と区切りをつけ。
離れ距離を置くのも、いんねん切りの一つです。
離れて、過ごした時に。
見えて感じる世界と景色があります。
天理教とは関係なく。
「中山みき」さん、という方の。
人生の過程と言葉には。
沢山の素晴らしいものがありますね。
天理教と距離を置いても。
書籍などを個別で取り寄せて。
読み返し、自己と向き合うのも。
良いことかもしれません。
組織寄りな書籍、新聞はそれも踏まえて。
読んでみることです。
今の時代、そんな方々も多いと聞きます。
天理教人の一番の悩みとは。
たまたま生まれた場所に。
天理教のものがあって。
そのたまたまを、さも必然のように。
強要されることなのかも知れませんね。
カインさんのブログ。
天理教の事実と現実を。
的確に、偽りもなく。
自身の考えと言葉で、伝えてくれています。
とても意義の有る。
ブログと言葉と支持しています。
物事全てに因と縁があるという教えであれば、その因縁の内容を説ける人間がいなければ、なかなかたんのうの心につながらないだろうし、散華の心も湧きにくいのではないか?
運命だから受け入れなさいというだけでは、釈然としないまま、不足不満と無気力さが残るのではないか?
全ての人類は、元始まりから甘露台の世へと神によって導かれる陽気暮らしの因縁がある訳ですが、神ならざる上によって陰気暮らしを強いられている訳です。
上を選んだ心の種があるにせよ、神を選べばその日から陽気暮らしになる訳です。
問題は本部が上勢力に覆われている事です。お地場の理がある限り、どのようにか神勢力が復権するのでしょうけれど。今は神が上の掃除をされている最中なんでしょうね。
過去過去生からの心の道と現象の関係(心通りの守護の一環)を、鮮明に映して説ける、一歩進んだ人類がいなければ、文言としてのいんねんの教理も、残念ながら新興宗教の利益誘導に使われるだけですね。
教祖殿でおさづけをとりつがれていました。
おさづけが始まると光が発されるかのごとく、重い波動みたいなものが来ました。
必死に耐えていると波動は続き、次にものすごい悲しみの念とむせび泣きのイメージが来ました。かなり大きなものでした。
こんな体験ははじめてでした。「うっ、ううっ。」と思念が伝わったかのようでした。
やがて時間とともにそれは縦に割れ始め、今度は垂直というか、上向きの圧を感じました。
垂直の圧も始めての感覚でした。
むせび泣きの思念は徐々に縦に割られながら消えていくように感じました。
やがて何事もなかったかのようにいつもの感覚に戻りました。
匿名です様
あなたは一体何が言いたいのですか?
匿名様
何を言いたいかを私も学んでいる最中です。
しかし一言言わせていただけましたら、早くおさづけをとりつがないと時間がないということです。
匿名です様
私の周りにオーラが見える、光が見える、どす黒いものが見えると言って、脳が勝手に本人に見せているイメージを、あたかも超能力者のように言い、振る舞って威厳づける教会長がいる。私は、彼はペテン師だと思っている。そして、若干ではあるが弱い精神的病いにかかっていると認識している。本人は気づいていないのだが。仕事が長続きせず、多動であり、多弁である。白黒はっきりさせたがる。教会中をかき回す人でもあります。一見、人当たりは上上です。医学的に脳の前頭葉に傷があるのか、突然声が聞こえたり、姿が見えると言ってくる。
一度、ご自分の為に、受診をお勧めします。
匿名様
受診は面倒です。行かないと思いますが、行くかもしれないです。
その教会長様に是非お会いしたいです。
私の周りにも霊視できる人々がおられます。天理教ではなく、職場関係でしたが。
まぁ、いろいろありますよね。
http://www.mental-navi.net/togoshicchosho/rikai/shojo1.html
霊をみたり神がかりの言葉が出るというのは、現代では脳神経系の病理現象と診断されます。一般人にも容易に分かります。要はその人物が多動多弁で他人のアドバイスをまったく聞かないこと、常識はずれなことをしたりすることで、すぐに気がつくものです。霊能者というのは大方そういう人たちで、彼らの言うことを真に受けてしまったら大変です。以前は赤衣の親様を見たとか声をきいたとかよく聞きました。幸いなことに、医学の発達のおかげで適切な治療を受ければ通常に戻り、社会復帰も可能になりました。
また追々に読ませて頂きます。
ところで、赤衣にリンクさせてお話してよいでしょうか?
以前より気になっていたことがあります。何十年も前に自動筆記をされていた方がおられたでしょうか?
女性です。もう亡くなっておられるのですが、大変気になります。
おられたおられないなど、教えていただけませんか?
まだ数十年前なのですが。
古い歴史を御存知の方も多いと思いますので。
>女性です。もう亡くなっておられるのですが、大変気になります。
匿名ですさんには、そのような方の姿が映るのですか?どのように見えるのですか?
匿名様
知り合いの方の関係でそういう方がおられた話を聞きました。(天理教の方ではないです。)
しかし私も赤いチャンチャンコ風のをお召しになられた方を教祖殿で数十年前に見ていた気がします。
もしかしたら、その自動筆記をされた方が赤いチャンチャンコをお召しだったのかもしれないと思いました。
それとも記憶がすりかわっていたのかもしれないし、ちょっと気になりました。
今から忙しいのでこれにて失礼しますが、どなたか御存知でしたら教えていただけますでしょうか?
赤いぼんぼりの記憶とすりかわったのかもしれないですが、その当時は未信者だったので、恥ずかしながら赤着の意味するところが分かっていませんでした。
匿名です様
ここは社会学研究所さんの記事に対するコメントの欄ですので、あなたの信仰体験を発表なさりたいなら、個人的にブログに書かれるか、ツイッターなどで書かれたらいかがでしょうか?あなたのコメントは、カインさんの記事に関連したものでも何でもない、空想か現実かもはっきりしない、戯言、としか思えませんので、他の場で思う存分好きなように書かれたらよろしいのではないでしょうか。
>霊をみたり神がかりの言葉が出るというのは、現代では脳神経系の病理現象と診断されます。
教組はスーパー霊能者の一面を持ち合わせていたのだから、啓示・霊能現象を一括りに単なる病理現象とは言えませんが、そういった超常現象ばかりにとらわれて、当人が不健康になったのでは元も子もないですね。
人を困らす神は無いのですね。
失礼いたしました。
本当に失礼です。
いんねんは仏教の因縁果からきてる言葉ですね。教人はこのいんねんやたんのうと言った強力な言葉を簡単に使いすぎです。
キリストやブッダをもってしてもむねのわかりたものはない神の胸の内をさもわかったように伝える教徒が多いことは非常に残念です。
ただこのブログでかかれているほどよふぼくはペシミストではないですよ。大多数のようぼくは悩んでる人を見つけて喜々として人に近づくというよりは、教えを広めようとする中で時々巡り会う悩みや病気を抱える人がいれば何か力になろうというスタンスだと思います。
もちろん悩みや病院のない人に対しても教え自体はお伝えしようとはしますが結果的にそういう方に響くことが少ないというだけでしょう。
このブログは一部の教徒のふるまいを大多数の教徒のふるまいとして記載するきらいがありますね。
この道において、一つの言葉の矛盾を感じています。どなたかに教えていただきたいのですが、すっきりしません。
「この道は拝み祈祷ではないほどに」と言う言葉が残されています。しかし教祖はおつとめ(拝み)の重要性を説いておられますね。
おつとめ(拝み)は、自分に対するお願いであったり、他人の身上快癒に対するお願いであったり、また世界平和を願う拝みであったりと思います。
今のおつとめ(拝み)は、当時の拝み祈祷とは形態は違いますが、同じことでは?と思います。この道が「拝み祈祷」ではないなら、なぜおつとめという「拝み」が必要なのでしょうか?
「この道は拝み祈祷ではないほどに」の言葉の意味を知りたいです。
d様
匿名E様
「事情教会って言うのそろそろ辞めませんか?」に書き込みをした匿名Aと申します。本当にこの教えは探求心が無いと思わざるを得ません。教学が無いのでしょうか。比叡山の延暦寺のように問答があればいいのでしょうが。この教団は一方通行ですね。以前にも書きましたが、史料集成部を秘庫などと云わずに全面開放すれば解決に繋がると思うのですが、いかがでしょうか。
解放されていると書き込みをされた方が居られましたが、天理大学を卒業した友人は大学在学中から80歳になる今日まで史料集成部への入室を希望していますが、未だに実現していません。
教団とはそういうところです。あきらめましょう。未練たらしく書き込んでいる私もどうかしているのかも知れませんが。
本当に諦めの境地です。しかし、上からの押し付けに対し、矛盾の一つ一つを自分なりに消化し、反論したいです。本当に末期的です。どなたかが言っておられましたね。「世間は天理教を求めていない。天理教が世間を求めているのだ」と。
教団の上層部はこの現実を真摯に受け止め、完全なる復元を実行して、一度つぶれる覚悟で教祖の体面を守らなくてはならないと思います。異質になってしまった現状は「中山みき」の顔に泥をぬっているのと同じです。
この「この道は拝み祈祷というでなし」または「拝み祈祷ではないほどに」(どちらの表現だったかあいまいです。)の意味合いのわかる方、当時から重要視されている「おつとめ」との矛盾について、教えてください。
>「この道は拝み祈祷ではないほどに」と言う言葉が残されています。
個人的解釈で失礼します。
「たすけでも拝み祈祷で行くでなし、伺い立てて行くでなけれど」(おふでさき 3-45)の事かと思います。
「拝み祈祷」は、他力本願のお願い信仰のことで、「伺い立てて」は、ご神託や占いのように誰かの意見に従う事、と考えます。
ですから、教組様の教えてくれた「つとめ」は「拝み」ではないと考える必要があります。
そもそも、教組様が教えてくれた「つとめ」は「かんろだいを囲んだかぐらつとめ」であり、現在各教会で行われている「神床に一列に並んで踊るつとめ」ではありません。
同じような地歌と手踊りでも、神様の目標に対して一列に並んで「つとめる」のでは、つとめ人衆も周囲の人にも、「神様に奉納」し「お願いをしてる」のだと思うのも無理はないかもしれません。
この「つとめ」の方法は、神道教会天理教になってから広められた(神道教会になってしまったので、ぢば以外での「かぐらつとめ」が禁止されたので)と伝え聞いております。
では、教組様の教えられた「かぐらつとめ」が「拝み」ではなく、どのような意味合いを持っていたのかと考えますと、いろいろ意見はあるでしょうが、個人的には「みかぐらうたの教えを各々が心に修め、実現するため」の立体的な教育方法であり、実現する世界の縮小モデルを形作るもの、と考えさせて頂きます。
末端教会子弟様
つまり「この道のたすけは、あなたが自分や世界の平和に対して、神の思いに近づく努力をすることを棚上げし、他力本願のお願い信仰ではないよ。またご神託や占い師が出した答えなどに従うような事でもないんだよ。」というような意味合いと理解して良いでしょうか?
教祖の「おつとめ」とは、「拝み・祈祷」ではない。おつとめとは「棚から牡丹餅」を期待するような意味合いのものではない。教祖のおつとめとは、かんろだいを囲んだおつとめであり、つとめる人衆それぞれがみかぐらうたの教えを心に修めることが神の望みであり、いつの日か実現することを希求する縮小モデルなのですね。
「おつとめ」は人の助かりを願いながらするのが理想でしょうが、心が空っぽでも、今晩の献立の事を考えながらでもいいから、「とにかくつとめること」が大事と聞いいたことがあるので、今まで私が思っていた「おつとめ」は形ばかりを整えた他力本願の拝みでした。教祖の願った「おつとめ」と、意味合いが随分違うことがわかりました。
時の社会情勢に合わせて天理教団は信念をころころ変えた歴史がありますが、現おつとめの形態も教祖の教えた形態ではないとのこと。現教団のスタンスは「神と共に」ではなく、「神様に奉納」し「お願いをする対象」という、教祖の理想とした「神人和楽」の理想郷からは、かなりかい離しており、時間が過ぎるとともに、教祖の教えた基本を置き去りにした、別物宗教になっている気がします。
(わけが分からないことを書いたかもしれません。すみません。ありがとうございました。)
「他力本願」と云う、言葉が散見されるが、正しく理解して使用されたい。新興宗教の宗教用語では、ありません。
あなた方、上層の宗教貴族に利用されている信徒の、思考停止は、「他人まかせ」辺りが、適した言葉と思います。
他力は、人物や組織などでは、ありません。貴教団の教義を始めた方も、総合失調症を発症する以前は、他力を拝しておられました。阿弥陀如来のことであります。
この、誤使用を広告で用いて、謝罪した上場企業の、事例があります。
浄土信仰に帰依した者としては、大事なことなのです。
合掌
一意見者 様
私は、天理教の信者ではありません。父母が熱心な信者でしたので、家庭で神棚に二つの社を祀っていて、信者のふりをしている者です。天理教会へは思いついた折にお供えをしています。この行いは父母への思いの一端もあるようですが、反面、なぜこのような神棚を残してくれたのだろうかとの思いもあり複雑な心境の後期高齢者で棺桶も近い者です。
「他力本願」という言葉使いは、誤れば本当に礼を失しますよね。
ただ、私は神仏の存在は全く信じていません。そのようなものがあるならば、自然災害など起こりうることは無いと思うのですが、現実には災害が起こればそこに住んでいる方々の因果応報に関係なく被害を被ります。東北震災津波でたまたま助かった方が居られました。ある宗教関係者が、その助かった方を評して熱心に信仰されていたから助かったのだと広言しているのを聞きましたが、なんと都合のいい言い分だろうと感じました。
神仏が存在し、その教えを信じるのであれば、それはあくまでも生きるための心の糧にすればいいだけのことであって、他人の生きざまを神仏の教えに照らして、あれこれと評価するのは余計なお世話だといいたいです。
背伸びをせず、卑屈にならず、自分の能力に応じた生き方をすればいいのではないですか。過去に3度の全身麻酔を受ける死線を越えて、80歳近い現在元気に過ごしています。これも、素晴らしい主治医・麻酔医を始め医療スタッフに巡り合えたお陰と感謝しているものです。ところが、天理教会長は、そのような人たちに巡り合えたのも神様の御守護だ。挙句の果ては両親の信仰の徳のお陰といわれるので、うん?と頭を傾げたくなるのです。
神仏を冒涜はしませんので、天理教始め他の宗教・宗派が無くなればいいとは思っていません。ただ、存在する限り、教内外を問わずに、非難されることが無いあり方であってほしいですね。そのためにこのブログがあると思っています。
一意見者様・カイン様の心証を害するような発言がありましたらお詫び申し上げます。
失礼致します。
匿名E 様
あくまで未熟な私の個人的解釈とご理解ください。
とはいえ、意味も分からず内容も知らずにただ「つとめをすればいい」では、何年繰り返しても「心の切り替え」は出来ないのではないかと思います。
もっとも、上の立場の人間からすれば、下の者が自分に従って働いてくれればいいので、意味や内容を教えたり導いたりなど、しない方が都合がいい、とも言えるでしょう。今の天理教組織の衰退の最大の原因ではないでしょうか。
教組様の教えてくれた「かんろだいを囲んだかぐらつとめ」の「みかぐらうた」にこそ、教組様の教えが詰まっていると考えます。
一意見者 様
「他人まかせ」が適切とのご指摘ですが、まさしくピッタリの表現ですね。
とはいえ今の世の中、宗教関係なく「他力本願」なんて言葉は使われています。
「因果応報」「輪廻転生」等は、ホラー映画やドラマでも用いられてますね。
そういったものには「浄土信仰」ではどのような言葉をあてはめますか?
2016年8月4日 8:47 AMのd 様。
>このブログは一部の教徒のふるまいを大多数の教徒のふるまいとして記載するきらいがありますね。
大多数の教徒のふるまいでは決してありません。
ここに書いてある問題は、本部の人。大教会長。上級の会長の問題点。
本部のシステム、教理の解釈、本教の歴史の問題点について議論しているのです。
古い教会長さんの仰る通りです。とにかく上級の長(古い教会長さんは別です)と付いている方々の向いている方向が上ばかりです。大教会の創立記念日にお入り込みの真柱を迎える客殿建設を1億円以上の費用を掛けて建設し、さあ、お供えしろと急き込まれても、素直に「ハイ」とは言えません。そこで出てきた言葉は何かといいますと、「この道はね、親の言葉に素直に応えて、ハイハイと這い登る道ですよ。しっかりと思案させていただきなさい」でした。
客殿建設に一億円ですか。馬鹿馬鹿しいですねえ。やってられません。
そういえばうちの上も真柱入込みに合わせて客間、応接棟を新築しましたよ。親は泣き泣きお供え金の工面してました。これからは今の若い人が黙ってついていくとは思えません。教会建物の充実にこだわる現天理教ですが、勝手に大普請して借金抱えてどうぞ自爆してください、と申し上げたい。
近隣では借金が焦げ付いて責任者が夜逃げ。信者はばらばら。広遠な敷地に大教会級の巨大な教会建物が新築のままで空っぽ。地域の建築業者の方たちは巨額な材料費も日当も未払いのまま踏み倒されているようです。この巨大建物、地域で日々天理教の恥をさらし続けております。(本部から管理人が来て住みながら管理しているようです。は?という感じです。何のための教会建築だったのですか?)
陽気暮らしの天理教、世間が聞いて笑っています。
<天理教を頑張っている会長さんとは根本的な議論が出来ない・ツイッターでのやり取り>
R:天理教は何かあるとすぐ「いんねん」で済ませようとする
よく聞くフレーズです
「いんねん」で済ませようとしているのではなく、そういう教えなのです
「いんねん」の教理は教えの核です
これを否定すると全てが破綻します
私:まことに、ぶしつけな質問で申し訳ありませんが、真柱様のご身上はどういう「いんねん」だと思われますか?
R:病気=いんねん
という事ではないと思いますよ
おさしづでも身上に見せられる神意はさまざまです
真柱様の立場から思案すると個人のいんねんというよりは、全人類へのメッセージだと考えるのが信仰的には自然だと思います。
あくまで個人の見解ですが…
私:どういう全人類へのメッセージだと思いますか?
R:そこら辺は個人の悟りの問題であってあなた自身が悟りとればいい事ではないですか?
僕の悟りをあなたに言う必要性も無いと感じます。
どういう意図で質問をしてこられたのかは分かりませんが、ここでどうこう議論する問題ではないと感じます。
私:お答えいただいて有難うございます。私が思うには、全人類と言っても世界の人々の殆どの人は真柱の身上は知りません。というより、天理教本部、組織のありかたに対してのメッセージのように思えます。これは、個人の悟りという問題ではなくて、人類の陽気遊山の為のメッセージだと思います。
R:あなたがそう思うのであればそれが正解ですよ
<とてもモヤモヤが残った>
天理教の会長さん、論破されたら手も足も出なくなる、そう言う人がおおいです。
「自分があんたの理の親だ。黙って言う事聞け!」と言う会長に、理の親は親神様お一人です。私はあなたを理の親だとは思っていません。と言ったら黙ってしまった。
自分の頭で考えずに生まれた時から組織の上席に甘んじて座り、持ち上げられ続けてきた人間だから、理の親では無いと頭をはたかれたら理由を持って反論出来ない。
上記の会長さん、最後はやけっぱちで、あんたがそう思うならそうなんでしょ、、で終わってしまう。知的とは思えない。理路整然と説得力ある会話が出来ない。
言葉に詰まった挙句、答えが出せないまま「最後は個人で悟り取れば良い」のなら、金出せ、ひのきしんに出ろ、うんぬんかんぬん。最後は黙って言う事聞けと言うのは、精神への暴力と共に身体的拘束、身体的暴力です。最終的に自分の悟りで良いなら、何言われても自分の悟りで動いております、と答えたら良いですね。天理教の矛盾を追求すると言葉に窮する会長さんが多いです。お供え金集金とその額、各種数字の上乗せ以外何も考えてない人が多い。