本部大祭の感想

予告をしていたのに遅くなり申し訳ない。

26日は本部の大祭であった。
私も知り合いに誘われて参拝した。

天理駅に着いた時点でかなりの人込みであった。
平時はかなり閑散とした駅、駅前であるが
テーマパークにでもきたように溢れかえっていた。
日曜ということもあうのだろうか、親子づれ、若者も目立つ。

急いで神殿に向かう。

私が参拝したところは、中庭と言われる回廊で囲まれたところ。
雨もちらほらきており、知人に「中に入ろう」と言われたのだが
「あの人込みに入るのはちょっと・・・」と遠慮させてもらった。

あの人の多さをみて私がフラッシュバック的に思い出したのは
死傷者を出した明石の歩道橋事故である。
他に数年前にメッカで信者が将棋倒しになり
何百人かの信者に死傷者がでたことがある。
大祭でも神殿に至る階段の混雑などをみて心配になった。
特に対策はしていないようだけど事故があってからでは
世論の袋だたきになるのは目に見えているし大丈夫なのだろうか。

ところで、今回の参拝のメインテーマは真柱の神殿講話から
彼が天理教の未来像に対してどのような青写真を描いているのか。
ということを考察することである。

まず謝らなくてはいけないことがある。
私は、前述したように中庭と言われる外にいた。
そして真柱の神殿講話のとき、不幸にも雨が強くなった。
知り合いと雨をしのげる場所を探して移動した。
加えて、お腹の調子も悪くなった。
ということで、なかなか真柱の講話に集中できなかったのである。
もし、真柱の講話について私の解釈に明確な事実誤認などがあれば
訂正し素直に謝罪したいと思う。

私が真柱の話を聞き終わり、一番最初に思ったのは真柱の今回の講話のテーマは
「原点回帰と社会的発展」ということである。
現在の教勢にいたるまでの中山家の受難、昭和20,30年代の教団の受難を受け入れて教団は
発展してきたということを今一度思い返して頑張ろうぜということ。
どのように頑張るのかというのは「天理教ほどの大教団は社会的責任もある」と彼が言った
ことから読み取れる。そういった意味では、彼が天理教人に対して
天理教と社会との橋渡しを担っていってくれよというメッセージとして聞こえる。

というようなことが、彼の講話の骨子であると思われる。
講話を聞いていた天理教人たちがどういった感想を持っているか
分からないが、私の解釈とあまり変わらないと思う。

私が驚いたことの一つに、彼が「天理教ほどの大教団は社会的責任がある」と言い切った
ことである。天理教のトップが自分の組織を「大教団」というレトリックを用いたことには
何かしらの意図があると感じざるを得ない。なぜなら帰属集団内において
「うちの教団は大きいよね」という先に、社会的責任を果たさなければならない
という命題が成り立たないからである。
大教団(大企業)は社会的責任を担っているということは
一方で、小教団(中小奇企業)は社会的責任を担わなくてもよいと暗黙のうちに
同意していることになる。この推論に倫理はない。

また、真柱が社会的責任を述べた文脈で彼が何度も繰り返した言葉がある。
それは「一派独立」という言葉である。
私は天理教初学者なので「イッパドクリツ??」と最初は意味が分からなかったが
教えてもらって合点した。一派独立は天理教教団の根幹である。
一派独立とは天理教が宗教教団として社会に認められた証明である。
彼が今回天理教の成り立ちを詳細に振り返り、大教団と社会的責任と
言わざるを得ないことを考えれば、彼が天理教に対しての将来像に対して
何かしらの不安を抱いてることはご賢察の通りである。

しかし、ここまでの私の考察を天理教人に話すと思いがけない言葉が返ってきた。
「そりゃ10月26日は天理教が始まった日だから、毎年同じ様な神殿講話だよ」という
ことであった。なるほど。毎年10月26日は原点回帰がテーマであるのだ。
真柱の神殿講話が「毎年と同じだったね」なのか「今年は社会的責任とか言ってて
いつもと違ったね」となるのか申し訳ないが私には判定できない。
だって彼の神殿講話を聞いたのは初めてだから。
もし後者であるのなら、真柱も何かしら現状打破的な見解を持っているのだろう。
「具体的ビジョンは何も聞かれなかった」とは言わない。
トップは船の目的地だけを示せばよいと思う。
講話を聞いた天理教人が「いやー天理教船の向かう先が見えたね!」と
思えれば、目的地までの航路はそれぞれ付けていくのだろう。
ちなみに私は真柱の講話から社会的責任を果たす
天理教教団が向かう目的地は見出せなかった。

今回の神殿講話では、天理教の一派独立について
「教団の粘り強い努力により、ようやく政府が認めた」という言い方がされた。
宗教学から得た私の知識では「天理教は一派独立のために、教祖が認めなかったこと
さえも妥協した(教義を曲げた)」と聞いている。
どっちが本当なのかは分からない。しかし、真柱から「天理教はいつも正解」的な
ことが聞かれるうちは、やはり天理教の成熟、組織の成熟はまだまだと思う。

自分の失敗や欠点を認めるては宗教教団として成り得ないと?
私はそうは思わない。
謝りや欠点を認めて説明することが社会的責任であると私は信じる。

さて、皆さんは神殿講話をどのように聞かれたのであろうか。

本部大祭の感想」への4件のフィードバック

  1. 匿名

    1. お久しぶりです
    >私が驚いたことの一つに、彼が「天理教ほどの大教団は社会的責任がある」と言い切った
    ことである。

    勤務者は、参拝には行きますが中々お話まで聞くことが出来ません(人によりますが…)。で、天理時報で確認しました。
    「いまや日本屈指の大教団に成長しているからには、社会的な責任という面もあろう。」
    とでていましたので、これを指してのことですね。
    私は別の意味でビックリしました。

                  天理教=大教団

    まさか、これを本気にしてるからお話されたのでしょう…教団トップと現実的状況の乖離がこれほどまでとは、私には言葉もありません。

    これを本気で話されたなら…

  2. 匿名

    2. 勘違いしてました
    この場合の「日本屈指の大教団」とは、明治時代の後半を指していってます。
    その当時、日本の人口が約5000万人、そのうちの約300万人が信者だったといわれています。
    今、手元に資料が無いので正確な数字は出せませんが…。
    その当時を振り返って、言われている言葉だと思います。

  3. 匿名

    3. お返事遅れました。
    勤務者とは、教会本部で働かれている方ということですね。私の知り合いにも本部で働かれている方がいますが、その方は「普段は暇過ぎるのに、祭典の日は忙しすぎる!」と言っておられたのを聞いたことがあります。ご苦労様です。

    二つ目のコメントですが、私が指摘したところが勘違いということでよいのでしょうか?
    勘違いであれば申し訳ありません。

    しかし、もし「大教団には社会的責任がある」が現在の天理教を指していなければ、余計に真柱の「伝えたいこと」が迷走するのですが・・・

    私も手元には資料がありませんので、この議論は憶測だけで進みそうで危険ですね。

    ただ真柱の言質を詳細に活字化したことから読み取れることと、その場で「そういうふうに聞こえた」ことは、また違うのではないかと思います。
    声色、文脈、間合い、抑揚、編集に至るまで、彼が正確に何を言ったかよりは、どう伝わったかに軸足を置いた場合に私には上記のように聞こえただけです。その上で勘違いであれば謝罪あるのみですが・・・

  4. 匿名

    本席様のぬくもりがあった頃、明治の終盤に、400万信徒から800万を目指すと松村某の演説があっと思います。
    日本人の一割程度が天理教徒だったころが、人類更生というスローガンで当事者達は勇んだ訳です。
    75年すれば日本アラアラすます。という預言とも関連してなのか、匂いはこの国中にかかった訳です。
    大教団の社会的責任から人類の親里としての責任へと昇華していただいて、その仕事を神に任せれば、肩の荷も半分降りて楽になるのにと想像しましたね。

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