裁判員制度を考える。


読みにくいと批判頂きましたので、フォントを大きくし改行も減らしました。当分このスタイルでいきます。私が読み直して補足もしました。また何か注文あれば教えてください。(1/19)
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先日yahooトピックを見ると「宗教界裁判員制度に悩む」という記事が出ていた。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090111-00000008-yom-soci
http://www.chugainippoh.co.jp/NEWWEB/n-news/08/news0801/news080129/news080129_02.html

昨日、道友社のHPでも同様の記事を読んだ。
http://doyusha.jp/?page_id=874

いずれ私も裁判員制度は書きたいと思っていたが、シンクロニシティを感じたので、そろそろ私も書こうと思う。私の経験的作法として、あまり潮目や流れには逆らわない方が物事を円滑に進められると思っている。いや、ほんとに。何事にも旬があると言った方が分かりやすいだろうか。制度は今年の五月から開始されるわけであるから、ちょうどいい時期なのかもしれない。

まずはyahooの記事を見てみよう。主に寺社の方の意見であるが、基本的に裁判員制度には肯定的(無難な意見)である。各宗教者の立場としては、「裁判員制度にどう対応するのか。宗派としてメッセージを明らかにするべきではないか」「人を裁くことはできないと思う一方、宗教者としての意見をしっかり述べることが大切という考え方もある」。なるほど。

では道友社の記事を見てみよう。こちらでは、弁護士であり教会長でもある方が書いている。一弁護士の意見であろうが、天理教のグループ企業である道友社の記事はそのまま天理教教団の見解として捉えて差し障りはない。内容は制度の概要説明が主であるが唯一「月次祭の祭典日と重なったら……」という章は具体的事由を想定しており大変興味深い。しかし結果として「月次祭の祭典日と重なったら……」という前句に対しての結論は曖昧模糊となっている。詳しくを記事を見ていただきたい。

前段の各宗派による意見表明と後段の天理教の見解とを比較考量する。各宗派は明確な意思表示をしており、天理教の意志は明確でない。そして、この天理教の曖昧な態度を私は支持したいと思う。

なぜならば裁判員制度誕生の背景には「多種多様な人材に門戸を開くこと」(平成14年7月5日司法制度改革推進本部顧問会議第5回会合内閣総理大臣挨拶要旨)とあり法律家だけでなく国民皆でやりましょうということである。法律家が考える社会的通念だけでなく個人(国民)の信条、思想を勘案し人を裁きましょうということである。大事なことは「多種多様な人材」とは「多種多様な個人」であると私は思う。間違ってはいけないのは「多種多様な組織」ではない。これを宗派に当てはめると制度自体の骨子が揺らいでしまわないだろうか。

例えば、天理教教団が各教会長に対して裁判員制度の思想について統一見解を明示したとしよう。「天理教の教えから考えて死刑って絶対ないよね」とかね。すると教会長さんには「死刑」という選択肢は無くなる。たとえその教会長さんが「この犯人は死刑に相当するよな」と考えていてもである。

裁判員制度導入は、ある一定の重大事件について行われるようである。もし殺人事件であったときに、犯人の残虐性、過酷な生い立ち、情状酌量、いろいろな背景が存在する。まして同じ事案はひとつとしてないはずである。統一見解によって思想を縛ることは、それら犯人の個人史を無視する可能性を孕んでいることを忘れてはいけない。犯罪から教義を見るのではなく教義を通して個人を見なくてはいけない。

天理教が持つ「陽気ぐらし」という命題は大変素晴らしい。しかし、それと「量刑を軽く(重く)すべき」と決めてしまうことは背馳しないだろうか。背馳しなくても、陽気ぐらし=死刑反対は論理が飛躍しすぎている。なぜそのような推論になるかというと、私が常々申し上げているように天理教は教義解釈が非常に未熟である。天理教成員において自然発生的にコンセンサスが得られるほど思想的(教義)成熟は歴史的に達成されていない。つまり「陽気ぐらしとは」「人をたすけるとは」「殺人とは」というセンシティブな課題は未だに硬直したレトリックで縛られている。例えば「陽気ぐらしとは皆が笑って過ごすことだよガハハー」と思慮浅く思考制止のまま平然と語るカイチョウさんたち。まるで枕詞のように。裁判員制度を契機として天理教を信仰するものの間で上記のような課題が実生活上における教義として議論が活性化することがあるならば私は非常に歓迎したい。(本来ならば天理教の研究機関に頑張ってほしいのだが)。そういった意味で天理教の控えめな態度には敬意を表する。ひょっとしたら、「どうしたらいいのだろう」と悩む教会長がいるかもしれない。それはそれで大変結構なことであると思う。死刑賛成の教会長がいることは大切だと思う。教会長それぞれの経験、思想をもって望んでほしいと思う。前述した道友社のに対して「月次祭の祭典日と重なったら……」という状況が実際に生じたとしよう。「裁判員制度は不参加で祭典優先で」という教会長も、「裁判員制度も大切なことだ、祭典は欠席しよう」といって裁判に参加する教会長もいて私はいいと思う。もちろん教会が持つ信者の量、質、会長の求心力など色々な状況もある。

天理教が統一見解を出すのであれば、先の道友社のようなメタ思想的なものでなくてはならない。「みんな陽気ぐらしって知ってるよね?それに基づいてしっかり考えて」というようにね。

裁判員制度を信仰の踏み絵としてはいけない。

しっかり考えましょね。

追記1
私は上記yahooのトピックで意見していた各宗派の統一見解に対して否定していない。それは統一見解が生成される宗教団体の背景には、教義に対して成員の歴史的コンセンサスがあるかもしれない。誰が考えてもそう考えるというように。そして、そこに至るまでの十分な議論や研究がなされているのかもしれない。本当はどうなのか知らないけど。

ただ歴史が浅く哲学的考究が浅い天理教においては成員集団において思想的コンセンサスが収斂されているとは言い難い。そういった状況でトップダウンの統一見解は各成員の思想の縛りとなる蓋然性が高いのである。

追記2
裁判員制度を「おたすけの場」と考えましょうと道友社は言っていた。しかし「おたすけの場」と意識させることで「人を裁く場」という意味が低減されるのではないかと危惧する。裁判員制度は人が人
を裁くこと以外の何物でもない。これに反論がある方はイギリスやドイツのように宗教家は裁判に参加できないよう働きかけを行うのがよろしい。軽く考えてはいけないという点では道友社と私は同じである。

人が人を裁く、これほど怖いものはないと私は思う。

そしてここまで書いて今さら言いにくいが、私は裁判員制度自体には反対の立場である・・・

裁判員制度を考える。」への2件のフィードバック

  1. 匿名

    1. お久しぶりです
    読んでるのですが、なかなか書き込みが出来ませんでした。
    私は、この裁判員制度には反対です。何故かというと、この制度を始めなければならない意味が解らないからです。

    >天理教は教義解釈が非常に未熟である。

    と言われればそうかもしれませんね。天理教の教義解釈については、諸井慶徳先生以降、これといった人が出てきていないのが現状ですから、そういわれても仕方のないことですね。。

    裁判員制度の話に戻ると、私は
    團藤重光・伊東乾編『反骨のコツ』(朝日新書)
    や、伊東乾さんや内田樹さんのブログに触発されるところが多いです。

    今年もよろしくお願いします。

  2. 匿名

    2. こちらこそ
    今年もよろしくお願いします。

    天理教の教義解釈について。特定の先生方については私の勉強の足りなささが露呈します。
    ただ身近な天理教人と交流して私はそう思うのであります。加えて天理時報。
    諸井先生とやらの文献も気にして探してみますね。

    ということで、私の見識の浅さなど気になる点がありましたら、今年も気兼ねなく指摘してくださいね。よろしくお願いします。

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