先月は秋季大祭と青年会総会というのがあったようだ。実はそこに私も誘われたのだが、平日なので丁重にお断りさせていただいた。そしたら25日に来てくださいと言われた。25日??と首をかしげたが、25日というのは天理では色々な催しがなされているようなのである。26日の秋季大祭に向けて地方から多くの信者が帰ってくるのが25日だからである。せっかくの休日なのにと思ったが、その知り合いの天理教人の熱意に負け天理にいった。その中のイベントの一つに私も参加した。もう一ヶ月近くの前のことなので記憶が定かではないが、確か大教会長という人の話が10分ほどあって、その後にパワフルな女性の講演が60分くらいだった。人の話が苦手は私は本当に退屈したのだが、内容も退屈であった。「精神病の人にはお手ふりがいいと有名な医者が言っていた。あの左右対称の動きが脳科学的、神経科学的にリハビリに最適なのだ」と。もしあの場に精神医療従事者がいれば「そうですねー・・・」と苦笑しながら言わざるを得ない貧困な内容であった。貧困な内容とは、そうかもしれないし、そう思いたいが、そんな簡単な話じゃないのよということである。確かに何らかの形で体を動かしたりすることは色々な疾病に有効であろう。しかし、お手ふりに明確な治療効果があるなら治療者は宗教的行為なんてことはさておき、世界の医療者はこぞってお手ふりを推奨するだろう。そうしないのは、効果が微力だからである。微力というのは変わらないのと同等であろう。それは治療行為ではなく、適度な運動、バランスのとれた栄養摂取と変わらない程度である。もしそれ以上であるならば、世界の治療者はこぞってお手ふりを導入するだろう。それをあたかも「治療法はこれしかない」的ないい方をするのはよくない。なぜ良くないのか。それは歴史上数々の犯罪を犯してきたカルトと言われる団体が使うレトリックと同じだからである。
病気の人に対して治療と称して宗教行為を行うのである。それは医学への挑戦と神への冒涜ではないだろうか。特に天理教の場合は一定の宗教的理解と必要性を主張している。その組織の人間が「お手ふりは治療効果がある」というのはマインドコントロールと言っても問題ないだろう。
そこで更なる疑問が湧いてくる。それは「おたすけ」という宗教行為をどのように捉えるのかという点である。「おたすけ」というのは病んだ部位に対して手かざしでお祈りをするものである。これは治療行為ではないのか。私は「おたすけ」と医学的治療の教義的解釈は分からない。しかし私の感覚的視点で言うならば、「おたすけ」はあくまで意味論であり、特におたすけの行為者の神との契約が重要視される点で説明できると考える。しばし「おたすけ」を受けるものの中には医学的治療を施されているものがいる。それは行為者の医学的治療への理解と無介入によって決定されると思う。もし、前に挙げたパワフルな女性講演者のように医学的治療への介入(混同)を行うならばそれは医学的治療への挑戦となる。また「おたすけ」という意味論への冒涜ということになると思う。医学的治療への理解と無介入は、「おたすけ」の意味を保持しつつ、医学的治療を容認するというバランスのとれた解釈となる。また、それは天理教の姿勢と合致する。その簡単な方法としては、おたすけの場において「病院にも行きなさい」と言うことで済む。その一言で身体的(表層的)治癒と宗教的(深層的)治癒は分けられることになる。そして「おたすけ」の目的は宗教的治癒である。それしかない。
ある宗教行為を、科学的に昇華されたものとして論じる人間(講演者)ほど神を信じていないと思うのは私だけだろうか。「おたすけ」や「おつとめ」というのは大変意味のあるものだと思う。しかし欲張ってしまうと、その宗教性(畏敬)を減じてしまっていることに気づいている天理教人は少ないと思う。「おつとめ」はおつとめという宗教的意味があり、直接的に体が治るものではないと思う。