私の話は難しい1


昨日せっかく書いた記事が消えてしまった。仕方がないので思い出しながら書こうと思う。前々回の記事で、お正月に近所の天理教の教会に行った話を書いた。その時にカイチョウさんと「物別れに終わった」と書いた。その記事ではさらりと流してしまったが、今回はその「物別れ」の概要をお伝えしたい。
それは正月の話である。正月に近所の有名神社に家族と友人家族と初詣にいった。その帰りに、天理教の教会にも行くことになった。そこではお神酒をいただき、神殿で家族写真をとっていただいた。その後は梅昆布茶を啜りながら近況などをカイチョウさんとその奥様に報告した。カイチョウさん夫妻は私たちを喜んで迎えてくださり、大変気持ち良く過ごせた。しばらくして「そろそろ帰ろうか」という時になりカイチョウさんから呼び止められた。私に話があるということなのだ。私の家族と奥様は話を続けていただき、私とカイチョウさんだけで話をすることになった。カイチョウさんの用件は「上級教会が教会の立て替え(普請)をするのに何百万円をこの教会で心定め(ノルマ)をしようと思う。心を寄せてくれんか」ということであった。呼び止められた時点で「なんか(よくない話が)くるな」と思っていたが、おぉ予想通りである。忘れてはいけないが私は天理教人ではない。天理教に対して信仰を持たない。しかし昔からお世話になっている近所の天理教の教会さんである。お世話になっている人が「困っている」ということならば「少しくらい協力したい」と思うのは当然である。私は信者ではないので、定期的なお供えや高額のお供えは不可能だが、数ヶ月に一度教会に行くときにお賽銭に入れる小銭に数百円くらいを加算することは難しいことではない。今まで私が数ヶ月に一度教会に行くときに参拝したり賽銭箱にお供えをするのは、天理教信仰というよりも、広い意味で神聖なるものに対する畏敬の念を込めた信仰心である。強制でもアンチ天理教でもない。そういったことを思うと先ほど「良くない話」といったことも悪い話ではない。アンチ天理教的修辞語としてはカイチョウさんの提案はネット上に流布しているような「天理教による金銭やお供えの強要」という言い方もあるかもしれない。しかし比較的良好な人間関係にある目の前の相手が「困っている」ということで考えれば、「じゃあ力になりたい」というのは当然の反応であろう。相手の考えや心情の肌理の細やかさを把握するのはその人との関係性でしかない。セクハラやパワハラが生まれるのは、関係性を飛び越して相手に要求するためである。関係性というのは「この人がしそうなこと」という推測可能性のことをいう。この人がセクハラをしそうであれば近づかないであろうし、逆にこの人に好意を抱いており今後身体接触が予見さえる関係であれば性的要求があっても外傷体験とはならない(ちょっと極端ですが)。関係性を飛び越すと、事件化したときに「そういうつもりじゃなかった。合意の上だった」としか言えないだろう。私はセクハラやパワハラを容認しているわけではない。「あなた、もう少し痩せた方がいいよ」などというセクハラ的発言も、関係性ができていれば、「私の体のことを心配してくれているんだな」や「もう部長ったら冗談ばかりいいですって」となるし、関係性ができていなければ「何言ってんだ。おっさんセクハラで訴えるぜ」となるだろう。こういった点こそ天理教人にも分かってほしいのだが、なかなかそういったことを理解してくれる人はいない。ある知り合いの天理教人は「人間よりも神様が第一だ」という非常に考えさせられることを言っていた。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。その言葉の真意は不明だが、ただ、その人の振る舞い方が人間性や人間関係を軽視していることを考えれば、その意味は推察できる。天理教人と接していると、関係性を飛び越して侵襲的に理解を求めてくる人は多い。「神様」という非常に理解が難しい概念がバックにある時点で、かなり丁寧に説明するか、信頼されるような振る舞い方をするかが関係性の構築に大きく影響することを天理教人にわかってほしい。一般人にとって「神様」は普通じゃないのだから。
 
閑話休題。

カイチョウさんと私の話し合いは、ここで話が終わっていれば問題はなかった。しかし天理教初心者の私としては「心定め?」や「心を寄せる?」と初めて聞く単語や了解できない意味があるので当然のこと説明を求めた。カイチョウさんも「数百円の話じゃねーんだよ」という私の思いに納得がいかないようで、、さて、、ここから話し合いは熱を帯びるのである。

続きはまた今度。