人間思案


 天理教人がよく使う天理教的用語の中に「人間思案」というのがある。見て字の如く人間の考えという語義なのであろう。その使用方法は「神の思考」という前提が問われる場合にしか登場しない。人間の思考、行動が神のご意志を考慮せず、(愚かな)自分の考えに基づいて思考、行動する場合に初めて人間思案という機制が発動する。この点で注意することは、この用語は(多くの天理教的用語がそうであるように)自己の精神的鍛錬を行う場合の内省的思索としての場合のみしか使用できない。なぜならば「神の思考」そのものを我々人間は得ることができないからだ。絶対的に獲得できない神の視点から人間が世界を見渡すことはできないのである。神が見ている景色を人間は見ることはできないのである。(「神が見ている」という時点ですでに形而上学的にはおかしいのだろうけど)人間はどこまで行っても人間思案でしかない。絶対理解できない神の思考を理解しようとする志向性が骨子なのである。しかし天理教人をみると「絶対理解できない神」ではなく、「私は神の思考を知っている」というスタンスの人がほとんどである。
 畢竟、人間が「人間思案」という語を発話した刹那、話者は人間思案の呪縛に意図せず陥っているのである。どっぷりと。人間思案は神の思考があって初めて成り立つ。しかし人間は神の思考を理解することはできないというジレンマを抱える。「人間思案」と言っている天理教人も薄々感じているのではないかと思う。自分が嘘くさいということを。どうだろうか。
もう一方で私は「人間思案=悪い考え」という雰囲気が漂うことも非常に不愉快である。人間が考えるという行為に善悪はない。メタレベルの話であるし、人間が人間である以上、人間の思考からは脱することはできないのである。そういった雰囲気は天理時報でも散見されるように自虐である。多くの天理教人と話せば、「いかに現代社会がダメなのか」という話しか聞かれない。だから天理教がメシアとして必要なんだと。それらは天理教人に限らずに政治や経済でも同じなんだけど、こういった方々は「悪いことが起こったときこそ存在意義を求める」からやっかいなのである。「ほら、いわんこっちゃない。私の言ってた通りになっただろう」とね。そこには責任性も社会を良くしようという姿勢もない。無意識的にダメな結果を求めていくしか自己の存在意義を語れないのは陽気暮らしと背馳する。私が主張する天理教と社会の架橋は、こういった自己洗浄を出発点としないとプラクティカルな陽気暮らしにはならない。いい加減、社会のせいにするのを止めにしませんか。私たちこそダメな現代社会を構築してきた共犯なのですよ。

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