家族という幻想

近頃、天理時報を流し読みしていて思うのは天理教的キーワードが「家族」ということ。2月14日の4167号の天理時報では「家族特集」組まれている。そのキーワードは春季大祭での真柱の神殿講話が発端のようだ。その中で真柱は「『家族の絆さえ危うい今日、ようぼくの果たすべき役割は誠に大きい』と話された」とある。その話を元に「布教部長」「海外部長」「道友社長」「強化育成部長」(すごい名前だ)の4者による「今後の取り組みと方向性」として書かれている。「家族」について書いているのは海外部長を除く3者である。何が書いてあるのかは読んでいただきたい。道友社長と強化育成部長は「家族団欒」と書いているが、大祭での真柱は「家族団欒」のことを言っていたのだろうか。それとも「家族」なのだろうか私には確認できない。「家族」と「家族団欒」とでは意味するところが全くちがうので注意が必要だ。
私は真柱の話は基本的に批判しない。なぜなら批判できないからである。抽象的であり、「まぁそうだわな」としか言えないものである。そして組織のトップというのはそういった漠然としたものでいいと思う。大切なのは方向性である。トップが方向性を示し、専門家である実行部隊が具体的に行動に移すのである。規模が大きい組織であればあるほど、その色彩は強くなるだろう。分かりやすくいうと、一国の大統領や首相は大風呂敷を広げ「国の方向性」を言えばいい(夢みていい)。現実可能か不可能かの”ある程度”の現実検討能力は必要だが、いちいちと小さいことを考えるべきではない。なぜなら考えられないからである。現在の民主党政権ではそういった”古いタイプ”の政治家がいない。ただの専門家集団である。それはそれで時代の流れでいいのだろうが、どこか寂しく、また長期日本というビジョンは乏しい。葉巻を銜えて怒鳴り散らす為政者が懐かしいのは私だけだろうか。ただ民主党が専門家集団といっても、自民党とそんなに大きな違いはいだろうと私は見ている。政治の話になると意見する人が多いので、この辺にしておくが、やはりトップと実行部隊の役割は違う。それを考えて本号の天理時報をみると実行部隊の各責任者でさえも具体性に欠ける。その典型が「家族」を定義づけている人間が誰もいないことだろう。そもそも天理教の家族観、天理教から見た現代の家族像というものがどういうものかが4者ではバラバラなのが私は気になる。「家族とは何か」に言及する人間はいないが、それでもそれぞれの家族観に共通の雰囲気が感じられる。それは「古き良き日本の姿をもう一度」という雰囲気である。意識的か無意識的か、その誤読が真柱が言ったであろう「家族の絆」がいつの間にか「家族団欒」という文字に変換されたのではないか(真柱は家族団欒という言葉を使ったかもしれないけど。使っていたらごめんなさい)。また布教部長の家族像は非常に悲観的である。以下、引用する「真柱様が折りにふれてお話してくださるように、いま夫婦・親子の絆の弱まり、家庭の崩壊は切実な状況になりつつある。夫婦の問題では離婚、その原因となるDV、依存症、多重債務など。子どもの問題では不登校、ひきこもり、非行、虐待などが挙げられる。また、うつ病や自殺の問題は一層深刻な様相を呈している。こうした問題を抱える家族にたすけの手を差し伸べ、家庭の再構築を促すべく、私たちようぼくが・・・・」これを読んでみなさんはどう思うだろうか。私は今の日本が「とんでもないダメな国」に思えて仕方が無い。またこうした問題のある家庭は非常に「ダメ」な家庭なんだとレッテルを貼られているように思う。と同時に、天理教を信仰する家庭はこうした問題が全くない家庭ばかりなんだと皮肉まじりに思う。確かに女性や子どもの権利が向上した結果、家庭が抱える問題も彼らが経験した昔とは比べ物にならないくらい複雑になっているだろう。しかし不登校の子どもや離婚を経験したからといって「夫婦・親子の絆の弱まり、家庭の崩壊は切実な状況」と言うのはどうかと思う。私は子どもが不登校のシングルマザーを目の前にして「あなたの家庭は崩壊したのですね」なんてとても言えない。こうした混乱はそもそも「現代の家庭像」を天理教が構築していないために起こるのである。またそういった問題の解決方法についても指摘している当の布教部長でさえ「家庭の再構築を促すべく、私たちようぼくが真剣に取り組む・・・」という。布教部長の答えが真剣に取り組む?今は真剣じゃないの?真剣に何を取り組むの?と思わずツッコミを入れたくなるような回答である。そういった具体的事象に対しても結局は「家族のおたすけは、お道の教義の根幹に基づくおたすけである」と教義にすり替えられている。その話は真柱で十分である。
 また先ほど指摘した「古き良き日本の姿をもう一度」という雰囲気では、現代が「絆の弱まり」としているために、逆説として「昔は絆が強かった」となる。果たしてそうだろうか。私は分からない。一昔前の日本では経済的困窮や地域コミュニティーの関係性があり、家を出たくても出られない者や地域の目があり個性や個人の欲求は集団に埋没するしか生きる道はなかっただけではないのだろうか。確かに昭和までは家族の形態として世代家族が家族の主流単位であったはずである。しかし私たちが望んだように、核家族化は進み、通信技術も進み人と顔を合わせることが少なくなった。その私たちが望んで獲得した生活上で、オールウェイズ三丁目の夕日を目指すことはナンセンスではないか。布教部長も「家庭の再構築」といっているが、布教部長の言っていることは再構築ではなく、再現ではないだろうか。再構築するのであれば、一体古い家族観を解体する必要がある。そこを言及してほしいものだ。「家族」とは何かー天理教的家族論ーってね。ポストモダンに突入するが故(いやずっと前に突入してるんだけど)、新しい家族観を構築する必要があるのではないか。そうじゃないと天理教が望むように日本はダメな人たちばかりになり、社会と天理教との距離は増大するばかりであろう。夫婦や家庭の問題があることが問題ではなく、それらを問題とする認識に問題があるのではないだろうか。離婚、DV、依存症、多重債務、不登校、ひきこもり、虐待、非行、うつ病、自殺こうした問題を経験したからといって他人に問題にされたくはない。不登校の子どもがいることで夫婦・親子の絆が弱まっているなんて言われたくないぜ!それでも家族で楽しく生活してんだ!「いんねん?徳がない?」あなたたちの言葉はあまりに軽過ぎる。天理教人よ、あ
なたちの言うことは理想過ぎて眩し過ぎる。ほっといてくれ。
おっと感情的になって申し訳ない。

家族という幻想」への2件のフィードバック

  1. 一読者

    現場にスーパーヒューマンを期待されても無理です。
    そういった諸問題を抱えた方々をお地場にお連れしたら、本部の先生方が救けてくださるのかな?

  2. 匿名

    家族に天理教を反対されています。というか女房子供、家族全員にほとんど馬鹿にされています。
    そういった訳でネット信心は可能でしょうか?

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