こんにちは。GWまっただ中。昨日まで出張に出ており、今晩は昔からの友人と食事で、明日はわけあって東京の友人と奈良に行く事になりそう。わけは言わないけど。天理は通るけど寄らない。その後は移動してゆっくりする予定。私のGWは今日から3日間。大変嬉しい。3日間も休みがあるなんて久しぶりである。といいつつも、今は職場にいるのだが。
前回のブログで宗教学者の島田裕巳の「葬式は、いらない」の書評を今回のブログにすると書いた。しかし、実際手にしてみると買うほどのものではないかなと。新書だし。立ち読みで。結局島田氏として葬式のデメリットや最近の傾向を述べてはいるが、結局は葬式は無用ではないという結論に落ち着いている。死者の鎮魂のための儀礼は必要だが、それは形式的意味と同様に、死者への慰めという心的装置が重要という至極当たり前の論旨であったように思う。もちろん、最近の葬式の動向や葬式経済学に関心がある方は講読されたい。天理教でも葬式を行うようなので、参考にはなると思う。私は、もっと精神論というか、現象学的宗教学に言及されている方がおもしろいのだが島田氏はそういった思考はあまりされない。彼は宗教を哲学的思索よりも、科学的手法を用いて宗教を論じることを得意とされる方だと私は印象づけられている。ま、そんなところかな。
しかし「葬式は、いらない」の隣にあった「考える人2010年春号ーはじめて読む聖書」と内田樹・釈徹宗の「現代霊性論」を購入する。私は宗教学者でも宗教者でもないのに宗教学的文献を購入するなんて、自分がどこに向かうのか不安がよぎるがいいでしょう。先日も先輩から「今度のプロジェクトのために、これを5月上旬中に読んどいて」とさらっと言われた英語論文が50ページもある。仕事もしていないのに、宗教書を読んでいていいのだろうか。結局、自分の方向性の不安と折り合いがつけられず休日に仕事場に来ている。かといって仕事をするわけではなくブログを更新している有り様である。こんなに逃避を駆動していて私は大丈夫だろうか。ま、いいか。
まだ「現代霊性論」は読んでいないが、「考える人」は大変おもしろい。聖書のことだから、キリスト教が前面なんだけど、書き手がおもしろい。特に田川建三は「神を信じないクリスチャン」として聖書の研究をする稀有な研究者である。宗教という現象学を、これでもかと構造的に分析している。かといってクリスチャンに対して敵対的でも、好意的でもない。あくまで「あの人の神様と、この人の神様はまったく違う。そういうものだ」というクールな視点は慧眼である。こういう人が天理教にもいて欲しいと思うのだが、天理教学者(天理時報に出てくる宗教学者)は、天理教礼賛しかしない。宗教団体付属の研究機関というのは大変な社会的使命を担っているのかもしれないが、アカデミズムの使命も忘れてはいけない。天理時報を読む限り、天理時報に出てくる天理教学者はアカデミズムを背負ったまま自慰行為をしているとしか思えない。天理時報全体が、広くいえば日本の国民性が幼児的自己愛心性を持っているとも言えるのだが。しかし、天理教が衰退している将来的展望の不透明さにもう少し自覚的であるべきだと思う。このままじゃいけないねぇというようなね。
「現代霊性論」も含めて、もう少し読み進めたら感想をかきます。
さて、仕事しよ。