師もまた走る

本日今年初めて「よいお年を」と職場で声をかけた。そうか、そんな季節だな。仕事上、外に出るのは通勤中の朝と晩だけであるので季節感に疎くなる。この素晴らしい日本の四季の移ろいを味わおうとしていない自分が悔しくなる。今日が冬至ということも夕方になって気付いた。とはいってもやはり師走も終盤である。「今年中」に仕事をできるだけ仕上げようと思うが、「やっぱり来年でいいか」という悪魔の囁きも聞こえる。そんな中、ようやく大きな仕事を一つ脱稿した。昨年まで関わっていた機関で、紀要を書かなくてはいけなかった。私一人だけであればサクサク書いてしまうのだが、共同で書く必要があった。そのため夏頃から打ち合わせやら、校正やらと小骨がずっと刺さっていた。やっと終わったぜ、ふー。年末年始は少し音信不通になりますが、探さないでね。

以前にも言ったんだけど、今月に入って激しく呟いている。春くらいに初めて友人に呟くように勧められたんだけど、夏くらいにそのままフェードアウトしてしまった。そしたらまた別の友人から「再開しましょう」と提案され再開することになった。今回は長続きしそうな感じがする。今回のほうが楽しい。そんなことよりもtwitterで「天理教」と検索すると大変おもしろい。何がおもしろいって「さっき天理教に勧誘された」「天理教を見た」という呟きが多いことである。反応としては好意的、拒否的など様々である。

次に写真にある本を読む機会があった。「おーこれが噂の本か」と手にとってみるが、私一人ではなかったのでじっくりと読めなかった。「はじめに」というところだけ読んでみた。そこでは編者が天理教里親の考え方として「拡大家族」という概念を用いていた。天理教の教会という中で血縁にこだわらない大家族=拡大家族ということから天理教の里親の有意義性を記していた。私はここではたと固着してしまった。「ん?拡大家族?どこかで聞いたことあるな」と。そして記憶を辿っていく。それは思想家の内田樹氏の「拡大家族論」のパクリではないのか?と。彼はレヴィストロースの「親族の基本構造」を援用しつつ、父親ー子どもの二者関係に閉鎖しない、伯父ー父親ー子どもの三者関係が子どもの爆発的な社会性の向上になると説いていた。その拡大家族論の盗用ではないだろうか。まぁどっちでもいいんだけど。天理教の里親ついでに、このブログを通して頂いたメールに返事をしたい。「カインは天理教の里親活動に反対なのですか?こんなに素晴らしい活動に反対する気がしれません」というメールを頂いた。ありがとうございます。それでは答えます。天理教の里親活動には大賛成というか、積極的に応援しております。素晴らしいと思います。しかし上記に挙げた著書でも書いてありましたが、天理教の里親活動を大々的に、賛美的に広報するがあまり、若い教会の人も里親に身を乗り出している傾向があるようです。しかし大々的に、賛美的に広報されたものは所詮「はやり」です。そして、オトナの作法として「はやり」に乗ることほどリスクを伴うものはないと感じるのである。そういった意味では天理教の里親活動には賛成ですが、それを布教活動、政治活動として利用する姿勢には積極的に反対しています。理由は2つあります。1つは天理教の活動は里親がすべてではないこと。2つは里親の肯定的側面しか伝えられていない。以上です。上記著書には全国の里親の1割は天理教関係者であるとのこと。これは大変素晴らしいと思う。しかしその1割の背景には流行以前から、現場での汗と涙の蓄積であることは何の疑いも挟まない。しかし「はやり」によって「じゃ俺も布教に手詰まりを感じているし里親やろっかなー」と思われるように賛美的で「いけいけどんどん」ではいけないということである。「はやり」は、一方で道徳の欠如を招くのは社会の常である。「大変なのは知っているぜ」と反問されそうだが、信念や情熱、教義だけで乗り越えられるものでは決してないはずである。ホリエモンや村上ファンドが脚光を浴びたとき、個人株主が劇的に増加した。「俺も株で儲けよう」と。その結果、自由経済の倫理性が歪めんられ司直が介入することになり、株券が一瞬にして紙くずとなったことを経験した人は少なくなかったはずである。自由市場経済に司直が介入することはすでに自由ではなくなっている。今年9月にも円高で自由マーケットに日銀が為替介入したときに欧米先進諸国が嫌悪したことは正にそういうことだと思う。よく知らないけど。つまり天理教が里親を前面に出すことで里親における天理教の存在意義は大きくなるだろう。同時にその倫理性が歪められるか、減じられることが危惧される。天理教の里親論ではまったく扱われないが、里親制度では大きな助成金や補助金が動いている。また児童自立支援施設での職員の虐待も報告されてりう。そういったリアルなダークサイドにきっちりと向き合わず、「情熱や熱いハート」だけ里親を迎合してしまうのでは、いつ事件化してもおかしくない。天理教が里親を前面に出し天理教=里親という図式を定着させてしまうと事件化したときに天理教のダメージは計り知れないところまで低下するかもしれない。私は1割の汗と涙を無駄にしないためにもそっと応援すべきだと思う。だから、私は今の天理教の里親迎合政策を積極的に批判する。