宗教を語り合う危うさ

おー寒い寒い。

天理教人の友人から「mixiの天理教コミュが炎上しているよ」と聞いた。早速興味本位で覗いてみる。mixiの天理教コミュを拝見するのは初めてではないが、何年かぶりである。確かに炎上した形跡はあったものの、現在は鎮火している。特定の荒らしも槍玉に挙がっている。私も天理教に関して持論を展開しているのでチェックしたが自意識過剰であった。よかった。

話はシンクロするが、知り合いの天理教人と一緒に天理教のウェブ勉強会を立ち上げようという話がある。私の持論が天理教論の中でどのような布置を示すのかは大変興味深いので是非勉強したい。ただ一つ、気がかりなことはウェブということであう。ウェブである以上、そこに寄り集う人間関係はヴァーチャルなものである。没個性化された人間が集まるということは、mixiの炎上から学ぶべきものは多い。また炎上しなくても、宗教に対して共通理解を持つというのはかなりアクロバティックな荒業であることを念頭においておかないと大変なことになる。宗教が原因で戦争が起きるのは歴史が証明している。さてさて、どうなるのであろうか。

宗教を語り合う危うさ」への7件のフィードバック

  1. 古い元教会長

    新宗教と総力戦 [著]永岡崇

    https://book.asahi.com/article/11604462

    ・・・それらとは対照的に見えるのが天理教である。明治期に政府の公認を受け、昭和になると全面的に戦争に協力したからだ。2度も弾圧された大本に比べて天理教の研究が目立たないのもうなずけよう。だが本書を読むと、決してはじめから体制寄りだったわけではなく、教祖の中山みきからひ孫の中山正善へと受け継がれる過程で、天理教の教義や信仰の形態が不断に変容していったことがわかる。

     とりわけ大きな変化が起こったのが戦中期である。本来は勤労奉仕を意味する教団用語「ひのきしん」の意味が拡大され、戦時体制への動員が正当化された。例えば炭坑には毎日1万人を超える信者が入り、体制を底辺で支える役割を果たした。

     天理教は明治以来の教義や信仰を変容させることで、「聖戦」のイデオロギーを下からつくり出したのだ。だが他方、こうした変容について行けず、教団を離れる信者も戦中から戦後にかけて激増した。

     したがって著者は、教団の国家本位の立場はあくまでもたてまえにすぎず、それとは別に信仰次元で本来の立場があるとする「二重構造」論を批判する。その批判の射程は、「二重構造」論を採用する戦後の天理教の歴史認識にまでおよんでいる。

  2. 匿名

    古い元教会長様、興味深い研究者の方を紹介されましたね。
    その、永岡氏が「後記」として表した一文を紹介させて頂きます。
    「後記」の本分は以下のコピペの後に続きますので下記サイトから続きを味読されてはいかがでしょうか。
    活発な意見交換を元に深堀されていった内容といえましょう。
    ★永岡氏の許諾は受けていません。しかし以下の文から推察するに、広く読者諸氏の検討を望んでおられるように受け止めました。故にお許しいただけると考えます。

    「宗教とネガティヴィティ」
    https://negativityandreligion.blogspot.com/

    「総力戦と「革新」する天理教」後記

    転載する前に
     
     拙著『新宗教と総力戦―教祖以後を生きる』の第4章「宗教経験としてのアジア・太平洋戦争―〈ひのきしん〉の歴史」は、この形になるまでにややややこしい経緯をたどっている。
     まず、その中核部分は修士論文として書いたものなのだが、これを読んだ幡鎌一弘さんから重要な批判を受けた。その後、修論を微修正して「総力戦と「革新」する天理教」と改題し、『近代日本における表象と語り』(平成18‐20年度文部科学省科学研究費補助金基盤研究(B)[家族写真の歴史民俗学的研究]中間報告書・課題番号18320141、研究代表者:川村邦光、2008年)に掲載したのだが(pp.159-227.)、その際に幡鎌さんへの応答として「後記」を付した。さらに『新宗教と総力戦』を出版するにあたって、幡鎌-永岡の間のやりとりをふまえてバージョンアップしたものを第4章に収めた次第である。
     ただ考えてみると、この科研報告書が人の目にふれることはほとんどないように思われるので、この間の経緯を開示する意味で、以下に「後記」を転載する。回りくどい説明で恐縮です。これだけではいまいちよくわからないかもしれないので、ぜひ幡鎌さんによる「はたらき――ひのきしん」(天理大学おやさと研究所編『天理教のコスモロジーと現代』天理大学出版部、2007年)もあわせてご参照いただければ幸いである。

    (以下、「後記」本文が続きますのでサイトからご覧ください。)

  3. 崩壊

    古い元教会長  様
    2019年7月12日 8:37 AM

    >とりわけ大きな変化が起こったのが戦中期である。本来は勤労奉仕を意味する教団用語「ひのきしん」の意味が拡大され、戦時体制への動員が正当化された。例えば炭坑には毎日1万人を超える信者が入り、体制を底辺で支える役割を果たした。<

     戦争中、天理教信者が軍需工場に「ひのきしん」という名目で勤労動員され、多くの信者が空爆を受けて死傷されたという話も残っています。宗教が政治利用されたらいかに怖ろしいかという一例ですね。

  4. 東風Z

    亡き母は、九州の炭鉱へ半月ほどひのきしんに行っていました。小学校にも行っていない私以下3名の子供を置いて、父は兵役で大陸に出征しているにも関わらずです。
    私達3名の兄弟姉妹は教会でお世話になっていたそうです。
    炭鉱では石炭と石を分ける仕事をしていました。一日のひのきしんが終わると顔や手は真っ黒、洗っても爪の間や頭髪に入った石炭の粉は容易に落ちないとも言っていました。
    また、炭鉱の中は暑くて上半身が裸の女性も多かったそうです。
    粗末な食事で何かにつけて大変だったと述懐していました。
    そのような折にでも、二代さんはワインに刺身だったんでしょうか。

  5. 崩壊

    東風Z  様
    2019年7月13日 12:04 PM

    >粗末な食事で何かにつけて大変だったと述懐していました。
    そのような折にでも、二代さんはワインに刺身だったんでしょうか。<

     お父様は兵役で出征、お母様は幼子3人を教会に預けて炭鉱で重労働。ご両親のご苦労は察するにあまりあります。信者の「お供え」で東大阪市若江に「若江の家」なる立派な勉強部屋(実質は2階建家屋)を建ててもらい、旧姓大阪高等学校から東京大学に進学させてもらい、周囲から秀才ともてはやされた二代真柱の生涯は何もかも信者の「お供え」によって成り立っています。二代真柱は秀才ではありません。それだけの何不自由の無い生活環境に恵まれれば、相当なお馬鹿でない限り、東大くらいには入学できるでしょう。その昔、家計が苦しく東京でサンドイッチマンのアルバイトをして学費を稼ぎながら東大を卒業された人がおられるようですが、そういう人こそ秀才と呼ぶに値すると思います。
     戦中戦後の食糧難の時代、信者も含め一般庶民は、田んぼのイナゴや、蜂の子(蜂の幼虫)、サツマイモのツル等を食して飢えをしのぎ、かろうじて生きていました。まさに「水を飲めば水の味がする」極限状態で日々の生活を送っていました。そうした状況下でも、二代真柱は潤沢な信者からの「お供え」で、ワインやウイスキー、刺身、ステーキといった贅沢な食生活をし、贅沢な学生生活を送っていたに違いないでしょう。そうした悪しき生活習慣が青年期から亡くなるまで長期間続いたので、挙げ句の果ては生活習慣病が原因で亡くなることになったのです。三代真柱も生活習慣病に起因する病で亡くなり、現真柱も生活習慣病を病んでおられます。信者が汗水を流し艱難辛苦の労働の中から吸い取った「お供え」で贅沢三昧の生活をした当然の報いとしか言いようがありません。

  6. 東風Z

    崩壊 様

    何時も納得のコメントを有り難うございます。
    イナゴは鉄の串に刺して醤油らしきものをかけて炙って食べていました。サツマイモのツルはヌルヌルとした食感で今も嫌な記憶として残っています。
    まあ、それでも81歳まで比較的元気に暮らさせていただいています。特に、小学校の高学年の頃に食べたバナナの美味しかったこと、それも、1本ではなくて切り分けた親指ほどの大きさのものを、こんなにおいしいものがあったんだと兄弟姉妹間で言い合いながら、大事に大事に食べた覚えがあります。昭和25・6年ごろの思い出です。

  7. 崩壊

    東風Z 様
    2019年7月13日 8:23 PM

     私も煎ったイナゴを食べた経験があります。今と違い農薬の無かった時代ですから、収穫前の田んぼには、おびただしい数のイナゴがいました。田んぼで採ってきたイナゴを醤油に漬けてi煎ってもらうのですが、口に入れて噛むと香ばしくもあり、またイナゴの臓物が口の中に出てきて、大変気持ちが悪かった思い出があります。しかし慣れるにつれて段々と美味しく感じるようになりました。また、田んぼにたくさんいたタニシも食したことがあります。食感は貝のようで私には美味でした。蜂の子は見た感じウジ虫のようでグロテスクでしたが、醤油につけて煎ってもらうと、ほのかに甘くて美味しかったです。そうした食料が、その当時の貴重なタンパク源でした。田舎の貧しい農村地帯ではそうした食生活が当たり前でした。昭和20年代末から昭和30年代初期の話です。「水を飲めば水の味がする」という言葉のとおり、酷暑の夏、喉を通る水ほど美味しいものはありません。水の味を感じます。イナゴやタニシも今となってはもう一度食べてみたいと思う程、結構な時代になりました。

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