前々回は震災という人知では抗えない条理にぶちあたり、人々は自然発生的に神なるものを感じているのではないかという話をした。その証拠に「生かされている」という未知なる存在への畏敬がぽつぽつを聞かれる。生きていることのありがたさ、生きることの申し訳なさ、生きていることの偶然性などが詰め込まれた思いが、「私は何かに生かされている」という言葉で表現されているではないかと思う。もちろん今まで特定の宗教や神を信仰していない人が、である。なぜそういった人知を超えたものを信仰することに馴染みがあるのかということを考えたい。
また同じく、海外メディアを中心に非常事態での日本人さの冷静さを讃えた記事も多い。海外で非常事態があれば、人々は略奪や、暴力が起きるが、日本ではきちんと整列して配給の順番を待ち、避難所でも秩序をもって生活していることは海外メディアが驚きともって賞賛した。海外で評価されると、なんだかとても嬉しい気持ちになることが日本人にはある。こういった日本人のメンタリティは「ちょっと危ないな」と私は感じる。相手の評価から相対的に自己を確立し維持することは、自己存在という側面でとても脆い。この件についてはまた今度。
なぜ、日本人はそういった集団心理や倫理性を持っているかを考えてみたい。こういった話になると、昔よく聞かれたのは、日本人にはShynessを強く持っているからと説明されることが多かった。Ruth Benedictの「菊と刀」の中で、日本人は恥の文化を持ち集団から外れる行為をすることは恥となることを恐れる。一方、欧米では常に個人の振る舞いを神が見ており、集団から外れることはTransgressionとして恐れるという説明がなされる。「菊と刀」については、その後一義的な論理展開に懐疑的立場も大きかったが、私も日本人は恥の文化、欧米は罪の文化と同列に並べられていることに違和感を感じている。つまり、より日本人に親和的であるのは神の存在を前提とした上での恥の文化(罪の文化でもどっちでもいい)であると思う。このことについて「日本人は宗教や神を信仰している人は少ない」という人がいる。たしかに宗教団体=信仰と捉えるとその意見は納得がいく。しかし古来、日本人は日常生活に根ざした信仰を多く持っている。○○大明神や○○教ということではなく、それこそ山の神、海の神、土の神、風の神、火の神などである。生活のところどころに神は存在し、それに畏敬し、そこから逸脱することは神に対して恥となる。ごちゃ混ぜがが好きな日本人は神がどれほど存在しようと、仏が何人いようと問題はない。どれだけ交通が麻痺して自宅に帰れなくても、人々は列を作り電車を待つ。これは「やっぱ自分勝手はよくないよね」という心性であり、それは古来から日本人が自然に対する信仰に由来するものではないかと思う。日本人は多神教に馴染みがあると思う。