陽気ぐらし達成の世界を想像する

前のブログで「震災は神からの天罰か」と書いたことに色々とご意見をいただいた。ありがたい。私の「天罰にしちゃダメでしょ」という見解に賛同してくれる方と、ある程度「やはり天罰という意味もある」と天罰を容認している方もおられるようだ。それはそれでいいと思う。大切なことは行動バランスの問題であり、どちらか一方を頑に主張することも原理的となる。柔軟であるというのは非常に成熟した精神機能であり難しい。
ただ、どちらにしても、どのような宗派、学派にせよ、ポイントとなるのは陽気ぐらしという世界をどのよに思い描いているのかということが重要になると思う。陽気ぐらしという世界は、どのようなものか。災害がない世の中が陽気ぐらし世界なのであろうか。戦争のない世界が陽気ぐらし世界なのであろうか。では戦争の原点となる怒りや争いさえもないのが陽気ぐらし世界なのであろうか。では、社会的に容認されている受験戦争や、利益競争がない世界さえ陽気ぐらし世界なのであろうか。
もし、震災の原因である「神の残念、立腹」が人間の悪しき心遣いに由来するのであれば、そういうものが無くなった世界というのは災害がない世界になる。なぜなら神が残念、立腹する理由がないのだから災害が起こるはずはない。悪しき心がない世界が陽気ぐらし・・・そうなのだろうか。
客観的事実として、地球規模の最大の災害は60億年後にやってくる太陽の消滅である。これは紛れも無い事実である。太陽が消滅すれば、もちろん地球はなくなる。私は中学生の頃に、この事実を知って愕然とした。なぜなら、「この世界」というのは永続的に脈々と続くと、当たり前になんとなく思い込んでいたからである。ハルマゲドンの終末論など「ばっかじゃねーの」と思っていたが、「いずれこの世は無くなる」という科学的事実を知った思春期のカイン少年は足下がガクガク震えるくらい驚いたものだ。この世界はずっとは続かないのである。

私は再度申し上げるが教義の理論的整合性を第一に置くのであれば、「災害は神の残念、立腹」は「人の悪しき心遣い」と直結して考えるべきではないと考える。なぜなら、主観的な目から見た悪しき心遣いというのは弱者を責めてしまう可能性を内包しているからである。これは人の性であるが、事件があれば犯人を探すのである。つまり災害と心遣いを直結してしまうと、災害があれば「誰かが悪しき心遣いをしているから」という帰結にある。それが信仰的成熟のために「私に」に向かうのであればいいが、その誰かが「お前かもしれない」となったときは怖い。それは一転して、言われた者の行動を硬直させ、口を奪ってしまう。早くも天理教の偉い方からは、「人間の心遣いが悪いから神様が怒っている」という発言が一気に聞かれ始めている。神のメッセージを、理の親のメッセージに変換することは非常にリスキーである。つまりお供え袋を手渡して、それを言ってしまうと間接的な恐喝になる。

私は震災は神の残念、立腹であることは教義上認めざるを得ないことだと思う。もし私が宗教学者であるならば「この教義は後付けされた矛盾であり、教義上不完全である」と言うこともできる。しかし現在の天理教教義内にその文言が位置している限り、信者にとってはそこに疑問を挟む余地はない。その中で、どのように教義を読み解くかは自由であるはずである。神が残念、立腹であるのは教義上の事実である。しかしその理由は分からない。やはり我々は神の意志を理解することは不可能であるし、神が何を考えているのかは想像しても届かないことだと思う。私がよく天理教人と話して思うことであるが、信仰は人を縛るものではないと思う。信仰は人の可能性を広げ、豊かにしていくものであるはずだと考える。天理教人は、あたかも現代社会が悪しき心遣いの巣窟であるように表現することが多い。私ももっと世界がよくなってほしいと思うが、でもこの世の中はそんなに悪いとは思わない。このズレはかなり大きいと思う。私の考える陽気ぐらしとは、現在において達成できているとしても何ら差し支えはない。私が陽気ぐらしが達成していると思っても甘露が落ちて来ないから、天理教的にはまだまだあり得ないだろうけど、いたずらに現代社会を悲観的に評することもないと思う。さて天理教の陽気ぐらしとは何を指し示すのだろうか誰か教えてくれないだろうか。

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