生きる意味

先週届いた天理時報のウラ表紙には驚いた。震災から9日ぶりに救出された孫と、その祖母の一面記事であった。この記事は天理時報だけでなく各種メディアで大々的に取り上げられていたので私も記憶に新しい。「あのお婆ちゃんは、この人だったのか!!」と私も声をあげた。その祖母は天理教信者で、崩れた家に閉じ込められているときは神名を唱えて救出を信じていたという。このご婦人の体験記を読んで、私はVEフランクルの「夜と霧」を思い出した。フランクルはアウシュビッツの強制収容所に入れられ、妻と子どもを殺されて生き抜いた心理学者である。ガス室に送り込まれる死の恐怖とともに「生きる意味」について考え抜いた。それは、生きるということを期待するのではなく、ひたすら生きることが私たちに期待しているということであり、生きるために自分は何ができるのか、というような考えに変化をしなければ人は直ちに絶望するということ(引用箇所が見つけられず申し訳ない。探しておきます)。フランクルは神への信仰を持っていたのかは私は知らない。しかし生への絶望を突きつけられた人間にとって、その絶望から這い上がるきかっけは(生への)意味でしかない。その意味は、人それぞれの意味であるが、そこに神の存在を想定することは十分に考えていいと思う。天理教に置き換えるならば、天理教において人間の身体は神様からの借り物という教えがあるため、命において「生かされている」という表現をする。これは初めて聞くと「なぜ生きることにそんなに卑屈になる必要があるのか」と思うが、神に与えられた命ということを考えれば当たり前の表現となろう。自分の意思で生きているのであれば、生きる理由はそれぞれでよいと完結することも十分可能である。しかし神によって生かされているとなっては、もれなく「何のために私は神に生かされているのか」という問いがひっついてくる。それは天理教にとってみれば神人和楽の陽気暮らしのために生かされていることになるのだろう。震災以降、多くの被災者が「生かされている」という言葉を使用している。甲子園の選手宣誓でも聞いた。それらは、人間は抗えない大いなる自然(災害、死)の中での生きる意味を神(仏でも先祖でも)に潜在的に求めているからなのではないだろうか。親も友人もお金も仕事も失った中で、信じるものがなければ人は生に絶望する。私は絶望の中で神名を唱える婦人の姿に感銘を受けた。

生きる意味」への2件のフィードバック

  1. 匿名

    永遠の陽気暮らしとよろずたすけ、永遠に生かしている親なる神の目的を信じて、些末な事に心煩わせず、感謝を積み重ねて歩むのみです。
    カイン様、様々な提起をありがとうございます。

  2. はぐれ雲

    生きる意味、理由、目的、証。
    人間には、必ず死という最期がある。
    絶対という言葉が、この世の中で当てはまるのは。
    人にも物にも死が最期にあるということだと思う。

    だからこそ、毎日を当たり前のように過ごすのではなく。
    生きる意味、理由、目的、証を。
    人は、日々考えて悩む時がある。

    自然災害、事故、大病など。
    死を覚悟し、隣り合わせとなったときに。
    人は、心に必ず神を思い浮かべると思う。
    そして、その限界の境界線より生に戻れたときに。
    生かされている!という、尊さに気が付けるのかもしれない。

    ただ、天理教のお偉いさん、センセイ、カイチョウサン、信者さん方々も、講話や教会、日常の言葉に。
    日々、生かされている…という言葉は何度も聞いた覚えがある。
    何故か、むず痒さや言葉の薄さを感じてしまう。
    それは、自己体験経験でなく。
    誰それがこうでご守護を頂いた…と他人のふんどしを、さも自らの経験思考のように話をするからである。
    そもそも、宗教とは。
    他人のふんどしで、話を広めていることには違いはないのだが。

    天理教のお偉いさんが、生かされているのは。
    信者さん方々のおかげてあることが現実だ。
    そんな輩が、神のご守護、生かされている、などと。声高らかに、口にすれば。
    聞いてる側は、不快感と疑心しか伝わらない。

    大難は小難に、小難は無難に。
    それも確かなのかもしれないが。
    実は、いい人を装い。
    他人の苦難や苦労を、見てみぬ振りをしているだけで。
    自分に災難がかからないように、足を突っ込まないようにしているのではないのか?と思うときもある。

    話を聞くことはできても出来ることがないから、祈ることしかできない…と。
    目の前に、困ってサインを出している人がいるのに。祈る前に、自ら出来ることを探そうとしているのか。

    お願い勤めをしているから…と、わざわざに電話をしてくるカイチョウサンもいるが。
    恩着せがましいだけに感じてしまう。
    お願い勤めをする前に、もっとその方に出来たことがあったのではないのか?
    見てみぬ振りをして、困ってるときに手を差し出さなかったのではないのか。

    祈るだけでは、何も解決はしないよ。
    教えをなぞるだけでは、ご守護なんてないよ。
    祈るならば。
    この人のために、何かしたいから、神様背中を支えて欲しい!…と、そう祈って欲しい。
    不器用であっても、行動に現して欲しい。
    神様とは実働と結果の後に現れるものだと僕は思う。

    平均寿命が延び、治安もよく、平均的な生活層も増え。
    たとえもし、最低限な生活であったとしても、義務教育を受けることのできる日本。

    平均寿命が延び、少子高齢化も進むなかで。
    高齢者の犯罪や、執着わがままな行動、介護問題も増加している。
    そして、この世界平均より上の豊かさの中で。
    生きる意味、理由、目的を見失い、絶望し。
    若者達、中年層が、自ら命を絶つ数が多い国、日本。
    豊かなのに、いびつな国、日本。

    天理教の中でも、天理教により追い込まれ。
    正確に言えば、天理教人に追い込まれ。
    自ら命を絶つ方々もおられます。
    命を絶たずとも、生き地獄のような生活を強いられている方々もいる。
    家族、親との関係も狂ってしてっている方々もいる。
    天理教により、後悔しか残らない人生になってしまった方々もいる。

    命の尊さや、生きる意味、生きる支えてとなるべき宗教が。
    人が人を踏みにじり。
    想いの詰まるお供えが、カルト組織の上納金となってしまっている。

    生きる意味、理由、目的、証を。
    僕は毎日を、考えて生きている。
    毎日、人間思案しながら喜怒哀楽しながら生きている。

    天理教の方々も。
    なぜご自身が、天理教を信仰する意味、理由、目的、証を。
    もっと考えるべきではないのですか?
    教えだとか、センセイ、カイチョウサンたちの言葉をなぞるだけではなく。
    もっと、ご自身で、自分の心で、考えるべきではありませんか。

    天理教を信仰するのであれば。
    神だ、教えだ、おやさまと口にする前に。
    なぜ、自身が天理教を信仰していて。
    これから、どう信仰していくべきかを。
    もう一度、自分自身と向き合って考えて欲しいと思います。
    自分の心は誰のものでもなく、自分自身の心なのですから。

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