天理教の家族観から見えてくる天理教の限界


私が天理教に期待すること。それは現代社会において、今まで通用してきた上昇的価値観が行き詰まり、新たな価値観を模索すポストモダンにおいて天理教的価値観を取り入れることである。その典型例が大地震による生き方の“再構築”であろう。我々は今まで家族や命や縁などといった面倒なものを軽視してきた。その私たちの強欲な生き方に対して「本当に大切なもの」を模索しなくてはいけないと思う。それは決して「昔はよかった」と安易にタイムスリップすることではない。それだと同じことの繰り返しに過ぎない。
今までのやり方では通用しない「何か」を、私は天理教の高潔な教えに期待した。新しい価値観の構築を。しかしそれも雲行きが怪しくなってきた。
特に今週の天理時報4236号の裏表紙の「現代社会と家族」という天理大学教授の記事を見て愕然としてしまった。よく分からない図はまだいいが、結局は「昔はよかった」ということである。「田舎で育った私は家族に囲まれた理想型であった。今でも我が家は家族一緒に神様をおがんでおり絆があって素晴らしいのだ」ということである。そこには宗教学者目線で解法を提示することはなく、これからの現代社会を生き抜くためには「私のような生活を」ということであり全く内容がない。「私は正しい」という上から目線でイラっとさせられる。家族に囲まれている私が正しいではなく、核家族が当たり前となり、家族が一緒に住んでいない場合や、絆がない状態において、どのように家族を考えて接着していいのかを提示するのがあなたの仕事ではないか。あなたが宗教学者として解法を提示できないようでは誰が提示するんだ!と私は言いたい。いや、一応解法は末尾に提示してある。そこには「生活圏の差異を超えた絆を与えてくれるのは、やはり“超越的な価値”とのつながりーお道の場合には、親神様と人間のつながりーの意識ではないだろうか。」という聞き飽きた中身のない結論であった。むしろ、家族の絆を言うのであれば「親神様と家族のつながり」ではないだろうか。家族一人ひとりが信仰していては家族として交わらないだろう。宗教学者として“超越的な価値”を信仰に求めるのであれば、その信仰がどのようにして家族に醸成できるのかを一般に提示できるのは宗教学者のあなたしか提示できない。あなたがそれを放棄して、市井の教会長さんのような非現実的なフワフワした事を言っていては天理教の知的威信は相当に低下しているとみていい。それが今の天理教の限界なのかと思うと、天理教が混沌とした社会で今後も存在意義を示せる可能性はないに等しい。「こころが大事」くらい私でも言えるぜ。
ただ可能性として、天理時報が意図的に信者の思考停止のために編集段階でフワフワした結論にするように圧力をかけた可能性は否めない。実際に、天理時報の記者は執筆依頼をするときに「こう書いてくれ」という圧力をかけると私は聞いている。

天理教の家族観から見えてくる天理教の限界」への3件のフィードバック

  1. 匿名

    1. Glocal Tenri
    いつも、興味を持って読んでいます・・。

    Glocal Tenriの7月号の巻頭言「大震災ーPTSDの癒し」と題する、文章ですが大変、問題が多いように思います。

    天理教内では通用するでしょうが、間違えばカルトになってしまいそうです。

    一度、読んで見て下さい。

  2. 匿名

    2. Re:Glocal Tenri
    >1sinjyaさん
    お知らせありがとうございます。
    帰ったら読んでみますね。

    質問させて頂きたいのですが、このグローカル天理という媒体は、誰を対象に書かれたものですか?天理教信仰者全員ですか?天理大学関係者ですか?天理教内の研究者ですか?
    あと実質は天理教内で、どれくらいの認知度なんでしょうか?
    あと、ここの所長は、研究者としての業績よりも、理が優先されるんですか?今の所長の名字から察するに、学術性よりも七光りファミリーだと思うのですが。
    質問多くてすみません。

  3. 匿名

    3. グローカル
    どちらと言うと、教内の研究者でしょうか・・・
    認知度は低いように思われます。
    多くの人は、興味がないようです。
    教内の書物で唯一、教外に発信できる媒体だと思っています。
    本部の人事はほとんど、理が優先されているのではないでしょうか。

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