天理高校野球部の不祥事について。これで最後。

天理高校野球部の不祥事について聞かれることが多かった。多いといっても5、6件だけど。返事はしていない。その全部が「天理高校野球部を廃部にするくらい、天理高校と天理教は改革しなければ!天理教は野球部を広告にするのはやめなければ!」という内容である。残念ながら私はその意見に賛同できない。それは天理高校が教育機関だからである。
私の持論として、教育に関して外野がとやかく言うべきではないと思う。例えば大阪府の知事は、鳴り物入りの高い支持で当選した。その結果、府の教育に対して「責任者出て来い!」と足下から蹴りを入れ始めた。その結果どうなったかは、あまり知られていない。具体的には色々あるが、主観が強く入るためここでは控えたい。しかし教員のやる気が低下したことは間違いない。府の教育を支える教員のやる気を損なうことが、教育の質を向上させることはあり得ない。知事は見事に教員のやる気を損ねた。それが2年前まで府の教育に関与していた私の感想である。
教育というのは、世間一般から見れば特殊な世界である。学校では対教師暴力なんて日常茶飯事にある。傍からみれば子どもだろうが暴力なんて犯罪だから「警察や保護者に言えばいいじゃん」となるが、それは教育的ではない。教育的ではないというのは後付けされた説明であるが、対教師に暴力を振るう学生にも「人を信じる希望がある」と現場の教員は信じているのだ。警察や保護者に任せることは簡単である。しかし子どもの成長という観点からは、「どの子の将来にも可能性を広げてやらなくてはいけない」という使命が現場の教員はある。特に少年犯罪が多い府の教員は特別にそのような思いがある人は多いと思う。「分かってくれなくても私はいつまででも付き合うぞ」という熱い姿勢ことが現場の教員もモチベーションである。確かに知事のいうように、直さなくてはいけない部分も多い。それは一朝一夕で達成できるものではないことを理解する必要がある。成果がすぐに出ないから、為政者はよく教育を具にしやすいということは、メディアリテラシーとして私たちはわきまえていなくてはいけない。
このことから、天理高校野球部に関しても私は同じように思考する。もし本件に関して天理高校野球部が廃部になれば、それは企業のやることであり、教育機関のやることではない。事件の重大さを許容するのであれば、本件に関して加害者は被害者でもある。そして何より、未成熟で未完成な弱者である。私は天理教人全員から敵対視されても、徹底的に弱者の味方をしたい。
現実的な解決策として、天理高校野球部は来年は胸を張って出場した方がいい。加害者に対する個人的な処分は、過去の前例から引用すればよい。退学でもよかろう。しかし、それ以上に社会的制裁を子どもに課すことは血の通った大人のすべきことではない。こういった事件があったからといって、一気に改革することは特定の子どもにトラウマを残すことになる。それは教育機関のやることではないし、陽気暮らしを掲げる天理教のやることであってはならない。もし、こういったことから改革を志向するのであれば、第一に子どもの成長を妨げないような対処を前提に置いて考えるべきであろう。そうなると必然的にスピード感のある対応はできないはずである。ということで、私が本件に関して発言するのもこれで最後にしたい。あまりとやかく言うべきではない。