ひのきしんの熱意は冷めた?


昨日、職場に旅行会社の営業マンが営業にきたのでサボりがてら話をした。そこで教えて貰ったのであるが、現在旅行会社が扱う人気の旅行パックは、被災地復興ツアーであるということだ。
野次馬となって物見遊山で被災地に入るなんて不謹慎だと思ったが、真意は違うらしい。そのツアーを企画しているのは若手社員らしいが、真意は多くの人に楽しくボランティアに参加して欲しいとの思いであるという。
被災地では現在でも多くのボランティアを必要としている。しかしその勢いは日毎に減少している。都市型の阪神大震災とは異なり、広範囲で地方型の東日本大震災ではボランティアに出向くのもハードルが高いという。そいういう事情を旅行会社の若手社員は憂いて温泉と被災地での炊き出しをセットにしたようなアイデアを出しあったそうだ。
これを聞いて皆さんはどう思うだろうか。私は非常に歓迎したい。確かに被災地のボランティアと温泉をセットにすることは非常に違和感がある。しかし、ボランティア一辺倒であって疲労してしまうよりは「温泉気持ち良かったし次回も行きたいな」と思わせる方が継続性はある。偽善的ではあるが、それで被災地への人手が用意できるのであれば、あえて偽善的なままでもいいと思う。
立場が脆いのは、最初のお祭り騒ぎだけ参加してそのまま片付けもせずにフェードアウトしてしまうことだろう。女の子を必死に口説いて、女の子をその気にさせといて、夜を共にした途端に音信不通というのは一番卑怯な男ではなかろうか。ドキッ。
さてさて、天理教ホームページでの被災地ひのきしんレポートも先月中旬からストップしたままである。天理教では、もうひのきしん熱は冷めてしまったのだろうか。被災地へ赴いた天理教人は、信者に対して得意気に「被災地はね~」と語ることができたから満足したのであろうか。
今後はいかに支援を継続させるかが大きな課題である。以前「布教のための復興ひのきしんではあってはならない」と申し上げたが、その分岐点はここにありそうだ。誰のための復興ひのきしんかを確認してほしい。

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ひのきしんの熱意は冷めた?」への4件のフィードバック

  1. 匿名

    1. 無題
    あの、すいません、ひのきしんをされている人はいます。私は、信仰が浅い人間だから、あなたの偉そうな態度が気に入りません。

  2. 匿名

    2. 無題
    本部は終わる、ということで、本部とは別に独自に、救援活動をされています。

    もちろん、本部からの援助は無しで、頑張っておられる人は、数限りなくおられるようです。

  3. 匿名

    3. Re:無題
    >1sinjyaさん
    7/15で支援は一応の区切りをすると天理時報にありました。これは天理教本部としてということですね。
    当初はあんなにお祭り騒ぎだったのに、今の天理時報では長期的支援に欠ける内容が目立ってきたので短期的支援に敬意を表しつつ「冷めた」と表現しました。私の周囲の天理教人も、当初は「いけいけ打線」でありましたが、今では震災への関心が薄れつつあることの実感もあります。もちろん、現地の方や個人や小集団で頑張っておられる方がいることは承知していますし、応援しています。しかし私は天理教本部の姿勢を問題にします。行政では手の届かないところや個人ボランティアでは賄えないところに天理教のマンパワーと組織力は貴重な戦力だと思います。それを7/15で区切る必要がどこにあるのでしょうか。私は天理教が政治言語で人間を語ることに不快を覚えるのです。
    「被災地では復興活動が本格化してきた」と定時集会で発言しているのに支援を区切るというのは、誰のためでしょう。被災地は未だに瓦礫の山です。私には被災地以外のため、天理教本部のための区切りであるとしか思えません。被災地では今からが一番しんどい時期になるでしょう。その上で、パフォーマンスでも偽善的でもいいから長期的支援をというのが私の今回の主張です。天理教が「もうある程度やったよね」と政治的判断でダウンサイズするのは天理教としての存在意義を放棄しているのではないでしょうか。わざわざ「区切る」と宣言する必要はないでしょう。宣言することで頑張っている人と頑張ろうとしている人にプラスに働く心理的効果があれば誰か教えてください。私は区切られたら「もういいのか」とやる気は下がります。

  4. 匿名

    4. 無題
    今、被災地で頑張っている教友は、本部を当てにしている人はいないと思います。

    独自に自分達の意思でやっているのではないかと思うと、頼もしい限りです。

    神もそれを望んでおられるのではないか・・とも思います。

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