本日、こどもおぢばがえりに行ってきます。


昨日、懇意にしていただいている天理教人から電話を頂いた。そこで「こどもおぢばがえり」へお誘い頂いた。この方の教会では、子どもたちを連れてのこどもおぢばがえりは昨日で終えたが、彼は引き続き天理に残り今度は「ひのきしん」という形でこどもおぢばがえりをお手伝いするようだ。この暑いなか敬服したい。彼いわく、夏休み中のこどもおぢばがえりでも、やはり平日よりも週末の参加者が多いとのことである。今年は7/30,31しか土日がないために、その日は子どもの数も多いだろうということである。今日は土曜日である。私の仕事の都合で夜のパレードしか見れないが、ひょっとしたら最も観覧者が多い日になるかもしれない。私は人混みが大変苦手であるが、パレードは娘も楽しみにしている。写真をとってアップしたい。

昨日届いた天理時報4241号を読む。少し気になった記事は5ページの「ようぼく議員“お道の勉強会”を開く」である。天理教幹部が国会議員88名に対して天理教の勉強を参議院会館で開いたという記事である。この記事を読んで立ち止まった。「これは誰に対して書かれた記事なのか?」と。紙面では「天理教が国政に対して物申す」(やや誇張した言い方ではあるが)という雰囲気である。現段階では天理教による自己顕示や教内的求心力を目的としているのだろうか。しかし、これは現段階では特に問題ではなかろう。引っかかるのは、この勉強会が今後も継続することであろう。継続するということは、天理教と政治のパイプができるということである。そうなるとそれぞれの利権が絡み合うのは必至である。つまり天理教が政治に利用され、天理教も政治を利用するという共依存のリスクが高まることは目に見えている。信仰の自由を認めている以上「そういうもんだ」と言われれば私の立つ瀬がない。しかし私は天理教の「政治とは一定の距離を置く姿勢」に対して高い評価をしている。今後天理教と政治の関係性が継続することは、その考えを改めないといけないと思う。「勉強会くらいで、やいやい言うんじゃないよ」という意見も想定するが、私が危惧することの一つに、この勉強会で講師をした天理教幹部の存在がある。天理時報を中心として、この天理教幹部の名前は非常に目にする機会が多い。それほど重要なポストについているのだろう。しかし以前、天理教人と意見交換をしたときに、この幹部が大変革命的・外向的な思想の持ち主であることを私は窺った。その時はそれほど気にならなかったが、実際に私の知る限りにおいて、天理教の刊行物で著名人が扱われる頻度が多くなっていると思う。天理時報本号においても1面の下には大相撲の優勝者や女子サッカーW杯で活躍した選手が挙げられている。特に「すきっと」と言われる雑誌には天理教を信仰しない著名人が天理教とは特に関係のないエッセイを書いているようで、知り合いの天理教人は「天理教の媒体として中味がなく何を目指しているのか分からず、残念である」と感想を漏らしていた。私も同じく、天理教の濃度を敢えて薄めて表現することに天理教として何の目的があるのか疑問である。もし天理教と社会との架け橋を目的としているのであれば、天理教の濃度を薄めることがその架橋の本質的な理由になり得るのか説明を求めたいところではある。天理教人を読者にしているのであれば物足りない。天理教未信仰者を読者と想定しているのであれば著名人を扱う意味は宣伝でしかなく布教ではない。天理教のメディア戦略は信仰的成熟を促すという側面よりは、自己啓発本の域を出ないと今の私は理解している。
一方、宗教社会学において天理教は教祖死後以降、教祖の教えと逆行する形で、社会的迎合政策をとって教勢を拡大してきた歴史がある。外向的な姿勢が今後の天理教にとって、どのような質的変化をもたらすのか注意深く観察したい。特に政治との接近や、メディア戦略が対内、対外的にどのような影響を及ぼしていくかは慎重にみていきたい。つまり某学会を教団的成功と見るか、信仰的硬化とみるかであろう。天理時報に政治家の個人名が出てくるようであれば、それは天理時報の政治的利用が始まったサインだと認識できるであろう。

本日、こどもおぢばがえりに行ってきます。」への2件のフィードバック

  1. 匿名

    1. 無題
    ご慧眼です・・。
    まったく同感でありまして、たとえば例年のお節会。議員先生来訪が必ず時報で紹介されています。
    一般の方々は長い事待たされてからやっと頂けるのに、先生方は別ルートで入場。

    なんだかなあ・・。

  2. 匿名

    2. Re:無題
    >スギオさん
    ありがとうございます。御節会ではそんな現象が見られるんですか。天理教団は肩書きで人を選ぶんですね。
    政治とコネクションを持つことは大切だと思います。それは利害関係に陥ることなく相互理解のためにコミュニケ−ションし続けるということです。政治家は天理教の集票効果を利用するでしょうが、天理教にとって政治家と接することが“得”であれば、それは健全ではなくなるでしょうね。もちろん本部にとってみれば政治家の先生が御節会に来てくれるなんて「ささ、先生は特別待遇で」と善意でしょうが、人を選んでいるようでは長期的視点では天理教の魅力を減じるでしょうね。

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