天理教主催の「こどもおぢばがえり」が今年も7月26日から8月4日に奈良県天理市の天理教本部で行われる。私も昔から行かせてもらっている。昨年は知り合いの天理教人に誘われて夜のパレードを見に行った。
天理教の教えでは、天理教の最重要な場所は「ぢば」というところである。その「ぢば」は人間が創造された場所とされる。なので天理教本部は別名「親里」という言い方がなされ、本部に巡礼に行くときは「里帰り」ならぬ「おぢばがえり」と言われる。「おぢばがえり」は行為を指すが「こどもおぢばがえり」は期間限定のイベントを指す。
こどもおぢばがえりについては過去に何度か俎上に上げたことがある。あまり覚えていないが、今回は「こどもおぢばがえり」の天理教に対する役割を考察したい。
私見ではあるが、天理教を信仰しない人間が天理教と聞いて「こどもおぢばがえり」を想起する人は多いのではないかと思う。「高校野球の天理高校」と「こどもおぢばがえり」は、天理教の知名度に大きく貢献しているのではないだろうか。高校野球に関してはサブリミナルな広告塔として記銘されるが、「こどもおぢばがえり」については知名度だけではなく天理教に対する好感度にも大きく貢献していると思う。私の周りにも天理教信者ではないが子ども時代に「こどもおぢばがえり」に参加したことがある者や、昔一緒に「こどもおぢばがえり」に参加した友がいる。その者たちは例外なく「あのパレードは驚きであった」や「大きな神殿で参拝したことはいい経験だった」と語る。幼少の頃にそういった体験をすることは、その後の社会生活の中で天理教と再会したときに親近感をもって回想する人が多いのではないかと思う。(特に天理教の色彩が強くある関西圏が当てはまるかもしれない。他の地域は分からないけど)
こどもの遊びが多様化・個人化している中で、その娯楽性や刺激性を他のテーマパークや高度な玩具と比較することも可能である。それに対して天理教ではの宗教性や心理的成長が「こどもおぢばがえり」の特徴であると天理時報で謳われている。私はそれに加えて、天理に行ったときの「経験したことのない異文化と出会った驚き」を子ども時代に経験することが大きなポイントではないかと思う。テレビやインターネットというフィルターも含めて、幼少の頃の世界とは非常に狭いものである。そこに実際の目で見て、肌で感じる異文化は強烈な記憶として子どもたちに刻まれる。その強烈な体験としての「こどもおぢばがえり」は子どもにとっての最初の異文化体験となるのではないか。私を振り返ってみても、宗教性や心理的成長よりも「うわーこんな世界があるのか」という驚きでしかなかったのではないかと思う。その驚きは「奇を衒う」という意味ではなく、「ぢば」という場所がすでにその役割を担うのではないか。もし「こどもおぢばがえり」が、多様化したこどもの遊びの娯楽性や刺激性に対して「最近の子どもにこどもおぢばがえりは物足りなくなってきているのではないだろうか」というのは早計である。むしろ、娯楽性や刺激性を求める流れにあるからこそ「こどもおぢばがえり」の驚きは貴重であると思われる。それは、肌で感じることに勝るものはないということではないだろうか。
今年もこどもおぢばがえりがはじまる。私も時間があれば行ってみたい。
1. 無題
こどもおぢばがえりへの視点として、目からうろこ、耳からもウロコ…でした。私自身、鼓笛隊として3年間こどもおぢばがえりを体験し、今日も、大学生の息子は、詰所でボランティア、次男は、友達誘っておぢばに帰りました。が、カインさんの持っている感性を文章で読ませていただき、親としてハッとするものがありました。ありがとうございました。
2. Re:無題
>うのっちさん
ありがとうございます。親子でこどもおぢばがえりに繋がられるというのも素敵なことですね。ご子息のご活躍を期待しております。
3. こどもおちばがえりの余韻
私は娘を連れてはじめての近所の教会を通じて小学校以来32年ぶりにこどもおじばがえりに参加しました。昔より嗜好が凝った楽しく、またエンターテイメントの質も高く楽しめました。こどもおじばがえりの本当の良さは終えたあととても良い余韻が残ったことが昔と同じであった。その余韻は同行した子供たちと引率の大人たちがまるで親戚以上に良い団欒の雰囲をつくり出していることから来ていると気づいた。来年も子供を連れて行きたいし、娘もまた行きたいと言ってくれた。
4. Re:こどもおちばがえりの余韻
>ユウキちゃんぱぱさん
親子で素敵な夏休みの思い出を作られたことを喜ばしく思います。また、とても大切な視点をいただきとても勉強になりました。ありがとうございます。来年も良き思い出を重ねられることを願っております。