前回のブログでは、理の親という存在について「理の親を事実上容認しているのであれば、親は子に対して親らしいことをしなければいけない」ということを言った。
今回、まず確認しておきたいこととして私はそのようなgive and takeを信仰や人間関係に運用することを好まない。人間関係や信仰こそ、経済合理主義とは対極に布置されるべきものであり数値化や業績、コストとして論じられるべきではないと私は考える。また人間関係や信仰とは、究極的には個別性であり、あまり外部がとやかく言うべきではないというスタンスを私はとる。では、なぜそのような思考であるのに「親は子に対して親らしいことをすべき」と敢えて言語化しなくてはいけなくなったのか。それは、それぞれの個性という一定の幅は認めつつも、あまりに看過できない構造的な問題を孕んでいるからである。つまり、外部がとやかく言うべきではないという前提には、人間関係や信仰に対する一定の信頼という土台が必要となる。その信頼は親と子の閉ざされた関係に依存するのではなく第三者からみた社会的関係によって規定されなければいけない。簡単に言えば理の親子の関係は第三者からみて常識的な人間関係であるべきということである。反対に常識的な社会関係でないというところには圧力や暴力や虐待や恫喝やカルトなどが存在しやすくなる。そのような危険性を知った上で、私は個人の問題として放置はできない。私もまた社会人として社会的責任を負っている。「個人の問題だから」と言うことは、常識に考えれば個性の尊重ということになる。しかし裏を返せば「何もやっても個人が悪いということにできる」という暴力的な構造を作り出すこともできる。
そして今回私がアンタッチャブルな個別性にまで足を踏み入れるというのは、親と子の関係に対して看過できないRigidで強権的な無責任さを垣間見たからである。
前回のブログで少し触れたが、熱心な若手信仰者から連絡を受けた。彼はある地方の天理教の教会で生まれ、高校までを地元で過ごした。高校は天理教の高校に入学し、その後天理教の専門学校に通い、卒業後は天理教関連施設で数年を過ごした。現在は地方の上級教会にて住み込みで奉仕している。もちろん収入はほぼゼロである。そもそも彼が私に連絡してきてくれたのは、私の見解に賛成でも反対でもなく、過去に私がブログで投げかけた疑問に対して正しい知識を教えてくれたのである。少し話を聞くと、非常に熱心な若手天理教人ということで、反対に私が色々と逆質問したのである。彼は私の主張に対して、概ね理解を示してくれたが「自分にはどうすることもできない」という痛切な嘆きを吐露した。つまり、彼も思春期の頃には天理教に嫌気が差して天理教から離れたくなった。しかし実家の教会の経済状況では天理教本部からスカラシップを貰って天理の学校に行くしか選択肢はなかった。スカラシップを貰ったために、卒業後も進路選択の自由はない(スカラシップの申請は彼の意志ではない)。卒業後は天理教関連施設で働くものの、その後の社会で通用する知識や技術や経済力は身に付かなかった。気付いたときには年齢は重ねたものの社会の流れからは完全に取り残されていた。もちろん満足した就労先(天理教の行事に合わせて休みがとれる会社)は得られず、現在は上級教会で天理教の仕事をしている。収入は毎月2万円ほどの給付金である。その2万円も毎月のお祭り(複数の上級教会)のお供えで消えてしまうとのこと。私が「お供えなんて自由意志の任意でしょ?」と問えば、「体裁としては自由意志であるが、お供えの封筒には氏名の記載が当然のごとく求められる。つまり誰がいくらお供えしたかは分かる」という暗黙の強制力があるとのことだ。そして何より私が一番驚いたことは、彼の社会保障である。わずかの給付金も毎月の半強制的なお供えで消えるために、彼は「お供えをしているので、国民年金を払うお金なんてない」と未納であることを教えてくれた。かといって所属する教会が厚生年金に加入していることでもないようだ。
これを聞いた天理教人はどう思うであろうか。「そんなこと普通だよ」や「神様にもたれていれば大丈夫」というだろうか。私は、ここにこそ天理教の理と子の構造的欠陥の中心点を見る。
彼の言葉に対して私が「天理教ではみんな国民年金は未納なのですか」と問うた。すると答えは「経済力のある方や信者が多数いる教会は年金を払っているが、私たちのような未熟な信仰者(お供えをしてくれる信者が少ない教会)では払えない」とのことである。私は失礼を承知で、彼の愚直な信仰に対して敬服するとともに、天理教の構成要員に対する将来的な無責任さに対しては怒りすら覚えた。将来の保障というのは、現在の責任でしかない。そして現在の責任は、彼を社会的弱者に育成した(導いた)理の親にあることは明白である。憲法第25条にもあるように、すべての国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有するが、それは信教の自由で相殺されるものではない。
天理教の最大の広報機関紙である天理時報は、無縁社会や児童虐待、引きこもりなど社会的な流行の問題を取り扱うことが多い。しかし格差社会についてはトーンが低かったように思う。つまるところ、格差社会を掘り下げてしまうと、自ずと自分自身(天理教)の構造的欠陥に行き当たるから避けていたとしか思えない。公明党が靖国問題を敬遠がちなように。
格差社会についてメディアでは「収入の格差」として論じられることが多いが、社会学では「意識の格差」として議論が落ち着いている。元来日本での格差は年収によって決められることが多かった。しかし年収では流動性が高く、貧乏主婦がある日突然大金持ちになることや、経済的に困れば上京して出稼ぎすることもよく見られた。そこまで波瀾万丈でなくても、真面目に働いていれば順調に年収が上がるということが日本社会の慣例であり、一億総中流や八紘一宇を好む日本では格差はあってないようなものであった。しかし意識の格差というのは、強者はより強者となり、弱者はより弱者として固定化することである。弱者は強者になるためのアクセス権すら手に入れることができない。そうすると弱者は強者になるために向上よりも、現在での地位での安定を目指すようになる。最近の若者の消費が停滞しているというのは、それの一面に過ぎないだろう。最近の女学生の将来の目標は「困らないだけの収入がある家の主婦」という消極的な意見を聞いたこともある。それを「最近の若者は元気が無い」と片付けてしまうのは無責任ではなかろうか。当たり
1. 理の親 再考 中
こんにちは、初めまして
神の子と申します
記事を読ませて頂きました。
現在の天理教全体のやり方は、だいぶ
今の社会から離れているところが
多く有ります 今後は組織の中のを少しでも変えていかないと後継者になる方や若い方が
少なくなります
2. 無題
こんにちは。
はじめまして。
いつも興味深く拝見しております。
経済力のある教会はなぜ年金をかけられるのか?
理の親にもっとお供えしないのか?
途中で真実(お金)の流れが
止まる事におごりのようなものを
感じます。
3. 無題
末端の教会は、徳川時代で言うと、水のみ百姓のようです。
「生かさず殺さず」です。
元気すぎると、文句を言って困るし、死んでしまっても困る。
それぞれが、強くなる事しかない。
4. 理の親 再考 中
経済力のある教会はなぜ年金をかけられるのか?
この問題にたいしての私の答えは、
目に見える御守護と目に見えぬ御守護
目に見える御守護の方は、
老後に対しての金銭関係の不安からかけているのでは、なでしょうか
また教会いや大教会から年金に対してかけた方が良いと言われてる所も有ります
目に見えぬ御守護を頂ける方は、現在の天理教
には、少ないと思います
理の親にもっとお供えしないのか
この問題にたいしては
お供えが途中で止まったり少ないのは、信者さんが悪いのではなくお供えを頂く側がそれほどの人では、ないからです
お供えを長年頂くには、360日、24時間 信者さんに対してたすけ一条の心になり わが身どうなってもと言う心に成らないといけないと思います初代の先生方は、皆そのような心で、道を通ってきました。
現在の教会長や布教所長は、そうゆう方が
少ないです