理の親 再考 上

この表題に関して聞かれることが多い。聞かれるといっても好意的なご助言である。そこで、現在私の手元にある考えを整理したい。
以前も私がブログでこの理の親について言及した際に、「二代真柱が、『理の親は教祖だけである』と言った歴史がある」ということを、読者の天理教人から教えていただいた。そうであれば、教会長や信仰先達者を理の親とみなすことは誤りとなる。まず、この事実関係について整理したい。このような「誰が言った」という点や、教義的史実について私は重要視しない。天理教の専門家でもない私は分からないからである。そもそも天理教の教義自体が、逸話や口伝を元に編纂してきた事実があるから、私のような素人が事実関係にこだわっても成果はない。つまり、天理教に関しては教義的事実にこだわることを私はあまり有意義だとは思わない。教義を無意味だと言っているわけではない。この点は、内部にいる方と外部にいる私の最大のすれ違いだと思う。私の目線で少々攻撃的な言い方をするのであれば「天理教人は自分の理屈に合った事実(教義)を持ち出してきて好きなことを言っている」と思うときもある。私の持っている天理教観は、目の前の天理教人が全てである。それを「一部の狭い見識だ」と言われれば同意するしかない。しかし私は指をくわえて「そうですか」とは言わない。「私の言っていることは全ての天理教人には当てはまらないですが」というエクスキューズは常に必要かもしれないが、それでも「こんな場合(人)もいる」と言い続けたいと思う。
さて本題であるが、私の目の前の天理教人を見ている限り、理の親は数多に存在すると確信する。それが末端教会であるならば、上級教会という理の親がいて、さらにその上には大教会という理の親がいて(その中にも複数いる)、最終的に教会本部という理の親がいる。親ばかりである。これが私の知る事実でしかない。私自身の天理教との関わりを考えても、あるプロジェクトをしようとしても、複数の理の親が色々なところから好き勝手発言し、船頭多くして船山に登る状態となった。そのため現場の士気は著しく損なわれた経験がある。さらには意欲減退の状態であっても「喜んで通らなにゃあかん」という奇怪な脅し文句でうやむやにされた記憶がある。これは集団組織として非常に末期症状であろう。
以前、ある方から「理の親というのであれば、まず親らしいことをしろと言いたい」と聞いた。それを聞いた時、私は「まぁまぁ(理の)子どもがそれを要求するのもどうだろうか」と私は少々懐疑的であった。しかし、今回熱心な信仰者の方のメールを見て、私は「まず親らしいことをしろ」という意見に概ね同意したいと思う。その方は、理の親について反対派ではない。むしろ、熱心に自身の信仰を追い求めておられ、組織に対しても素直にコミットされているような篤い方であると筆致をみて感じた。しかし、彼が私に教えてくれた『熱心な信仰者の現状』に対して私は疑問を感じざるを得なかった。長くなったので続きは次回。

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