理の親 再考 結


これまで「理の親」について上、中、下と論じてきた。本当は上、下で終わるつもりだったけど、どうしても長くなってしまった。上、中、下と3回を使い果たしてしまったので、今回は「結」として最後にしたい。もうなんでもアリ状態ですけど。

ここまで「理の親」について論じてきた中で、理の子の社会的立場の低位固定化を中心に考察してきた。つまるところ、理の親制度は理の親のために存在するしかないと私は考える。参勤交代で大名の財力と武力を劣化させることで徳川政権が単独で維持してきたのと同様の構図である。徳川政権は長期政権として太平の世を築いてきたというメリットもある。しかし、リーダーとしての個を確立するために自身のポテンシャルを向上させるよりも、周囲を劣化させることで個を維持してきた弊害は大きい。一番の弊害は、代々の継承する度に個の力は劣化していくということである。だって誰とも競争しなくていいんだから。周囲の人間の力を奪い、自分よりも弱い存在にすることで自分の存在意義を主張するのは天理教の地殻変動的な緩やかな、そして確実な衰退と同じ理路である。

もう一つ。天理教の大きな社会的役割として弱者救済がある。社会的多数や社会制度に当てはまらないマイノリティーの人たちを救い上げ、擁護してきた長い歴史が天理教にはある。天理教の教会に行けば、行く当てのない人たちが住み込みで天理教の御用をしている姿を目にすることが多い。それは天理教に限らずに、いかなる宗教にも当てはまる重要な役割だと思う。最近の言い方をするのであれば、宗教は社会のセーフティネットとして機能している。それは行政支援や福祉支援では、手の届かない細やかな支援ことであることが多いと思う。しかし、その前提には支援者の保障がなされなければならないと私は考える。天理教はセーフティネット対象者の受け皿であり、セーフティネットの対象者であってはならない。教祖のひながたのように「貧に落ちきれ」という教えがあるからといって、実際に財産を手放すことは現代社会では現実的ではない。教祖の教えを時代考慮なしに模倣していては「ひながた」の意味性が喪失する。また昔よりも現代の方がセーフティネットが充実しているというのは、Pitfallである。制度としては充実しているが、生命資源として考えると孤独死や餓死者がこの平成の時代にも存在することは忘れてはいけないだろう。現代は金がないと飲食もできない社会なのだ。つまり敢えて、年金制度や社会保障制度を敬遠する天理教人に人を救済する条件(資格)が揃っているのか疑問である。人を守るためには、自分が同じ条件ですでに守られていないといけないというのは傲慢ではなかろう。またそこを教育し、保障する責任者は「理の親」でしかないだろう。でも実際には親は自分勝手で、子どもの面倒をみない場合がある。これはお金だけを要求し、社会保障を黙殺する天理教本部も含めて、宗教的虐待といっても過言ではないだろう。

前回のブログで私は天理教人の社会保障を論じたが、それについてレスポンスをいただいた。それは教祖の教えに「律が怖いか、神が怖いか」という言葉があり、法律や規制を恐れていては神の意思(陽気ぐらし)を達成できないということを教えていただいた。これは神の教えを達成するためには強い意志を持てという教えなのだと推測する。私は個人の信仰的解釈まで足を踏み入れるつもりはないし、「律の方が大事ですよね」と主張する気もない。しかし律をいいように利用している側面を無視して、個人的な思いを教義でカモフラージュさせて「いかにも神様の意思だ」と述べることを私は理解できない。天理教人もまた社会制度の中で生き、法律の恩恵を受けていることは自覚しなくてはいけない。それでも律か神かという二項対立を採用し、気分的な利用をするのであれば、天理教はカルト教団と社会に認定されることを受け入れなくてはならない。それは社会に生きるものの責任ではなかろうか。

理の親 再考 結」への2件のフィードバック

  1. 匿名

    1. 無題
    私が思いますに、本来親が夢だの野望だのを口にするからには、自身一代、本人のみの代で完遂する覚悟を持って然るべきもの。子に託せばいいなどとは沙汰の限り、それは最初から己の器量に余る夢であったのだと省みるべきでしょう。
    全ての天理教人の目標である陽気ぐらし世界の実現。これを子に孫に、延々と先送りしようとする現在の天理教人に、自身一代で完遂させようという気概が感じられないのが残念でなりません。
    しかし、そうであっても一旦親より託されれば、全霊を注がざるを得なくなるのが子という立場。引き返せるを引き返さず。事の善悪、自分の器、考えず。果たし逐おせた先に何があるのか、考えず。そうでなかった時の自分の人生、夢想だにせず、ただ盲進。
    親と子には、それだけの力があると思います。また、その力に対して責を負うことだと思います。子を持つということは。
    理の親というシステムは、責を負うどころか、その力を悪用しているように感じられてなりません。無意識的にも意識的にも、その両方が混在している気が致します。

    後人に悲願を押し付けて、先に逝くような愚かをせず。まず自らを一廉とし、有形にせよ無形にせよ子孫に残すべき何某かを手中にできれば、その時初めて跡を継がせる者のことを思ってみるべきなのかも知れませんね。

  2. 匿名

    2. 「理の親」は教理ではない。
    いつも客観的な立場から天理教の現状を分析されている内容を参考にさせて頂いております。「理の親」について連載されている中に、歴史的な視点から徳川政権に触れておられるので、「理の親」という制度(まさに制度に違いありません)の成り立ちについてコメントしたいと思います。
    徳川幕府以来、日本は儒教による身分と階層の差別による秩序で固められていました。そのために、日本における人間関係は疑似血縁制(他人であっても親子に擬した制度)で成り立ってきたといわれています(山本七平、岸田秀など)
    一方天理教は啓示による原典を教理の基本としていますが、明治から昭和20年に至るまで、政府により「みかぐらうた」は部分的に削除され、「おふでさき」は短期間を除いて60年間にわたり発禁、「おさしづ」が全教会に配布されたのは明治20年から80年後という歴史の悲劇というべき空白がありました。その間に天理教には、教祖の教え以前の身分を肯定する儒教的な疑似血縁制が混入してきたのです。
    原典「おさしづ」には「理の親」という語句は唯一回、教祖を示す意味で使われているだけで、教会長や役員は「親の代わり」「親の役目」を担うように諭されている場合があっても、先天的な「理の親」の立場を認められている言葉はありません。
    要するに、戦後の原典に基づく「復元」は建前に過ぎず、制度としての「理の親」は今も続いているのです。制度を変えるためには、別の民主的な制度を取り入れなければ不可能です。このままでは、教理にも反し、戦後の法律にも反した、世にも不思議な教団としての存在価値しか認められなくなるのは当然でしょう。

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