天理教が最も嫌いな相手を支援するということ。

12月11日の産経新聞にて震災で被害のあった宗教施設という一面が掲載されていた。主に寺社の被害の数が計上されていた。天理教に関する記述もいくつかみられた。新興宗教は沿岸部の施設が少なかったり、歴史が浅いため建造物がしっかりしていることが理由で震災の被害がほかの既成宗教と比べて少なかったようだ。その中で天理教は全半壊した教会が57もあり、宗教団体別でみると多かったようだ。
もう一つは、各宗教団体の支援体制である。新興宗教が活発に支援をおこなっていることも紹介されていた。天理教は本部が組織したボランティアだけで1万8千人、教区•教会の組織によるものが延べ3万人が支援(災害ひのきしん)に動員されている。この数は、創価学会が2万人、立正校成会の8500人、真如円の4100人と比べて群を抜いている。支援は決して数ではないが、天理教が5万人近くを被災地に送り込んでいることは天理教の人助けの実践や、その準備性の意識の高さを裏付けるものではなかろうか。5万人もの人間を本部が「行ってこい」と言って行かせられるものではない。これは天理教を構成する一人一人の意思の現れであり、敬服したいと思う。もちろん産経新聞だけの情報によるので注意が必要だけど。
ただ、この記事が一番訴えかけているのは、地域コミュニティの重要な役割を担う寺社が被災したことによって、その地域の文化や歴史が衰退する危険があるということである。そして、その寺社は政教分離から義援金などの支援が全く届かないということである。この記事を読んだ天理教人はどう思うのか私は知りたい。政教分離だから支援が届かなくて当然だと思うだろうか。宗教法人は免税されているから、行政が支援することは必要ないと思うのか。または地域が必要とするなら地域の人間の手で再建されるべきであろうか。
震災以降、全国の自治体ではカウンターパートでの協定を結ぶ遠方の自治体や団体が増えている。つまり、A県が被災したときには、その支援の中心はA県とカウンターパート協定を結んでいるB県が中心に行う。そのためにA県とB県は事前に準備をして「もしものとき」のために準備をしている。これは、この度の震災が広域にわたったために、誰が支援のコントロールをするかという混乱の反省からである。同じような規模の自治体が、相互に備蓄することでリスクを分散させ、もしもの時には迅速に対応できるということである。このようなことは自治体レベル以外でも多くみられる。同種企業や、その他の団体でも同じである。東北で被災したスポーツクラブや市民団体には、都市部のクラブやプロチームが用具や場所の提供を行った。行政支援では、被災者のスポーツの用具までは細やかに対応できない。このような関係する人たちがカウンターパートで支援することは私は分かりやすくていいことだと思う。
そのように考えると、被災した寺社を支援するのは被災しなかった宗教団体の役割ではなかろうかと思う。
過去に私は天理教人が、ほかの宗教団体を批判していることを何度か耳にしている。同属嫌悪だろうか。歴史的世界的にみても、宗教団体同士の争いというのは非常に敏感で過激であることは現在進行形でも確認できる。しかし天理教が持つ陽気暮らしという金科玉条は、天理教を信仰している人間だけのものではなかろう。それは詰まるところ天理教が最も嫌いな人間と仲良くすること抜きでは陽気暮らしなんて達成することはできないということである。たとえオウムであってもである。
以上のことから私は見てみたい。天理教が被災した寺社の支援を行うところを。もし、そういったことがあれば、それは非常に美しい光景だと思う。

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