天理時報がしっくりこない理由

このブログのタイトルには天理教という名を冠している。つまりブログの内容は天理教に関することである。私がブログで心がけていることは、自身の感覚を大切にしていることである。それは「あれ?おかしいな」や「なんだかしっくりこない」というビミョーなところである。そういったビミョーな疑問符から私の思考が開始するので、この疑問符を共有できない人にとっては「コイツなに言ってんだ?」と思われるかもしれない。そんな方は少なくないと思う。
天理時報についてブログの俎上に挙げることが多いのは、私の手元にユウイツ定期的に届く天理教の刊行物だからである。昔からの天理教人の知り合いは複数いるが、仕事をしているため頻繁には会えない。だから天理教の動きは天理時報を通してでしか知りえない。私が天理時報を批判するのは、主に天理教人や記者のエッセイである。「視点」(社説)や「和楽」(朝日でいえば天声人語)のような欄である。天理教の動静を報告するだけの記事は情報なので批評のしようがない。「ふんふん」と読むしかない。
しかしエッセイは、社会に対する天理教の反応、思考、方向性が反映される。そこには私からみて非常に危険思想ともとれる考えが掲載されることも多い。危険思想とは、社会から乖離したことを天理教の官僚が「天理教全体の意見」として発言することである。たとえば「天理教は臓器移植に反対だ」と一面的で性急な解答を述べたりすることである。先週は天理教の傘下にある病院の入院棟が拡張される記事が大きく扱われていた。先進医療を批判する一方で、医療に依存する。この八方美人な矛盾を私は放置できない。
ガリレオが地動説を実証し、宗教裁判で有罪にされた。しかしその後の科学の進歩で1992年にローマ教皇はガリレオに謝罪しなければならなかった。死後300年後の謝罪ってどうよ。この出来事と同じ「後だしジャンケンってずるい」匂いを私は感じる。教義に忠実であることと、社会に寛容なこととは異なる。そこには「かしもの•かりもの」という教義があるから臓器移植は認められない」という単純で、思考力の低い展開しかない。「教義がこうだから」というのは現代を生きる宗教家としての敗北であり、「なんとかしよう」という気概や男らしさが感じられない。科学の進歩で謝罪せざるを得なかった「聖書に神が大地を固定した」という記述は、そのまま天理教の「かしもの•かりもの」という教えの論理展開と並列できると私は考える。教えと社会を架橋しようとしないのは、将来を放棄している。
なぜ天理教ではそういった現象がおこるのか次回検証したい。そこには、私が天理教を批判する現象の共通課題があると思う。それは同時に、天理教が組織としてより良くなるための私なりの回答となる。そんなに大したもんじゃないけど。