昨日は今年最後の天理教本部の祭典日であり、天理界隈は多くの人で賑わった。私が娘と天理に着いたときには祭典は終盤にさしかかり、講話の途中であった。言い訳だが、京都方面と大阪方面が合流するところから車は渋滞していた(これは天理教とは関係なく慢性的な渋滞のようだ)。天理市内では祭典の影響で車がゆっくりとしか進まなかった。
やっとこさ本部の駐車場に駐車し、中庭という神苑の中心で天理教人と合流して冷たい廊下を歩き参拝した。つま先が凍死するのではないかというほどの冷たさであったが、どこか趣きがある。講話が聞けなかったのが残念であった。そこからメインである詰所というところまで歩く。詰所に向かう途中で、黒塗りの高級車が複数台とまっていた。「あれは何ですか?」と天理教人に聞くと、「あれは祭典に参加する大教会長様方のお迎えの車だよ」とのこと。黒塗りのピカピカに磨き上げられた高級車に運転手付きである。私はネットの掲示板で散見される「天理教幹部の贅沢三昧は許すまじ」という論陣に加担するつもりはないし、そういったネトウヨ的考えには否定的立場である。しかし「ピカピカ黒塗り高級車に運転手付き」というのは、このご時世では違和感でしかない。何十億と稼いでいるハリウッドスターですら、高級外車よりもエコカーに乗る時代である。当の大教会長様たちは、そんなことは微塵も思っていないだろう。「お与え頂いたものに乗っているだけさ」としか言わないだろう。しかし、このような外から見て贅沢に映る現象の延長線上には宗教団体への課税という流れがあることをどのくらいの人間が考えているだろうか。天理教はまともな宗教団体なので宗教団体への課税が法制化されたところで大きな問題ないというのは思慮が浅い。この場合、問題がないのは財布だけである。大切なのは宗教団体は課税すべきだよねという「そういう目」で世間から見られることである。この問題は踏み込むと話が長くなるので割愛するが、外部からの「そういう目」を容認することは天理教にとって非常に厳しいことになると思う。つまりピカピカ黒塗り高級外車に乗っている人が寒空をブーンと通りすぎるのを見れば、その大教会長様たちがいくら「神一条の精神で」と講話で訴えても、説得さや求心力に欠けることは言うまでもない。講話で扱われていたOne for all,All for oneの示すOneは幹部の私利に成りかねない。
詰所につくと、思いのほか私たち親子は歓迎された。この詰所は東北の方が多いとのことで、娘は聞き慣れない東北弁に爆笑しきりであったが、お菓子をもらい、餅つきを体験させてもらい、醤油やバターなどいろいろなお餅をいただいた。天理教の歓待の精神は、天理教が最も誇れる財産だと思う。