「今さえ良くば、我さえ良くば」というピットフォール

天理教では「今さえ良くば、我さえ良くば」という言葉が流行っている。この言葉の出典がどこから来ているのか私は知らない。しかしことあるごとに耳にすることがあるから流行っているんだと思う。
私は以前から苦手と公言している天理大学おやさと研究所発行の媒体「グローカル天理」であるが、苦手であるので自分で読むことはない。ブログの読者から「読んで感想を書いてくれ」と勧められて読むことしかしない。今回、その中の公開教学講座「現代社会と天理教」第8講「選択と不選択」—教えとともに生きるみち-という論文を紹介された。
要旨としは、「我さえ良くば、今さえ良くばはダメだぜ」ということであった。ただ、私の感想としては、これほど「我さえ良くば、今さえ良くば」に染まった論文はないと思う。交通規則を守らない人間をやり玉に挙げて、「あれはダメ、これはダメ」と言っているだけである。天理アーケード商店街を自転車で通行する若者を交通規則を守らない人間としてレッテルを貼り糾弾している。著者はまったく気づいていない。理論展開せずに他者批判することは批評にもならないただの居酒屋のおっさんの愚痴でしかないことに。同様のことに私は朝日新聞の「声」が苦手である。「あれはダメ、これはダメ。最近の若者はこんなにダメ」ということであり、投稿者がいかに正しいかという主張でしかない。そこには社会に対する不満を「私は正しい」という投稿で自己満足する姿勢でしかない。確かに、危険な自転車運転は慎むべきであろうが、私はそれらを無条件に批判するほど大した人格の持ち主ではない。自分の預かり知らないところで誰かを傷つけていることもあるかもしれない。
ラディカルな論理展開をしないと批評にはならない。これは社会人としての常識ではなかろうか。ましてや大学という学術機関であれば、なおのことではないだろうか。
私の反論として、この著者からはご自身が社会に迷惑をかけて生きているのではないかという慎みがまっく感じられない。自分の生き方が最も正しくて、みんなは私のようにいきていかなければいけないと言っているように聞こえる。私は、人は社会や人に迷惑をかけないと生きてはいけないと思う。この著者は生命維持に必要な呼吸でさえも二酸化炭素を排出せずに、みんなの税金で作られた公共物を使用せずに自己完結で生きているのだろうか。ちなみに私はいろいろな人に迷惑をかけて生きている。私の周りには頭が上がらない人ばかりである。むしろ「我さえ良くば、今さえ良くば」でしか生きていない。どーもすみません。
この方は肩書きから察するに、立派な学術研究機関の方だろうとお見受けする。また後半部に「学ぶことが大事」と言っているので、私は学術的見解として学ばせていただきたい。
察している方も多いと思うが、私が天理教に対して言っていることは副題にもあるようにニーチェをなぞることが多い。本ブログの要旨として天理教はニーチェを超えなければ今後の社会で存在を確かめることは困難になると考えている。アメリカで信仰離れが急進しているように、宗教がなくても経済は回り、人々は生きていける時代である。その中で宗教の存在意義を証明することは容易ではなく、宗教哲学が問い続けている難問である。どこかの宗教団体のように、観光で金儲けをしているとこもあるだろう。一部の人間の自己実現や政治集団として機能している宗教団体もあろう。その中で、形而上学的信仰を持つのであれば、天理教が主張する「人のため」という利他主義の裏にあるニヒリズムや弱者の肯定を乗り超えなくてはいけない。そうでないと天理教も既成宗教と同様のデカダンスを迎える。
ニーチェのように「神は死んだ」と神の不在を天理教人に言えば、激烈な反論があるだろう。「神は死んでいない」とー。しかしそれは表層的議論でしかなく進歩がない。議論を進歩させるためには学術的探索を担保しなければいけない。つまりニーチェがなぜ「神は死んだ」と言ったのか、歴史的に言わざるを得なかったのかを問うことは、教祖が「世界ろくじに踏みならせ」と言って死んだこととそれほど乖離したことではないと思う。「我さえ良くば、今さえよくば」の反対に位置する「人のため」という、自己満足や自己欺瞞を乗り越えなければいけない。
私は「我さえ良くば、今さえ良くば」を平気で口走る天理教人が「感謝、慎み、助け合い」と言っていることに矛盾を感じざるをえない。品格を問う人間に品格が感じられないのと同じである。

「今さえ良くば、我さえ良くば」というピットフォール」への2件のフィードバック

  1. 一読者

    「我さえ良くば、今さえ良くば」の反対語は「今も未来も良かれ、我も人も良かれ」ですよね。
    ポジティブ語に変えてくれないかな?

  2. みかじめ料はお断り

    「我さえ良くば、今さえ良くば、思う心はみなちがうでな」
    他人のエゴと支配欲を非難しながら、自らの献金生活を肯定する、神の代弁者達。

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