自由からの逃走


前々回のブログで天理時報が言論弾圧ともとれる発言をしたことに反論した。反論先は神の名のもとに、一個人の発言を認めないように思想を誘導する雰囲気を醸成していた(しようとしていた)ことである。こういう文脈を見る度、天理教人は信教の自由の意味を勘違されているのではないかと私は感じる。同じような文脈で、金銭のお供えがあたかも税金のような義務感を背負わされる錯覚に陥るのと似ている。
結論を言うと信教の自由は、組織に付与されるよりも個人の権利が優先されると解釈するべきであろう。そして天理教は完全に信教の自由の範囲内の宗教法人である。

信教の自由と表現の自由がごちゃまぜになっているが、本件では同義である。私は信教及び言論、表現の自由は基本的人権という視点でとっても大切なことだと思う。我々が持っている自由の権利は誰にも侵されてはいけない。そして、今われわれが享受している自由は「あって当然のもの」ではない。

歴史的にみれば、自由は何人にも平等に与えられているものではない。今こうして私が自由に発言でき、適当なことを言っていられる自由は、先人達が自由を獲得するために壮絶な戦いの犠牲の上に成り立っている。私は権利への脅迫に対しては徹底的に抵抗したいと思う。私のもとにもコンスタントに天理教人と思われる読者から脅迫ともとれるメッセージが送られてくる。「適当なこと書いてんじゃねーよ」と。そんなこと言われたら、ちょっと気持ちがへこむ。しかし私はそれらによって発信意欲が削がれることはなく、むしろ彼らにとって逆効果であることを記したい。

一方で天理教人が権利擁護に対してあまり声をあげないことに疑問を感じている。「なんで誰も発言しないのか。天理教に限らずに日本の宗教団体の哲学の実践ってこんなものなのか」と。その姿勢は慎みではなく、自由の放棄であるか、ただの平和ボケであると私は思う。アドボカシーできない人間が、人助けなんてできないだろう。それは「北朝鮮に行け」と言われるのを甘受するようなものではないだろうか。

権利擁護や脅迫というものに対して口角泡を飛ばして熱くなってしまうのは私の悪いところである。私の恩師である社会病理学者は、「支援というのは上下関係である。それに無自覚であると上下関係は権力関係になってしまう。支援者は自身の権力の所在に細心の注意を払わなければならない。唯一、権力を振りかざしている人間に対しては徹底的に対抗し弱者を保護しなければならない」と教えられた。まさに学生運動世代の最前線の方だったが、その哲学は今の私を生きている。

天理教人のインターネット使用に関して述べるはずであったが、話が脱線してしまった。