布教の行動特性について

先週に初対面の天理教人に何人かお世話になった。数人の方が天理教の教会長で、数人が天理教関連施設在籍者で、私を含めわずか2、3人が天理教関連施設以外に在籍する者だったと思う。何か強い目的があった会合ではなく、食事会のようなものに呼んでいただき、特に内容があるものではなかった。しかし私にとっては内容以上に、参加できて学ぶべきものが多かった。
そこで一番感じたことは、やはり天理教人の歓待の精神だった。簡単に言うと、基本的に天理教人は“いい人”が多い。天理教人同士のやり取りを見ていると、年齢に関わらず立場によってそれなりのヒエラルキーがあるようだ。その中で私は両隣に座った会長さんと、青年の気遣いに感服した。もちろん私にとってアウェイの場であり、話すことがない私は比較的静かに過ごしていた。しかし青年は話題を切らさずに私に話し続け、会長さんは全体との調和を図りながら私を気遣ってくれていた。失礼ながら、会長さんは私よりもかなり年配の方であったと思う。会合を終えて、私は大変気分よく帰路についた。
その翌朝から今まで私が考えていることは「なぜ天理教人には歓待の精神が存在するのだろう」という疑問である。「人には歓待で迎えよ」という教えでもあるのだろうか。「喜ばずして帰さない」だったかな。私はよく知らない。しかし、例えそのような教えがあるからといっても簡単には実践できまい。つまり、私から見て歓待を誘因する意図や思考とは別の装置が作動しているような感覚を覚えた。歓待をしなくてはいけない教義があるから優しくしなくちゃや、優しくしておいた方が後々メリットがあるという意図は感じられなかった。むしろ、歓待しなくては落ち着かないかのような身体化された心理機制であるように感じられた。この点について弁証することは大変に難しい。
震災時に日本人の礼儀正しさが海外から讃えられたことと似たような文化理解だと思う。日本人や中国人、アメリカ人という概念で説明することはあっても、多くの日本人が普通の暮らしをしている中国人やアメリカ人がどのような行動をするかはあまり知らない。それは外人から見た日本人も同様であろう。「あ、日本人って非常時は暴動も起こさずに列に並んで行動するんだ。アメリカでは考えられないよ」というように。また我々日本人も普通の暮らしをした中国人やアメリカ人の行動を知らない。私たちが知っている外国人は、メディアに出るほどのパンチの効いた人間であることを忘れて、その人を「中国人代表」としてインプットする。
天理教人も同様である。天理教人の人となりを知らない世間の人は多い。しかし天理教を知らない人が天理教と聞けば人となりよりも「新興宗教」というアレルギーが発動する。普通の人は神や宗教にはアレルギーがある。しかし神を括弧に入れて天理教人の行動を対外的に広報する人間は、天理教幹部にも天理教研究者がいないことは疑問であり天理教人の閉鎖性であると思う。それは今回の食事会に参加してみて一番思ったことである。もっと天理教人は社会と繋がった方が布教的ではないだろうか。なぜだか分からないが天理教人は天理教人と集まり、天理教の話をする。それでは、天理教以外の人間に天理教の行動を知る機会は少ない。社会との接点が、街角で天理教の幟を掲げて絶叫することや街で突然「天理教です」と道行く人に話をかけていては、社会は天理教と離れるばかりである。別の話で、天理教の海外布教戦略の話を以前聞いたことがある。海外布教と言えば、天理教の教えを海外にも広めるという志があるのだろう。しかし実際は、海外の天理教拠点に住み、そこから集団で活動するということらしい。それでは海外布教の意味が本末転倒しているのではないだろうかという嘆きを青年さんから聞いたことがある。似たような話に日本の研究者は海外の学会に行っても、日本人研究者で集団をつくって海外の研究者が近づけないという皮肉を先輩から聞いたことがある。これは、日本人の行動特性だと思うが、それを意識し言語化している天理教人がどれほどいるのかは疑問である。別の教会長からは「地域の役割があるが、天理教の行事が忙しいので、地域の役割に当たりたくない」という話も以前聞いたこともある。これもおかしな話だと思う。私は多くの天理教人を尊敬もし、素晴らしいと思う。しかし、布教を掲げる彼らがなぜ社会に出て行かないのは疑問でしかない。そこには構造的惰性が働いていることは推察できるが、それを打破しなくては天理教の未来は暗いだろう。

布教の行動特性について」への10件のフィードバック

  1. 匿名

    1. 無題
    カインさん、こんばんは。
    「人には歓待で迎えよ」確かにそうなのかもしれませんね。しかし、教人とて人間です。24時間そういられるわけがありません。「内弁慶」という言葉があたてはまるかどうかはわかりませんが、身内にはとても冷たかったです。そう、上級の会長も厳しいというより、情け容赦ないって感じです。外と内ではだいぶ温度差があるように思えます。会長は父ではなく、家でも会長でいようとします。内側から見ている我々はそれに失望するのです。
    記憶が定かではありませんが、二代真柱が「天理教とは何かと問われたら、私をみてくれ」と。ふと、そんな言葉を思い出しました。

  2. 匿名

    2. 無題
    天理教の人間はやたらとお道の人間と世間の人とを分け隔てているように感じます。
    世間の人たちと自分たちは違う自分たちが特別であるかのような話にはうんざりします。私の知っている教会の人間はペテン師ばかりだと思っています。それくらい外と内の顔は違います。
    社会に出たくてもその意思は通用しません。天理教の会長は特に自分たちの子どもを社会に出さず社会に出ることが道から外れている様な、間違いを犯すような気持ちにさせます。社会の色に染められて天理教の精神を忘れてしまうのが恐いからなのか何なのかは知りませんが、教会や天理教の施設で生活している限り自分の意思は有って無いようなもの。会長や先生と呼ばれる人の教えを守ることが信仰で、その人たちの意に反することは、埃だの欲だのという言葉で切り捨てられるのです。
    子供に自由な夢や希望なんて持たせてあげられないのが天理教社会での現実です。

  3. 匿名

    3. 滅びの道
    「もっと天理教人は社会と繋がった方が布教的ではないだろうか。」
    このことを考えていて、今の「天理教」は、本当は布教などする気はないのではないかと思い至る。たとえば、「因縁の教理」を外部の人に話して信じてもらえると思っている人は、ほとんどいないだろう。いるとすれば、教内育ちで、外部の人間にそんな話をしたことがない人か、あるいは、ごく少数の教会が行っているような洗脳システムに乗ってしまった人かだろう。
    ここから話が飛躍すると感じられるかもしれないが、たとえば、キリスト教が、イエスの教えを忠実に教えているわけではない。「貧しきものは幸いなり」が「心貧しきものは幸いなり」に変わってしまったりする。日本の仏教が、お盆の行事をしっかり行なっていても、釈迦は、「死んだ後のことなどわからない」と言っている。お盆の行事をやるのは、仏教が日本の伝統を取り込んだからで、それはそれでとやかく言うことではない。しかし、キリスト教も、仏教も本当は、こういう教えだったんだよというキリスト教学者や仏教学者はいる。だからかどうかは知らないが、大学(院)にもキリスト教学や仏教学の専攻がある。いやキリスト教や仏教の研究機関が、大学になった。
    振り返って天理教である。天理大学には、天理教学専攻というのがあるらしい。戦後すぐに天理外語から大学になる時、文部省の役人に天理教に教えるものなどあるのかと言われたらしい。しかし大学はできた。それから何十年もたって大学院ができたが、それは、臨床心理の専攻科で、天理教学ではなかった。
    宗教は、教祖の教えを忠実に教えろと言ったって、生活もあるのだからそれは難しいかもしれない。しかし、本当はこうなんだよというところが、人が、生きていける状況を作っておかなければならない。宗教の存在基盤はそこにあるのだから。それをしないとただ滅びの道を歩み続けるだけだろう。

  4. 匿名

    4. Re:無題
    >源次郎さん
    おはようございます。そのような権力の二面性は、方々で耳にすることが多いです。私はそのような会長の二面性は前思春期的(小学生高学年くらい)で未熟だと思います。この記事で、私が天理教の良さを主張し「外に出た方がいい」と言ったのは、厳しい社会では、前思春期のままでは淘汰される。成長しなくてはやっていけないという意味も含めています。
    二代真柱が、そのように言ったのであれば、どんどん天理教人を見て、その人となりを発信したいと思います。あとは厳しい社会が判断するでしょう。よろしくお願いします。

  5. 匿名

    5. Re:無題
    >nijihahaさん
    的確にポイントを教えていただきありがとうございます。私も思うところがあり返事を書いていたのですが、長文になってしまったので、次の記事を返事とさせていただきます。貴殿のコメントも引用させていただきますので、不都合があれば教えてください。よろしくお願いします。

  6. 匿名

    6. Re:無題
    >nijihahaさん
    こんにちは。
    >」会長や先生と呼ばれる人の教えを守ることが信仰で、その人たちの意に反することは、埃だの欲だのという言葉で切り捨てられるのです。
    共感しました。
    ありていに言えば、世間知らずなのです。

  7. 匿名

    7. Re:Re:無題
    >カインさん
    ありがとうございます。
    実際に教会などで生活しているところの感じるままにコメントさせていただきました。それぞれの教会や信仰精神で感じ方は違うとは思いますが…
    不都合なことは特にないので大丈夫です。

  8. 匿名

    8. Re:Re:無題
    >源次郎さん
    私自身も世間しらずなのですが…
    共感していただけてよかったです。
    同じような感じ方をする方がいらっしゃるということだけでとても心強いです。

  9. 匿名

     天理教の先生は世間知らずだ、というところ同感ですね。道一条が、信仰の厚さを表すという、固定した観念はもう時代送れです。時代がどんどん進歩していくように、会長さんは、まず、若いうちは社会に出て働くべきですね。そうすれば、金を得ることの大変さも知るし、信者に法外なお供えを要求する事に、いささかのためらいも覚えるようになるでしょう。世間の考えがわかることによって、信者さん達へのお諭しも、信者さんの腑に落ちるお諭しができるようになることでしょう。
     会長さん方は、内弁慶、井の中の蛙、お山の大将の状態から、脱却すべき、まず、世間の荒波に揉まれ、信者の気持ちを知ることです。おやさまが、貧に落ち切って、貧しい人々の気持ちを理解されたように。

  10. とんと

    そんなことないですよ~匿名さん!
    世間知らずは、教団内の高山層だと思いますが!以前次のようにコメントされた方がありましたけど。

    「親と言う理は、相手の為に尽くし切り、つとめ切って行く中に、自らをむなしく相手の中に溶け込んで、共に祈り、共に苦しみを分かち合い、共に喜びを分かち合う。そういう伏せ込みをすることによって、親と言う理が出来てくる。」と。

    「道に世界あり、世界に道あり」とのおさしづがあるように、また「家業第一」とおかきさげに教えられますように、道一条は稼業ではないですね。
    どんな職業に従事しようとも、常に神一条の精神で努め切るのが、教祖の教えではないでしょうか!

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