私の周りには高校野球ファンが多い。現在、選抜高校野球が開催されており、地方出身の人間との話題では高校野球に関するものが多い。今日は九州学院と作新学院卒の友人と話した。といっても技術的な部分は難しくて私は聞き役である。主に、審判の判定技術に関して話していた。総括すると、高校野球の審判はボランティアで形成されている。それらは野球経験者が主だが、審判を家業としているわけではない。そして誤審が多い。その誤審は、本大会では微妙な判定というより野球経験者なら「それはないんじゃないか」というほど、結構ひどい誤審なようだ。そして、高校野球では判定に対する「疑義」や「申し立て」というものが、美しくないという暗黙の了解が存在する。つまり、プロ野球であれば選手や監督が審判の判定に激高して、勢い余って退場になってしまうということがみられるが、高校野球ではそのような風景はあってはならないらしい。もちろん教育行事であるために、不合理なことも受け入れるという暗黙知が必要なことはいうまでもない。またそういった機能(「審判も人間だから間違うことはあるんだぜ」)を持たせることは必要かもしれない。しかし友人たちが嘆いていることは、審判技術が看過できないほどに、あまりに低いということである。つまり、「審判もミスジャッジすることはある」という想定を超えた、想定外の大きなミスについてである。この場合、微妙な判定のミスジャッジ同様に「審判が絶対」という対処は無理があるようだ。「審判もミスをするという不合理は学びである」という解釈を、あまりにもひどい想定外の誤審に対しても適応するのは強引である。それでは一定のルールのもとに頑張ってきていた学生が、あまりにかわいそうということで意見が一致した。
この話を聞いて、私は天理教の垂直的教会構造と類似していると感じた。教会では「会長さん」が絶対であり、教会の運営は会長さんの裁量が大きい。高校野球に置き換えるのであれば、審判は会長さんであり、選手は親族、信者である。高校野球も教会も、その運営母体は「審判(会長)が大きな間違いを起こすはずがない」という前提が存在する。しかし裏を返せば、「審判が素人のような大きな誤審をしたら対応はどうしたらいいか分からない」ということである。想定内ということは、想定外のことが起こったときの対応は考えられていないということでもある。それは高校野球に限らずに、原発が証明している。私は問題点の指摘だけに終わらさず、できるだけ私なりの回答を用意したいとブログでは心がけている。しかし申し訳ないが、この問題は考えれば考えるほど回答への道筋は複雑になる。今はこれに対する回答は持ち合わせていない。会長さんの裁量に対してビデオ判定や、罷免できる方法を用意することが適切なのか分からない。ただ、審判技術(会長さんの力量)の低下をこのまま放置するわけにはいかないのではないだろうか。裁量の自由は、権力の濫用と隣合わせである。
1. 指導層は、適切なルールの実行を望んでいない?
カインさんが指摘するように、会長の力量低下という問題は、複雑で、容易にはその解決の糸口は見つからない。逆にいえば、この問題を解くことが、天理教再生のポイントともいえる。
野球のたとえで言えば、高野連の会長(理事)の意思として、ルール通りやらない(できない)審判がいたほうが都合がいいとか。
プロ野球でいえば、読売巨人軍がかつての栄光を取り戻すために、試合以外の場で、いろいろルールを破る、ルールの抜け道を見つけるとかしても、強くなれず、試合のルールそのものを、巨人が勝てるようにすることを試みる。そのためには、それを実行できる審判を作る、本当のルールは知らない人がいい。ところが試合を見に来る人は、そこそこルールを知っているので、ばからしくなって、見に来なくなる。そして、結局野球界の人(選手、審判の家族とか)しか見に来なくなって、社会から見捨てられつつある。
この続きはまた。
2. 無題
天理教には、
「会長の理は竜頭だとお教える。竜頭が狂えば皆狂うんだと。竜頭が狂えば、そこに集まった方々の人生全てが、狂って来る。」
私の大教会では、信者からのリコールによって会長を辞めさせられました。右ならえしかねる事態が積もり重なったゆえの事だと思います。ある意味、教内に身おく信者として勇気ある行動ともいえますが、そこまで、会長信仰にしばられていなかったからこそ訴えることが出来たのかもしれません。
教内も、教会の理や会長の理というのうな、旧態依然体質から脱却する必要があると思いますが、そこには組織が立ちはだかるのでしょうか・・・。もっと整理縮小すればよいと思います。
3. 教会の垂直的構造について
高校野球で審判の誤審を見逃すルール無視の慣習と天理教の教会が類似しているとして、教会を「垂直的構造」と表現されていることに同感します。言い換えれば、教会はルール(教理)ではなく「タテ構造」の日本的慣習で成り立っているからです。
教祖は「身分や立場の差別なく体内に入り込んで生命を守護する神」を教えられたのですから、一列平等の水平的構造がルール(教理)なのです。その水平的ルールは、修養科や学生生徒修養会では守られていますが、一旦おぢばを離れると、地方では垂直構造の教会系統に所属することになります。本部自体も表面は水平的なルール(教理)を説いても、実質は垂直構造に違いありません。
まさに建前(ルール)と本音(儒教的?慣習)の二重構造の組合わせで成り立っているのが天理教の実態といえます。そうした古い垂直的構造を現在も固守している官僚制度は、今やさんざん批判の的になっています。(以上、最近のブログを参照して下さい)
なお「源治郎」さんへ。「竜頭」という言葉は、原典「おさしづ」の中では教会長ではなく本部(真柱)に対する厳しい諭しが出典ですので、ご理解ください。
4. Re:教会の垂直的構造について
>みさとさん
おはようございます。
確かにその通りですね。出典を記述した上でないと誤解が生じてしまいますね。私の場合でいうと、出典がどこであろうが関係ないので・・・。
5. 似て非なるもの
野球のルールは、私は野球のことはよくわからないが、多分ある。では、天理教のルールはあるのか。天理教のルールは、「教祖の教え」である。これもたぶん。どこに書いてある?「おふでさき」「みかぐらうた」に書いてある?イエスキリストもお釈迦さんも直筆の文書は残していない。だから、この小さな2種類の文書は、非常に貴重なものである。ところで、この2つをちゃんと意味が分かり、話のできる人っている?たぶんいない。なぜいない?ルールブックができるとそこから外れることは、できなくなるから。ルールブックがないと困るよね。だから、いい加減なものを作ってある。教祖のルールとはちょっと違う。似て非なるものってやつね。でも時々教祖に戻れなどという不束者が現れる。そのような人は教団から追い出す。
天理教には、教祖直筆の文書があるのに、それをまともに解釈する努力をしない。まともに解釈すると困る人がたくさんいるんです。たぶん。だから、おふでさきは、朝礼の前に10首づつ棒読みする。少し前は、稿本教祖伝というのがあった。これもいろいろ文句を言う人などがいたので、最近は、読まれない。最近は、もっぱら逸話へんね。これは、指導層が作りたい天理教のルールみたい。これを講和の中に入れて話をしないといけないみたい。
質下がるよね。これじゃ。
記事以外のコメントがあまりにでかいためそろそろ別の場所ではどうでしょうか?
高校野球のルールと教会のルールをかけてあるこのお題目もなかなか意味深いと思うのですが?
来年の選抜は残念な結果となっていますが?昔、審判の下げたボール袋からおちたボールをキャッチャーがパスボールしたボールと思い、それで三塁からホームに突っ込んだ走者にタッチしてアウトになったケースもありました。それで天理高校が負けたのですが、何も問題になりませんでした。理不尽なことには理不尽であるといえる教会でありたいし、大教会長、教会長、信者の関係でありたいです!