ある読者からいただいたメールを紹介したい。読んでいただければ分かるが、私の狭い経験とは比べものにならないほど言葉に深さが感じられる。メールでやり取りをさせてもらったが、とても紳士的で社会人として好感が持てる方である。なぜ、こういった人間的魅力がある人材ほど天理教を離れていくのかは議論の余地があると思う。宗教ハラスメントという点を注意して読んでほしい。天理教人の一部に、こういった人がいるというよりも、天理教には多かれ少なかれ、このようなシステム的な負の共通点があることを私は強調したい。
以下、引用する(体裁は文意を損なわない程度に修正した)
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私は天理教の末端教会の長男に育ち、純粋な天理教の信仰生活と教団組織の現状や構造との乖離に疑問を持って育ってまいりました。そして、不条理な構造を維持しようとする既得権益どっぷりの教団や理の親と呼ばれる組織の支配者たちに対して、改革の声をあげたくても、仮にあげたとしても、もはや糠に釘で、本当に末端の教会の後継者や信者たちは無力だとほぼあきらめている状況の人間でもあります。「陽気暮らし、世界たすけ」とは名ばかりの形骸化した教団組織なら、もはやいらないとさえ思っております。組織が沈没しようが教えは変わりませんから。個人で教祖中山みきのひながたを求道していけばいいのだと。今は実社会で、自分のできることをしっかりと行い、自分の生活費は自立して自分で稼ぎ、人生の拠り所として教祖の教えを慕い、教団組織とはほぼ関わらずに、悠々自適に陽気に暮らしております。ある意味、末端教会だったからできた教団から距離をとることかもしれません。
天理教の、とくに理の親に都合の良いようにコントロールされている末端の側の人たちは、明らかに人間として不条理な命令だとしても素直に言うことをきいておられる方がたくさんいらっしゃいます。
また中には、私のように、これってどう考えてもおかしいよなと思いつつ、しかしその疑問を持ったり、怒ったりするだけで神に背いたのではないかと、大変強い罪悪感に苦しめられる人間もたくさんいます。
ちなみに私は「理の親」から酔っぱらって何度も差別的な発言をされたり、夜中怒鳴って電話をかけられたり、無理やり進路を強制されたり、詳細は書けませんが他にもありとあらゆるパワーハラスメントを受けてきました。通常世間一般では許されないでしょう?といったことも、泣き寝入りしてきました。
実はこれらを天理教教会本部(渉外課)に訴えたことがあるのですが、理の親の会長と相談しなさいと言われました。しかし、その理の親(一つ上級も大教会も)こそが元凶で頭がおかしいのだから、まさに犯罪者と警察組織の癒着のようなもので、結局逃げる(関わらないようにする)しかありませんでした。もうこの組織に自浄作用はありませんね。
カインさんも書いておられますが、
>>その脅迫的な悲しみを生んだシステムを採用している以上、共犯である。
本当に同感であります。
きわめて閉鎖的な、まるで表沙汰にならない中学校の悪質なイジメ、および周りの権力者による隠蔽に近いものを感じます。第三者機関に監視、監査していただくわけにはいかないものでしょうか。
人は権力(しかも神の)を手にすると、一般的な人間としての感覚が麻痺するのでしょうか?虎の威を借る狐ならぬ神の威を借る凡人 が神様をバックに自分の都合のいいように人をコントロールする。状況によっては何でもアリの恐ろしさを感じます。某教団を思い浮かべてしまいますが。
もちろん、理の親と呼ばれる立場の方が、素晴らしい信仰的指導者で、その方に絶対について行きたいと思う方が、その方を慕い、その方の言うとおりに自分の人生の指南を仰ぐことは否定はいたしません。その方の教会に所属し、たすかり、信仰生活を続け、お供えもできる範囲でしていく、こんな結構なことはいうまでもありません。
しかし三代、四代ともなってくると、理の親しばり、はともすると究極のパワーハラスメントにもなることはもう実証済みなわけで、独立希望の教会は、本部直属にするなど改革は望まれす。
個人の幸せの実現のためにあるのが信仰のはずなのに、組織の繁栄を優先するために各個人が自分の幸せを一生をかけて犠牲にする。まさにカルトであります。こんな無理が続くわけがありません。
天理教の純粋な信者たちは、理の親に対して、教祖のおっしゃる教理との乖離に、疑問や不満をもつことでさえ大きな罪悪感を感じ、それを抑圧して苦しんでおられる方がほんとにたくさんいるんです。
植田先生のブログにも救われました。
また私はこれまでも現教団体制にまったく疑問を持たない私の両親に、そんな疑問や不条理を訴えてたことがたびたびあったのですが、いっさい耳を貸さないですし、むしろ不足するなと一喝されるのが落ちでした。
しかし、カインさんの正論を両親に読ませたところ、やや最近は、教祖の純粋に素晴らしい教えの実践と、一部既得権益を固持したい権力者(理の親たち)が間違ったコントロールをしてきたという事実を分けて考えてくれるようになってきました。(たとえば、純粋な真心のお供えVS暗黙の強制のお供え要求)人をコントロールするために俺の言うことを聞け→理を立てろ、こんな教理はない等)
そして私自身も最近、教団に対して疑問や不快を持つことに対する罪悪感およびマインドコントロールも多少和らぎ、私のスタンスは、もはや現教団組織には期待も協力もせず、自分の日常生活で教祖の教えを精一杯実践し、世の人々のためによき影響力をなるべく残せるように努力していくことだと思っております。
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tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.co.jp
1. 同感です。
私も同じ思いです。
中にいては、なかなか難しいかもしれませんね・・・。。。
2. 無題
私は一信者ですが教会の子息ではなく、常に蚊帳の外。天理関係の集まりではいつも居場所のない疎外感を感じてきました。中にいれば中の、外にいれば外の悩みがあるものだな、と感じます。
長い目でみれば、「理の親」の仮面をかぶって暴言を吐く勘違い御仁には神様がそれなりの手入れを下さると思いますが(見分け仕分けは神がする、のお言葉通り)、困るのは選択肢や思考する猶予を剥奪される理の子の方でしょうね。
知人に、教会の長男で天理高校から某大に行き、弁護士として活躍中の方がいます。これができたのは、実質的に後継者となりうる弟さんがいたことと、部内の会長さんたちに理解があったことによります。部内の雰囲気は部内ごとに少し異なるようですね。
私としては、やる気のある人が後継者に立候補し投票で決めるか、兼業を悪と見做さない雰囲気を作るかしてはいかがか、と。現に、医者や教授兼会長さん、はどうされているのかぜひ聞きたいです。
3. スキット!
おかしいなと思うのは、今、売出し中の「スキット」ですが、教外の著名人と教内の世間的に立派な立場の人が登場しますが、この道一筋に、歩んでこられた名も無い真実の人は取り上げられません。
空の星は見えても、地上の星は見えないのでしょうか・・。
やっぱり、成功した商売人や、弁護士や、劇画家や、医者や大学教授は立派な人という評価なのですね。
最近のおぢばでの講習会等も、年限の浅い教会長が対象です。
ベテランの教会長と若い教会長とが交流するとマズイのでしょうか!
ベテランになると天理教の本質を見抜いている人がいますからね・・。
ちょっと、マインドコントロールに走っているように感じますが・・・・・
4. 無題
植田先生は僕が産まれる前から訴えられていた教団組織の欠点。
最近、ネットで知りました。
何年訴えてもこの有り様ですが、教祖大好きな若者たちがwebでの情報共有によって変えれるといいですね。
今の教団のシステム教祖はなんと思ってみているのでしょうか??
教祖からはじまった天理教の霊脈は、まだ今の教団に続いているのでしょうか??
天理教から見たら異端と呼ばれる教団も教祖から見れば・・・・と考えてしまいます。
人をみて信仰しないで神様中心に信仰すれば良いとは分かっていますがなかなかできません不足に思っています。
組織に所属せず信仰を続けて行き、仮ににをいがかかり別席などの事務的な手続きのいる事もありますし、なにか良い方法ないですかね。
5. 無題
初めてブログを拝読
させて頂きました。
本当に天理教が好きなんですね。
もっと親神様に寄り添って
みてはどうでしょうか。
おぢばの高校生より。
6. 質問
>たかしさん
「親神さまに寄り添う」とは具体的には、どういうことだと思いますか。
教えていただけますか。
7. 賛同しますが???!!!
賛同します。が、改革等はもう遅いような気がします。出直すしかないのでは。何時になるかわかりませんが。お道教内ではツイッター革命は出来ません。所属する大教会、直轄部内の月次祭を見ても10代20代の若い人が見受けられません。高齢者だけです。それも女性。結界内が多いくらい。末端教会においては16人すらいないのです(お道の人はわかります)。
>まさに犯罪者と警察組織の癒着
笑っちゃいました。
問題はいつも理のおやおやさま達ですか。
双名島は、一信者が債務者で、借りた人に返済しなければならないのに、お布施を取るらしいですね!道徳的道義的におかしいですね。心から信心してる人まで同じと思われるのが不憫で仕方ないです。天理教の名前汚しですね。
テーマ: 天理教(中山教)衰退データー
<要旨>:
●天理教は中山教である。
天理教(中山教)の教理にとって最も重要視されるのは、組織の正当化と組織の存続で
ある。
●神の教えと教団は違う。
●中山ミキのおしえは素晴らしいが、教団組織は全くダメである。
●戦後、復元と称して中山正善二代真柱が作り上げた天理教は中山教である。
●中山教になる事を阻止するため本部の心ある人々が芹沢光治良に執拗に要請し、天
理時報に昭和25年10月から昭和32年9月まで7年間にわたり連載されたのが「教祖
様」である。
●組織は上から腐り、下から崩れて行く。
●上がカネ、土地、建物なら下もカネ、土地、建物である。
●全ての教会長は自ら願い出て教会長に成ったが、もともと宗教家になる資質の無い
人が教会長になり、教会の家族はやる気をもたず、親族が離れ、信者の足が遠のくよう
になって50年以上になる。
●天理教(中山教)にあっても組織信仰に依存せず、中山ミキの教えを素朴に実践する
信者もいる。 末端教会長でも宗教家として人々の尊敬を集め、信者が集まる教会が有
る。 他人がとやかく言うべき問題ではない。
●天理教(中山教)を職業としない一般信者は、天理教(中山教)の組織信仰に依存せ
ず、職業・仕事を修行と考え、ひのきしんの精神で世の中の役にたつ働きを実行しよう。
<本文>:
カインのブログに投稿し教団本部を口を極めてののしっている人には末端教会長やそ
の子弟が多いのであろう。
まるで教団本部にお供え金(カネ)をだましとられたように書いている人がいるが、教団
や大教会・上級に言われるまま、一般信者からお供え金を集めていた張本人は末端分
教会ではないのか。
本部員の息子が本部員、大教会の息子が大教会長、上級の息子が上級会長、末端分
教会の息子はどこまで行っても「最下層」の末端分教会という制度は「昔も今も今後も」
変わらない。
天理教(中山教)が「カネ中心」の教団であることは、「昔も今も今後も」変わらない。
天理教(中山教)の組織は、一般社会にはあり得ない固定された身分社会である。
戦前までの日本社会では、明治維新から続く社会的身分が残っていたが、平成も終わ
ろうとしている21世紀の現代社会において、人間として尊敬に値しない上級会長や大教
会長、本部員の前で這いつくばって平伏する方式が今も続いている。
この時代錯誤のやり方は今の世の中には通用しない。
本部員や大教会の子弟なら平伏させる目下・末端がいるが、最下層の末端教会長には
平伏させる相手はいない。
信者の前でいばれば、数少ない信者はたちまち来なくなる。
とてもやってはいられないであろう。
しかし、はっきりさせておかねばならない事がある。
「末端教会長」として固定化された身分制度社会に入り、教団組織の最下層構成員にな
ったのは、本人の意思であり、その身分制度の中に本人を押し込んだのは父母・祖父
母、先祖である。
教会の設立にはようぼく16人以上(内、教人5人以上)が必要で、手続きを踏み教会本
部に願い出て、許しを得てはじめて教会となる。
教会の子弟が教会長として後を継ぐには、自ら願い出て教人資格講習会を終了し本部
に登録され、次に教会長資格検定講習会を受け、最終的に本部に願い出て許しを得な
ければならない。
末端教会の生活は、70年前も今もあいも変わらず苦しいが、それを承知の上で自ら願
い出て末端教会となり、末端教会長になったのである。
末端教会長やその子弟が、今になって自分があたかも「被害者」で有るかのような書き
込みをしているが、自分にとって都合の悪い事は書かないというやりかたは教団本部と
同じである。
教団組織を口を極めてののしりながら、悪いのは教団であり、自分や自分の教会は悪く
ない、それどころか教団にだまされ脅されカネを強要された「被害者」だと言いたいらしい
が、自己の責任を回避し、自己を正当化するための悪質なアリバイ作りである。
いったん責任回避のアリバイ作りを始めると、死ぬまでアリバイ工作に努めねばならず、
なんの進歩もなく、同じ円周をグルグル回り続けることとなる。
一般信者からお供え金を取り立てていたのは、ほかならぬ末端教会である。
末端教会長やその子弟の中には、教会を作るために初代会長が個人のカネや資産を
差し出して教会を作ったと書く人がいるが、所属の信者からも多くのお供え金を集めた
結果、教会に成ったものである。
信者がいなければ教会になれない。
しかし、信者から多額のお供え金を集めたことは書かないし、教会になってからも絶えず
信者からカネを集めたことは書かない。
教会になるため、そして教会長になってからも信者から多額のお供え金を集めたことを
書くと、教団本部と共犯・同罪になると思うからであろう。
それとも、信者からカネを集めたのは断る事の出来ない上級や大教会・本部の強要であ
り、やりたくてやった訳ではない、集めたカネは全て上級・大教会・本部に差し出したから
自分には罪はないとでも言うのだろうか。
末端教会がカネに関し本部や組織をボロカスにこき下ろすなら、その前にまず、長年に
わたりカネを集めてきた所属の信者に対し自己の誤りを認めたうえ、謝罪すべきである。
病気や事故、家庭のもめごとなど、他人の弱みに付け込んでお供え金と称するカネを集
め、行事祭典があるたびにカネを集めてきたのは、ほかならぬ末端教会である。
末端教会長やその子弟が自己の行って来た事にほおかむりをしながら、自己の所属す
る教団本部をこれでもかこれでもかと叩きまくるのは、自己の責任には目をつむり、自己
の責任を組織に転化するためのアリバイ工作である。
やる気もないのに天理教○○分教会の看板がかかっている建物に住み続けるのは、家
賃無料の建物から出るのがいやなためであろう。
一般信者は教団や大教会から逃げ出すのではない。
一般信者は、付き合いがほとんどない本部や大教会・上級のことは知らない。
一般信者は、宗教家として自覚を持たないばかりか、あまりにもレベルの低い末端教会
長やその家族に嫌気がさして教会に寄り付かなくなるのである。
教団組織の枠の中で一定の利益を享受しながら、ネットで教団をこき下ろすような教会
長やその子弟を相手にしてはいけない。
教団本部は昔も今も変わろうとはしないし、今後も変わらないことを百も承知しているの
は末端教会長やその子弟である。
教団組織の改革をいまだに言う人もいるが、これまでの歴史を見ても改革などあり得
ず、これもまた自分の立場を正当化するための印象操作である。
教団組織は一つ変えれば全てを変えねばならず、教団の過去がウソになり、組織が崩
れ去るため変えようがないのである。
天理教(中山教)の関係者でありながら、天理教はカネを取られ危険だから近づかないよ
うにしましょうと親切面を装う人がいるが、これなどドロボウが「世の中物騒だから戸締り
には十分注意しましょう」とのたまわっているようなもので、噴飯もののアリバイ工作であ
る。
天理教(中山教)のおたすけ・においがけの本音は、人助けの名を借りた、お供え金を出
す信者の獲得である。
世間は天理教(中山教)のおたすけやにおいがけを必要としていない。
そのため、いくらやってもおたすけはあがらず、においもかからない。
信者の顔を見ると最後はカネの話になる教会に、人は寄ってこない。
生活に困った人が頼るのは、一般国民が納めた税金に基づく健康保険、介護保険、生
活保護など国の福祉制度である。
中山ミキの「やまいたすけ」は、日本国内においては国の医療・福祉政策により既に達
成されている。
末端教会自体が最後に頼ることが出来るのは、教団本部ではなく国の医療・福祉であ
る。
本部や大教会に改革を求める事は不可能である事を知った教会長は、カネ集めのため
に新たな信者を獲得する事の理不尽さをさとり、後継者も決めず、また決められもせず、
衰退するに任せ、自分が死ねば教会も終了という考えである。
1万6千ある教会の半分以上、およそ1万ヶ所は、後継者がいないか、なり手の無い事
情教会である。
衰退が激しい教団本部が遠からず崩壊するように書く人がいるが、誤りである。
教団本部は売る物がある間は崩壊しない。
売って金になるのは、参考館、天理図書館、いこいの家病院、都心一等地の土地建物
などであろうが、大物を売る前にカネになるのは、教団本部の登記になっている末端教
会を含めた教会の土地である。
教会は農村や山間部にもあるが都市部にもあり、狭い土地もあれば広い土地もある。
天理教(中山教)の信者の数は激減しており、経営が成り立たない教会が急増し、後継
の教会長がいなければ閉鎖である。
教会長もいないのに教会の建物に住んでいる人たちは退去である。
会社や役所をやめたら、社宅や官舎を出るのは当たり前であり、教会をやめたら教会を
出るのは当然である。
教会長のいない教会は閉鎖し、土地を売却しカネにする。
本部においては月次祭を除きガラガラの詰所の修繕費もままならない。
木製甘露台(模型)は、平成12年(2000年)6月26日月次祭の最中に一青年により倒
され、更に平成29年(2017年)7月26日、夕勤まえに一青年により倒された。
大教会159ヶ所のうち部内分教会が50ヶ所に満たない大教会が23カ所あるが、この
23カ所は分教会に降格すべきである。
ようぼくが16人に満たない分教会は分教会の看板を降ろし、お目どう様を本部に返却
すべきである。
天理教(中山教)を職業とする人たちは、全て本人が自分で選んだ道であり天理教(中
山教)で生活している人たちであるから、面従腹背、表面上は本部や大教会の方針に逆
らえず、一般信者が何を言って始まらない。関わらない事である。
<一般信者の道>:
●一般信者は、天理教(中山教)の組織信仰に依存すべきではない。
●天理教(中山教)を職業としない一般信者は、天理教(中山教)の組織信仰に依存せ
ず、職業・仕事を修行考え、ひのきしんの精神で世の中の役にたつ働きを実行しよう。
●高齢者介護や福祉の仕事をはじめ、世の中には必要ではあるがなり手の少ない仕事
が沢山あり、小さい事ではあっても人に喜ばれる仕事も色々ある。
●日々の生活の中で、ひのきしん精神で世の中に役立つ仕事を行い、職業・仕事をとお
して自分自身を成長させ信仰活動を実践しよう。
<教祖80年祭と130年祭翌年の人数対比>:
52年前の80年祭の年(1966年)、初席者は年間11万人を超え、おさずけの理拝戴者
は年間3万7千人を超えていた。
<教祖80年祭と130年祭の翌年(2017年)比較>:
別席の誓い おさづけの理
52年前、昭和41年(1966年)教祖80年祭の年:112194人 37681人
平成29年(2017年)130年祭の翌年: 8371人 4612人
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52年間での減少数(年間) 103、823人減少 33、069人減少
(92.5%減少) (87.7%減少)
<天理教(中山教)衰退データー>:
「天理教統計年鑑1981、2013、別席の誓い・おさずけの理拝戴人数一覧」(2015年
6月7日付けカインのブログ添付ファイル参照)。
年度 別席の誓い おさづけの理 修養科修了 教徒登録 教庁決算
1966年:112194人 37681人 記載なし 4547人 記載なし(80年祭)
1976年:119382人 33933人 記載なし 6450人 記載なし(90年祭)
1986年: 84190人 22892人 記載なし 4649人 記載なし(100年祭)
1996年: 35499人 13546人 記載なし 2554人 記載なし(110年祭)
1998年: 24994人 10417人 記載なし 1990人 記載なし(4代真柱継承)
1999年: 21970人 9898人 記載なし 2162人 記載なし(4代継承翌年)
以下みちのとも統計は毎年2月号、教庁決算は8月号:
年度 別席の誓い おさづけの理 修養科修了 教徒登録 教庁決算
2005年: 19568人 9444人 4201人 2065人 165億円
2006年: 22755人 9991人 3832人 1902人 159億円(120年祭)
2007年: 13619人 7055人 3176人 1528人 155億円
2008年: 13069人 6825人 3040人 1265人 155億円
2009年: 13431人 6763人 3138人 1320人 142億円
2010年: 13424人 6798人 2820人 1284人 137億円
2011年: 10780人 5850人 2451人 1057人 133億円
2012年: 10816人 5375人 2555人 1167人 128億円
2013年: 11862人 5541人 2446人 1069人 120億円(活動1年目)
2014年: 11507人 5274人 2546人 1037人 118億円(活動2年目)
2015年: 22939人 7132人 2670人 1186人 115億円(活動3年目)
2016年: 11019人 6310人 2010人 1047人 114億円(130年祭)
2017年: 8371人 4612人 1656人 775人 110億円
<教庁決算>:
●2005年(平成17年): 165億円
●2017年(平成29年): 110億円
●12年間で55億円減少(33.3%減少)
<ようぼく人数>:
●925、000人(みちのとも2007年1月号、飯降政彦表統領4期目の所信表明)
●約900、000人(みちのとも2007年6月号、定時集会飯降政彦表統領)
●約860、000人(みちのとも2015年8月本部月次祭神殿講話、井筒梅夫本部員)
●601、093人(みちのとも2018年(平成30年)4月号記事、2017年(平成29年)
実施第9回教勢調査報告)。
●10年間(2007年から2017年)で32万3千人減少(35.0%減少)。
<「120年祭地方講習会」と「130年祭ようぼくの集い」対比>:
●2003年3月―6月「120年祭地方講習会」参加者34万3千人。
●2014年3月―6月「130年祭ようぼくの集い参加者」27万1千人。
●11年間で7万2千人減少(21%減少)。
<天理時報購読部数>:
●1984年(昭和59年)10月13日(天理教史参考年表): 天理時報30万部達成。
●2007年2月25日布教部・道友社決起大会時:購読部数14万7千部
(手配り率6.8%)。
●「みちのとも」2018年1月号記事: 購読部数10万3000部(手配率53%)。
●「みちのとも」2018年4月号記事: 購読部数10万1292部(手配率53.11%)。
●2007年から2018年まで11年間で購読部数4万5708部減少(31.0%減少)。
以上
テーマ: 天理教(中山教)衰退データー
で何がいいたのかよくわかりません。一番いいたいことは?
衰退が激しい教団本部が遠からず崩壊するように書く人がいるが、誤りである。
教団本部は売る物がある間は崩壊しない。
売って金になるのは、参考館、天理図書館、いこいの家病院、都心一等地の土地建物
などであろうが、大物を売る前にカネになるのは、教団本部の登記になっている末端教
会を含めた教会の土地である。
教会は農村や山間部にもあるが都市部にもあり、狭い土地もあれば広い土地もある。
天理教(中山教)の信者の数は激減しており、経営が成り立たない教会が急増し、後継
の教会長がいなければ閉鎖である。
教会長もいないのに教会の建物に住んでいる人たちは退去である。
会社や役所をやめたら、社宅や官舎を出るのは当たり前であり、教会をやめたら教会を
出るのは当然である。
教会長のいない教会は閉鎖し、土地を売却しカネにする。
本部においては月次祭を除きガラガラの詰所の修繕費もままならない
は同意です。なかなかしぶとい組織ですので生き続けると思います。そんな教団にどう付き合っていくかが課題です。人間関係でがんじがらめになっているので「やーめた!」といかないところが問題です。おそらく死ぬまで最低限のお付き合いはいたしかたのないところかなと思います。ずっと昔から先代、先々代から信者さんにお供えを強要してきた責任はやはりあるので自業自得であるとは思います。1度世間から袋叩きにあってオウムのように解散命令がでればスッキリするのですが、、、この世で唯一の神といいながら都合のいいところは神道の教理を用いて各教会にも神様が鎮められていると説くところがすでに矛盾があります。隣同士が教会といったところは世間からみればどちらに参ったらいいのと疑問に思われるでしょう!
伊勢神宮と明治神宮が隣同士にあったら馬鹿馬鹿しいでしようが天理教の場合そんな現実もあります。
生まれ落ちたら教会だった3世、4世は生まれた時から洗脳状態なので、信者からお供えを頂いた責任があったとしても自分も出し出しの極限状態です。洗脳状態の末端現教会長に100パーセントの責任があるとは思いません。みんな犠牲者です。洗脳が解けて真実を知り、天理教はしません、となっても、職業訓練も資格も若さも無くて今更実家を出ろと言うのは酷な話です。
自律神経さんは布教所長と聞きました。
末端教会長は、組織と同罪なので、批判する資格はないと言われておりますが、布教所長には、その資格はあるのですね。
末端の元教会長で、批判と言うより天理教の真実の姿を、皆さんに知って頂きたくて書き込んでおります。目障りのようでしたら、お詫び申し上げますが、資格はなくても真実を伝え続けてまいる所存です。