毎年、お盆と正月には天理教を信仰している若者から相談を受けることが多い。お盆や正月の里帰りでは、教会や信仰の後継問題が話し合われるためであろう。家庭環境や育った地域も異なるのに天理教で悩む若者の置かれている立場や混乱の状況は同じパターンばかりであることに驚く。
私は相談を受けて、できるだけ具体的な支援の情報提供をおこなう。しかし事情や背景が分からないので最終的には「行動するのはあなただから無理せずに頑張って」としか言えない。しかし、これまで何人もの若者が親である会長達とコミュニケーションができないと嘆いて、結局「もう二度と教会には帰らない」と天理教から離れていってしまうのを見てきた。驚くのはその天理教の若者達がみな社会的に優秀な者が多いということだ。中には政府の中枢で働くものや、何百人もの部下をしたがえる企業の幹部候補までもいた。こうなってしまっては天理教を出ていくことが、健全でまともな思考の持ち主だと考えることもできる。
親である会長達とのコミュニケーション不全というのは、私が会長達と話したときに感じる不全感と全く同じであると考える。なぜだか分からないが、会長達は多くの確率で「自分が絶対的に正しい」と疑いなく思っている。だから元々コミュニケーションなど成立しない。信仰とは自ら追い求め続ける内的作業というのが通常の理解だと思うが、天理教の会長達はなぜか「俺が正しい信仰を教えてやる。俺の話を聞け」という絶対的姿勢を崩さない。談じ合いと言いつつ「違う。教祖(おやさま)は実はこう言っているのだ」と神の権力を勘違いした自己解釈を展開することが多々ある。多くの会長達と話してみれば、そこに感謝、慎み、助け合いなんてないことはすぐわかる。それらは一部の人間というよりも一貫した体質であると大教会長や本部員のセンセイたちの話を聞いて思う。(天理教が発行する媒体などを見れば、自己の発言に正当性を与えるために「神様は〜」と自分が神にでもなったかのように教義を継ぎ接ぎしたものばかりで辟易する)
私が天理教を宗教ではなく自己啓発セミナーに近いと感じるのは、指導者たちの言葉が生活侵襲的すぎるためである(具体的な教義論ではない)。この議論に天理教人と一緒に踏み込んでしまうと、散らばった先人の歴史やパッチワークされた教典を引き合いに出されて結局うやむやにされてしまう。しかし一般的に宗教とは主体的な内的作業である。通常、指導者やメンターは、目標となる教義を提示することで「あとは自分で考えろ」と信仰へのチャレンジを促す存在であるはずだ。上下なんてものはない。信仰とは、失敗も含めて自分で教えを噛み砕くようなアソビの部分がなければ教えを涵養させることは到底できないだろう。誰かにあーだ、こーだ言われるのは信仰とは言わない。
しかし天理教と自己啓発セミナーは共通して、かなり具体的な生活にまで侵入する。まさしく「金を集める」「人を集める」という行為が究極の具体的侵入行為である。全国の各教会にいけばスローガンやノルマ表が掲げてあり、そこは厳かで落ち着いた信仰の場として相応しい雰囲気ではない。天理教の教会はポスターや張り紙だらけのガチャガチャした営業所やセミナー会場に近く、極めて神聖さに欠ける、といくつかの天理教教会を見て来た私は感じる。
その他にも「天理の学校へ進学しろ」「神名流しをしろ」「戸別訪問をしろ」「路傍講演をしろ」「新聞を配れ」「講習会をするから集まれ」などかなり生活や人生を縛ってしまうほど侵襲的で反宗教的だ。10月の秋の大祭において真柱の神殿講話で「ひのきしんに決まった形はありません。身の回りの小さなことも、地域社会で役立つことも、その現れ方は様々ですが、親神様にお喜びいただきたいとの真心からのおこないは、すべてひのきしんと言えるでしょう」と言っている。しかし天理教本部や大教会は決まりきった形や枠組みに、信仰を押し付けようとしているようにしか見えない。大号令で信者を行事等に動員させ、右向け右をさせる。決まった形はないと言う真柱は言行不一致ではなかろうか。もしくは天理教の実体を少しも知らないのであろうか。
天理教から離れた若者たちの話を聞くと、どう考えても彼らの方が天理教的感覚と天理教の教えを正しく理解し実践しようとしているように感じる。同じように感じている人は多いのではないかと思う。
反対に天理教から離れることができない若き信仰者たちは、天理教本部や大教会に、ことあるごとに大号令で集められ講習や行事に参加させられている。そして、いつの間にか社会から遊離した天理教用語と、人を追い詰める独特の言い回しを学ぶ。先日も天理教の若者と話をしたが、彼は「今後、天理教の教えを正しく理解する人はより少なくなる」と、大真面目にあたかも自分が正しく理解しているかのような偉そうな口ぶりであった。神や信仰とは生涯を通して問い続ける謙虚なものではないのか。天理教では違うらしい。「あなたがすでに天理教を正しく理解していると考えているなら、誰も人は付いてこないよ」と伝えたが、ピンときていないようだった。天理教から分離、独立する団体が多い理由がどこにあるか全く理解していないのかな。きっと彼は天理教教団から分離、独立する団体は、異端で悪で、天理教を正しく理解していない団体と思い込んでいるのだろう。カルト思想に近い。天理教の後継者育成は思想面でも間違っているんだと私は確信した。
しかし彼らのような若き信仰者は行事参加の人数集めや、においがけという名の営業、新聞の手配りという名の宅配サービスにすり替えられてしまい、自身の信仰に向き合い、教えを涵養させる時間などないというのが実際のようだ。北朝鮮は、体制に疑問を抱かせないように人民に集会や会合へ強制的に参加させて、考えさせる時間を奪うと聞いたことがあるが全く同じだろう。
そのような人集め、金集めの前時代的姿勢が天理教への嫌悪感となり、社会から向けられる不信感からいつまでたっても天理教は抜け出せない。「天理教は社会に認められ必要とされている!災害救援も自治体に要請されるほど信頼されてるんだ!」と多くの団体が要請されているにも関わらず、あたかも天理教だけが特別かのように天理時報では煽る。その欺瞞さに天理教以外の人間は気づいているのに天理教人だけは気づかぬフリをし騙されたフリをし続ける。
天理教は歴史があり規模も大きく新興宗教ではないと言われたことがある。学問的にはそうかもしれない。しかし一般社会から見れば、天理教だろうが、創価学会だろうが、幸福の科学だろうが、”その辺”の宗教は総じて怪しい、何をやっているか分からない危険な新興宗教のイメージというのが一般的な見方であろう。これが金と人を集めるという結果だ。
しかし今さら人集め金集めを止めてしまっては、収入の9割以上を信者からの寄付金に依存する天理教は間違いなく一年も待たずに財政破綻し法人を解散するしかないだろう。宗教法人は信教の自由を担保するために税金の優遇を受けている。裏を返せば宗教法人は財政破綻しても、国は一切助けてはくれない。企業は倒産しても救済措置があるが、宗教法人は簡単に消失してしまうことに気づいていない人が多いのではなかろうか。
確実に多くの天理教人が気付いているのに誰も言わないこと。それは組織を運営するのに金が必要なことは理解できるものの、”信仰”に金が必要であることを全く説明できていないことだ。なぜ神を信じるだけなのに金を出す必要があるのだろうか?この話をすると必ず天理教人はみな話をすり替える。私は天理教人からまともな回答を聞いたことがない。誰かいたら教えてほしい。
「天理教は組織が巨大だから運営に金がいるのは当然だ」。その論理は教団側から見れば当然かもしれないが、金を払う末端の信者たちの気持ちには全く寄り添っていない。全農の幹部と同じ勘違い目線である。巨大な組織だから運営に金がかかるというのであれば、天理教の信者は幹部を食わせるために献金していることになる。幹部のための信者だ。そういうことになる。天理教本部があるから天理教があるという意識では社会から決して信頼されない。天理教信者がいるから天理教があり、天理教本部があるのだ。なぜ、天理教信者でもない外部の私がこんな基本的なことを言っているのか訳がわからなくなる。
こういうことを私が言うと、天理教人は「天理教も会費制にするべきだ」と言う。いや違う。会費制以前に、神を信じるのに金と組織が必要な根本的な理由を教えてほしい。組織があるから金が必要になる。その結果、多くの人が苦しんでいる。多くの人が天理教に不信感を持っている。献金だろうが、会費制だろうが、それは変わらない。会費制だから問題ないとなってしまっては、複数の会費が乱立するだけだ。いまでも献金の他に会費、お供えなど、名目を変えた支払いばかりではないのか。
そして何より私が最も天理教に失望するのは、弱者に寄り添おうとしない、そういった高圧的な姿勢を天理教人が示すことだ。大学で福祉学や経済学の概論でも学べば、「組織が巨大だから金が要る」という主客転倒は基本的な間違いであることに気づく。「誰の何のための献金行為か」と。このような弱者の視点を無視した偏った認識では、天理教は天理教であることの意味を失う。社会から信頼を得ることは決してないだろう。天理教の組織運営には哲学がない。
私が感じる天理教の矛盾は、こうした言行不一致に散見される。多くが私自身が経験したことに由来するが、寄せられる経験談には共通点が多い。これまで天理教学生会や青年会、女子青年会などの会合に足を踏み入れたことがある。そこには「陽気ぐらし」や「ひとだすけ」とは程遠いほどの特異的グループが形成される。学生会は、悩みながらも自己開示を求められ「皆仲良しイエーイ」と絶叫する「サークル的一体型モデル」が提示され、青年会は社会との付き合いに悩みながらも「何も考えずに神様にもたれて突き進もう」という「軍隊的モデル」が提示され、女子青年会は文句も言わずにコツコツと男性と組織を支えるという「おしん的モデル」が提示される。すべて「洗脳モデル」とも言える。そのモデルに適合しないものは、「助からない」「喜べない」「ふせこめ」「たんのうせい」「理がない」「徳がない」と徹底的に排除される。私も過去に言われたことがある。
「陽気ぐらし」や「ひとだすけ」というのは天理教人にとってみれば、多様性受容モデルではなく、「モデルに適合する人間のみに許される」メンバーズオンリーの特異的均質サークルでしかない。そんなグループから優秀な人間は生まれるはずはないし、陽気ぐらしとは真逆である。縦の伝導(信仰の継承)がうまくいっていないのは、清濁合わせ飲むような器の大きさが天理教にはないからである。天理教という特異組織に合わない組織、合わない人間を「異端」や「わかっていない」とラベルを貼り排除していることに気づかないといけない。まさしく社会から「異端」「わかっていない」と言われているのは天理教だと気づかないと今後組織は危険な方向に向かっていくだろう。
天理教が集めた莫大な金を株式や不動産へ巨額の投資をおこなうことは違法ではない。しかし宗教法人として倫理的に疑問が残る。教会に掲げられた人集め、金集めのノルマ目標や人集めのスローガン。毎月の御供を署名入りの祝儀袋に入れさせ、建物の建築時には献金袋とは異なる集金袋が配布される。金を集めている責任者たる大教会長たちは、天理教本部の責任役員も兼任している。つまり半強制的で巧妙な集金方法を天理教本部が知らないはずはない。非公開のその金の流れを把握している教会本部と大教会長、教会長は共犯関係にあることは間違いない。
これら半強制的な献金の信者への説明でよく展開されるのは「神様に喜んでもらう」という理由付けである。この説明も先ほどと全く同じ論理である。本当に神は喜ぶのだろうか。金を出すことで神が喜ぶと言うのであれば、天理教の神は薄汚れた欲まみれの神ということになると考えるのが普通だ。天理教人はそれでいいのだろうか。金を集めることが一番の問題とは言わない。しかし人々が必死に働いて得た金を毎月集めるためだけの説明責任を天理教は一切してない。「天理教の献金は自由だから」と、自由意思を偽装し、不安を煽る献金ビジネスは終わりにすべきだ。
文化庁文化部宗務課が発行している「宗教関連統計に関する資料集 平成27年3月」によれば、平成26年の家計支出における宗教関係品目では、「信仰・祭祀費」が約15,700円、「葬儀関係費」が約18,900円、「祭具・墓石」が約6,200円とある。つまり平均的な一般家庭では宗教への献金は年に平均約15,700円と考えてよい。月にすると1000円程度の支出である。月に1000円以上、天理教に献金をしている人は、日本人の平均を上げていることに貢献している。ちなみに我が家は正月や観光で寺社仏閣にいったとしても浄財金は家族全員でも年に数千円だろう。
http://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/tokeichosa/shumu_kanrentokei/pdf/h26_chosa.pdf
何度でも言う。天理教は、金を集める理由を個人の思想や組織の経費にすり替える以前に、宗教的意義を明確にするべきだ。金を心の問題にすり替える時代、不安を抱えた人間に金を出させる時代はもう終わっていると私は感じる。
私だけだろうか、献金の意義を「真心の御供」などと個人の思想や組織の経費にすり替える天理教人の説明は、結局神を侮辱していると思うのは。天理教の神はお金で喜ぶような人を差別するクズみたいな神なのかと。金を払う人間を必要とするなら、金を払わない人間を天理教は見捨てることになる。
天理教人が気付いていないフリをするのは、「天理教を信仰することが真に正しければ人も金も集めなくても勝手に集まる」ということだ。こういう話を天理教人にすると、ほぼ100%の確率で「人や金が集っても集まらなくても、信仰者としての振る舞い(頑張り)を神様は見ている」という話しに再びすり替わる。私にはまったくこの日本語が理解できない。金集め人集めを正当化するその歪んだ論理展開は全く論理の理がない。何度も言うが、天理教人をみて思うのは、天理教の神は人集め金集めを渇望する欲にまみれた神なのだろうか、という単純な疑問だ。歪んだ論理の背景には全農幹部と同じ、「俺らの生活のために献金しろ」という思想が見え隠れする。そこには「たとえ少額でも神様に集められたお金をありがたく頂戴し規模に応じた組織を運営する」という謙虚さは少しも感じられない。
天理教から抜け出せない若者は、天理教本部行事に集められたところで、学生会のように「天理教大好き!」という洗脳のような熱狂もなく、談じ合いというガス抜きも効果なく、ボディブローのように交通費の出費と胸に刺さらない幹部の自慢話で時間を無駄にした徒労感しか残らないようだ。せめてもの救いは、天理に行くことで高校時代や大教会の同じ境遇の友達を見つけ合って傷を舐め合うことくらいである。
天理教の権力者たちは話し合い、談じ合い、耳を傾ける、寄り添うと言いつつも、最終的には「素直になれ」「伏せ込め」「徳を詰め」「理を立てろ」「心を寄せて」「勇め」と自分が神になったかのような文言を並べて最終的には自分の思い通りにしようとする。私の元には全国から続々と同様の経験談が寄せられる。その結果、会長たちは自分の思い通りになれば「俺の言ったことが正しいだろ。神様は見ているんだ」と言い、思い通りにいかなければ「お前は助からないぞ。神様は見ているんだ」と暴力的な言葉で若者を縛ろうとする。どっちに進んでも行き止まり。これがカルトじゃなければ何なのだろうか。
中には会長夫妻が高齢になり、毎日のお勤めや行事、天理時報の手配りが体の負担となってきため「早く教会に帰ってきて親の負担を継げ」と露骨に若者に嫌な物を押し付けるような言葉を吐き捨てる最低な会長夫妻もいるようだ。それが「お前の役割だ」(ご恩報じ?)と、都合のよい運命論(いんねん)で不安を煽りながら。
教会で生まれた子供たちに我慢を強いて育ててきた結果、成人し教会に寄り付かなくなってしまった我が子たち。天理教から距離を置き、給料をもらいながら家族で幸せを噛みしめる子供たち。そこには天理教の教会にいるよりも確かな”幸せ”がある。教会では実の親が”理の親”のため”ご恩報じ”と頑張って教会運営してきたものの、高齢となり支えてきてくれた信者も少なくなってきた。気づけば周囲には誰もいなくなり孤独と老後の不安だけが残る。天理教が大好きな「家族だんらん」や「たすけあい」「親のため」「御恩報じ」などの言葉は、自分の都合が悪くなったときだけ若者に吐き捨て「あいつは本当に大事なことをわかっていない。贅沢ばかりして全然伏せ込んでいない」と若者を悪者に仕立て上げる。高齢となった親を心配して遠方から来た若者は再度傷つき、より教会の実家には寄り付かなくなる。こうなってしまっては何のための信仰だろうか。若者が天理教を離れるのも納得できる。
天理時報の手配りなど分母である発行部数が減少しているために手配り率が自然に上がるのは当然の現象である。しかし天理教本部は「皆の頑張りで手配り”率”が上がっている。もっと頑張れ!勇め!」と相変わらず末端に負担を強いることしかしない。天理教本部は老いも若いも末端が疲れ切っていることは見て見ぬふりをする。
新聞の手配りという負担を強いれば強いるほど、末端の疲労は蓄積し組織が内部崩壊するなんて、少し考えれば小学生でも理解するだろう。まともな思考のできる経営者は天理教にはいないのか。このような点こそ専門家を配置せずに、特定の家系だけで役職を回してきた組織の劣化の結果だろう。天理教本部の会計責任者は天理大学の卒業だが、経営学科もない天理大学出身者で会計ができるのだろうか。天理教のバランスシートでも見れば、献金に依存しすぎるイビツな経営体質は会計的に非常に危険なものであると誰もが考えるだろう。会計責任者としてどう対応するのだろうか。(天理教本部の会計責任者が会計の専門家であれば謝罪するが)。
私は「天理時報の手配り」こそ、天理教を内部崩壊させる加速器だと思っている。手配りによって疲れ切った声が私には届くが天理教道友社には届いていないのだろうか。弱者への想像力なんて天理教にはできないのだろうか。
私も過去に天理教人に言われたことがある。「お道は知恵学問ではない」と天理教は学問を否定するような教えがあるようだ。私が天理教の運営や、やり方に口を挟もうものなら、「あなたは天理教の専門家ではない。そのような人間を我々は必要とはしていない。あなたは専門的助言だけでいい」と、面と向かって言われたことがある。その結果が、素人集団で時代遅れで数字も読解できない現在の天理教の姿ではなかろうか。天理教の専門家であることだけを必要十分条件とするなら、天理教教団は経営の素人、学問の素人ばかりとなる。天理教から人が離れ、天理大学が定員割れで入学者が減っているのは、まさしく、それを運営している人間が素人集団だからではないだろうか。天理教の運営を天理教の専門家だけでよければ、天理教は出版や医療、教育から撤退するべきだ。天理教しか知らない素人でも運営できるということは医学や教育学を侮辱していることになる。天理大学の学長は、天理教の名家の出身らしいが、彼は研究もしたことがない大卒だ。彼に「教育とは何か」をきいてみたいものだ。AERA以上の思想哲学を無知な信者たちではなく、教育の専門家に語れる知性をお持ちだろうか。聞いてみたいものだ。
高度経済成長で儲けた成金経営の結果、経営戦略が末端弱者に負担を強いることしか思いつかない。その経営モデルはすでに破綻している。天理教は倒産寸前のワンマン中小企業であろう。もうお分かりだと思うが、天理教が空中分解している根源が、天理教の政策や組織経営の失敗であることは明らかである。下部教会や末端信者に負担を強いることしか天理教本部はしない。上納金を集める一方で、社会保障も与えないのは組織として責任を放棄していることになる。震災の募金すら大号令で信者から集めた金のみで、天理教本部は一銭も支出していない。こんな無責任な天理教の政策は、天理教内部はもちろん誰にも支持されるわけがないと普通の社会人なら考える。
お金のトラブルや上納金のこと、大教会長による進路変更や婚姻などにも及ぶ強権的な人事権のことなど天理教人に聞いてみると、多くの天理教人が同意してくれる。「聞いたことがある」「よくあること」「それ〇〇大教会の話だね」「◯◯家であった話」と。私の元にも多く体験談と証拠ファイルが寄せられる。
しかし多くの天理教人が知っているのに、目の前の理不尽な権力に対して立ち向かおうとはしない。それが私には不思議で仕方がない。私であれば身内ほど厳しく糾弾するし、それが例えば人の道に逸れるようなものであれば、しかるべきところに突き出して徹底的に反省を促す。我が子の教育はそうしてきた。身内だからこそ厳しくありたいと思う。しかし天理教人は身内の権力の暴走には決して立ち向かわない。「そんな人もいるが一部だ」や「組織に問題があるのは分かるが、それは私には関係ない。私は私の信仰を深めるだけだ」と、天理教以外の一般人が聞いたら呆れる無責任な言い訳しかしない。こんな姿勢で天理教が「人助け」「陽気ぐらし」なんて、どの口で言えるのか私は不思議で仕方ない。こんな発言をする人間に誰がついていきたいと思うのだろうか。
次期天理教トップとなる中山大亮氏の婚姻が発表されたようだ。天理教本部では新郎新婦の実質的な後見人は誰かということで噂になっていると聞いた。実質的トップの今の統領や責任役員では140年祭まで天理教はもたない。次の表頭領の座を虎視眈々と狙っている人間は誰だと。結局、末端信者のことなど誰も興味がないのだろう。
話を戻すと、私は天理教問題で相談を受ければ、しかるべき窓口に紹介するようにしている。人権侵害であれば総務省や都道府県の人権侵害センター、お金であれば消費者生活センターである。もちろん場合によっては警察などの捜査機関である。現在、公益通報者保護法の改定が消費者庁で検討されている。基本的には労働者を対象としているが、宗教法人も労務が生じており範囲内と考えられる。また今回の報告では役員や退職者も含まれる。天理教幹部や辞めた人も守られることになるだろう。
天理教で悩んでいる方は、問題を整理し、証拠を収集し(動画や録音ファイル)、きちんとした行政機関に相談されることをお勧めする。私もこれまで天理教に関して行政には通報しているが、意外に行政は親身に相談に乗ってくれるし、各自治体の人権相談などは世間の関心の高まりもあり調査結果報告までしてくれる。また「相談件数としてきちんと分類・計上されるので個別事案であっても無駄ではない」と言われた(消費者生活センターからの助言)。
間違っても、会長や上級教会や天理教本部にある渉外課に相談してはいけない。「ちゃんと会長と相談するように」「たんのうせい(現状を喜べ)」と言いくるめられ余計に傷つくだけである。天理教本部は本気で人を助ける気はないのだろう。
ここまで書いていると、ある読者から天理時報9月4日第4490号の「時代担う若者の育成へ」という記事を紹介していただいた。次期真柱(トップ)である中山大亮氏が、後継者を育成するために講習会を開始するから「対象者が一人でも多く受講するよう、各直属教会での力強い働きかけをしてほしい」と本部幹部会で要請したとのことである。
この記事を送付してくれた天理教の若者は、この記事を読んで「将来への絶望」を感じたとのことである。その絶望を要約すると、「権力を用いてわざわざ地方から交通費も援助せずに若者を本部に集合させ、『俺が正しい信仰を教えてやろう』と偉そうなことを言う若きリーダーの姿勢に信仰のカケラもない。同じ世代で末端の苦悩を共感してくれると期待していた次期真柱まで、これまでとまったく変わらず集団主義の権力頼みしかみられない。『各直属教会での力強い働きかけ』によって強引に集められた若者たちを見て、きっとこの次期真柱は順風満帆なリーダーの一歩を踏み出すのだろう。」と。本当に北朝鮮のようだ。
ここは本当に平成の日本なのだろうか。天理教を信仰する多くの若者は苦しんでいる。天理教とは一体誰のための組織なのだろうか本当に私には分からない。
次期真柱である中山大亮氏はすでに権力を自身の力と勘違いしているのだろう。彼の言動でどれだけ多くの若者が苦しむのか、外の世界を知らない彼は全く想像ができないのであろう。自分の一声で多くの人間が右へ左へと動くのは、さぞかし気分が良いだろう。権力者が「力強い働きかけ」をする組織なんて人望も信頼もない現れである。もし企業の業務命令と勘違いしているのであれば、全国の天理教専業者に賃金と社会保障を与えるべきだ。賃金も与えず社会保障もせず、「金を出せ」「人を集めろ」ということが人の道として狂っていることに早く気づいた方がよい。
彼の言動を批評すると必ず反論がくる。「彼は時間をみつけては神名流しやにおいがけに積極的に行っているから、いい人だ。今日も天理駅で神名流しをやっていた」と。いい人?そうかもしれない。しかし本当に感情論で終わらそうとするなら、私の過去のデータをよく読んでほしい。
これまでの慣例から彼は年収数千万円の収入があると見ていいだろう。もしそれほど貰っていなくとも、将来数億円の年収が約束されている。もし天理教が大嫌いな人でも年間数千万円貰えるなら喜んで神名流しもにおいがけもやるだろう。神名流しを1回やれば数十万円貰えると計算すれば楽勝だ。年間数千万円をくれるなら私も”いい人”になろう。
彼は何不自由ない人生を送れるが、末端の若者はその日暮らしで将来の保証もない。この天と地ほどの違いは組織への信頼を破綻させるには十分すぎるほどの格差である。人の気持ちが離れる時は一瞬である。金の話はゲスいだろうか?しかし信頼を得るとは正にそういうことだ。もし高額な年収を適正化するか、公開する気がないのであれば、それに見合った結果を出さないと誰も納得しない。結果とは、これまでの権力経営ではいけないということだ。
例えばビル・ゲイツが、ビックカメラで営業していたとしよう。客は喜ぶだろう。しかし株主は「お前の役割は客に媚びることではない。営業利益を最大化することだ」と言うであろう。信者と同じ目線で営業(においがけ)することは決して悪いことではない。しかし権力を持っている人間の役割は、末端に媚びることではない。組織を変えるということは権力を持った人間しかできない。
信頼を得ることの難しさを誰か彼に教えてあげた方がいいのではないか。次期トップとしてやることは、信者に媚びて神名流しや布教をすることなのだろうか。お正月に国会議員を集めて挨拶をすることだろうか。
それとも献金に依存せずに、天理教の存在価値を高めて、天理教人が喜んで信仰生活を送れるように自信を取り戻させることではないだろうか。次期トップには次期トップにしかできない仕事があるだろう。組織を変えることだ。
末端の若者に金を払わず、権力を使って人集めをして何の信頼が得られると思っているだろうか。真柱や大会長たちに従順で何の力もない末端の若者の背後には、多くの信者が厳しい目と冷めた目で教会本部や大教会を見ていることを忘れてはいけない。
彼だけではない。天理教本部員のツイッターやFacebookを見れば、頻繁に刺身を食べて酒を飲んで、休みには旅行に出かけ、子供は天理大学以外に行かせ、海外に行かせてと文化的で豊かな”普通の”生活をしていることがわかる。
年金も健康保険も払えておらず、毎日の食事も節約している末端の若者が、その本部員のSNSをみたときのやるせない気持ちを天理教幹部は考えたことがあるのだろうか。その気持ちの機微が分からないから天理教から人が離れるのだろう。
権力を用いた集団主義の強化、これが天理教の人材育成の方法であり、天理教から人材が流出する原因であることに天理教本部は誰も気づいてない。そして会長である親と組織に、若者たちは絶望を感じるのであろう。
今後、天理教が空中分解、組織瓦解するにつれ、天理教本部の「研修会をするから本部に集まれ」「大教会に集まれ」「この書籍がお勧めだから買え」「◯◯会をするぞ、◯◯名集めろ」「新聞を配れ」「天理の学校に行け」という号令や、創業当時の関係者や伝説的逸話への回帰現象、逆行傾向は強まることは間違いないであろう。特に天理大学は教団から年間30億円もの支援がないと経営できないほどの異常事態である。天理大学は授業料が安いことで金のない家庭の学生が集まるが、値上げすれば学生が集まらないというジレンマを抱えている。そのため今後天理教信者の子たちに天理大学への進学を勧める傾向は強くなるだろう。これらの原点回帰現象は私が知らないだけでもう始まっているのかもしれない。
余談だが、私の経験や見聞きした中で「ダメな教会」の典型例は「大教会◯◯清掃ひのきしん」などと、大教会に忠義を尽くす行事があると考えている。社会に忠義を尽くせば、天理教への信頼やプレゼンスが上がると思う。しかし「ダメな教会」ほど部下教会や信者を集めて、権威づけをする傾向がある。北朝鮮と同じ。
天理教人は勘違いしてはいけない。天理教が正しいかを判断するのは天理教人ではない。神であり社会だ。神と社会がNOと言えば、天理教はこの世から消えるしかない。本当に天理教が正しいと思うのであれば組織、金、生活の実態を正々堂々と情報公開するべきだし、集めるだけの経営では今後天理教は内部崩壊していくだろう。真摯で謙虚な姿勢こそ、神と社会が見ているのではなかろうか。その謙虚さがないと誰も天理教を信じることはできない。電通のように追い込まれてからの遅すぎる方針変更ほど、信用を失墜するしかない。
天理教人こそ、「感謝、慎み、助け合い」のスローガンを外に言う前に自分で意味を熟考するべきだ。天理教に傷つけられた若者の話を聞くたび、私は怒りに震える。
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