本日から大学生を対象とした「学生生徒修養会 大学の部」(略して学修)というのが天理市で開かれるようだ。天理教学生会にコミットする大学生(おおよそ500人)が、1週間「講義、グループワーク、にをいがけ、ひのきしん、修練(おつとめ勉強)など。」をおこなうということである。おそらく期間中には、天理教のハッピを着た若者が関西の主要都市で集団で絶叫するという異様な光景を人々は目にすることになるだろう。
この参加要項を見ると、どうやら参加は公募である。誰でも参加できる。受講資格を見る限り、「天理教信者」である必要はない。しかし申込方法には「最上級教会長の署名・捺印をいただいた後、学生担当委員会事務局に申し込んでください」とある。ん?なぜ最上級教会長の印がいるのだ?最上級教会長というのは、主に大教会長のことである。大教会長が、学生を対象としたイベントの個人の参加まで職印で了承する必要があるのか?参加する学生は、よくその印の意味を考えるべきである。私は天理教の権力者による広範な権力の適用に関して、やりすぎであると思う。そして、そこに天理教の著しい衰退の要素があると思う。その意味を以下に説明する。
このブログを開設してから、私は天理教の権力構造の異常さを多分に知ることができた。ネット掲示板のように、流言や噂話など信憑性のないものもたくさんあった。一方で、実際の資料や記録を送っていただいたり、当事者の方とお会いし明らかな天理教の人権的課題に接することができた。
先日も、ある研究者と話をし2020年の東京オリンピックを一つの区切りとし、日本の人権的課題を克服しなければならないと話をした。近年議論となっているLGBTや、在日外国人、障害者などの権利擁護などの人権状況を一気に向上させるために、官民揃って国民の意識と制度を向上させる必要がある。それらは国際社会の一員としての日本の責任と使命であると感じる。
一方で、天理教の会長や大教会長の信者に対する広範な(宗教活動から生活まで)権力の適用に対して、私は時代遅れのカルト教団とさえ感じており、その権力構造の複雑さやしたたかさは、今後社会のいろいろな場で啓発していきたいと思う。
話を戻そう。今日から始まる学修大学の部に関して、京都市にある天理教河原町大教会(深谷善太郎会長)では、「今回の学修大学の部に参加しないと、その者の居住権を剥奪する」という脅迫的な命令(号令)がくだされたようである。つまり天理教施設に居住する大学生に対して、条件を提示して意に沿わない場合は、この施設に住むなということである。私は複数の情報源からこの話を聞いている。これがもし事実であれば、発信者は憲法13条前段「すべての国民は個人として尊重される」と憲法25条の生存権を軽視していることになる。もし退居させることが事実ではなくても、このような脅迫的発言がなされていたのであれば、弱者の権利擁護を真っ向から否定することになり断固として批判する(このような命令が口頭で下ったことは事実のようである)。「実際に退居させるつもりなどない」では済まない問題である。
私は常々申し上げているように、天理教の金科玉条である「陽気暮らし」は弱者の権利擁護(人権的救済)を包含している。天理教人こそ、弱者に寄り添いその方の権利を救済しなければならないと私は思う。その対極にあるのが、脅迫である。脅迫とは権力を用いて、自分の意に沿うように人をコントロールすることである。DVや虐待まで行かなくとも、うつ病で仕事に行けない人に「怠けているんじゃない」と責めることや、障害者差別なども同様である。権力者が脅迫を用いることは、人として最低の行為である。差別や脅迫は、私たちの日常に普通にある。だからこそ権力者は権力の行使には慎重でなくてはならない。今回とは関係ないが天理教人から日常的に聞かれる「理を立てる」や「徳を積め」「そんなことでは助からない」「素直になれ」「あなたが病気になったの心遣いがよくない」などといった権力者から弱者への言動も、弱者をコントロールする脅迫的要素があることに自覚しなくてはならない。そして、こんな言動をする天理教人には決して近づいてはいけない。
もし、天理教施設への入居時に「学修大学の部に参加しなければ退居すること」ということが明文化されていれば、事務手続きとして粛々と進めるべきであろう。しかし前提として天理教は私企業でもなければ、住居斡旋会社でもない。信教の自由を担保した宗教法人である。
私が学生時代に恩師から教わったことの一つに「権力者の脅迫に対抗するためには、より強大な権力を用いて正々堂々と権力を排除すべきだ」がある。国際社会が人権というテーマに取り組んでいる今こそ、天理教も時代遅れにならずに本当の意味での「陽気暮らし」を考えるべきである。なぜ天理教が衰退しているのか、権力者は言われる身になって考えるべきだ。天理教学生担当委員会がわざわざ「大教会長の印をいただく」なんてわけのわからない謙譲表現を募集要項ですることが、権力者を勘違いさせていることに自覚的であるべきだ。天理教学生担当委員会は、大教会長におもねるような活動しかしていないのであろう。組織として若者育成の哲学や理念はないのか。いくら立派な活動をしていても、自分で考えることを放棄すれば、それは責任を放棄したものと同様である。
今回の話は、天理教全体のことではなく一部のことである。しかし、こういった一部の反社会的な権力者がいることで、天理教がおこなっている里親や災害救援などの素晴らしい社会貢献活動も、「結局は人集めのための売名行為」となってしまうのではないかと危惧する。もし100歩譲って、権力者が「間違っていない」というのであれば、内部の狭い権力構造でコソコソやっていないで、広く社会に天理教の実情を情報発信をすべきである。見てもらえばいいじゃないか。権力者の都合が悪いから信者のブログを閉鎖するように圧力をかけたりするように、権力を行使し言うことを聞かせることは普通の学習をしてきた責任ある社会人はしない。奥さんを束縛しているDVの夫や、学校に行かせずに子供を虐待する親と、構造がまったく同じではないか。天理教は加速度的に衰退しているが、それが誰の責任かは明白である。
以下、参考までに天理市と京都市の人権相談窓口のリンクを掲げる。
リンク
天理市啓発係
京都市人権文化推進課
「こういうことがあったけど、これってどうなの?」ということがあれば私にメールを送ってきていただいても結構です。
tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.co.jp
上級教会長さんの職印を頂く際には「理立て」が必要です。
命の泣き声~天理教への信仰でお悩みの方へ~
「命の泣き声」さんのホームページのリンクを張ります。
http://inochinonakigoe.grupo.jp/
昔の天理高校、天理大学生は成績を全て所属の大教会長が知っていたと聞いたことがあります。大教会長には事実かどうかたしかめてはおりませんが。
最近はどうなのかわかりません。どなたかご存知有りましたら教えて下さい。
真柱を天啓者に仕立て上げる事で、神のお墨付きをもらったかのように錯覚しながら、お側の者達が先々を支配搾取してきたという構図ですね。
トウジンが日本の地いに入り込んで、ままにするのが神の立腹。
ですね。