守るべき宗教儀礼

昨日、天理教の行事についての記事を書いたのだが、
その記事について匿名の方からメールを頂いた。

メールの内容としては、「あなたの意見に賛成です」
といった好意的な内容だった。ありがたい。

それはいいとしてメールの後半にちょっと引っかかった。
その内容を以下紹介する。
「お祭りなど天理教の行事というのは基本的に決められた日です。
しかし、社会一般は曜日単位で動いていますので、会社勤めなど
社会で働く人間が天理教の行事に参加するのは難しい。
他の宗教でも例えば第三日曜がお祭りとあるように、休日に行事を合わせる
ような取り組みも必要ですね」

というような内容であった。だいぶ簡略化したけど。

確かに、会社人であれば基本的には土日が休みなので
平日に天理教の行事があると参加しづらい。
その意見には私も同意する。しかし、天理教の行事を
休日に移動させるという点には私は同意できない。

まず私の意見を説明する前に、天理教の行事を整理して考えたい。
天理教の行事には大きく分けて2種類ある。
それは宗教儀礼と非宗教儀礼である。

宗教儀礼というのは、神前で普遍的に連続的に行われる行事である。
月次祭(ツキナミサイ)と言われる毎月決まった日に行われる祭りもあれば、
10年毎の年祭、会長さんが替わった場合などの報告祭であろう。
天理教人に分かりやすく言えば「お許し」(教会本部(神様)の許可)
を必要とする行事である。

非宗教儀礼というのは、単発的に行われ、神前を前提としない行事であり
「お許し」を必要としない行事である。

宗教儀礼では、執り行うという組織的意義が優先され、
非宗教儀礼は、参加するという個人的意義が優先されるとも言える。

非宗教儀礼については、既に休日に設定されていることが多い。
それは神に対して行うのではなく、参加者に対して行うものだから。
教会本部や各教会もそれなりに工夫はしていると伺える。

私は、この天理教の現状に対しては疑義を挟み込む余地はないと思う。
しかし先のメールの発信者は宗教儀礼に対しても休日開催を望んでいるような
筆致だったので敢えて俎上にあげたい。

論理の焦点は「なぜ宗教儀礼は決められた日でないといけないのか」である。

宗教儀礼の核となるものは「神聖」さである。それだけである。
前述したように天理教で宗教儀礼を行う際は「お許し」が必要となる。
つまり宗教儀礼は神の領域であるのだ。

常々言っていることだが、私は神の領域に対して人間が口を挟むことをよしとしない。
それはいかなる形であろうと、神聖さを減じることにしかならないからである。
神から与えられた儀礼に対して人間が口を挟むことが許されるのは神聖さを高める場合
における周辺環境に対してでしかない。
周辺環境ー教団の規模や神殿の拡張など物理的変容に伴って儀礼の形もまた変わってきている。
別の言い方をするなら,時代に沿った儀礼の変容とも言える。
そういった変容を私たちは伝統や歴史と呼ぶ。
しかし決して儀礼の意味変容には触れてはいけない。

また神聖さは、教団内の帰属意識であり信仰の基礎でもある。
そしてこれは、教団内でしか通用しない非常に狭い思考である。
これが人間、天理教を信仰する人にどういう意味を持つのかというと。
神聖さを尊重することは、信仰を成熟させるということなのである。
神聖さや神にベクトルを向けようとする姿勢や心性こそが信仰であると言い切ってもいい。
この点で、先のメールの発信者の意見を考えるならば、彼(彼女)は信仰を成熟させる
目的がないと私は考えざるを得ない。信仰と神への畏敬は同じベクトルである。
自分勝手に都合よく神聖さを歪曲するのは信仰ではない。
自分勝手な歪曲を望めば望むほど、にベクトルは神に向かわない。
そのパラドックスになぜ気付かないのだろうか。不思議である。

私は物心ついた時から大相撲ファンである。
今の大相撲スキャンダルには「こまったもんだ」であるが
大相撲に対して時に問題とされることに、女人禁制が挙げられる。
「土俵に女性を挙げないのは何事か」とね。
これらは主にフェミニズム(男女同権主義者)の方たちからの主張である。
彼らの主張は時代を象徴しているように合理的であり、正論である。

大相撲は元々、選ばれた力自慢の男性が、神様に感謝するという神事なのである。
「選ばれた男性が神様に感謝する」という意味が既に決められているのだ。
なんだか天理教でいう「ひのきしん」のようだ。
フェミニスト達が、相撲を通して「神様に感謝する」目的のために
日々稽古している姿勢を見せるのであれば、
「男性が」という条件は淘汰されても相撲の伝統は存在し続けると思う。
しかし、彼フェミニストの目的は「神様に感謝する」ということではなく
「女人禁制を排除する」という目的でしかない。
つまるところ私が言いたいのは、彼らは大相撲という神事に興味はないのである。

伝統を守っている方に、伝統を留保し権利をと強制するのは論理の飛躍でしかない。
そのような論理の摺り替えが政治、外交、行政、医療、教育、家庭・・・
現代では平然と当たり前に行われていることに私は不思議でしょうがない。

話が長くなったので結論を言うと、儀礼が決められた日に行わなくてはいけない理由
それは神が決めたからである。
信仰は神にベクトルを向けるという非常にシンプルで基本的なことである。
そのことに発信者の方も早く気付いてほしいと思うばかりである。

ここまで読まれて「なんだ、そんなこと当たり前じゃん」と思われた方には貴重な時間を
割いていただいて申し訳ありません。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

【投稿コメントについて】
以下のようなコメントは削除します。通常の迷惑メールに加え、敬語を使わない、10語以内、他者の意見に耳を貸さない、名前を変え何度も同じようなコメントをおこなう、非論理的文章など読者に配慮しないものも含みます。なお1度削除しますと、以降自動的に同じIPアドレスからはコメントできません。悪質な場合は自動的にアクセスブロックとなります。