教会本部ぶらり旅


おぉ初めての画像。

三重で諸用があり、昼過ぎに通過点となる天理市に入った。
いつもは知り合いの天理教人に連れられてしか教会本部に行ったことがないのだが
今回は、私と同じ非天理教の同僚Kと男二人で訪問となった。

天理ICで降り、さぁ教会本部に行こうかという所で思いがけない問題が生じた。

駐車場がないのである。

いや、教会本部所有と思われる駐車場は沢山ある。
しかも、どこもガラガラでる。

しかし勝手に入って停めていいのか、停めた所から神殿までどうやって行くのか
何か証明が必要なのか、全然分からない。
「参拝者の方はこちらへ」とかパンフレットとか全くない。

天理教初心者にはなんと不親切なところだろうか。

いや、むしろ「天理教初心者は来るんじゃねー」という教会本部の政策なのか。
それとも旅行気分で来た私たちが、天理教的作法を知らなかっただけなのか。
教会本部の意図は分からない。

ハッピを来たバキバキの天理教人は沢山いるけど
彼らに道を聞いて、異常に親切にされても面倒だし。

ということで、結局暫くウロウロして優しそうな家族連れに方法を聞いて、
郵便局近くの駐車場を案内してもらった。

駐車場から一番近い参拝場に行き、
参拝して、グルッと神殿を一周した。

神殿を回ってみて思うのは
警備員みたいな人や、掃除をしている人が「こんにちわ」と挨拶してくれる。

最初は気持ちがよかったが、人間関係の発展を望まないマニュアル的挨拶が続くのには
正直ウンザリしてしまった。挨拶とは人間関係構築の入口と出口であるはずが
神殿では、「知らない人にも挨拶する常識」が非常識という感覚を呼び起こしてしまう。

人間関係の構築とは「時間の共有、空間の共有、存在の共有」だと思う。
挨拶で続く言葉が「今日はいい天気ですねー」という意味もない会話でさえも
もしくわ沈黙がずっと続いたとしても、人間関係の構築という視点では必要となる。
その根底にあるのは「相手を知りたい」という相手への興味でしかない。
「この人はどういう人なんだろう。知りたいけど分かんないから話しかけてみよう。」
という他者への興味が人間関係構築の根本である。
そこが抜けている挨拶に意味はあるのだろうか。
過激ないい方をすれば、挨拶をするという自己満足ではなかろうか。
神殿という神の存在を意識せざるを得ない特別な場所だから余計に、過剰にそうなるのか。

ということを同僚Kと話し合って神殿を後にする。

帰りに有名なサイカラーメンを食べに行きたかったのだが、
ラーメンを食べる胃の余裕がなく断念する。場所も分からないし。

何か観光地的な、名物的なものを探したけど見当たらず。
何もすることがなくなったので、早々に天理市を後にする。

滞在時間はわずか90分。

今回のぶらり旅で他にも感想はあるんだけど、それはまた次回。

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