天理教の中央に深くコミットしている友人から依頼があり
専門家として証人尋問のような会議に参加させていただきました。
なにせ、専門家といってもまだまだ若造なもので非常に恐縮しておりました。
しかし、それをも忘れるくらいイライラさせられ、それどころじゃなかったです。
何が言いたいかと申しますと、あれは会議ではなかったのです。
会議とはそもそも実務的な協議のために成員を招集しています。
そして、会議の目的は成員(代議員)のコンセンサスを得ることです。
それは、決して満場一致ではなく意見の対立する中でどのように
着地点を見出して妥協点を計りにかけるかでしょう。
しかし、天理教の会議はまったくコンセンサスなんてありません。
まず、会議の構造から疑問でした。
いわゆる上座には会長さん(委員長さん)がふんぞりかえっており、
そのまま年功序列と言いますか身分のまま下座になります。
そして、会議が始まると同時に滔々と流れるような定型詩で進み
表面的な話し合いでしかありません。そして、話し合いが行き詰まると
一番上座のエライ人が「いや、神様はこう言っているだ。だって、おふでさきの○○号には
そう書いてある。一話編にも同様の指摘がある。そうだ、今こそ皆でこころを合わせて
やるしかないんだよ!」と終了しました。
僕は始終愕然としました。なぜなら、会議という究極の実務的な場面で
形而上的不可侵の絶対なる神の存在を出しては何も言えないからです。。
実務的な話し合いと絶対不可侵の神では内容も水準も天地違います。
つまり、会議なんてのは名目であって、何も決定する気がないのです。
そういう人達はたとえ反対意見があろうとも何も耳を貸しません。
「まぁまぁ若い奴の言うことなんだから、君も大きくなれば分かるよ」とね。
結局私が一番立腹しているのは会議と称して人を集めているくせに、
何も言わせない空気を作っていることなのです。
しまいには「ざっくばらんに話ていいよ。」と不可解な言葉を吐かれます。
彼らはきっと会議によってコンセンサスを求めているのではなく
会議がしたいのだと思います。なぜなら、彼らの存在意義はその程度の
場面でしか証明できないのでしょう。
終了後、友人にこのことを話すと彼らも麻痺しているようで、
「参加することに意義があるから・・・」と奇々怪々なこと言う始末です。
もしこの教会が企業で、私がコーチングで判定するとしたら
不透明でフットワークの悪い会社は半年以内に潰れますよと報告します。
(半年でもだいぶ優しい。むしろ、こんなに問題意識の少ない企業(教会)は
コーチングなんて頼まないでしょうがね)
とりあえず、会議に出席したことで教会内の成員の無力感、対処不可能性の高さを
実感しました。
まずは会議の場面で上下関係なく席の位置から変えることが大切だが、
上座に座っている人は決して譲らないでしょうね。サミシイから。
それでも「参加することに意義があると思う」なんて重症だよね。
オリンピックとわけが違うよね。