「慎み」再考

私の朝は、仕事に行く用意をしながら基本的にTVをつけている。
基本的にというのは、正確な時間を知りたいだけで番組自体は
見ないからある。だからミュートにしている。

朝バタバタしながらTVを見る余裕がないのである。

しかし重大事件や初めて見る情報などは、どうしても音量を上げ
TVに見入ってしまう。
昨日の朝に見入ってしまったのは自衛隊の論文問題である。

この件に関してメディア主導の世論がどういった流れなのか私は知らなかった。
前幕僚長(田母神さん)の最優秀受賞をアナウンサーやコメンテーターは
容易に、当たり前のように批判するもののイマイチ歯切れが悪い。
みのさんやその他のゲストの話を聞くと、批判が先行して
なぜ幕僚長が批判されるべき対象となっているのかイマイチ理解が深まっていない。
めちゃめちゃ怒っているんだけど、興奮し過ぎてついに本人も何に怒っているのか
よく分からくなっている人のようだ。

この件に関して、当の前幕僚長は「参考人招致に応じる。こんなことも言えない
ようなら日本は北朝鮮と一緒だ」というようなことを言われている。
なるほど。

この問題の骨子は、紛れもない「言論の自由」である。
これを言わずしてTVでコメントが成り立つのが不思議である。

「言論の自由」はどこまで自由なのか。

この問題では主に3つの視点が言われている。
前幕僚長の言動(彼は本件だけでなく以前も戦争を肯定するような発言をしていた)
は言論の自由の名において批判されるべきではないという視点。
先の戦争は侵略戦争であり日本が加害者であるという国民合意(政府見解)が既に形成
されているから事実関係そのものが間違っているという視点。
前幕僚長は議会制民主主義の直接的為政者ではないが、その役職から
十分に日本国の意見として制約されるべきものであるという視点。

うーん。難問である。

私がこの「言論の自由」を考えていつも思うのは天理教の用語である「慎み」である。
リベラル的思考で言えば「自由」というのは万人に補償された権利である。
しかし上記3つの視点では、一番大切なことが抜けている。
それは天理教の「慎み」にあたる「それを主張することによって、傷つく人がいる」
という点である。

戦争で日本軍に家族や親族を殺された人の目の前で、上記3つの視点を私は言えない。
もちろん、TVなどで上記3つに対してコメントする知識人達も
被害者を前にしては「言論の自由とは」と言えず口をつぐんでしまうのではないか。
それは前幕僚長もみのもんたも同じである。と願いたい。

一番意見を聞かんくてはいけない本人を目の前にしないで、
このような発言や思想が常識のように言われるのはなぜだろうか。

精神科医の木村敏は「異常の構造」の中でこういっている。
「私たちはめいめい、自分自身の世界を持っている。私と誰か別の人物とか同じ一つの部屋の中にいる場合にも、私にとってのこの部屋とその人にとってのこの部屋とは、必ずしも同じ部屋ではない。教師と生徒にとって、教室という世界は決して同一の世界ではないし、侵略者と被侵略者にとって、戦争という世界は全く違った世界であるはずである。しかし、このように各人がそれぞれ別の世界を有しているというのは、私たちがこの世界に対して単に認識論的な関係のみをもつ場合にだけいえることである。私たちが認識的な態度をやめて実践的な態度で世界との関わりをもつようになるとき、私たちはそれぞれの自己自身の世界から共通の世界へと歩みよることになる。」(p.46)

認識論的関係から実践的関係への転換というのは、簡単にいうと
頭の中で完結せずに実際の人間関係、社会関係の中で思考を構築することである。
前幕僚長もみのもんたもコメンテーターも、認識論的な領域に留まっている限り
議論はループを形成し、突っ張り合うだけの理解し合わないものとなる。

私たちの社会では「嫌な人だな」と思う人がいても、
その人に向かって「お前嫌なやつだな」と言ってしまう人は大人ではない。

そういうことである。

それが天理教で言われる「慎み」だろうと私は思う。

私は学生のころ前幕僚長のように
「権利の行使」や「自由の拡大」を手放しで主張していた。
その度に大人からは「責任と他者への配慮」を説諭されていた。
あの頃は私も若かった。

そういうことである。

「なんだかよく分からないけど、これってよくないよね」という心性が
日本人に見られることはとても大切な身体感覚であると思う。
その「なんだかよく分からないけど」という感覚が日本人の慎みを
体現していると思う。そう考えれば、メディアにおける批判に私も追随しているように
思われるがアナウンサーやコメンテーターはオピニオンリーダーとしてもう少し慎重に
発言すべきで、無駄に世論を批判で煽ることはよくない。

自己責任や、クレーマーの増加という話を聞く度に
感じる疲労感と同じである。

一昔前までは「いい大人が何やってんだ」と言われていた。
私には前幕僚長もみのもんたも大人の皮を被った子どもにしか見えない。
かといって天理教人の「慎み」を手放しで賞賛しているわけではない。

「慎み」
そこに大きなヒントがあると思う。それだけである。