M上先生再考

先日、私は会社帰りによく行く馴染みの大型書店に立ち寄った。

新刊コーナーを見ていると天理教内で有名なM上先生の
「アホは神の望み」があったので手に取って読んでみた。

結論から言うと私はp15あたりで、不快な既視感に倦怠し
それ以上読み進められなくなり本を元に戻した。

「不快な既視感」とは別のいい方をすれば「あぁこの人もそういう人か」
ということである。この人もTVのコメンテーターのような
一義的な断定でしか物事を判断する人なのか、ということである。
切れ味はいいんだけどね。

私が常々申し上げているように、
神様を主語にすることの危険性と、
原理主義的断定は、それに当てはまらない人を無自覚的に除外する危険性を
孕んでいる。
そして、その危険性は陽気ぐらしの対極であると私は考えている。

「アホは神の望み」の倒置法を整理すると
「神はアホを望んでいる」ということである。
アホとは関西人にとって、”ある意味”褒め言葉なようである。
(M上先生は関西出身)
単に無知や愚鈍という意味ではなく(そういった意味で使われることもある)、
陽気さ、素直さといった賞賛の言葉としても使用されるらしい。
この本の題名も後者のアホである。

内容を詳細に記述することは控えるが、
私が読むのを諦めたp13-15くらいが一番キツかった。
アホになれない人とはどういう人かを列挙し(「器が小さい」と書いてあった)
アホは素晴らしい、みんなアホになりましょね、というような筆致であった。

言ってることは理解できるし、いいアイデアであると思う。
しかし、それを陽気ぐらしや信仰に照らして考えてみると
違和感が生じないだろうか。
「○○な人は器が小さい」ということが天理教の信仰だろうか。

もちろん、私はアホになれない狭隘な人間であるので、それ以上
本を読む気にはなれなかったのであろう。

アホになるべきという「決めつけ」が
除外を生み、差別を生むことに自覚が足りないのではないかと思う。
それはM上先生が言われるような賞賛される「決めつけ」も同じである。
「決めつけ」を行っている以上、私たちは無意識的に「決めつけられない」
もの(非アホ、器の小さい人)を除外しているのである。

彼は一流の科学者であるが、思想家として教団が彼を売り出していることから
天理教の目指す信仰とは、そんな水準の低いことかとウンザリしてくる。
陽気ぐらしというのは、自分と考え方や価値観が同じ人間だけの小さいコミュニティで
達成されるべきものなのであろうか。
それが天理教の「世界一れつ」という世界なのだろうか。

違うはずである。
それこそ、自分の考え、価値観と異なる人と、
究極には、ひき逃げをする犯罪者や、
ネチネチ文句を言ってくる嫌われ者の上司でさえも、同じ地球の、同じ守護を受ける
コミニュティのメンバーとして容認することではなかろうか。
(犯罪を肯定しているわけではない。犯罪者を手放しで批判し裁くのは私たちではない)

M上先生の言っていることは正論である。
スパッと切れ味もよい。
しかし、私には信仰に基づく思慮の浅さが呑み込めなかった。
もし彼が一流の科学者でなかったら・・・・
ある成功をおさめている分、彼は裸の王様状態なのかもしれない。
科学で成功をおさめているのであれば、科学者として信仰と社会の橋渡しが
できるのは彼しかいないだろうと思う。それが思想家にでもなったような
自信満々の「決めつけ」論で残念である。

彼は研究に没頭し過ぎたせいで信仰を涵養させる前に成功をおさめすぎて
彼の信仰は偏ってはいないだろうか。私は偏っていると思う。
一流の科学者であろうが、少なくとも一流の信仰者ではない。
この人を天理教のオピニオンリーダーにするのは危険であると思う。

私は、自分の考えと異なる意見には耳を傾ける方だと思う。
M上先生の本は、私と異なる意見というよりは、話している水準が異なると感じた。
「アホは神の望み」は「失敗しないお金の儲け方」や「人間関係でうまくいくコツ」といった類いの
数多ある自己啓発書と同じ感じである。

私の意見は暴論かもしれないが、「M上先生、万歳」という右に倣えといった
雰囲気が天理教に瀰漫している恐さを感じている人がいてもいいし、
そういった人を容認するような雰囲気が教団にあれば、天理教の未来も明るい
のだろうと思う。