自分の言葉で話してもらえませんかね。

昨日、天理教の「先生」と言われる方と
2時間ほどお話させていただくことがあった。

世間話から、信仰論まで色々な話をさせていただいた。
話をさせていただいたといっても私は専ら聞き手であり
その先生の独演会のような状況であった。

この会合は、たぶん私をなんとか入信させようとする
どこかからの作用だと思う。
それはいいとして。

話の途中で、何度かその先生が私に対して
「君は難しいことばかり言うねー」と言っていたのが印象に残る。
なぜなら、私としては何も難しいことを言った覚えはないからである。
むしろ、全然話した覚えがないほどである。

その先生がなぜ「難しい」と感じたのか。
それは、きっと私の挟む合いの手が、先生の予想外のものあることと
私の聞く態度が肯定的ではなかったからだと思う。
具体的に言うと、その先生は「陽気暮らし」や「若年層の育成」と
いった言葉が出るたびに私が「それって何ですか?」と
ラディカルな問いを発したからである。

私「陽気ぐらしってなんですか?」
先生「みんなが陽気に暮らすことだよ」
私「具体的には?」
先生「・・・笑うんだよ」
私「・・・そ、そうですね。そのためにはどうしたらよいのでしょう?」
先生「おつとめだ!おつとめが大切なんだ」
私「・・・おつとめから陽気暮らし達成までを説明していただけると分かりやすいの
ですが・・・」
先生「・・・・その昔、泥海の中をなんたらかんたら・・・」

といった具合なのが、本当に多くあった。
結局、私は彼が陽気暮らしをどのように考えているのか理解できなかった。

私は何も全て論理的に矛盾なく話して欲しいとは思わない。
教義の詳細なんて余計にウンザリするだけで聞きたくない。
私が求めたのは、おつとめから陽気ぐらしへどのように繋がるのかを
その先生が現在に至るまでに経験したことから言って欲しかった。
分かりやすく言えば、自分の言葉で語って欲しかった。

「私はこういったことを体験してね、おつとめって陽気ぐらしだよなー」と
言ってくれれば、私は興味をもって肯定的に聞けたと思う。
小難しい宗教言語を並び立てられては理解や納得が及ぶ前に
言いくるめられてるような倦怠感が訪れてしまうのである。
相手の理解が及ばない小難しい言葉を言って相手の思考を置き去りにすることを
精神分析では「知性化」という。
どうやら、私は彼が普段知性化で済まされている文脈において知性化させなかったようだ。

しかし、やはり私は非常に難しい話をしたとは思えない。
むしろ、非常に分かりやすくしようと勤めたと思うのだが。
その辺がまったく理解されなくて残念であった。

なぜ自分の言葉で語ることがこれほどできないのであるのか不思議である。
まるで、偉そうに教義を語ることが先生としての条件であるかのように
彼に骨肉化されていることに驚くばかりである。

自分の言葉で語ることこそ、布教の骨子だと思うんだけどな。

自分の言葉で話してもらえませんかね。」への5件のフィードバック

  1. 匿名

    1. 無題
    先の真柱の講話
    あれを私のように読み取るのは至難の業かと…いわゆる、天理教jの話を聞き慣れている人なら判断できると思いますが、私も天理時報を一回サット読んだだけでは理解できませんでした。
    カインさんが、エッ?と思われたのも当然かと思います。

    さて、今回のブログですが、実に的確なコメントだと思います。
    自らの陽気ぐらし実践プログラムを持っておられない方(ここは幅広く…笑)は多いのではないでしょうか。
    実践プログラムを持っておられる方は、文字通り実践しておられますから、話も理解もしやすでしょうね。

    私も偉そうなことは言えませんが、仰ることはよく理解できます。

  2. 匿名

    2. お久しぶりです。
    とうとう師走になりましたね。
    正ちゃんさん、いかがお過ごしですか。

    コメントありがとうございます。
    時間を置いて考えたのですが、天理教では
    「理の親」という言葉がありますね。
    その教義的意味合いは私には理解が及びませんが、縦の信仰を親子関係に見立てるならば
    親の姿勢、背中こそが子どもを育てるのだと実践的に思います。
    むしろ、子どもに「こうなって欲しい」とばかりに要求や指示をして言葉を重ねても伝わりませんよね。
    そういうことなんですよね。
    教会長の後継者が不足していることからも、「そこ」を分かっている人が少ないのかなと。そうそう、先日「躍進の集い」という集会に行きましたよ。「そこ」の話(VTR)で大変素晴らしいと思いました。ただ、そんな信仰の基本的なことを教団がやらざるをえない状況なのだと痛感しました。教団は、もう信仰の基本を教会長個人単位にまかせておけないのだと理解しました。

  3. 匿名

    3. 無題
    中々痛いところを突かれますね。
    「親の背中を見て子どもが通る」というのが親交の基本なのでしょうが、どうも上手くいっていません。
    それは、会長といえども人間であるところに原因があると思います。
    内と外の顔が同じなら問題が無いのでしょうが、そうでない人がいるところに問題が生じてくると思います。
    内も外も変らない親なら子どもも一時的に反発することはあれ、何れは親の通った道を自ら求めていくこともあるでしょう。

    教団と教会(長)も同じよう関係にあると思います。教会長個人に任せて置けなくなったのは、教団の内部も大したことが無いから、という一面も見逃せません。

    「笛吹けど踊らず」の原因はあまりに多す過ぎるカも知れません。

    いつものように、話の論点がずれてしまって申し訳ありません。

  4. 匿名

    4. コメントのお返事
    お返事ありがとうございます。
    信仰論から教育論に変遷するのはとても自然なことであると思います。正ちゃんさんの教育論に対して私は「ちょっと違うな」と思いました。ちょっとです笑。それは会長(父親)は内(家族)と外(信者)の顔を使い分けている、という点です。なぜなら父親というか人間は、色々な顔を使い分けている社会的動物だからです。またそういった不安定な一貫性こそ、「大人ってそういうもんだぜ」とい実際的な教育なんだと思います。しかし、正ちゃんのおっしゃられることも理解できます。正ちゃんさんが他の天理教人(家族)を見て、感じてこられたことに反論する気はありません。ただ、私の狭い見識の中で思うのは、後継で悩んでおられる教会長の性向というのは安定した一貫性があるということです。つまり、内でも外でも「私の言うことには一貫性(信仰を誤らない答え)がある」ということでしょう。しかし、彼らの行動には一貫性がない。家族に対しても信者に対しても同じ文脈で説教する。しかし言っている本人の行動には、なかなか説教と一致した、信仰の答えになるような行動は感じられない。学校や地域で独自の大人学を学んできた子ども達(後継者達)も「うちの親父(教会長)って社会じゃ通用しないよな」と思うのではないでしょうか。善くも悪くも子どもは親の背中を見て育つしかないのです。私は教育論で攻めましたが、某学会などの布教戦略(縦の伝道)は天理教にとって非常に参考になると思うのですが。
    教団の内部については私は知る由がないので何とも言えないです。ただ政治的(組織的)統制力の未熟さはよく思います。もう少し教団は色々と言ってもいいと思うのですが。「会長は家族の中で天理教用語の使用禁止」とか。暴論ですが・・。

  5. 匿名

    5. 無題
    「社会で通用しない」っていうのもあるのと思いますが、親を見て「それで良いのか?」というのが強いと思います。
    ある意味、親が教会長として歩むべき「正しい」(といってしまうのはどうかと思いますが…)道を示していない!!
    教会長たる者、このように通って人々を導くのだ!!という確固たる歩みを進めていない人が多すぎるのかもしれません。

    縦の伝道では、某学会より伝導率は高いと思いましたが…違ったな???

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