子育て不安はイケナイことなのか!?


お久しぶりです。本当に。
前回の更新が3月の後半だから、約4ヶ月間放置してたってこと。
どうも、すみません。

こんなに放置してたら、訪問者数も0に等しいと思っていたらそんなわけでもない。毎日50-80の人が訪問してくれている。最盛期は200人近い人が毎日来てくださっていたからそれを考えても、ありがたい。

私事になるが、4月から仕事の担当業務が増えた。朝は6:00には家をでて、帰宅するのは1:00という生活を週に6日も続けていた。よく今生きていると思う。7月に入り少し余裕がでてきた。8月はゆっくり。9月は瀕死になるのではないか。今から考えるだけでゾッとする。

でもこまめに更新しようと思う。今もちょこちょこ天理教人と接することはある。そこで感じることや、理不尽なことは山ほどあるから。

今年から購読している「天理時報」。今も毎週、毎月?我が家に届く。しかし読んでいる時間がまったくない。丁寧にビニールに入れられたまま書斎の「不要な書類ボックス」に積まれている。申し訳ない。

ということで、今回は手元にある最新と思われる天理時報の感想文にしようと思う。

今回のトップ記事は「こどもおじばがえり」の直前特集のようだ。といっても、これはツッコミようがない。ふむふむ、なるほどと読むしかない。

しかし、今回の天理時報の目玉は「子育て支援」についてのようだ。数ページに渡って特集が組まれている。

記事の構成として、まずはアンケートで育児不安を多くの人が持っていること→色々な人の意見→専門家の意見→信頼関係が大切となっている。意外に天理時報お得意の「だから、天理教の教えが一番大事」というような自民族中心主義的(ethnocentrism)結論は控え目であった。しかし、こういった現実的課題を扱う場合は今回の場合の「信頼関係」のように曖昧模糊とした結論にしかできない手詰まり感は顕在である。そのため内容は巷間に流布している育児書の域を脱しない。それが悪いとは言わないが、天理教発行の媒体としては意義が霞む。

ここでも私が一貫して言っている天理教と世間の橋渡しは成立しない。

物足りない。

では、どうしたらいいのか?という問いが次に発せられると思うが、私はその答えを持っていない。天理教の専門家でも、子育ての専門家でもないからだ。しかし子育てに関しては専門家は不必要だと思う。

なぜならば、子育ては苦悩しながら、挫折しながらするものだからだ。

天理時報では育児ノイローゼという言葉がしばしば使用されていたが育児ノイローゼという精神医学的用語は存在しない。育児が原因で疲弊した状態を指すのであれば、私は育児ノイローゼを歓迎したい。ここは天理時報と私の意見が対立するのだが、虐待に結びつきやすいのは、私はむしろ育児ノイローゼを発症しない人だと思う。子育てに悩まない親こそ、現代では心配されるべきなのではないかという実感がある。もちろん育児ノイローゼが原因の虐待は皆無ではないと思う。しかし育児ノイローゼになるくらいなら、虐待の危険性や保健指導や行政フォローの充実が担保してくれていると思う。その点は行政も力を入れている。育児ノイローゼの定義がはっきりしないから何とも言えないけどね。

しかし、子育てに正解はないというのは、子育て経験者なら自明のことをなぜ天理時報では誰もはっきりと口にしないのだろうか。そして、私が一番違和感を覚えたのが「現代の子育ての難しさは昔とは個人的環境も社会的状況も異なるはずなのに、誰もそのことを理解していない」ということだろう。記事の中で、現代の子育ての大変さに触れている箇所はある。しかし、どれも「信頼関係」や「悩みを話せる環境」「聞き役に徹する」などで一定の答えを導き出している。現代の子育ての難しさを指摘しながら、一方では昔と同様の対処法を(半ば正当性を帯びながら)教えるという背馳になぜ誰も気づかないのだろうか。我々が戦後望んできた資本主義社会、民主主義社会の結果が個を確立させ、ハードを重視しソフトを軽視した社会を作ってきたのだ。その責任性を無視(内省しないで)して、答えを押し付けるのが誤りだと、明確に答えを導き出す姿勢こそが誤りなのだとなぜ誰も言わないのだろうか。
地球温暖化でエコブームなのに、週末にはETC割引で車を乗り回している日本人のメンタリティ構造と似ていると思った。あと皆既日食も。温暖化も孤母社会も、一人一人に責任があると反省しないで社会構造が原因、巨大資本が原因、政治戦略が原因、民意の低下が原因と責任転嫁したところで解決できる問題ではない。

そこにこそ天理教が強く出られるポイントだと思うのだがなぁ。
私は、天理時報の思索の浅さを憂う。