天理教では里親がブームのようだ。ブームといっては語弊があるようだが、天理時報での扱いをみるとブームとしか表現できない。また天理教人と接しても里親という用語はよく聞かれるのでブームなのだろう。
一方、里親に関して天理教は連盟を持ち、ある程度の歴史をもっているという。現代の子どもを巡る社会的な環境の変化は里親に明るくなくても自明のことである。そのことに関して言えば、天理教の里親としての歴史は社会的信頼性を持ち得る貴重な資源であることは納得できる。
ちなみに私は里親に関して全くといっていいほどの門外漢である。
門外漢の私からみて思うのは、そのブームと歴史性の並列は納得できるものではない。
里親という難しい課題に対して歴史を成り立たせるのは、関係者の不断の汗しかないと思う。長年にわたりコツコツと取り組んだ成果が社会の信頼を獲得し歴史を形成させあたのは言うまでもない。その取り組みが信仰に裏付けされたものであろうがなかろうが現場の汗は本物だと思う。信仰が立派だろうが立派でなかろうがそんなことは二の次となる。目の前にいる人間(子ども)とは抜き差し成らない真剣勝負であろう。
が、一方で昨今の天理時報の里親礼賛の流れはどうしてもポピュリズムの域を脱しない。こういった刹那的な注目の仕方は、思わぬ事態で幕を閉じることになるのではないかと私は危惧する。歴史という性質を持ちながら、あたかもその信頼を過信して新しい流れをつくることは、一方で帰属成員の倫理的規範を低下させたり周囲の理解を浸透させる前に思わぬ落とし穴に堕ちて終わることが組織の在り方としてたまに発生する。
昨今の社会情勢で言えば、金融や経済という日本独特の社会風土を持つ中でITや外資といった新しい風がITバブルやM&Aとして入ってくるものの、結果的には日本独特の保守的な風土に馴染めず反感を買ったり、不祥事を起こして市場から追放されるケースが多い。
天理教の里親に対する姿勢もそういった風潮が感じられるので私は危惧する。今後、天理教において里親が重要視され組織が拡大すればするほど、倫理的規範の低下や宗教色を帯びた家庭が里親をすることの是非という議題が俎上に挙げられる。何年もコツコツと取り組んできた方達には面倒なことだが、そういったことが発生するのは社会的責任という名の元に公然と求められるであろう。特に日本社会では「出る杭は打たれる」という諺があるように、注目を浴びれば一気に世論は右傾化することを忘れてはならない。その辺の戦略について天理教幹部や天理時報の責任者はどの程度考えているのかは疑問である。
今後、天理教の里親が虐待や委託費の使途不明で事例化しないことを祈るばかりである。