今年は冷夏のようであるが、まだまだ日中は暑い。
それはさておき、8/30付けの天理時報を見て仰天してしまった。今号の一面記事は台風9号の被害である。天理教が持つ災害救援隊の活躍がニュースとして扱われている。災害救援隊の活動は素晴らしい活動である。そして今号のために用意されているメインテーマは発達障害である。「子どもの発達障害」というテーマ設定から私は疑問である。なぜなら発達障害は子どもだけの疾病ではない。私の知り合いに児童青年精神科医がいるが、彼は数年前から「発達障害(PDD)の喫緊の課題は義務教育を終えた人の支援である」と言っている。昨今、教育界を中心に発達障害がにぎわっているようである。その点で言えば、子どもの発達障害は流行であり、ある程度、行政支援や支援技術も輪郭が見えてきている。しかし、その発達障害の子が義務教育を終えたときに進学も就労もできずに自尊感情を傷ついたオトナとなる。中には知能が高く(HFPDD:高機能公汎性発達障害)、進学や就労ができても人間関係を結べないで孤立するケースが多いと聞く。
前々回に「子育て不安」の件について私が主張したことがそのまま当てはまる。
常々思うことだが、天理時報の裏付け取材はズサンであるとしか言えない。
まぁそんなことは今回大したことではない。私が今回の天理時報を見て猛烈に反論したいことは別にある。それは3ページ目の「視点」である。そこで扱われているのは「臓器移植」である。臓器移植法改正に基づく脳死判定の天理教的評価である。この話題は非常にセンシティブであり、究極的に宗教的な話題である。こういった話題こそ今号みたく紙面の隅に小さく載せるのではなく、里親記事のように継続したシリーズを展開して欲しい。著者は誰なのか明らかにされていないが、一人の個人的見解を天理教的見解の総括として新聞の片隅に載せる姿勢は許されるものではない。こうした慎重に、かつ継続的に扱われるべき課題を簡単に済ませようとする天理教的姿勢に対して私は積極的に批判する。
本記事の内容もまた到底賛成できるものでもない。「脳死は出直しではない」というテーマを自ら設定していながらも、その教義解釈について答えていない。また『「脳死を人の死」として臓器を切り取るような行為は許されてはならないと考える』と帰結している点は問題の摺り替えである。そしてそれは狭隘な個人的思想の何ものでもない。またその思想は今後臓器移植が発展していく中で建設的見解ではないことは明白である。この考えでは、もし天理教人の中に臓器移植をすれば助かるであろう人がいても、移植せずに見殺しにするだけである。そんな簡単な話だろうか。この著者はきっと臓器移植の当事者になりレシピエントになったとしても臓器提供することは拒むのだろう。そうでないと主張の筋が通らない。この著者の論理は輸血を拒否する某教団と何が違うのか私には分からない。天理教的な見方を提示しているつもりだろうが、その説明は現実離れしている。匿名にしている点も、その自信のなさが現れていると思う。
問題は複雑であるという見識があるならば、その複雑性を担保した結論を出さないのはなぜだろうか理解に苦しむ。天理教が持つ「天理やまと文化会議」というシンクタンク的組織がありながら、こういった貧弱な結論しかでないのは天理教の知的リソースの部分はすでに死んでいるといっても過言ではない。「天理やまと文化会議」なるものの実態は分からないが、アカデミックの作法がある人間はこのような無作法な断定はしないはずである。なぜならアカデミックの使命は人類の発展だからである。その点は天理教の金科玉条である陽気ぐらしと背馳するものではない。以前、天理大学に哲学専攻を作るべしといった私のアイデアが再燃しそうである。
「脳死を人の死」と「臓器を切り出す」ことを一括りに批判する著者は天理教教義の部分に関しても軽薄であり、知的に貧困であるとしか言えない。
ちなみに私の臓器移植に対する考えは、世論と同じである。それは「よく分からない」ということである。よく知らないことではない。よく分からないのである。よく分からないから、みんなで考えましょうという姿勢こそがオトナの振る舞いであると私は信じる。臓器移植をして喜ぶ人、悲しむ人。臓器移植ができなくて悲しむ人。著者はどの立場で臓器移植を考えて、『「脳死を人の死」として臓器を切り取るような行為は許されてはならないと考える』と考えるのか明確にすべきであろう。この著者は、そういった当事者を前にしても、同じ言葉を吐けるのか。吐けるのであれば私は思想家として立派だと思う(天理教人としては最低であるが)。少なくとも自分の意見を押し通すために、自分の経験に関連する教義のみを取り出して何も言わせないように周囲の口を閉ざす(教育界ではそういった行為を脅しという)やり方は幼稚であり何より陽気ぐらしではない。
この著者が誰だか分からないが、こういった思想的に未熟な人間が天理教内部にいるのでは天理教の将来は明るくない。
こういった考え続けなければいけない大切な問題に対して独断的な指針は断固許してはならない。
天理教の将来を憂うが故私は本当に嘆いている。そして本当に腹が立つ。
貴方は井の中の蛙です。ただのおしゃべり好きな一人のちっぽけな人間です。もう少しお勉強されたらどうですか。それも深く深く。ただの攻撃的性格が文面ににじみ出ていますね。言葉遊びする暇があれば家を出てただひたすらゴミ拾いをして社会をきれいにされることをおすすめします。少なくとも口からゴミを出さないために。
この掲示板は天理教の犯した罪を洗い直し、真実を知り、天理教内部の矛盾と天理教が係る一般社会への悪影響を最小限にするための場所です。嘘と堕落の悪臭を放つ天理教から世界を浄化していくための貴重な場所です。ゴミ拾いは貴いです。しかし管理人さんはゴミ拾いよりも比較にならないほどの大きな世界助け、奉仕活動をされていると思います。
ゴミ拾い、お互いに天理教を思う者同士だと思いますが、話のレベルが違いすぎます。ゴミ拾いで社会がきれいになるなら、みんなこんなに悩みません。
きっと高い所のお気楽なご身分の方なのでしょうか。
2017年12月6日 10:23 AMの匿名 様。
>貴方は井の中の蛙です。ただのおしゃべり好きな一人のちっぽけな人間です。
私はそうは思いません。一度会ってじっくり語り合いたいです。
どの言葉が「井の中の蛙」で、どの部分が「おしゃべり好き」か分かりません。
>もう少しお勉強されたらどうですか。それも深く深く。ただの攻撃的性格が文面ににじみ出ていますね。
かなり勉強されていると思います。どこが攻撃的なのでしょう?あなたの方が攻撃しているように思います。
>言葉遊びする暇があれば家を出てただひたすらゴミ拾いをして社会をきれいにされることをおすすめします。少なくとも口からゴミを出さないために。
文脈が、支離滅裂で理解できません。
教会で聞く話に似ていますね。
私は、健康保険証、運転免許証の裏面に脳死により臓器移植をすることにサインしています。80歳の私の臓器がどこまで利用できるのかは分かりませんが、利用できるのであれば利用してほしいとの思いでサインしています。
天理時報の視点は読んでいませんが、例えば、角膜移植で目が見えるようになる人があるのであれば、サインをした甲斐があるというものです。
家族の気持ちは、賛成、反対に二分しています。
天理教は、これを否定したのでしょうか。真柱はどのように思っているのか問いたい。
匿名 様(2017年12月6日 10:23 AM)が掲示板の2009年8月29日という過去の記事に
言及されたのがきっかけで
☆(別の)匿名様(2017年12月6日 5:29 PM)、
☆古い元教会長様(2017年12月6日 6:57 PM)、
☆東風Z様(2017年12月6日 7:54 PM)、
3人の方々のコメントを拝見できました。
最初の匿名様(2017年12月6日 10:23 AM)は腹立ちのご様子で、明らかに社会学研究所さんに
反感を抱いてのコメントですね。
ネット上では言葉のやり取りだけですから時として感情が爆発することも有ります。
人は痛い点を突かれると、えてして子供のような反応をしがちです。
最初の匿名様のような反応がまさしく典型的な例なのです。
論理的な社会学様の記述に対して、大人と小学生とのレベルくらいに違う最初の匿名様の記述は
ほぼ、内容が無いと言えましょう。
しかし、何かしら腹立たしい思いで反応しておいでなのですから、どうぞ、論理的に冷静に、
考えるところを改めてコメントされてはいかがでしょうか。
臓器移植に関してどのように天理教は考えるかは、信者にとっては見過ごせない重要課題です。
教団としての考えの表明は、その内容は、世界に発信されている訳ですから熟慮されるべきです。
東風Z様が投げかけておられる質問に答えが頂けないとすれば、又、この問題も無かった事として
いつものごとく時がすぎていくのでしょうか。
私は天理教を信仰していると胸を張って世の中の人に言いたいのです。
恥を感じることなく匂い掛けがしたいのです。
世界は昔より狭まっています。
発信されているツィッターの中には天理教関係の不祥事(天理市長の買春代金ねぎり問題など)を
本部が悪いと結び付けるのはおかしい等という指摘が見られます。
そうでしょうか?天理教的思考からいえば、起きた事から何らかの悟りを得るということが
求められるのではないでしょうか。
本部を信じたい気持ちは痛いほど理解できます。
けれど、間違いには間違いだと指摘し修正できなければ、社会の中でその宗教団体は存在価値の
無いものになっていく恐れも十分あるように見えませんか?
もっと言えば「ダメのおしえ」「最後の教え」と親神が降りたにもかかわらず、どうにもならない
宗教団体と見なされれば、ひょっとすると、更なる「最後の教えver.2」が始動するかもしれません。
一部には既に別派として神が降りている事実も史実として書物にありますね。
本部は異端と称しますが。
私は天理教に縁あって信仰しているのですから、誇りを持てる天理教として認識したいだけなのです。
天理教の場合、聖職者はいないに等しい、人間臭い団体です。
なので、言われれば腹も立つでしょうが、正すところは正すとい「素直な心」で批判をお聞き取り
頂きたのです。
それにつけても、東風Z様と古い元教会長様の年輪を重ねた方の真摯な透明な御心からのコメントを
拝読する度に敬服しています。
師走となりましたが来年もぜひ、ご壮健であられますよう、心からお祈りしております。
社会学様には貴重な場を提供下さっている事を感謝しております。
個人的教義解釈ですが「臓器移植オールOK」です。
人間の体は神様からの「貸しもの」ですから、使われなくなった(亡くなった)人の「貸しもの」を別の必要としている人が「又借り」するだけのことで何も問題はありません。
「神様から借りたものを勝手に又貸しするな」という意見もあるかと思いますが、神様は直接「ダメ」とも「良い」とも言ってくれませんから、東風Z様のように「個々の判断」でよろしいかと思います。
もし「又貸し」がダメだと言うのなら、人毛のカツラや入れ歯だってダメという事になってしまいます。金歯銀歯だって「神の身体の地球上の鉱物を勝手に又借りしてる」様なものなのですから。
とはいえ、臓器移植の問題と「脳死が人の死」という判断は別の事です。
ご存知のように、臓器移植をするには新鮮な臓器が必要だという医学上の必要性から「脳死を人の死とする」という判断をしているに過ぎません。また、心肺停止と違って脳波停止から蘇生した例は本当に極マレですから止むを得ない判断かもしれませんが、この点は社会学さんが言うように議論が必要でしょう。
そして、もっと問題なのが「臓器移植はお金が掛かる」という事です。
医療行為のコストもそうですが、臓器そのものも需要と供給のバランスが崩れています。
その為に、日本ではあまりありませんが諸外国においては「お金持ちが優先的に臓器移植を受けられて貧乏人は後回し」とか「臓器移植のために健康な人間の臓器を取り出す事件(本人の意思によるものも有ればそうでないモノもあるらしい)」などが頻発しています。
私個人としては、臓器移植の是非よりこのような貧富の差による格差や事件の方が問題で早期に解決しなければ「神様はお嘆きになる」と考えておりますが。
最後は社会学さんの記事の意図からずれてしまいましたが、様々な異論反論ご意見があると思います。「天理教として一つの意見にまとめる」必要はありませんので、この場で意見を出し合う事が管理人さんの意に沿う事かと思います。
遠慮なくご意見ください。
2017年12月7日 4:15 PMの匿名信者 様
敬服いただくほどの身ではありませんが、7年近く前に97歳で出直した母は、視力の障がい者でした。母が生きていた頃の話で申し訳ありませんが、書かせていただきます。
ある日の夕方、見知らぬ方から電話を頂き、あなたのお母さんが近くの運河に転落寸前を声掛けで何とか転落を止められました。ついては近くの公園のベンチまで同行して、そこで待っているように伝えましたので迎えに来て下さい、といわれて電話は切られました。
お礼を言う間もなく電話を切られましたので、その方のお名前もお聞きする間もありませんでした。
自動車で迎えに行くと、母は暗い公園のベンチでしょんぼりと座っていました。夕方には目が見えなくなるにも関わらず夕方にうろついていた母に腹立ちを感じつつも、何事もなかったことに、電話を頂いた方に感謝の気持ちを捧げました。
それを契機として、視力のいい私は献眼の登録をしました。その後更には、後期高齢者保険証、運転免許証の裏面にも躊躇なくサインをすることができました。
母を助けてくださった方への感謝の気持ちの一端だと思っているのです。
東風Z様、年齢的には長生きされたと言えるお母さまですが、きっと思いだされる度に寂しいと
お感じになられることと思います。親って、そういうものですね。
貴重な話をご披露下ってありがとうございました。
私は献体に未だ踏み切れずにいたものですから、これをきっかけに考えます。
つとめ場所様が教えて下さった「脳死からの蘇生は稀」であれば恐怖感は薄れますし、年齢的には
自分は十分生きてきたと思いまし、以前、献体を考えた際の自分の状況とも変わってきた事からも
再考しようと思います。
(恐怖感というのはかなり昔に死にかけてこの世に戻った経験があるため、呼吸停止でもまだ意識が
あるのに臓器を摘出されたら怖いと、心底感じていたからでした。)
東風Z様、実はもう一つ貴重な話を再度ご披露いただけないでしょうか。
東風Z様が以前、雪道である方と遭遇されたご経験です。
なんでも、その事を教会に方に話されたところスルーされた由。
もう一度拝見したいのです。
どこに書かれておられたか、かなり探したものの、見つからないのです。
ご都合が良い時にでもアップしていただければ幸甚です!!!
貴重な話が埋もれてはもったいないと、心からのお願いです。
少し説明不足だったので付け加えます。
自分の臓器は使えるのは心臓くらいなので臓器移植には向かないと考えました。
献体であれば健康な臓器でなくても役立てることができますね。
t匿名信者 様
お返事が遅くなりましたことお詫びいたします。過去の私の投稿をいろいろと調べましたが「雪道で‥」の投稿の記憶がございません。
ただ、東北の震災後に津波のがれきの中から、赤色の靴下を履いた幼児の足が覗いていた映像を見て、神や仏もないものだと思って投稿した覚えがあります。
あいまいな記憶で申し訳ありません。
臓器提供の件ですが、仰る通り私のように80歳では使っていただく臓器は無いのかもしれませんが、眼科医は角膜は大丈夫ですと言われていますので、角膜以外の皮膚、血管、骨など利用いただけるものがあればと思いまして、サインしています。家庭医に相談しても確実な返事はいただけませんが、笑いながらもサインしておけばとのことなので決めているものです。
東風Z様、私のあいまいな記憶でお騒がせ、お手数をおかけしてしまい申し訳ないことをしてしまいました。
心からお詫び申し上げます。本当に自分のボケに人様を巻き込んでしまい面目ございません。
角膜は大丈夫との貴重な情報、ありがとうございました。
私も先輩を見習って一歩踏み出しますね。
ありがとうございました!!!
少し早いですが、「良いお年をお迎えください!」
引き続きの先輩の投稿を読ませて頂くのを楽しみにしております。ご自愛ください。