天理教と政治


過日、衆院選で自民党が大敗したことは記憶に新しい。以降もメディアでは、今後の政治の動向に注目が集まっている。
天理教では直接的に政治とは距離をとり、明確に支持する政党や為政者はいないようである。
http://www.dpj.or.jp/news/?num=7871
私はこの天理教の姿勢に対しては大変好感を持っている。しかし身近にいる天理教人と接して思うのは、天理教教義と絡めて政治を考える人が少ないことである。今回の衆院選についても同様である。多くの天理教人は、ほぼ自由意志で投票したと思う。しかしその一票にいかに天理教的意志や思いが込められているのかは懐疑的である。多くの人が世論と同様の思考、流れ、雰囲気のまま投票したのではないかと思う。なぜなら、私が接する天理教人の政治に対する考えは、そのまま世間一般人の思考と同じとしか思えないからである。
まずは世論であるが、世論の流れとして今回の選挙は官僚政治への嫌悪や市場主義批判という理屈において自民党と決別することを選んだ。しかしその結果としてどのようなビジョンや結果を期待しているのかはメディアも、有権者も思考の及ばないままに自民党にNOを突きつけたと思う。今回の選挙は政権選択という副題が付いていたが、それ以上に思考した多くはいないはずである。そして私が接する天理教人もまた、世論と同様の思考と定型句でしか選挙を語れないでいた。つまり天理教的選挙の見方は皆無であった。
確かに、理想言語として「陽気暮らし」という言葉が聞かれるが、そこからどのような社会的実現を目指して投票に至るのかは乏しいと言わざるを得ない。この記事を講読されている方はほとんど天理教人であると思う。その方に問いたいのは、いかに選挙を天理教的に読み解いたかということである。
前に挙げたリンクから「かつては天理教から議員を出したこともあったが、いまは距離を置いている」という説明をされるのは結構だが、それは個人レベルで言ってしまうと社会市民としての責任を放棄していることにはならないだろうか。日本人は無宗教や無神論者ということを平気で言うが、私はそれを信じない。確かに日本人は信仰に対して寛容な面がある。しかし人間に誕生と死がある限り人間から信仰は切り離せるものではない。また為政者の多く(全員だが)が特定の宗教を持っている。某学会のように露骨に-直接的に-宗教と政治の繋がりがあるのは異例だが。天理教を信仰している為政者も少なくはないだろう。
私が今回問題提起したいのは天理教は政治に距離を起きすぎたあまり、政治を天理教的に読み取る力は明らかに減退しているのではないかということである。政治は所詮、政(まつりごと)である。しかし前々回で指摘したことであるが、脳死判定や裁判員制度など個人の宗教観や信仰が大きく影響する場面も多分にある。それを世論に流されるかたちで天理教らしさが発揮できないのは、宗教として意味性を減じているのではないか。天理時報の在り方や天理教人の振る舞いを見て私はそう思う。そして、そういった振る舞いは一見大衆の支持を集める(天理教は某学会のように政治に口出ししなくてエライね)だろうが、長期的には天理教の存在意義を損ないつつあることに気づいてもいいのではないか。