初めて「3」というシリーズ編となってしまった。1、2は前編、中編にして3で完結編としたい。1、2を読んでいただければお分かりだろうが、カイチョウさんと「物別れ」したのは、これから書くことが核心である。2では、カイチョウさんの天理教的説明に私が理解できないということであったが、そんなことで私は人間関係に限界を感じない。本当の物別れはここから佳境に入る。
まったく私がカイチョウさんの話に理解をしめさないでいると、ついにカイチョウさんは「キミは本当に難しい話をするな」と言いだすのである。私としてはむしろ非常にシンプルに話をまとめたいのだが、根源的すぎるのだろうか、カイチョウさんには今迄天理教内では何の問題もなく通用していた語用が通じなくなり余計に混乱するようである。私からしてみればカイチョウさんの方が「わかったふうなこと」ばっかりなのである。しかしそういったレトリックは私にはもう慣れっこである。理解を求めるということが無茶なことであり、天理教人とはそういうものなのかなという私側の成熟も期待されたので、そこはおとなしく話を聞くことにしたのである。オトナであれば自分と意見が違う人、苦手な人であっても一応の礼節と応接をもつものだろうと思うから。しかし今回はこれが間違いであった。黙って話を聞いていると話はトンデモナイ方向へといったのである。私がぐっと堪えることで調子が乗ったカイチョウさんの話は、ついに私が「助かるか」「助からないか」かという話に発展したのである。お供えの依頼から、ついには私の人生について論じられたのだ。これにはまいった、である。私が「助からない」というのは、つまり私の家族が助からないということになる。私が原因で私の家族が助からないのであれば、それは世代間さえも遺伝していくという壮大な不幸な道(いんねん)を予見(占い)されたのである。これにはさすがに温厚な私もイライラとしたのである。確かに私はカイチョウさんの矜持を多少は傷つけたかもしれない。また今まで通じていたレトリックが通じないことでフラストレーションを溜めたかもしれない。私も大人げなかったと反省もする。しかしこれはあまりにもヒドイのではないかと思う。私にとってはお供えは依頼されるし、家族批判はされるしでいいことなんてありゃしない。「それが長期的視点で助かる道」と後で言われても私が納得するとでも思うだろうか。そんな言語使用は長期的視点を担保し短期的視点で自分の思い通りに言うことを聞かせる脅しでしかない。脅しというのは犯罪に觝触するくらい人権をふみにじるものだと思うのだが、天理教人にはまったくそんな意識はないようである。以前、私が「天理教教会長講習会なるものがあるならば、そこに必要とされるカリキュラムは倫理教育である」といういったことの核心がこういうことである。神という絶対的なるものをバックに背負うのであれば、その時の気分やストレスの状況で神を利用しないでいただきたいと私は本当にお願いしたい。「神様はこういっている」というのは人間には言えないはずではないのだろうか。自分が神だと思い込んでいる天理教人の多いことに非常に落胆するものである。そして、それはかなり強固な妄想である。
1. 無題
うなづきながら拝読しました。というのも、似たような状況を12才の身上時に「お諭し」を聞いて体験したからでした。疑問を呈しても、批判をしても、すべては、「今はそういう気持ちだろうけれど、後でわかる」「信仰とは理屈ではない」「天を向いて唾を吐けば自分に返ってくる」etc…私は神様を冒涜したいわけではありません。神様が大好きで、身上となった因縁も時間をかければ内省して納得するのです。内省を促す、という意味で言って下さるのだと思いますが、却って思考停止に陥らないかなと思います。
2. なるほど
12才の身上(病気)時にそういった体験をされたのですか。病気の時に、内省を促すという荒技を達成するためには篤い信仰心と強固な関係性がないと難しそうですね。むしろ12才の子どもには無理でしょう。私には到底無理です。病気の時くらいはそっとしといてくれとしか言えません。そっとしてくれた方が内省を促されやすいのは私だけではないと思います。