鍛えるとは何か


またまた天理時報ネタです。2/7の第4166号の天理時報の3ページの「視点」について論じたい。「視点」という記事は天理教上層部の著者による「天理教的社会の見方」になるだろう。天理教的天声人語である。著者名は明らかにされていない。今号では「子ども時代から心身を鍛えたい」というテーマで論じられている。簡単に説明すると児童・生徒の学力、体力測定の低下を憂い、荒道を切り開く天理教人になるためには心身を鍛えなくてはいけないという、自分たちのことは「棚上げ」的な展開であった。何度か書いていると思うが、私はこういった問題には「まー問題ないでしょう」というスタンスを貫いている。その論拠として、①統計的な一部分の年代で、心身の低下といっても、それは一部分でしかない。よく青少年の凶悪犯罪で言われることだが、多くのオトナたちが青少年の凶悪犯罪が近年上昇していると思っているようだ。それはマスメディアが煽動するまったくの誤解である。確かに、統計的には過去20年という期間をx軸にしてy軸を凶悪犯罪事案件数を100件単位でグラフ化して見ると確かに上昇している。そのことを根拠にマスメディアや専門家がでてきては「最近の子はキレやすい」だの「凶悪化は統計的に裏付けされていると言われる。しかし、そのx軸を過去50年に広げると状況はいっぺんする。凶悪犯罪と言われる殺人、放火、強盗、強姦においても現代の方がはるかに少ない。平成に入り、青少年の凶悪犯罪の検挙数は平均2000人/年に対して昭和35年の検挙数は8000人を超えるのである(犯罪白書)。検挙数=キレやすい世代、という理路を採用するのであれば、現代で一番キレやすいのは50代から60代なのである。そういった意味で一番危険なのは私たちオトナなのである。そのことをまずは覚えておきたいものである。つまり統計という絶対視されるものも研究者の意図で容易に意味が変わるのである。同じように体力について考えると我々の子ども時代の方が体力も学力もはるかに低いのではなかろうか。一見、昔の方が体力はあった子が多いと思うが、その体力も怪しいものである。単に野山を駈ける機会が多かったという原風景だけで体力は高かったとは思っていないだろうか。現代の子どもはそういう機会は少ないにしても、かなり効率的に学校やクラブで習得しているのではないか。それは学力も同じである。それに加え昭和の時代に全国規模の体力、学力を普遍的に調査したものはないというのも子どもからしたらズルイものである。②一つ目の統計情報の使用が正しくとも、体力、学力の低下は間違ったことではない。なぜならば体力、学力の低下は我々が望んだことであるからである。こういうことを言うと口角泡を飛ばして「そんなことを望んだことはない!」と言われる方がいる。皮肉になるが、そういう方はきっと車も乗らず、携帯電話も使用せず、電卓やPCも使用せずに自分の足で移動し伝達し、頭だけで考えているのだろう。自明のことだが、文明の発達は我々が望んだことである。便利な世の中を望んだ結果、必要以上に歩かなくてよくなり、考えなくてよくなったのである。その結果、学力、体力の低下というのは必然であり、私たちが望んだことなのである。そして私はそれが悪いと言っているわけではない。それは当たり前の話だということなのである。むしろ現代の子どもに心身の強化を望むことこそ酷な話ではないか。小学校から英会話やパソコンを習い、帰ってからもオケイコに励む子に、これ以上を望むのはタチが悪い。なぜなら子どもにそういった適応を強いている張本人が我々オトナなのだから。そのことを棚上げにして子どもに要求するのは、教育ママと同じである。いつか子どもは潰れるだろう。そのことを天理教上層部の指導的立場の著者がどれほど理解しているかは疑問である。こういった市井のおっちゃんおばちゃん著者こそ、マスメディアに翻弄されていることに気づいてほしい。信仰があるからこそ世相に流されず普遍的な世界観を構築してほしいものだ。③は②と被るのだが、発達論的にも体力の低下は悪いことという認識を示さない。むしろ体力の低下は進化である。進化論で有名なチャールズ・ダーウィンは著書「The Origin of Species」では進化を表すProgressiveやevolutionという語を進化論として使用していない。使用されているのはmodificationという語である。これはどういう意味なのかというと進化というのは成熟したという意味ではない。進化というのは絶えず環境に適応していくという現在進行形であり動態を示すものなのである。つまりダーウィンに言わせれば、体力の低下でさえも環境に適応していくというmodificationにすぎないということであり、それさえも進化であるということなのである。そう考えると刻々と過ぎる時間とともに、我々は進化しかできないのである。後退などありえない。現在の身体的機能が減少しようとも、それは今後の発展には不可欠かもしれない。今後人類の体力は低下を続け、足の筋力がなくなってきても、その結果背中から羽が生えてくることがあるかもしれない。そうしたときに足が無い方が便利という世の中が来るかもしれない。来ないかもしれないが誰にも分からない。現に尻尾はそうなったのである。
以上のことから私は体力や学力の低下には「心配なし」のスタンスである。学力の低下についてはまだ言いたいことがあるのだが今回は割愛する。天理教という普遍的な教えを信ずる者こそ、一時の世間的風潮に流れてしまうことを非常に残念に思う。私が「視点」を執筆したいくらいだ。