天理教的危機についての続き


前回の記事で天理教の地殻変動的危機についての序章を書いたので今回は続きにしたい。天理教の地殻変動的危機の“地殻変動的”という修飾を設けたのは、現時点で本質的な問題を形成しているわけではないが、今後表面化することが予想されるためである。また地殻というのは物事の土台であり、その変動が予見されるというのは、将来的な天理教の本質的変動が推察できるということである。

将来的な天理教の危機として私が前提としてあげるのは構成員のファミリー化である。それしかないと思う。ファミリー化と聞いてもピンとこないと思う。最近天理時報でのホットトピックは「家族団らん」であるが、そのことではない。ファミリー化というのは天理教組織全体における身内化といっていいだろう。マクロ的視点で考えるとイマイチぴんとこない。ミクロ的視点でみよう。宗教学全体から見て、天理教の教勢というのは年々衰退している(天理教教団発表の信者数は200万人だが、実際には100万人未満と言われている)。また教会は世界に1万7千あまりあるといわれている。しかしその7割程度は教団内部では事情教会といわれ、本来的な教会として機能不全を抱えた状態である。例えば教会の跡継ぎが不在であったり、構成員の不足により教会の定例行事が行われなかったりということ。ここまでの話はいくらかの宗教学者が明らかにしていることであり、私の周囲の天理教人の話を聞いても同様の感想を抱く。しかし、今回はもう少し踏み込んで議論を展開したい。というのは事情教会が7割ということであるが、あとの3割は万事OKなのかということである。私見としてはこの3割が問題がないということではなく、この生きている3割、天理教を支えている3割にこそ危機的状況が訪れているということだと思う。その3割の機能的教会にこそ世代を超えてファミリー化としているのではないか。ここからは私の体験的な印象がだいぶ加味されるが聞いていただきたい。各教会を考えたときに天理教の構成員として教会家族と信者家族がいる。教会を運営するのは教会家族であり信者家族はあくまで信者家族であり教会運営にComitmentできても信者であるかぎり、その立場は下部に低位固定される。私が強調したいのは、公称には上がらない信者家族の天理教離れではないかと思う。そのことについて私は今まで信者家族の高齢化であり、宗教離れという世間論を述べてきた。しかし本質的にはそういった社会問題として帰結できない、より深部での違和感がある。結局それは家父長的な制度であったり、古典的な世襲制度として説明できるのだろうが、実際の体験的違和感を述べたい。
私は比較的規模の大きい某大教会に関与することがあり、知り合いも何人かいる。そこで感じることは同じ苗字の人が多いということである。大教会の役員、また主要な直属教会といわれる親藩、譜代にあたる教会は、その大教会の成立に歴史的に深く関わってきたファミリーである。天理時報を見ても教団本部の人間として登場するのは見慣れた苗字の人である。兄弟や親族と思われる人が天理教内部では数多くいる。また同じことは各教会単位でもある。あの教会と、この教会の人は親族であったりする。これは「理」という世襲制を採用している際には仕方のないことだと思う。またそういった形を踏襲することがここまで天理教が歴史的に存在してきた理由なのであろう。しかし歴史は終わる。藤原氏も豊臣家も、日本歴史至上最大のファミリーを形成した徳川家も歴史的使命は終了した。ということはどういうことなのか。世襲制は最終的に終わるということでもあるが、もっと本質的なことは世襲制は“周囲の人間”に飽きられるということである。私の身近な例を示すと、最近ある教会の会長さんが亡くなられた。その教会の後継者は不在である。どうしたものか、その教会を指導する上級教会の会長は事情教会にしてはならないと、自分の次男をその事情教会寸前の会長に「お引き寄せ」したのである。なんとか事情教会は免れたようで、周囲は次男の素直さと事態が一件落着したことに安堵していた。しかし、これは信者にとってはどうだろうか。会長が亡くなったことで、よく知らない落下傘部隊ーしかもこの場合、次男は天理大学を出たばかりの若造ーが突如として信者を指導する会長になったのである。私が信者なら「やってらんねーよ」状態であろう。信者とて信仰の歴史があり、信心もあろう。それが世間も良く知らない若造が血を引いているというだけで自分の精神的支柱のMentorとなるのである。ましてその人事に疑義を挟もうものなら、理の継承を受け入れないということで信者としての信仰的立場は危うくなる。信者は神格化された会長様の決定を素直に受け入れるしかないのである。これは実際の話であり、“よくあること”なのだそうだ。どんどん教会はファミリー化しており、3割の機能的教会の実情である。平安時代にでもタイムスリップしたような言説が天理教人からは聞かれ、「娘を嫁に行かすなら天理教を信仰している人じゃなきゃいかん」「嫁にもらうには天理教を信仰している子じゃないとダメ。あの人のように一般のお嫁さんをもらうと天理教からどんどん離れていく」といった天理教以外の無反省的なアレルギー反応は依然強い。ファミリー化を形成することは悪いことではないが、このファミリー化を意識化しないとどんどん教会と信者、世間の距離は増大していくものになるだろう。
まとめはまた今度。

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